第二章 6
激しく震動する大地が衝撃を車輪に伝え、巨躯を誇る車体が大きく跳ねた。
瞬間、車内に無重力が生まれ、全員の身体が宙に浮く。
そして車輪が接地すると同時に、重力に引かれて床に叩きつけられた。乱雑に置かれていた物資が吹っ飛び、悲鳴が飛び交う。
車輪は、想定外の加重に苦鳴を上げながら砂地を削り取った。噴き上がる土煙をあとに残しながら、車体が斜めに傾いだ状態で十数メートル滑っていく。車を支えるフレームが軋み、それを覆う金属板が耳に痛い歪みの不協和音を奏でた。
小さな窓越しに外を見れば、聳え立つ壁面が近づいてくる。
車輪がなんとかグリップを取り戻したのは、激突寸前だった。
ぶつかりはしなかったものの、車体側面が岩壁に接触し火花を飛ばす。岩壁の砕ける音が車を震わせ、狭い窓に填め込まれていたガラスが砕け散った。
車はそのまま速度を上げ、壁面すれすれを疾走する。
「こ、これ、大丈夫ですかね」リゼルの声が震えているのは、車が絶え間なく揺れているからだけではない。車の座席にしがみつき、ずれたサングラスを慌てた様子で直している彼の表情は、極度の緊張と不安に引き攣っていた。
「大丈夫じゃないだろうな」答えるリロイの声は、落ち着き払っていた。その両腕は、スウェインとリリーを抱えている。スウェインはともかく、リリーが文句のひとつも言わずに小脇に抱えられているのは、先だって自分を庇ってスウェインが怪我をしたことを気にしているのだろう。
リロイはリゼルを見下ろし、口の端を吊り上げた。
「踏み潰されるか叩き壊されるか、どっちがお好みだ」
「どうしてそれを楽しそうな顔で言うのよ」
カレンは呆れたように、双眸を細めてリロイを睨めつける。
この車には、シートベルトがない。そうなると座っているよりも立っているほうが姿勢を制御しやすいのか、リロイだけでなくカレンとフリージアも腰を上げていた。その足にしがみつき、床に蹲っているレニーは、青ざめた顔で「その前に死ぬ」と力なく呟いている。
「大丈夫か、爺さん」リロイが声をかけると、座席に座ったままのヘパスが小さく手を上げる。この状況で彼が座ったままでいられるのは、超人的なバランス感覚の持ち主だから、というわけではない。彼は自身の身体に革製のハーネスを装着し、座席と自分をロープで繋いでいるのだ。
簡易のシートベルト、といったところか。
なんの為にそんなものを持っていたのかは、謎だが。
「とはいえ、この揺れはちときついな」ヘパスは辟易した様子で、天を仰ぐ。いくら吹き飛ばされないといっても、身体にかかる負担は同じだ。
そこへまた、轟音に続いて下から突き上げるような衝撃が襲ってくる。
車の後部が、浮き上がった。
斜めになった車の中で、リゼルが転がりながら運転席に突っ込んでいく。車は前のめりになったまましばらく走り続け、浮かび上がった後部はやがて自重でゆっくりと地面に降りていく。
速度と車輪の回転数の違いが、接地した瞬間、これを弾いた。
後部車輪が跳ね、車の直進性が失われて蛇行する。運転席まで放り出されていたリゼルが、左右の揺れでテュールにぶつかった。
辛うじて均衡を保っていた車体がその瞬間、急激に頭を振る。
ハンドルを切り損ねたのだ。
高速で直進していた車両は、前輪の唐突な動きに対応できなかった。車の進行方向は左へ変わろうとするが、それを前進する力が許さない。車輪が滑り、車体が横向きに流れる。
そして、見えない壁に激突したかの如く弾け飛んだ。
車体は回転しながら、宙に舞う。
「リリーを」車体が跳ねた瞬間、リロイはフリージアにリリーを託した。託した、といっても、丁寧に手渡す暇などない。フリージアの返事など待たずに、彼女へ向かって少女の身体を放り投げた。
受け止めたかどうかは、確認しない。フリージアの身体能力なら間違いなく抱き留める、と確信しているからだ。
そのとき車体は、完全に上下が逆さまになっている。
リロイはスウェインを抱えたまま、すぐ傍らにいたカレンの腰に手を伸ばした。この場面で、彼女に不届きな行為をしようとしたわけではない。
カレンが腰の後ろに差していたダガーを、引き抜くためだ。
それを使い、すでに座席から離れて宙を舞っていたヘパスの、ハーネスに繋がっているロープを切断する。「ドアを開けろ!」誰にともなく叫びながら、老科学者の身体を掴み取った。
その足下を、カレンが疾走する。
背中には、レニーがしがみついていた。
にもかかわらず、まるで俊敏な獣の如く回転する車内を駆け抜け、ドアに到達する。勢いは殺さず、繰り出したのは蹴りだ。
金属製のドアは彼女の一撃で表面が陥没し、車体から千切れて吹っ飛んでいく。
そこから目に飛び込んできたのは、空と地面が交互に映る景色だ。
すでに車は、地面めがけて弧を描いている。
ドアを蹴り開けたカレンが真っ先に飛び出し、フリージア、リロイと続く。
空中に飛び出したリロイたちの頭上を、巨大な影が覆った。
リロイたちの背後では、車が地面に激突している。鋼が押し潰される音が回転し、土煙が螺旋を描く。何度もバウンドし、そしてそのたびに大地に叩きつけられた。跳ねるたびに外装が剥がれ落ち、フレームが歪み、車両としての形を失っていく。
それを、影の主が上空から襲撃した。
巨人だ。
十メートルを超える巨体が、空中に弾んだ蒸気自動車に拳を叩きつける。その拳から腕にかけてを籠手のように覆っているのは、高質化した皮膚──外骨格だ。
それはまさしく、鉄槌である。
車体側面に激突した拳は、ただの一撃でフレームをへし折った。車体を覆う鋼板は、まるで紙のように容易く陥没し、変形する。長方形だった車が折れ曲がり、粉砕された車体の一部をばら撒きながら地面と衝突した。
危なげなく着地したリロイたちの足下が、揺れる。
蒸気が、大量に噴き出した。車体前部が押し潰されて、蒸気機関が破損したのだ。
立ち上る蒸気の中へ、巨人は着地する。蒸気の熱など、ものともしない。両手で、大地に突き刺さった車体を掴んだ。
「返すぞ」
リロイは、勝手に借りていたダガーをカレンへ放り投げた。
それが空中にあるうちに、リロイは巨人の足下に到達している。「爺さん、ちょっと頑張れ」リロイが、言った。
だが、返事はない。
心の準備もなく異常な加速に晒され、ヘパスとスウェインはちょっとしたショック状態にあったのだ。
しかしリロイは、それを意に介さない。
ヘパスの返事を待たず、その身体を頭上へ思い切り放り投げた。
スウェインは呆然としたまま声もなく、口を開けたままヘパスの行方を目で追う。老科学者は、ゆっくりと回転しつつ巨人の背丈をも超えて上昇していく。
リロイはそちらには一瞥もくれず、剣を引き抜いていた。
そして、巨人の膝の裏を痛打する。
可動部には、硬い外骨格がない。刃は巨人の肉を裂き、骨を断った。脚そのものの分厚さと、膝部分にあった外骨格で切断には至らなかったが、リロイも初めからそれを狙っていない。
斬撃が止まるや否や、すぐさま身体を反転させ、逆の脚へと横薙ぎの一撃を送り込んだ。外骨格のある脹ら脛に切り込んだ刃は、これを断ち割り、肉を抉る。骨まで到達し、固い手応えが指先に届いた。
巨大な身体がよろめき、握っていた蒸気自動車が指先から滑り落ちていく
追撃の好機だが、リロイはそれを選ばない。
跳ねるように、後退した。
巨大な質量が、飛び退くリロイの寸前いた場所に落ちてくる。轟きが空間を震わせ、大地が割れた。
車を破壊したのとは別の巨人が、リロイを踏み潰そうとしたのだ。
リロイは剣を鞘に戻しながら前進し、その膝を足場にして跳躍する。
ヘパスがそこへ、落ちてきた。
リロイは科学者の身体を空中で捕まえると、両足を斬りつけられて四つん這いになった巨人の背を踏み台に、大きく飛び退る。
巨人は、車を叩き潰したあの一体だけではなかった。
左右を高い崖に挟まれた、峡谷である。凡そ十キロ近く続くこの道は、待ち伏せするほうとしては絶好のロケーションといえた。本来なら避けるべきルートなのだが、ここを抜ければ、スウェインの目的地である大陸鉄道最南端の駅がある。
峡谷を迂回した場合の遅れは、二日ほどだ。ここにきてさらに二日の遅延は、さすがに追跡が困難になる。事実すでに、ヴァルハラが派遣している連絡員からの情報は、正確さを欠き始めていた。それに迂回したとて、必ずしもそちらにアシュガンの手が回っていないという保証もない。
危険を承知での渓谷抜けに、反対する者はいなかった。
そこに待ち構えていたのが、この巨人たち――〝闇の種族〟の中級眷属、鋼の巨人ティターンだ。
おそらく、中級に類される眷属の中で最も知能が低い。
だが、その巨大な質量が生み出す破壊力は、いま眼前でして見せたように、巨大な蒸気自動車をスクラップに変えてしまうほどだ。おまけに、全身を鎧のように覆う外骨格の強度は対戦車ロケット弾をも弾き返す。
やつらが足を踏み出すたびに、大地が揺れた。
圧倒的な、存在感だ。
中級眷属ともなると、傭兵ギルドでいえばC級以下には仕事が回ってこない。B級でさえ、眷属にもよるが単独任務は御法度とされる。ちなみにティターン一体が相手だと、B級なら五人から八人、A級ならふたり以上、といったところか。
巨大であることもそうだが、なによりあの装甲だ。あの強度には、並大抵の武器と技量では太刀打ちできない。
では、リロイはどうか。
非凡な技量と、優れた武器を手にしている。
ただし、両手に非戦闘員を抱えているので、抜くことができない。
どちらかを、放り出さなければ。
地響きとともに、ティターンが肉薄してくる。両足を痛めた一体も、それでも這うようにしてこちらへ向かっていた。
「お、俺──」スウェインが、か細い声で言った。「俺も投げるの?」目の前でヘパスが放り投げられたのを見れば、彼がそう思って不安になるのは当然だ。
「投げられたいか」リロイが目を細めると、スウェインは慌てて首を横に振った。「冗談だ」リロイは、迫ってくる巨人を見据えながら、言った。「投げるのは爺さんだけさ」
「ほう、なぜだね」ヘパスには、特に怯えた様子はない。リロイは、彼を放り投げるために革製のハーネスを掴みながら、にやりと笑う。「前途ある若者のために死ねるなら、本望だろ」
その身勝手な言い分に対するヘパスの、「ふむ、なるほど。それは然り」という返答は、高々と上っていく。返答を最後まで聞かずに、リロイは彼を投擲していた。
その老科学者を掠めるようにして、ティターンの鋼の拳が振り下ろされる。「口を閉じてろよ」リロイはスウェインにそう言って、地を蹴った。少年の目には、リロイが撃ち込まれる巨大な拳に自ら打たれに行っているように見えたことだろう。
だが、巨人の一打は狙いを誤ったかの如く、リロイの傍らすれすれを通過した。風圧にスウェインの髪が掻き乱れて顔が歪み、苦鳴を漏らす。
ティターンの狙いは正確だった。
そしてリロイも正確に、その一打を紙一重で躱す動きをしてみせたのだ。
背後で、鉄の拳が大地を穿つ。
その衝撃が足裏に伝わるより早く、リロイは跳躍していた。
飛び散る土塊が、その背に追いつけない。
大地に突き刺さった巨大な腕を、駆け上る。ティターンは決して、愚鈍なデカ物ではない。一撃目を外してすぐに、逆の手でリロイに掴みかかっている。人間を握り潰せる大きさの手が、五指を開いて迫ってきた。
その迫力に、スウェインの喉が声にならない呻き声を漏らす。
狭い巨人の肩の上で、リロイは軽やかに身を捌いた。ティターンの指先をギリギリまで引きつけ、捕まる寸前で身体を旋回させながら移動させる。巨大な質量の通過に、スウェインは喉が詰まったような苦しげな呻き声を漏らした。
リロイはその呻き声を両断するかの如く、剣を縦に振り下ろす。刃は、巨人の指を保護する外骨格に接触した瞬間、火花を飛び散らせた。人差し指は殆ど抵抗もなく両断し、中指も同じく叩き斬る。薬指をも斬り飛ばしたところで、斬撃の勢いはなかば消滅した。小指の骨に当たって、一撃は止まる。両断された三本の指が宙を舞い、大量に迸る濁った体液が、鼻孔を突く刺激臭を放った。
リロイは剣を小指から引き抜くや否や、素早く身をひるがえす。
そして、逆手に握った剣の切っ先をティターンのこめかみに突き立てた。巨人の頭部も兜のように外骨格が守っているが、鋭い切っ先はそれをものともせずに貫く。剣身の半分ほどが、突き刺さった。
巨人が、咆吼する。
間近で聞くと、鼓膜が裂けそうなほどの音量だ。大気が震え、身体全体を打ち据えられるような衝撃を受ける。
リロイは剣の柄から手を離し、跳躍していた。咆吼から逃れたわけではない。放り投げたヘパスが、落ちてきたからだ。
空中で彼を受け止め、着地する。
その瞬間を狙っていたのは、リロイが両足を斬りつけたほうのティターンだ。痛みを感じないのか、膝を支点にして低い姿勢で飛びついてくる。開いた両手が、着地点のリロイを狙って左右から猛然と迫ってきた。
まさに間一髪――着地と同時に前方へ跳んでいたリロイの爪先ぎりぎりのところで、巨大な掌が打ち合わされる。
完全に躱したはずだが、リロイの身体が前方に投げ出された。
ティターンの手と手が激しく打ち合わさったことで、衝撃波が生まれたのだ。それがリロイの背中を打ち据え、足下をすくった。小脇に抱えていたスウェインとヘパスは、悲鳴を上げたかと思うとそのまま気を失ってしまう。脳震盪を起こしたのだろう。
リロイは抜群のバランス感覚で前のめりに浮いた身体を制御し、危なげなく着地した。そしてそのまま、スピードを緩めず疾走する。
背後からは、指を失ったティターンが追い縋ってきた。こめかみに突き立てた剣だけでは、絶命させることは難しい。
いまこのときに言うことではないかもしれないが、リロイは少し軽率に剣を手放しすぎだ。なくしても戻ってくる便利な武器、とでも思っているのではないだろうか。
――思っていそうで、腹立たしい。
少し痛い目を見るが良い、とティターンのこめかみからリロイを見下ろしていた私の目に、こちらに向かってくるカレンの姿が飛び込んできた。
その背に、レニーはいない。
彼女はリロイとすれ違い、そのままティターンの間合いへ踏み込んできた。巨人はすぐさま、攻撃対象を変更する。走る速度を維持したまま、硬い拳をカレンの頭上から撃ち込んでいった。
速度と重量が加算された打撃に、大地が爆ぜる。衝撃で地面が沈み、地表が割れ、大量の土砂が噴き上がった。
カレンの姿は、土煙に飲まれて消える。ティターンはさらに、拳を叩きつけた。もう彼女の姿を視認できないはずだが、お構いなしに連打する。
鋼の殴打に、大地は爆砕した。
土砂が轟音とともに吹き飛び、大気が割れんばかりに激震する。
この猛打を浴びれば、人間など影も形も残らないだろう。
大量の粉塵で視界がまったく利かない状態になってもなお、ティターンの拳は止まらない。執拗、というよりも、叩き潰した敵の屍を確認できないので、闇雲に攻撃を続けているだけのようだ。
その、いつ終わるともしれない愚鈍な行為は、唐突に停止した。
巨躯が、振り上げた拳を止めたまま膝をつく。足下だ。あの雨のように降りそそぐ連打をあざやかに躱したカレンが、そこにいた。
ティターンの膝が、割れている。短剣の剣身は短く、一撃でティターンの巨大な肉体を破壊することは難しい。
それを彼女は、手数で補っていた。
凄まじい連撃で、外骨格を砕いたのだ。
彼女の身体能力を鑑みれば不可能なやり方ではないが、そうすると、彼女が手にした飾り気のないダガーは相当の業物ということになる。凡庸な一振りだったなら、外骨格を破壊するより先に折れていたことだろう。
ティターンは崩れた身体を支えるために指のない手を地面につき、逆の手でカレンに掴みかかった。カレンは膝を曲げ、跳躍の体勢にある。巨人もそれに気づいたのだろう、咄嗟に握り込むのではなく、上から叩き落とそうと手の動きを変化させた。
これほど巨大な図体で有りながら、ティターンの反応速度は思いの外、早い。
その目を見張るべき反応を、しかしカレンは上回る。握り潰されるのを避けようとそのまま跳躍していれば、まず間違いなく頭上からの打撃に潰されていたに違いない。
彼女は飛び上がる寸前、ティターンの腕の動きが変わったことを察知した。すでに足は直上へ向かう力を地面に伝えつつあったが、まさに寸前、爪先で強引にそれをねじ曲げる。前方へ転がるように身を投げ出し、巨大な掌をかいくぐった。
平手が大地を打ち据える衝撃に、ティターンの股下に飛び込んでいたカレンの身体が弾む。しかしすぐさま姿勢を制御すると、まだ激突の余韻に震えているティターンの手の甲へと疾駆した。
それを踏み台に、後ろ向きに飛ぶ。
そこには、片膝をついたことで低くなったティターンの下顎があった。
両手のダガーを、そこへ突き立てる。
左手の一振りは、顎と喉を守る外骨格に当たり弾かれた。
だが、右手のそれは装甲の隙間に潜り込む。ティターンの肉を突き破り、鍔元まで突き立った。巨人は素早く、大地を打った手でカレンを捕まえようとするが、その指先を彼女はするりと逃れる。突き立てたダガーを支点にして、身体を持ち上げたのだ。そして外骨格に足をかけ、一気に頭頂部へ到達する。
巨人の指がそれを追尾するが、彼女はダガーを鞘に戻すとティターンの後頭部に回り込んだ。
逆しまの状態で外骨格を掴み、身体を側面へと回り込ませる。
そこにあるのは、リロイが突き刺したままの剣――私だ。
彼女がなにをしようとしているのかを察し、少なからず抗議の声を上げたくもあったが、たとえそうしたところで彼女を驚かせただけだろう。
黙したまま私は、カレンのブーツに思い切り蹴り飛ばされた。
安物の剣だったならば柄が砕け散るか、刃がへし折れるような容赦のない一撃だ。衝撃で刃はティターンの頭蓋を砕き、眼球を潰しながら飛び出した。濁った体液と脳漿を飛び散らせ、剣は回転しながら飛んでいく。
リロイは、別のティターンと交戦中だ。
巨人の頭部に取りつき、はたき落とそうとしたその掌を蹴りつける。そしてふところから銃を取り出すと、その銃口をティターンの目に向けた。
瞳孔も虹彩もない黒ずんだ眼球を、鉛の弾丸が破裂させる。そのまま頭蓋を割り、脳を貫通して後頭部の外骨格で止まった。
巨体がよろめくが、絶命には遠い。
両手でリロイを握り潰そうと、指先が伸びてきた。
気絶したスウェインとヘパスを、リロイは抱えていない。
ふたりは、レニーやリリーと一緒に切り立った崖を背にして固まっている。そしてフリージアとリロイが、四人を守る形で押し寄せるティターンを迎撃していた。
なるほど、これならスウェインを小脇に抱えたりヘパスを投げ飛ばすよりよほどいい。
むしろ、最初にあの形に思い至らないのがリロイのリロイたる所以か。
先ほどは両手が塞がっているが故に自由に剣が振るえず、いまは手もとに武器がないので使えない。
すべては、自分自身の浅慮が招いた結果だ。それでも太い指先を殴りつけて押しやり、銃撃した眼窩に腕を突っ込んでいく。巨人は怒号を発し、リロイの脚を掴んで引き抜こうとするが、一心に突き進む指先の力が勝った。
弾丸が開けた頭蓋の穴を押し広げ、脳内に侵入する。
柔らかな脳に、為す術はない。
リロイの指は、頭蓋の中で暴れまくった。脳は押し潰され、掻き回され、形と機能を失っていく。
そこに至ってようやく、ティターンはリロイを引き剥がした。脚を掴んだ手を振り上げて、大地に叩きつけようとする。
そこへ、私が到達した。
リロイの目は、回転しながら飛んでくる剣を確かに捉えている。
伸ばした手が、柄をしっかりと握った。
「手放すから、こうなる」
文句は山ほどあったが、短い一言で済ませる。
「黙ってろ」
あろうことか、リロイは面倒くさそうに吐き捨てた。
私はさらに一言つけ加えてやろうかと思ったが、それに先んじて刃がティターンの手首に喰らいついていた。可動部分である手首には当然、外骨格はない。分厚い肉と骨を切断し、斬り飛ばした。
だが、リロイの足を掴んだ指が離れない。
思わぬ加重に、空中でリロイのバランスが崩れた。しかしそれでもなお、着地に支障はない。
新たなティターンが突撃してこなければ。
その一体は、脳を破壊されて崩れ落ちそうになっている同族を蹴散らして襲いかかってきた。
突進の勢いのままに、拳を叩きつけてくる。
人間の身体を粉微塵に破壊する、恐るべき一打だ。
リロイは迫り来る拳に対して、ティターンの手首に掴まれたままの足を振り抜いた。外骨格と外骨格が、高速で激突する。高質化した皮膚は砕け散り、リロイの足を掴んで離さなかった指が衝撃で緩んだ。
拳と拳の衝突でリロイの身体は投げ出されたが、咄嗟に、手にした剣を殴りつけてきた巨人の手の甲に突き立てる。そしてその上に降り立つとすぐさま引き抜き、疾駆した。拳から肩へと、まだ振り抜いている途中の腕の上を駆け抜ける。
そして、肩口に到達した瞬間、剣を横薙ぎに叩きつけた。
刃は、巨人の喉元を守る外骨格を砕き、首に切り込んだ。割れた外骨格ごと肉に喰い込んだ剣身は、巨人の首を支える硬くて太い頸骨を切断する。
振り抜かれた剣身の軌跡を、白い飛沫が彩った。
開かれたティターンの口からは、断末魔の破片が吐き出される。
ティターンの足は、まだ止まっていない。その振動で、頭が転がり落ちていった。切断面から噴出する濁った体液は、さながら間欠泉だ。
リロイはすでに飛び降りて、次の巨人へ向かおうとしていた。
「リロイ!」私の警句に、リロイは振り返った。首を切断されたティターンが、むしろ頭がなくなったことにより抑制を失ったのか、先ほどよりも勢いよく走り続けている。だが、それ以上のことができるわけもなく、放っておけばいずれは崩れ落ちるだろう――リロイばかりか私も、そう短慮してしまっていた。
勢いよく走ってはいるものの、その身体は急激に傾き、あらぬ方向へ向かっている。
その先にはスウェインたちが、いた。
リロイが踵を返して地を蹴ったときには、すでにティターンの巨体が崖に激突している。スウェインたちは踏み潰されることは避けたものの、砕かれた崖の破片と、倒れ込んでくる巨人の身体が頭上より押し寄せてきた。
「スウェイン、リリーを!」リロイの声は、その黒い姿よりほんの僅かに早く、少年の耳に届いた。彼は咄嗟に、少女を押し倒すようにして覆い被さる。
リロイの速度ならば、岩石とティターンに押し潰されるより早く、少年と少女を抱きかかえて離脱することは可能だ。しかしその場合、人間の限界を超えているリロイの加速にふたりの肉体が耐えられるかどうか、が問題になる。
抱きかかえた状態からの加速と、加速した状態から減速なしで抱きかかえるのは、身体にかかる負荷が桁違いだ。
最悪の場合、首の骨が折れることもあり得る。
リロイは、リリーの上に覆い被さったスウェインの上に、身を投げ出した。自らの命を引き替えに、などと考えたわけではない。スウェインとリリーがリロイの加速に耐えられる可能性よりも、自分の身体がティターンと岩の破片に耐えられる可能性を取ったのだ。
側にいたレニーとヘパスについては、ためらいなく見捨てる。咄嗟の判断だから仕方ない、というわけでもなく、熟考する時間があったとしても同じだろう。
この手の決断は、咄嗟のときではなく、もうすでに下しているからだ。
そして、巨大な質量がリロイの背中を襲うのにほぼタイムラグはない。
砕かれた崖の欠片とティターンの巨躯が、リロイにのし掛かる――はずだった。
「おお」ヘパスが漏らした驚嘆の溜息に、かすかに落ちてきた小さな石のかけらが唱和する。
リロイはすでに現状を把握し、スウェインとリリーを無造作に抱えて走り出していた。
岩石と倒れてきた巨人の身体は、すべて空中で停止している。
リロイはふたりを範囲外に運び出すと、少々無造作に放り投げ、踵を返した。時間が停止したように動かない岩や巨人を感心しきりといった様子で眺めているヘパスを小脇に抱え、レニーに駆け寄る。「動かしても平気か」
「平気じゃなかったら置いてくんでしょ」明らかに顔色が悪いレニーだったが、皮肉を言う余裕はあるらしい。
巨大な岩やティターンの落下を防いでいるのは、彼女の鋼糸だ。その指先から伸びる鋼の糸が、落ちてくるそれらすべてを絡め取り、支えている。
どういう原理でそれが為されているのか、私にはさっぱりわからない。以前にも瓦礫を持ち上げていたが、切れ味鋭い鋼糸をどう使えばこんな芸当ができるというのか。
リロイも同じ疑念を抱いていたに違いないが、それを聞いている場面ではない。
背後から、カレンとフリージアを躱して接近する一体がいる。地響きを立てて迫り来る巨体に、停止していた岩とティターンの身体がわずかに揺れた。
考え倦ねている余裕などない。
そして、考えないことはリロイの得意分野だ。
すぐさま動けば余裕を持って肉薄してくるティターンを回避できたはずだが、リロイはぎりぎりまで巨体を引きつける。「ちょっと?」あまりにも悠然と構えているので、レニーが不安げな声を上げた。
リロイは、指先を上に向けた。「構わないから、落とせ」そう言うや否や、レニーの細い腰に腕を回す。「うひゃ」彼女の小さな悲鳴をその場に残し、リロイは疾風となって眼前に迫ったティターンへと飛び出した。
寸前、巨躯は跳躍している。
両手を組み、振り上げていた。巨大な手をハンマーの如く叩きつけ、リロイたちを押し潰そうとしたのだろう。その動きを察知したリロイは、巨体の足が地面から離れるのを待ってから地を蹴ったのだ。
足下を駆け抜けた黒い風をティターンも感じたかもしれないが、飛んでいる身体はどうすることもできない。
すでに振り下ろす途中にあった拳は、止まらなかった。
前のめりの体勢で叩きつけられた一打は、まさしく大地を揺るがす威力を発揮する。直撃を受けた地表が陥没し、衝撃が岩盤を捲り上げた。轟音とともに地面が爆ぜ割れていき、その亀裂は崖を駆け上る。
鋼糸が解けたのは、そのときだ。
首のないティターンが前のめりになっている仲間の上にのしかかり、停止していた岩が次々に転がり落ちた。大小さまざまな大きさと形をした崖の破片が、ティターンの背中を打ち据える。外骨格によって守られてはいるが、その衝撃が巨人の動きを阻み、起き上がろうとするその巨躯を大地に釘づけにした。
さらには、ティターンの打撃で亀裂の走った壁面が広範囲にわたってずれる。
破片というにはあまりに大きなそれは、重々しい摩擦音をたてながらゆっくりと滑り落ちていく。ティターンは同族の屍を押し退け、重なり積もった岩の固まりを掻き分けて身を起こしたところだった。
顔を上げる暇もない。
巨大な質量が、巨人を押し潰していった。腹腔に響く震動が、足下から這い上がってくる。耳朶を打つのは、岩が圧壊していく硬い悲鳴だ。
地面に到達した壁面は、その形を保つことができず自壊していく。大量の砂塵が、押し出されるように渦を巻き、波のように押し寄せてきた。
すでにスウェインたちと合流していたリロイたちも、これに巻き込まれる。レニーやリリーの悲鳴が、ざらざらとした砂の烈風に呑み込まれていった。
さすがにリロイも目を開けていられるような状況ではなかったが、その耳は逃すことなくその音を捉えている。巨大な足音が複数、近づいていた。
「ちょっと、そろそろ下ろしてくれない?」咳き込みながら、レニーが少し上擦った声で訴えた。「あたし、脇腹が弱いのよ」どうも彼女は、くすぐったくて笑いそうになるのをずっと堪えていたようだ。確かに、身体が小刻みに震えている。
だが、リロイはこの訴えを無視してレニーとヘパス、ふたりを抱えたまま砂塵が舞う中を移動した。
向かったのは、スウェインとリリーのところだ。
スウェインは、なにができるわけでもないだろうが、リリーを庇うように彼女を背にしている。リロイは少し笑みを浮かべながら、そこでようやく、レニーを解放した。
唐突だったので、レニーはこれに反応できない。
結果、地面に顔から落ちて、蛙が潰されたような声を上げた。
ちなみにヘパスもまた無造作に落とされているが、こちらはレニーの末路を見ていたので危なげなく着地している。
「な、なんかあたしの扱い酷くない?」レニーは恨めしげに呻いたが、リロイは彼女の愚痴など聞いていない。「おまえはここで、三人を守れ」有無を言わせぬ口調だった。地響きが、彼らの身体を縦に揺らす。「無理なら、ふたりを守れ」リロイの指先は、スウェインとリリーを差していた。
本人を前にして一番最初に見捨てろ、と言い切れるとは、立派な心臓だ。
その非情な指示にレニーがどう反応するか興味はあったが、残念ながらそれより早く、砂塵を突き破ってティターンが襲いかかってきた。
二体、いる。
リロイの正面と、側面だ。足音で、位置は分かっていた。リロイはわずかに先行している側面を、迎撃する。
しかしそこへ、三体目が現れた。
ティターンではない。
体長が三メートル近くある、巨大な熊だ。砂塵を纏ったその巨大な熊は、リロイを正面から叩こうとしていたティターンの足に身体ごとぶつかっていった。
むやみやたらに突っ込んだわけではない。
斜め後方から、膝裏に肩から激突したのだ。ティターンの足取りが乱れ、体勢を崩し、そして地響きとともに転倒する。熊はすかさずその身体によじ登り、最も効率的にダメージを与えられる頭部を目指した。
それを横目に、リロイもティターンの間合いへ飛び込んでいる。あの熊がなんであれ、ティターンを相手にしてくれるのなら利用しない手はない。後ろを気にすることなく、戦えるというものだ。
だがしかし、リロイは舌打ちした。
眼前のティターンのその奥から、またしても重々しい足音が届いてきた。
そして砂の幕を押し退けて、さらに三体の巨人が現れる。
恐怖に押し潰された絶望の呻き声は、スウェインのものだろう。
リロイは、加速した。
撃ち込まれる巨人の拳を躱して踏み込むと、目の前にある膝頭に剣を突き立てる。抉って横に引くと、破壊された膝は自重を支えきれずに折れ曲がった。
それを踏み台にして、跳ぶ。
剣の切っ先は、後方へ弓のように引かれている。弦の代わりは、跳躍の勢いと身体の捻れを利用したバネだ。
下からティターンの首筋へ叩きつけられた斬撃は、外骨格ごとこれを切断する。七割ほどが刃に撫で斬られ、残る三割の肉と皮では頭の重さを支えきれない。筋肉の裂ける音を最後に、地面へと落ちていった。
リロイの身体は剣撃の勢いのまま上昇し、前のめりに倒れつつあるティターンの背中に着地する。
ブーツの裏がそれを踏んだのは、ほんの一瞬のことだ。
あとからやってきたティターンの拳が、狙い澄ましたように撃ち込まれた。それは首を失った巨人の背中に激突し、外骨格が砕け散る。背骨はへし折れ、拳に押し潰された肉は皮を破って飛び散った。
間一髪、その拳を跳躍して躱したリロイを、また別の一体が襲撃する。空中にいるリロイを殴るでもなく捕まえるでもなく、身体ごと突進してきた。手や足ではなく身体全体の面で来られると、空中で身動きが取れないリロイにとっては厄介だ。
リロイはそれでも、巨人に剣を突き立てるべく身構えた。突き刺してしまえば、その瞬間に剣を支点に動くことができる。普通の人間なら激突の衝撃で即死するだろうが、それを軽減する体捌きの技術がリロイにはあった。
後方からなにかが飛来したのは、まさに巨大な質量がリロイを襲わんとした、そのときだ。
リロイの髪を風圧で掻き乱しながら、その物体はティターンの顔面を捉えた。
外骨格が衝撃で歪み、強力な打撃が巨人を仰け反らせる。
飛んできたのは、ティターンの頭──投擲したのは、驚くべきことにあの熊だ。熊はティターンの頭を力任せに引き千切り、爪を外骨格に引っかけるようにして投げつけたのである。
着地したリロイの傍らに、巨人の頭が重々しい響きを上げて落下した。
顔面を強かに打たれたティターンは、しかし怯まない。外骨格が変形し、おそらくは顔面の骨が砕けるほどの痛手だったはずだが、それをものともせずにリロイへ飛びかかってきた。
リロイはちらとスウェインたちを見やる。煙る視界の中、彼らに近づこうとしていたティターンの両足首が切り裂かれ、前のめりに倒れた。その衝撃で、子供たちの身体が浮き上がる。
歩行する術を失った巨人は、それでも両手を使って前進した。
同時に、それを飛び越える形でもう一体が襲撃する。示し合わせるような知能はないので、それぞれが本能のままに行動した結果だが、見事な連携攻撃になっていた。
対峙しているティターンの拳を避けたリロイの足が、間合いへ踏み込むのではなくスウェインたちのほうへと踵を返す。
しかし黒い双眸に映ったのは、空中で四肢が切断されるティターンと、地を這うティターンの顔が両断される光景だった。
レニーの、鋼糸だ。
本人は立ち上がる気力すら残っていないのか、地面に横たわったまま、その指先だけが辛うじて動いている。
その顔に、緊張が走った。
四肢を切断されたティターンの、斬り飛ばされた両手が運悪く彼女たちのほうへ落ちてきたのだ。異臭を放つ白濁液をまき散らし、それだけでも人間を押し潰すことができそうな腕が回転しながら向かっていく。
リロイはすでに、疾走している。追い縋るティターンを無視して、いまにもスウェインたちを打ち据えんとしていた逞しい腕を真っ二つに切断した。
もう一本は、レニーが辛うじて糸で絡め取る。彼女が以前、リロイに対して攻撃したときの技の冴えがあれば、そもそも切断した一部が自分のほうに向かってくることなどなかっただろう。
そういう意味では、地面に落下した胴体に当たった足がこちらに向かって跳ねたのも、不運というべきか彼女の過失か。
リロイは反転し、追撃してくるティターンへ向き合ったところだった。
レニーは指先を動かしたが、やはり精彩に欠ける。極細の鋼の糸は、跳んでくる足を斜めに切断したが、その軌道は変わらなかった。
今度はリロイにいわれるでもなく、スウェインがリリーを押し倒してその上に覆い被さる。
進み出たのは、ヘパスだ。
なぜ、と思う暇もない。
彼は、自身の数倍もあろうかという巨人の足を両手で受け止めた。両足の踵が地面にめり込み、砂を抉りながら後退する。その身体は背骨が折れそうなほどに反り返るが、最後の瞬間、受け止めていた足を後ろへ投げ飛ばし、そのまま仰向けに倒れ込んだ。
いったい、なにが起こったのか。
レニーは唖然としていたが、リロイはただ単に脅威が排除された、という認識だけを胸の裡に収め、ティターンの喉笛に切っ先を突き込んだ。
そして、ヘパスの如く仰け反った。
ティターンの額から、銀色の穂先が突き出てきたからだ。もしも身体を引いていなければ、間違いなくリロイの顔面を貫いていただろう。
銀光は、砂塵を貫いて生き残りの巨人を次々に屠っていく。外骨格を貫く硬い響きと肉を穿つ鈍い音だけが、薄れゆく砂塵の中で連続した。
やがて粉塵の帳が晴れたとき、そこに動く巨人は一体たりとも残っていない。いつの間にか、あの熊もいなくなっている。リロイは暫く周囲に目を馳せ、耳を澄ませていたが、敵がすべていなくなったと判断してからようやく剣を鞘に収めた。
巨人の向こうからゆっくりと歩いてきたのは、テュールだ。
彼はティターンたちが息絶えていることを確認するかのように、巨大な屍を見回している。身につけている拘束衣は相当に頑丈なのか、あの車内にいながら大きな破損はなく、しかし白い生地には血が滲んでいた。彼の白髪も赤く染まっていて、その出血量は相当なものだ。
「大丈夫か、おまえ」
思わずリロイが心配するほどだったが、当の本人は平然としている。「もう修復した。問題ない」まるで自分の身体が物であるかのような言いぐさだが、もしも彼が扱っているグレイプニルが私の知っているそれと同じならば、あながちおかしな言い方でもない。
「そうか」もちろんリロイにグレイプニルの知識などないのだが、その一言だけで済ませてしまう。冷淡ではなく冷静に、彼の口調や動きから判断して、確かに問題ない、と納得したのだ。
「リゼルはどうした」リロイが聞くと、彼は無言で大破した車両を指さした。「そうか」今度の納得は、単なる諦めだ。リロイはテュールに背を向け、ヘパスへ歩み寄る。
「大丈夫か、爺さん」ひっくり返ったまま動かないヘパスを、見下ろす。彼は死んでもいないし、意識を失ってもいなかった。「うむ」頷き、それから困ったように眉尻を下げる。「身体が動かん」
「なにをしたんだ?」
「これじゃない?」
横たわったまま、脂汗を浮かべたレニーが指先でなにかをつまみ上げた。空の注射器だ。「さっきなにか打ってたよね」
「ちょっとばかり筋肉増強剤をな」
いや、あれはそういうレベルのものではないと思うのだが。
「めっちゃ身体に悪そうだけど」レニーの感想に、私も心の裡で首肯する。人間の肉体にあれほどの瞬間的な変化を与えるとなると、相当の劇薬だ。
「昔から自分で色々試しておるからな」ぴくりとも動かないまま、老科学者はどこか誇らしげに笑みを浮かべた。「もはやなにがどうわしの肉体に作用しているのか、実のところわからんのだ。なにを摂取すればどうなるか、はわかるのだがな」
「よく生きてるな、あんた」
珍しく、リロイが呆れたように言った。確かに、そのとおりだ。
「ねえ」
リロイがヘパスを肩に担いでいる傍ら、そう言ったのはリリーだ。「いつまでそうしてるの?」リリーはスウェインに抱きかかえられ、地面に転がっている。スウェインは、「あっ」と驚愕の声を漏らした。慌てて彼女から身体を離し、ずれた帽子をそのまま手に握り、視線を下に向ける。「ご、ごめん」
「別に、謝らなくていいわよ。庇ってくれたんだから」リリーの声は、穏やかだった。「でも、もうこんなことしちゃ駄目よ」
「どうして?」
スウェインは彼女の言葉が理解できないようで、目をぱちくりさせている。
「どうしてもよ」
真意を答える気はないのか、少し彼女の声色に険が現れる。スウェインは眉根を寄せ、納得していない様子だ。
その頑なさに、自分の言葉が届いてないと判断したのか、リリーは小さく溜息をつく。
「わたしには、君が命をかける価値なんてないのよ」
「本当に価値のない人は――」少年は、真摯に言った。「そんなことは言わないよ」
この抗弁に、リリーは喉から飛び出しかけた言葉を呑み込んで、小さく呻いた。自分の言葉の正しさを証明しようとすれば、必然的に、スウェインの父親にまつわる話をせざるを得なくなる。そうでなくとも、自分がどれほど他者を苦しめてきたか、それを口にするのはよほどの愚か者でもない限り困難だ。
身から出た錆ではあるが、それを責めるには彼女の身体はあまりに小さい。
「全員、無事?」
だからカレンが近づいて声をかけてくると、取り立てて親しくない間柄にもかかわらず、彼女は少し安堵の表情を垣間見せた。
「爺さんが動けなくなったぐらいだ」リロイの言葉にカレンが顔を強ばらせたが、理由を聞くと、心配するべきか呆れるべきか、その選択に困っているような顔になった。
「フリージアはどうした?」
「替えの服を車に探しに行ったわよ」カレンが指さす方向には、原形を留めぬほどに形を変えた車が転がっている。
「脱がずに変身したのか」リロイの何気ない一言に、ぎょっとしたのはカレンばかりでなくリリーもだ。その反応に、リロイのほうが少し困惑する。「あの熊は、あいつだろ? 違うのか」
「どうしてわかったの?」リリーは訝しげだ。しかしそれは、フリージアがあの熊に変身したということを認める表情でもある。
「それは匂いが――」当然の如く返答しようとしたリロイは、そこで言葉を切った。かつてカレンの匂いを頼りに追跡したときに、私が呈した苦言を思い出したのだろうが、時すでに遅しだ。
冷たい侮蔑の表情を浮かべたカレンとリリーの視線が、リロイに突き刺さる。
「素晴らしい」だがただひとりヘパスだけが、リロイの肩に担がれたまま賞賛の声を上げた。「人間は遺伝子レベルの匂いを嗅ぎ分けられると古い文献にあったが、まさにその実証だな」私としては、その古い文献とやらをどこで目にしたのか問いただしたいところだが、「そんな話はしてないわよ」カレンに一蹴されてしまう。
「そうよ」リリーも、カレンに倣った。「問題は、こいつが人の匂いを嗅いで喜ぶ変態だってことだわ」
「まあ、待ちたまえ」女性ふたりの剣幕にも、老科学者は些かも怯まない。「獣人が獣化するプロセスに於いては、遺伝子の変化、組み替えが、いわば数千年かかる変容を一瞬でなしえている部分に驚異がある。だが、この男の感じたものが事実であるならば、少なくとも匂いに関する遺伝子だけは変化していないことになる。これはもしかすると、我々が想定していた獣人化のプロセスが実はまったく見当違いだった可能性すら示唆しているのだ」ヘパスは、まくし立てる。「実はわし自身、獣人化のプロセスには新たな着想を得ている。これは遺伝子が変化するのではなく、ご存じのとおり遺伝子は二重螺旋で表されるが、実はまだ観測されていないもうひとつの螺旋が存在する──つまり、三重螺旋ではないのか、という説なのだが──」
「なにひとつご存じではないです」カレンは冷淡に、ヘパスの言葉を遮った。「いまはそんなことより、このあとどうするかよ」
「リゼルはともかく、車を失ったのは痛いな」薄情な物言いをしながら、リロイは大破した車両へ向かう。まあ、リゼルを失ったところでこの追跡に支障はないが、車がないとなると機動力が格段に低下するのは確かだ。
「とりあえずは当初の予定通り駅に向かいましょう」カレンはレニーに肩を貸しながら、リロイに続く。「その先は、そこで会社と連絡を取ってからね」
「列車で帰ったらどうだ」嫌みや皮肉ではなく、リロイはそう提案する。「そこまで頑張るような仕事か?」
「どうかしらね」リロイに悪意がないことは理解できていても、だからといって腹が立たないとは限らない。カレンは少し苛ついたように、声を固くした。「あなただって、仕事でしょ」
「俺は嫌な仕事は受けないからな」リロイはあくまで自分自身に正直で、シンプルだ。それが組織に属する者からすると、時には羨望に、あるいは嫉妬や憎悪に感じられる場合もある。
カレンは、少しシニカルな笑みを唇の端に浮かべた。
「正直、その自由さが羨ましいわ」
「なら、会社を辞めて傭兵になれよ」
さも当然のようにリロイは言ったが、それを聞いたカレンは声を上げて笑った。
「自由なのは傭兵って職業じゃないでしょ」彼女は猫のように、喉を鳴らす。「あなたなら、うちの会社に入ったって自由よ」
「それで一日で首になるんだよね」肩を借りているどころか、殆ど引きずられるほど弱っているレニーだったが、的確な一言を添えるのだけは忘れない。
リロイはレニーをじろりと横目で睨み、「おまえに勤まるんなら、俺だって余裕だろ」と反論した。しかし彼女は、疲れ切った顔に締まりのない笑みを浮かべる。
「あたし結構、ちゃんとしてるよ?」
「ちゃんとの基準も随分と下がったもんだな」
リロイは鼻で笑い飛ばしたが、残念ながら私も彼女たちと同意見だ。
この男はどこでなにをやっていても自由だろうし、なにかの枠に嵌めようとすれば必ずそれを壊してしまう。多かれ少なかれ誰しもが持っている、自分をなにか形に合わせる能力が決定的に欠如しているからだ。
組織に馴染まない、というよりは、いるべきではない人間というべきか。
そういう意味では、自由契約の傭兵という生業はこの男にとっては天職かもしれない。
「ねえ」リロイたちの少しあとを歩いていたスウェインが、リリーに話しかけた。「フリージアって人が、あの大きな熊だったの?」ちなみにリリーは、スウェインに支えられて歩いている。彼女がひとりで歩くためには松葉杖が必要だが、おそらく車の中でへし折れているだろう。
「そうよ」リリーは、うなずいた。その目がちらりと、スウェインの横顔を見やる。「怖い?」それは、単純に巨大な熊が怖いか、という問いかけには収まらない。
人間から獣の姿へと変身する獣人は、人類にとって〝闇の種族〟よりもさらに身近な脅威のひとつだ。
獣人はフリージアが熊であったように、狼や獅子、豹などの猛獣に変身する。しかも、本来の獣よりも数段、能力が高い。普段は人間となんら変わりなく、ひとたび変身すれば凶暴な野生の力を思うがままに操る彼らを、人間たちが受け入れるのは実に困難だ。
かつて獣人たちは街から追われ、山奥などに共同体を作って暮らしていたこともあったが、その村もたびたび焼き討ちに遭うなど苦難の歴史がある。
人類はいつの時代も、隣人を愛することはできなかった。いまでも人里離れた場所にひっそりと暮らしている獣人たちは少なくないが、大半は自らが獣人であることを隠して暮らしている。
だがそんな彼らが、その能力を遺憾なく発揮できる場所があった。
傭兵ギルドと、犯罪組織である。
犯罪組織は言わずもがな、傭兵ギルドでは力こそがすべてであり、たとえ獣人であってもその門戸は閉ざされない。そもそもS級以上の傭兵は、獣人でなかろうともすでに人類の範疇外の存在だ。獣に変身し超常的戦闘能力を誇る獣人は、むしろ求められる人材だった。
とはいえ、獣人に対する忌避感や恐怖は、いまだ根強い。傭兵を稼業とする者たち全員が獣人を受け入れているわけでもないし、一般人はなおさらである。
リリーが訊いた怖い、とはそういう意味だ。
「あれだけ大きな熊がいきなり目の前に出てきたら、そりゃびっくりするけどね」スウェインは、素直にそう言った。リリーの表情がわずかに陰る。「でも」スウェインはそれに気づかないまま、言葉を継いだ。
「あの人は僕を傷つけるわけじゃないし、別に怖くはないかな」
「どうして」リリーの声は、少しだけ強ばっていた。「傷つけないって思うの?」
「どうしてって……」問われたスウェインは、困惑気味だ。「さっきも僕たちを守ってくれてたし、あの人はそういうことをしなさそうに見えるよ」
「人を見る目に自信があるのね」
実際はそうではないが、そうであって欲しかった、といわんばかりに細い溜息を吐く。スウェインは、なぜ彼女がそんな反応をするのか理解できないようだったが、「そういうわけじゃないけど」自信なさげに、言った。「怖い人ならたくさん見てきたからさ」
「――本当に怖い人はね」自分の中の罪悪感と戦っているのか、リリーの声には苦い響きがあった。「そうは見えないものよ」
「そうかもしれないけどさ」スウェインは、いよいよ当惑した様子で眉を顰めた。「フリージアさんは、悪い人なの?」
「さあ、どうかしらね」突き放すようにリリーは言って、それから顔を背け、声を出さずに唇だけで言葉を紡ぐ。わたしは悪い人間だけど、と。
「ん、なに?」
当然、スウェインには聞こえない。
「なんでもない」
「みんな無事だったか」ちょうどそこへ、フリージアが車の陰から現れた。幸いにも着替えが見つかったらしく、シンプルなブラウスとパンツ姿だ。彼女は全員の生存を改めて確認すると、少し表情を緩めた。
「被害が車だけですんだのは不幸中の幸いだったな」
「いや、ひとり死んでるのを忘れてやるなよ」
さすがにリロイが、哀れむように言った。
「いえ、誰も死んでませんよ」
そこに、死んだと思っていた人物――リゼルの声がする。声はするが、姿はない。
「ちょっと、足を挟まれて動けないんです」潰れた運転席の隙間から、哀しげな声が流れてくる。リロイは、破壊された蒸気自動車をじっと見つめているテュールを、じろりと睨めつけた。
「生きてるならそう言えよ」
最初、テュールはこの抗議を無視するのかと思ったが、リロイに目を向けないままにぼそりと呟いた。
「死んだとは一言も言ってない」
確かに、そうだ。
リロイは小さく舌打ちし、リゼルを助け出すべく車に近づいていく。「おまえも手伝え」途中で振り返り、テュールに声をかけることも忘れない。拘束衣の青年は、とりたてて反抗することもなく、リロイについて行った。
運転席はほぼ原形を留めないほどに圧縮され、歪んでいる。事故でドアが変形して開かなくなることはままあることだが、この場合、運転席部分が完全に潰れていて脱出する術がない、というべきだ。
「むしろ、これで足が挟まれただけってのがちょっと非常識だな」リロイは爪先で、ドアだった部分を軽く蹴ってみた。「普通は全身挟まれて死んでるだろ」
「昔から、運だけは良いんですよ」鉄塊の中から、なぜか誇らしげなリゼルの声が届く。それが苛ついたのか、リロイは少々強めに、車を蹴りつけた。「駄目だな、こりゃ。出せそうもない」
「えっ、ちょっと待ってくださいよ」リゼルの声が、不安と焦慮に震えた。「わたし、この先ずっとこの中で生きていかなきゃならないんですか!?」
「安心しろ。餓死するから、ずっとじゃない」リロイの声は、冷ややかで酷薄だった。それを耳にしたリゼルの声が、悲壮感を帯びる。「わたしこう見えて、カロリー消費が低い体質なんです。なかなか死ねないんですが……」
「なにがこう見えてなんだよ。知るか」吐き捨てるように言いながら、リロイは、かつてドアだった金属板に手をかける。壊れていない状態なら力任せに車体から剥ぎ取ることもできるが、ここまで歪みが酷いとそれも一苦労だ。
「──おい」傍らで突っ立っているだけだったテュールが、そこで初めて自発的に口を開いた。「そいつを引きずり出せばいいのか」
「そうだな」リロイは、頷く。「もうどうせスクラップなんだから、みんなでぶっ壊すか」
「わたしまで壊さないでくださいよ」
リゼルの情けない声に、リロイはにやりと笑う。「運だけはいいんだろ?」
車の中から、悲しげな呻き声が聞こえてきた。
「俺ひとりで十分だ」テュールが、呟く。拘束衣の袖口から、グレイプニルが現れた。その形状が、コボルトたちをあざやかに切断した薄い刃状に変形する。
「見えないと切りにくいだろ」リロイの懸念に、テュールはわずかに肩を揺すった。竦めたのだろうか。
「少しくらい切れても大丈夫だ」
「いえいえ、大丈夫じゃありませんよ!?」リゼルの必死の訴えを無視して、グレイプニルが奔る。その極薄の刃が鋼鉄の車体に激突した一瞬、火花があざやかに軌跡を彩った。
空気を切り裂く甲高い音が、蒸気自動車のボディを駆け抜ける。
リゼルの小さな悲鳴が、切断される金属の悲鳴に重なった。中に人がいることを考慮していないような、滅多斬りだ。
鋼の塊と化していた運転席部分が、外側の鋼板から切り刻まれて次第に小さくなっていく。破片となった車体の一部が、雨のように降りそそいだ。
やがて残ったのは、人ひとりが辛うじて収納できる程度の、鋼の残骸だった。
そこに、身体を折りたたまれたリゼルが五体満足で収まっている。あの速度で斬り刻んでなお、彼の身体を一切、傷つけていない。
最後はリロイが、力任せにリゼルを引っ張り出した。
「た、助かりました」礼を言うその声は、まだ震えていた。
「歩けそうか」リロイの確認は、彼を心配してのものではない。リゼルはゆっくりと立ち上がり、身体の具合を確かめる。スーツの状態は酷いが、身体そのものには深刻なダメージがないように見えた。
「大丈夫そうです」リゼルは、頷いた。
「運がいいんじゃなくて、頑丈なんだよ、おまえは」あそこまで破壊された車の中でほぼ無傷となると、運だけでは説明がつかない。しかしどれほど頑強な肉体であれば、あの衝撃に耐えられるのか。
不審に感じたのは、私だけではない。
先ほどから、テュールがリゼルをじっと見据えている。その瞳には、剣呑な鋭さがあった。その視線に気がついたリゼルは、ぎょっとしたように顔を強ばらせる。
「どうしました、テュールくん」
「確かに頑丈すぎるな」声自体には、なんの感情も込められていない。ただ単に事実を口にしただけだ。それなのにリゼルの顔から、血の気が引いていく。彼は慌てて、テュールを制止するかのように両手を突き出して首を横に振った。
「ま、待ってください、わたし本当に超健康優良児なだけですから! それにくわえて生まれつきの強運が、たまたまこういう形で結実しただけなんですってば!」
「なにをそんなに慌ててるんだ?」リロイは怪訝な顔をしているが、リゼルの様子に敏感に反応したのはカレンだ。レニーを寝かせておいて車の中から使えそうな物を物色していた彼女が、緊張した面持ちでこちらへゆっくりと歩いてくる。寝ていたレニーも、身体は起こさないまま、伸ばした手の先で指を動かし始めた。
「もしもグレイプニルがなければ、俺は車の中で死んでいただろう」淡々と、テュールは言った。「グレイプニルの肉体強化があってもなお破損が激しく、修復には多大な時間とエネルギーを必要とした」
「それは……大変でしたね」リゼルはどうにか愛想笑いをしようとしていたが、頬が引き攣っている。テュールはガラス玉のような瞳で、ボロボロになったスーツ姿のリゼルを一瞥した。「同じ条件で、なぜおまえは無傷だ」
「無傷――というわけじゃありませんよ、ほら」リゼルはスーツの布地が裂けた箇所を広げ、血の滲む皮膚を指さした。
それを見たテュールの瞳に、初めて感情が閃く。
殺意だ。
「――話は終わった?」それを見て取ったのか、カレンが穏やかな口調で口を差し挟んできた。リラックスしたふうを装っているが、右手はダガーの柄にかかっている。「そろそろ出発したいんだけど、いいかしら」
「おまえ、人間じゃないな」テュールは、カレンを完全に無視した。彼女のほうを見ようともしない。殺意に満ちた双眸が、強い執着の視線でリゼルを絡め取る。「答えろ。おまえは、〝闇の種族〟か」拘束衣の袖口からするりと伸びたグレイプニルが、獲物を前にした蛇のように鎌首を擡げた。
鋭い銀の先端が、リゼルのサングラスに映り込む。
「そいつがなんだって、別にいいじゃないか」有機的でありながら無機質を感じさせるグレイプニルに、剣の切っ先が触れた。素早く剣を抜いたリロイは、テュールの横顔に笑いかける。「まだ、敵じゃない。殺すにはちょっと早すぎないか」
「人の形をした〝闇の種族〟は、敵とわかってから対処しても遅い」テュールの声にも、憎悪が滲み始めていた。それは、澄み切った水面に墨がしたたり落ちたかの如く広がっていく。「殺される前に、殺すんだ」彼の目は、いまやリゼルを透過して別のなにかを睨めつけているようだ。
頬を歪ませたのは悔恨か、宿怨か。
掠れた声は、いまにも砕けてしまいそうなほど沈痛だ。
「そうでなければ、姉さんは守れない」
リロイは眉根を寄せて、カレンとレニーを見やる。ふたりは揃って、首を小さく横に振った。
事情を知らないリロイも、白い青年が危うい場所に立っていることに気がついただろう。
「ここに、おまえの姉さんなんていない。寝ぼけてるのか」
なのにどうして、そんなに無神経な言葉が吐けるのか。
カレンは取り繕うことも忘れて、大きく舌打ちした。全身の筋肉に、緊張が走る。いつでもトップスピードに移れるように、彼女の身体が臨戦態勢に入っていた。
「いないだと?」テュールがそこで初めて、視線をリゼルから外した。よほど恐ろしかったのか、リゼルは大きく息を吐き、自分が押し込められていた運転席の一部へよろめくように背中を預ける。
テュールの双眸は、リロイに突き刺さった。
「なんのつもりだ、リロイ・シュヴァルツァー」
「それはこっちの台詞だ」うんざりしたように、リロイは言葉を乱暴に吐き捨てた。「おまえの姉ちゃんとやらがどこにいるってんだ。その目を大きく開いて周りを見てみろ」
あくまでテュールの感情になど配慮せず、現実を叩きつけようとする。テュールはその言葉には従わず、苛ついたように双眸を細めた。
拘束衣を着たその全身から、鬼気が立ち上る。
両手の袖口から、都合十本のグレイプニルがずるりと垂れ下がった。完全に、戦闘態勢に入っている。
「おまえか」呟くように、食い縛った歯の間から、言葉を絞り出した。「おまえが、殺したのか」
「ちょっと強く頭を打ちすぎたんじゃないのか」リロイは自分のこめかみを指で叩き、挑発的に鼻を鳴らした。「脳の血管が破けてないか、いますぐ爺さんに見てもらえよ」
「うむ、脳卒中は早期発見が大切じゃぞ」
ヘパスはまだ動けないらしく、リロイが横たえた場所に転がったままだ。
当然テュールは、彼には目もくれない。グレイプニルを足下に這わせたまま、高い位置にあるリロイの黒い双眸を射貫かんばかりに睨めつけていた。
「――ひとつ訊いていいか」それは、とても不吉な響きがする声音だった。カレンが無言で首を横に振ったが、止められない。
「なんだ」いまにも暴発しそうな、撓んだ声だった。彼の呼吸は浅く、そして速い。リロイはそんなテュールを見下ろしながら、面白くもなさそうに訊いた。
「もう死んだ人間を、どうやって守るんだ?」
「…………!」声なき赫怒の咆吼が、空を震わせた。
グレイプニルの鋭い先端が、リロイめがけて撥ね上がる。
同時に白い拘束衣のベルトが、その全身を瞬時に締め上げた。
肉が押し潰され、骨が軋む音が響く。
両手両足を縛り上げられたテュールは、そのまま倒れ込んだ。その首にもまた、ベルトが食い込んでいる。瞬く間に、彼の顔が赤く染まった。
「リゼル!?」このままでは、テュールが絞死してしまう。カレンが慌ててのたうち回るテュールに駆け寄るが、ベルトによる拘束は思いの外強いらしく、その指先は弾かれてしまった。
「わかってます」リゼルはふところから注射器を取り出すと、落ち着いた動作でそれをテュールの首筋に撃ち込んだ。
効果は覿面だった。彼の顔に浮かんでいた苦悶の表情は消え、意識を失ったのか首は項垂れ、身体も動きを止める。それを確認するとすぐに、リゼルは、掌にすっぽりと収まるぐらいの機械を操作した。すると拘束衣のベルトが緩み、テュールの顔色がゆっくりと元に戻っていく。
カレンはテュールの無事を確認すると、立ち上がった。
そしてリロイの前に立つ。
いきなりだった。
彼女の拳が、リロイの頬を打つ。
手加減なしの、体重の乗った一撃だ。
鈍い音に押されるように、リロイが蹈鞴を踏む。
カレンは、口を開いた。なにか罵声を浴びせようとしたのだろう。
「──あなたに期待するのは間違いかもしれないけど」しかし、口汚く罵ることもなく、カレンは静かに言った。心の裡に渦巻く怒りを抑圧しているためか、いつもより声が低い。「少しは、人の気持ちを考えなさい」
頬を打たれたリロイは、少しばつが悪そうに身動ぎする。「悪かったよ」そして、思ったよりも素直に謝った。
どうやらリロイは、真っ当な人間に真っ当な叱られ方をすると、意外に悪態をついたり反抗したりしないらしい。これがリゼルやレニーだと、リロイもなにかしら言い返したり笑い飛ばして終わったはずだ。
そこまで考えたところで、私ははたと気づいてしまう。
リロイが私の苦言に、まったく耳を貸さないということに。
「この先に、小さな町がありますね」
愕然としている私をよそに、リゼルがどこからともなく取り出した地図を広げていた。
「そこまでなら、日暮れまでには徒歩でもたどり着けそうです。ここを目指しましょうか」
「お風呂あるかなぁ、お風呂」レニーは寝そべったまま、力なく呟いた。「お風呂、入りたいな~」
「入りたいわね」カレンも、同調する。リロイに対する憤りは、もう引きずっていない。「ホテルとまでは言わないけど、宿泊施設があることを祈りましょう」
声こそ出さなかったものの、これにはフリージアとリリーも賛成のようだ。
「その町なら、行ったことがあるぞ」リロイは、リゼルが広げた地図を横からのぞき込む。「確かにちっちゃい町だが、宿は綺麗だし飯はうまかったな」
これを聞いた女性陣は、目を輝かせる。
「あなたの言葉で初めて、喜怒哀楽の喜と楽を喚起されたわ」カレンが、さらりと辛辣なことを言い放つ。言われた当人はしばらくその意味がわからなかったようだが、気づいた途端に苦い顔になった。
それを見たカレンが、してやったりとばかりに微笑する。
私は、自分が真っ当だと認識されていなかった事実を前に、ただただ愕然としていた。




