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第一章 1




 私はティーカップを持ち上げると、まずは香りを楽しんだ。

 さすが辺境とはいえ、中央の都市に勝るとも劣らない大都市であるヴァイデンだ。紅茶の葉も良いものを揃えている。

 芳醇な香りをゆったりと楽しんだあと、私は、ほどよい熱さのそれを口に含んだ。

 紅茶といえばストレート、ミルク、レモン、あるいはハーブやジャムと楽しみ方はいろいろだが、私は昔からレモンと決めている。

 なんとなく決められてしまった、ともいえなくはないが。


 紅茶本来の渋みを、レモンの酸味が爽やかに包み込んでいく感覚を楽しみながら、私は周囲を見回した。


 大通りに面したカフェテラスからは、様々な人種を見て取ることができる。

 外套(がいとう)をまとって大きな荷物を抱えている者は旅行者だろうし、本を片手に歩いている若者は学生だろう。

 このあたりでは珍しい、スーツ姿も見受けられる。大陸中央部や北部に本拠地を構える大企業が、次のビジネスチャンスに南部辺境地域や西部の小国家群を狙っているのは常識だ。そのために辺境随一の大都市の領主に日参し、覚えをめでたくしようとしているのかもしれない。


 その洗練されたビジネスマンの姿とは対照的に、武装した無骨な人種はいわずとしれた傭兵だ。


 大陸中央の二大国家としてヴァナード王国と肩を並べるアスガルド皇国、その第二の都市ヴァーケルンに本部を構える傭兵ギルドは、大陸の至る所に支部を設けていた。

 ここヴァイデンには、南部辺境地域で最大級の支部がある。

 他の街にある支部でも依頼を受けたりトラブルの対処を求めたりはできるが、ギルドへの入会や脱会、傭兵ランクの更新などができるのはここだけだ。

 必然、ギルド所属の傭兵になろうという者や、実績を上げてランクを上げようという者はヴァイデンを訪れるしかない。

 むろんリロイは、ギルドに再入会しようとこの街に向かっていたわけではなく、この街の領主から直々の依頼があって呼ばれたのだ。

 自由契約(フリーランス)とはいえ、リロイほど有名な傭兵になると、各国の重要人物から名指しで依頼されることも少なくない。


 私はティーカップをソーサーにゆっくりと置くと、小さく吐息をついた。


 領主の依頼ともなれば、報酬もそれなりに期待できる。

 それがどうしてか、いつのまにかきな臭い展開だ。

 いつものことといえばいつものことだが、運の悪さもS級である。


ちなみに、私はさきほど剣であると自己紹介したと思うが、あれは決して嘘ではない。


 だが今、雑踏の片隅で紅茶を味わっている見目麗しい美青年もまた、私だ。

 厳密にいえば、長い銀髪にエメラルドの瞳、そして幾重にもローブを重ねてまとうその姿は、実体ではない。

 大気中の分子を利用して作り上げた、超高密度の立体映像(ホログラム)だ。

 映像といっても限りなく実体に近いそれは、ものに触れることも、今そうしているように飲食すら可能である。


 リロイが拉致されたあと、木に刺さったまま放置された私は、レナと銀狼がいなくなるのを待ってこの姿になった。その(のち)、自分を木の幹から引き抜き、徒歩でヴァイデンに到着したのである。


 そしてここで一服しているわけだが、なにもリロイを見捨てたわけではない。

 私はティーカップを傾けながらも、しっかりと情報収集しているのだ。

 ここしばらくは無言が続いていたが、なにやら会話が聞こえてきた。

 それは、周囲のざわめきとは違う。

 この大都市の何処か、リロイの側で交わされている会話だ。


『ふん――“暗殺者の天敵”アサシン・キラーとまで呼ばれた男も、“冷血(コールド・ブラツド)”の前では形無しだな』


 鼻で笑いながらも、どこか緊張を孕んだ声は、二十代半ばから後半――リロイと同じ年頃の男のものだ。声質からすると、やや細身だが、引き締まった身体の持ち主だと推測できる。リロイと同じ馬車に乗っていた乗客には、該当する声の持ち主はいない。


『しかし、この状況で(いびき)をかいて熟睡とは、度胸が据わっているのか馬鹿なのか、どっちだ』

『馬鹿なんじゃないの』


 男に応じた声は、聞き覚えのある声――リリーのものだ。

 そっちが眠らせておいて馬鹿もなにもないとは思うのだが、なにぶん、我が相棒が馬鹿であることは間違いのない事実なので、大きな声で反論できないところが口惜しい。

 男は、神経質そうな溜息をついた。


『……で、いつまでここにこいつを置いておくんだ。最低、三日は目覚めないと言ってたが、万が一にでも目覚めたら厄介だぞ』


 彼らが何者か、今の段階では分からないが、少なくともリロイの危険性については正しく理解しているようだ。


『へパスも、早く寄越せと煩い。俺としては、一刻も早くあいつのところに運び入れたいんだがな』


 幾分の焦燥をのぞかせながら、男は言った。

 男の促すような言葉に、リリーは無言で応じる。

 かすかに聞こえてくる衣擦れの音が、彼女の逡巡を感じさせた。


『なんだ、なにかあるのか』

『本音を言えば、会わせるのは危険な気がするの』


 (いぶか)しげな男に、リリーはためらいがちに言った。


『カルテイル様が会いたがっているのはもちろん知っているし、命令だということも理解しているわ』


 リリーはやや慌てたように付け加え、そしてまた、口を閉ざした。

 忌々しげな、男の舌打ちが聞こえてくる。


『おまえも、シルヴィオと同意見か。いったい――』

『あいつの私怨と一緒にしないで』


 鋭く切り込むように、リリーは男の言葉を遮った。

 そして聞こえてくるのは、床板を踏む軽い足音と、木の軋み――どうやらリリーは、近くの椅子に腰かけたようだ。


『馬車で、その男と話したのよ。少し探りを入れておこうと思って』


 さっきよりも少しだけ低い位置から、リリーの独白のような声が聞こえてきた。


『さすがにギルドを辞めた理由ははぐらかされたけど、それ以外はいろいろ話してくれたわ。とんでもない査定官に殺されかけた話とか、頭のおかしいトレジャーハンターに遺跡の罠で殺されかけた話とか、なかなか面白くて、馬車の旅も退屈じゃなかったわね』

『――そいつはよかったな』


 男の相槌には、苛立ちがあった。リリーは、それを意図的に無視する形で続ける。


『わたしが試験に合格して学校に通うって話をしたら、感心してたわ。知ってた? こいつ、学校に行ったことがないんですって』


 そんなの、知性の欠片もない顔で一目瞭然よね、とリリーは辛辣だ。


『でも彼、知り合いに将来有望な学者がいるんですって。かつてヴァナード王国やアスガルド皇国がその身柄を取り合ったほどで――』

『おまえはなにが言いたい』


 さすがに我慢できなかったのか、男が彼女の(げん)を遮った。

 リリーは言葉の続きを呑み込むと、ぼそり、と呟く。


『普通なのよ』

『なにがだ』


 男が語気を強めて問うと、リリーはそれに質問で返した。


『レヴァン、あなたカルテイル様と談笑できる?』


 これに、レヴァンと呼ばれた男は狼狽(うろた)えたかのように言葉を失った。できるわけないわよね、とリリーは独りごちる。


『わたしたちは、あの人が自分たちとは根本的に違うなにかだと確信している。それでもその力を信じ、畏怖し、従ってきたわ』


 彼女は、小さく息を吐く。


『でも、リロイ・シュヴァルツァーは、違う。わたしたちの範疇を超えた存在のはずなのに、まるで普通の人間としてしか認識できない――それが、不気味でたまらないのよ』


 彼女の声は、かすかに震えていた。


『他の連中も同じじゃないかしら。“闇の種族”ダーク・ワンと戦ってるこいつを見て、みんなぎょっとしてたもの。人の皮を被った化け物だ、って知っていたはずなのに』


 この見解に、レヴァンと呼ばれた男は無言で応じた。

 リリーは、喉になにかが詰まったようなくぐもった声で続ける。


『カルテイル様とは別種の恐怖を感じるわ。出来れば今すぐにでも、始末したいぐらいよ』

『こいつがねぇ……』


 レヴァルはどうやら、懐疑的なようだ。

 まあ、間抜け面で鼾をかいている男を畏怖せよ、といわれても難しいことだろう。

 少しの沈黙のあと、リリーが疲れたように言葉を漏らした。


『いいの、今のは忘れて』


 レヴァンは返事を声に出すことなく、わずかに身体を動かしたようだ。肩でも竦めたのだろう。

 次に聞こえてきた音は、言葉ではなく、扉の蝶番(ちようつがい)が軋む音だった。

 足音からして、筋肉質で長身の人物が部屋に入ってくる。


『どうした?』


 リリーとレヴァンの間に流れる微妙な空気を感じ取ったのか、その人物は怪訝な口調で問いただす。力強くハスキーな声の持ち主は、声質からすると三十代前半の女だ。


『なにしに来たの、フリージア』


 質問に質問で返したリリーの声は、棘が含まれていた。しかしながら、フリージアと呼ばれた女はその棘に気がつかないのか、平然と応じる。


『そいつの移送は、今夜にする。人目につかないほうがいいだろうからな』

『見られたって平気でしょ』


 反射的に反発している――そう思わせるリリーの口ぶりだったが、やはりフリージアは気に留めなかった。淡々と、続ける。


『そうもいかない。少し面倒な連中がうろちょろしてるからな』

『また来てるのか。懲りない奴らだな』


 フリージアの登場で、レヴァンがあからさまに安堵した声色になった反面、リリーがみるみる不機嫌になっていくのが、黙っていても空気で伝わってくる。

 彼等の関係性を考察するだけでもなかなか興味深いが、ここで座ったまま話を聞いているだけ、というのも芸のない話だ。


 私は空になったカップをソーサーの上に音もなく戻すと、立ち上がった。


 リロイ周辺の音声を拾っているのは、ベルトのバックルに仕込んだ全惑星測位システム搭載の超小型通信機だ。経年劣化で大半の機能を失い、通信は一方向からのみに限定され――つまりは、私の声は向こうに届かない――、位置情報の信号も途絶えて久しい。


 となれば、探索は極めて原始的に行わざるを得ないだろう。


 こういう場合、情報屋を当たるのがもっとも手短ではあるが、残念ながら私に、懇意にしている情報屋のつてなどない。

 扱う商品の性質上、慎重で用心深い彼等のような人種が、一見の私に――推測ではあるが――秘匿性の高い情報を売ってくれるだろうか。

 否、と自分の疑問に結論を出したところで、事態は好転しない。


 ここは相棒に習って、行動すべき時だ。


 幸い、情報を扱う彼等の居所に心当たりがないわけではない。リロイが利用していた何人かは、信用してもいいはずだ。

 惜しむらくは、私は彼等を知っていても、彼等は私の顔を知らないことか。

 それでも私は、躊躇(ためら)うことなく歩を進めた。

 当たって砕けろ、という言葉もある。


 だが、実際に当たって砕けた場合、これが意外と途方に暮れるものだ。


 私は最後の情報屋に追い出されたあと、しばし呆然と佇んでいた。

 最悪の予想がそのまま形になったわけで、落胆するほどのことではない。


「ふむ」


 軽く息を吐き、周囲を見渡す。

 その行為に、意味はない。

 自らを奮い立たせ、次の行動へ移る為の儀式とでもいうべきものだ。

 リロイならば立ち止まることなく動き出すだろうが、あれは規格外の生物なので比べても仕方ない。

 それに、情報を売ってもらえなかったことで、分かったこともある。


 カルテイル、という人物の評価だ。


 リリーたちの会話の中に出てきた名前である。敬称をつけていたので、組織内で彼女たちより上役であることは予測していた。

 おそらくは、首領クラスの存在だろう。

 だが、情報屋たちの反応は、その予測を遙かに上回るものだった。

 彼の名前を出すと(みな)一様に及び腰になり、それ以上は聞きたくない、といわんばかりに私の話を遮ったのである。

 海千山千の情報屋たちがあれほど怯えるのは、珍しい。

 たとえ、彼が私の想像どおりにリリーたちが所属する組織の首領だとしても、影響力が大きすぎはしないだろうか。


「ここいらで、あいつの情報を売るやつなんてひとりもいないよ」


 思索する私の頭上から、声が降ってきた。

 見上げると、今し方出てきた建物の(ひさし)に、少年が腰かけている。年の頃は十三、四歳ほどだろうか。


「あいつ、とはカルテイル某のことかな」


 並み居る情報屋を(おのの)かせてきたその名を口にすると、少年は、あどけない顔に不釣り合いな不敵な笑みを浮かべた。


「その名前は、あんまり口にしないほうが利口だと思うけどね」


 彼は身軽に庇から飛び降りると、その拍子にずれた帽子を直しながら、私を見上げた。

 身なりは、あまり良くない。

 上着は色褪せて継ぎ()ぎだらけだし、ズボンの膝に空いた穴はそのままだ。靴などは今にも分解しそうなほど履き潰している。

 身長もやや低く細身なのは、彼の肉体的特徴というよりも栄養状態が悪いからだろう。


「ほら、こんなところにぼさっと突っ立ってたら、怖い人に連れ去られちゃうって。さっさと行こう」


 少年は私の袖口を掴むと、強引に歩き始めた。抗ってもよかったのだが、少年から悪意を感じないのと、いずれにせよ歩く方向に迷っていたのでされるがまま路地へと連れて行かれる。

 路地に入ってすぐ、少年は、外の様子をうかがい始めた。


 子供がよくするごっこ遊び・・・・・とは違う、緊迫感と恐怖がそこにはあった。


 明るく振る舞ってはいるが、おそらくこの少年は、一度ならず痛い目に遭っているのだ。

 そして逃げずに、踏み止まっている――というのは私の想像だが、そう思わせるなにかが、彼の背中からは感じられた。

 ほどなく私に向き直った少年の顔は、緊張に強張っている。


「ほら、見つからないように見てみなよ」


 私は彼に言われたとおり、路地から少しだけ顔を出して、先ほどまでいた店先を見やる。

 私を追い出した情報屋と、柄の悪い男たちが話し込んでいた。男たちの服装はバラバラだが、まとった雰囲気は一様に荒々しい。

 腰のベルトに挟んでいるのは、握りに布を巻いた鉄の棒だ。ナイフよりも技術を必要としないため、脅しの得物としては悪くない。


「あんたが聞き回ったから、現れたのさ」

「ということは、カルテイルとやらの手下か」


 つまり、彼等を捕まえて締め上げれば、リロイがどこへ連れて行かれたか吐かせることができるかも知れないということだ。

 あるいはわざと捕まり、ふところへもぐり込むか。

 いずれにせよ、これを逃す手はない。

 降って湧いた僥倖に、私は路地を出るべく意気揚々と踏み出した。

 そしてすぐに、強い力で引き戻される。


「ちょっと、なに考えてるんだよ!」


 よろめく私に、少年は、抑えた声で言った。彼の手は、私の服の裾を両手で握りしめている。その力のこもった指先が、かすかに震えていた。


「あいつらはもう、あんたの人相と風体を知ってるんだぞ。のこのこ出て行ったらあっという間に捕まっちまうよ」

「問題ない」


 そう返すと、少年は私の正気を疑うように眉根を寄せる。

 そこには、失望の兆しも見えた。


「あんた、なんのためにあいつのことを聞いて回ってるのさ」

「相棒があいつらに捕まってしまってな」


 隠す必要も意味もないだろう、と私は判断し、事のいきさつを少年に話した。


「――あんたの相棒、一体なにをやらかしたんだよ」


 事情を理解した少年の口から飛び出した第一声には、幾ばくかの畏怖が込められていた。

 私は小さく、溜息をつく。


「見当も付かない。四六時中やらかしているような男だからな」


 どこかで彼等の身内を酷い目に遭わせたかも知れないし、もしくは金になる取引を台無しにしたかも知れない。

 犯罪組織にとってリロイは、まさしく悪夢のような存在だ。

 そういう意味では、相棒が狙われた理由は心当たりが多すぎるし、そもそも理由など考えるまでもないということになる。


「――残念だけど」


 少年は、しかつめらしい面持ちで言った。


「あいつらに捕まって助かったやつなんて、いないんだ」


 それは、憤激と恐怖がない交ぜになったような声色だった。


「今ならまだ、あんただけなら逃げられるかも知れない。相棒のことは諦めるしかないよ」

「ああ、その点なら問題ない」


 私の返答が予想外だったのか、少年は少し鼻白んだ様子で目を(しばたた)かせた。

 彼の表情から、なにが問題ないのかについて誤解が生じたのでは、と感じた私は、言葉を付け加える。


「相棒は、放っておいても自分でなんとかする。諦める必要はない」


 取り立てて力強く断言したわけではないが、少年はなぜか軽く仰け反った。

 あるいは、この街に於いて私の発言は荒唐無稽だったのか。

 いずれにせよ、やるべき事は変わらない。


「心配してくれたことには、感謝する。達者でな」


 私は少年の肩を軽く叩き、今度こそ路地から出ようとした。

 しかし、わざわざ出て行く必要はなくなる。

 先ほどの情報屋が、我々がこちらへ移動したのを目撃していたか、もしくは付近をしらみつぶしに探していて運悪くかち合ってしまったのか。

 いかにも暴力慣れした(いか)つい顔の男がふたり、路地の出入り口に立ちはだかっていた。

 男たちは私を一瞥(いちべつ)したあと、背後にいた少年を見て忌々しげに舌打ちする。


「またおまえか、スウェイン」


 男は鉄の棒で掌を軽く叩きながら、少年――スウェインを()めつけた。振り返ると、彼は身体を硬直させ、顔を強張らせている。


「どれだけ痛い目を見れば分かるんだ。親父みたいに殺されなきゃ分からないのか」


 威嚇するようにゆっくりと、こちらへ歩み寄ってくる。

 私はスウェインを背後に庇うようにして、男と対峙した。その行動が意外だったのか、彼はやや虚を突かれたような顔をする。

 確かに、私のこの姿――知的な美青年――は、あまりに知的で荒事に慣れていないように見えるだろう。

 だから男は、すぐに凶暴な笑みを浮かべた。


「おまえはあとでじっくりと話を聞いてやる。今はどいてろ」

「話を聞きたいのは、こっちのほうだ」


 私は言いざま、前進した。

 男の愕然とした、「なにを――」という叫び声が宙を舞う。彼は間合いを詰める私の速度に対応できず、腕を絡め取られて足を払われるまで(ほとん)どなにもできなかった。

 背中から街路に叩きつけられたその男は、痛みに声を詰まらせる。

 ここでようやく、もうひとりの男が動き出した。

 握った鉄の棒を振り上げ、怒声を張り上げながら突進してくる。


 私の頭めがけて放たれた一撃は、あまりに凡庸だ。


 (かわ)して、男の身体の側面へと回り込む。大振りの一撃が空振りし、大きく体勢を崩したその首に腕を巻きつけ、腰で男の身体を持ち上げた。

 悲鳴が弧を描き、男は顔面から足下に激突する。鼻骨が砕けたのか、顔を覆ってのたうち回る男の指の隙間から鮮血が滴っていた。

 私は倒れている最初の男に近づき、その胸ぐらを掴んで無理矢理引きずり起こした。


「私の相棒なんだが、全身黒ずくめの男がおまえたちに拉致された。どこにいるか知っているか」


 男は苦しげに唸ったが、私の質問は理解できたらしい。「知るか」と吐き捨てる。私は彼の顔を、悶絶している連れの男へ向けた。


「痛みに耐える訓練は怠っていないか?」


 問いかけたが、答えは待たない。

 男の顔面を、路地の壁に叩きつけた。連れの男と同じく鼻が潰れ、鼻腔から血が噴き出す。男の喉が、流れ込んでくる血に()せて奇妙な音を立てた。「話せ」と私が促すが、男はそれでも「知るか」と返してくる。


 もう一度、男の顔を壁に激突させた。


 今度は前歯が折れて、白いエナメル質の欠片が飛び散る。激痛に男の身体が激しく跳ねるが、押さえつけた私の手から逃れることはできない。「話せ」ともう一度促すが、やはり返ってきた言葉は「知るか」だった。

 もう二回ほど、男の顔面に手痛い打撃を与えてみたが、結果は同じだ。歯が折れ、口の中から喉にかけてが血まみれではっきりとした言葉にはならないが、間違いなく否定のニュアンスが返ってくる。


 この男、カルテイルとやらの組織に於いては間違いなく末端構成員だろうに、たいした忠誠心だといわざるを得ない。


 あるいは、痛みを上回るほどの恐怖か。


 さらなる痛みで追い込む手もあったが、私の服の裾をスウェインが引っ張った。「ちょっとやばいって」焦燥に、彼の口調が早くなっている。


 もちろん、私もすでに気づいていた。


 路地の前後に、男たちが複数、駆けつけている。十人前後はいるだろうか。いずれも、さしたる脅威とはいえない相手だ。全員を打ちのめすのも不可能ではない。

 スウェインがいなければ。

 リロイならば少年を守って男たちを易々と退けるだろうが、私では確実性に欠ける。その危険は犯すべきでない、と判断した。

 本来なら彼との関係はすぐさま終わりにすべきだったのだろうが、こうなってしまっては致し方ない。


「よし、逃げよう」

「でも、どうやって?」


 狭い路地の出入り口を塞がれているのだ、スウェインの疑問も当然だ。

 私は彼の体を片手で小脇に抱え、「こうやってだ」と、跳躍する。

 路地の両脇は、古いアパートの壁だ。八メートル近くある。これをひとっ飛びにできるほど、私の身体能力は超人的ではない。

 だから、壁を蹴って斜めに飛び、そこで再び壁を踏み台にして跳躍した。四回ほど繰り返すと、屋根に到達する。見下ろせば、路地に飛び込んできた男たちがこちらを見上げて唖然としていた。


「あんたいったい何者だよ……」


 私に抱えられているスウェインもまた、同じような顔をしている。

 それに答えることは難しくないが、彼が理解できるかどうかはまた別問題だ。

 彼の疑問には答えず、高い位置からヴァイデンの街並みを見渡した。中心にひときわ高くそびえ立っているのが、領主の館だ。そこを中心にして街が広がっているが、西の一角だけが明らかに建築物の高さが低く、見窄(みすぼ)らしい。バラックが無秩序に建ち並んでいる、といったほうが正しいか。


「あれが悪名高い切り裂き通りさ」


 私の視線を追ったのか、スウェインが説明した。

 もちろん私も知っているし、足を踏み入れたこともある。ヴァイデンの中で最も治安が悪く、警察すら関知しようとしない無法地帯だ。力なき者は切り刻まれてすべてを奪われる場所、という意味でその名が冠されている。


「あそこなら、身を隠すのにうってつけだよ」


 スウェインが、突拍子もない提案をしてきた。あそこは、少年が気安く入って良い場所ではない。

 だが、続く彼の言葉に度肝を抜かれる。


「俺の家もあるし、なんならそこで匿ってあげようか」

「住んでいるのか」


 思わず口走ったが、切り裂き通りにも住人はいる。スウェインがそうであっても、おかしくはない。

 それに、私の暴力に対しても一切、怯まず、嫌悪した様子も見せないのがその証拠だ。

 日々、それらに囲まれて生きてきたことで感覚が麻痺しているのだろう。


「――まあ、住めば都ともいうからな」


 なんとはなしに付け加えたが、少年はにやりと笑う。「いや、最悪の場所だよ」彼は面白くもなさそうなことを楽しげに言って、その最悪の場所を指さした。


「ちなみにあの辺には、あいつらが使う部屋が幾つかあるんだ。運がよければ、あんたの相棒がいるかもね」


 だけど、と少年は続ける。「もちろん、今のより強いのがわんさかいるだろうけど」忠告するようにそう言ったが、すぐに自分でそれを打ち消した。


「でも、あんたの腕前なら大丈夫かな」


 彼の目には、偽らざる賞賛と僅かな打算が垣間見えた。

 特に追究するわけではないが、スウェインの父親を手にかけたというようなことを男が口走っていたのを私は聞いている。カルテイルについての情報を求めていた私に接触したのは、そのあたりに起因していそうだ。

 私は小さく肩を竦め、屋根の上を移動し始める。

 そのとき、通信機から新たな音声が飛び込んできた。


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