第二章 5
「それはまた、大変だったねぇ」
レニーが、嘆息する。
なぜスウェインがこの車に乗っているのか、ヘパスを乗せて走り出したあと暫くして、カレンが掻い摘まんで説明したからだ。
スウェインの父親が〝深紅の絶望〟によって謀殺されたことについては、口にしていない。フリージアとリリーが乗り合わせているのもあり、わざわざ語ることもない、と判断したのだろう。
「まあでも、もう安心だよ。うちの施設は評判いいからね」
にこにこしながら、レニーはスウェインの頭を撫でる。スウェインは、耳まで真っ赤だ。カレンは親切で心の距離は近いのだが、レニーはどちらかというと身体の距離が近い。スウェインを完全に子供としてみているからだろうが、思春期の少年が少なからず動揺するのは致し方あるまい。
「あたしは勉強できないけど、がんばって勉強してうちに入りなよ。ヴァルハラ、福利厚生がしっかりしてていい会社だよ。専務以外は」
では勉強ができない彼女はどうやって入ったのか、との疑問を抱くが、それは勿論、鋼糸を扱う技量故だと思い至る。
「大学を出れば幹部候補生だな」
黙って話を聞いていたヘパスが、言った。「科学に興味はあるかね? 解剖はいいぞ」
それはまるで、悪の道へ誘う悪魔の囁きに聞こえたが、スウェインはきっぱりと首を横に振った。
「俺、新聞記者になりたいから」
「ほほう」
ヘパスは感心したように、目を少し見開いた。「真実の解剖がお好みか」
「こいつの父親が記者だったんだ」
リロイがそういった瞬間、カレンがまずい、といった感じの顔で身動ぎした。
「〝深紅の絶望〟について調べている途中で、カルテイルに殺されてな」だが、彼女がどうこうするよりも早く、リロイはそう言い放ってしまう。「だから、父親の志を継ごうってことらしい」
これにフリージアとリリーの顔が、強張った。彼女たちとて、自分たちの組織がどんなことをしてきたか重々理解しているだろうし、そもそもスウェインの父親の死に直接、あるいは間接的に関わっていた可能性もある。
だからこそカレンは、その部分をぼかしたのだ。事実はどうであれ、いまこの瞬間の車内には不必要な情報だと判断したのである。倫理的に正しいかどうかはともかく、理知的には正しい。
そして残念ながら、リロイには倫理も理知も備わっていなかった。
この状況でそれを口にすればどうなるか、を考えもしない。
だから、ふたりが明らかに挙動不審になっていることにすら気づかず、場を乱すような発言に対して腹を立てているカレンの様子にも無頓着だ。
「若いのに、たいしたものだ」
やや不穏な空気が漂い始めたところへ、ヘパスが感じ入ったように言った。
「ぜひとも我が助手に欲しいところだが、そういう事情であれば致し方ない。がんばりなさい」
などと偉そうに言っているが、自分も〝深紅の絶望〟の一員だということを忘れているのだろうか。
承知していてこの態度だとすると、なかなかの傑物だが。
「──大丈夫?」
リリーはスウェインの隣に座っているので、殊更に居心地が悪そうだった。それを具合が悪いと勘違いしたのか、スウェインが、俯いたリリーの顔をのぞき込む。
そもそも車に乗ったときから、彼女のことは気にしていた。スウェインが初めてリリーを目にしたのは、私が裸のリロイと一緒に地底湖から担いで帰って来たときだ。あのときは結局、病院に連れて行くまで彼女が目覚めなかったので言葉は交わしていない。
今現在、そのときの少女が大人の中で唯一自分の同年代として乗り合わせている。気にするな、というほうが無理だろう。
だが、リリーが話しかけるな、という空気を強力に発していたので、スウェインもここまで声をかけにくかったのだ。
「ちょっと気分が悪いだけだから」
さすがに体調を気遣われて無視するほど、リリーも図太くはなかったようだ。曖昧な表現でかわそうとする。
「乗り物酔いですね」
だがリゼルが、心配そうに立ち上がった。「ちょっと、車止めましょうか」
「そこまでじゃないから、気にしないで」
リリーが慌てて、首を横に振る。むしろ彼女の本心としては、一刻も早くカルテイルの元へ駆けつけたいはずだ。こんなところで休憩など、望むはずもない。
「それなら、いい薬があるぞ」
ヘパスが、鞄の中を漁り始めた。「いや、いらないわよ」リリーが止めるのも構わず、老科学者は錠剤や粉薬、瓶入りの濁った液体などを次々に取り出していく。
「ほら、好きなのを飲みなさい」
「──だって、苦いでしょ」
リリーは、あからさまに顔を顰めた。
「苦いの、嫌だよね」
スウェインが、深々と頷く。そこで自分が、不用意に子供じみたことを言ってしまったと認識したのか、彼女の頬が赤くなった。
「苦いかどうか、はともかくとして」そう言って、難しい顔で薬を見据えたのはカレンだ。「それ、飲んで平気なの?」
「人に優しい成分しか入っとらんよ」
ヘパスはしれっとそう言ったが、その場にそれを信じる者は誰ひとりいない。
「もしかして──」話の中心がヘパスの薬に向かったのを見て、スウェインはリリーに話しかけた。「君もヴァルハラの施設に行くの?」
「まさか」
うっかり強めに否定してしまい、リリーは口元を掌で押さえた。その目がちらり、とリロイに向いたのを私は見逃さない。
リリーは小さく咳払いして、「あたしには、それよりもやらなきゃならないことがあるのよ」と、やはり曖昧な表現でごまかした。
「ふぅん」スウェインは、新聞記者だった父親の血が騒ぎ始めたのか、少し胡乱げにリリーを横目にする。「その怪我で? なんか大変そうだね」
「そうよ、大変なの」
リリーは、少し語気を強めた。「だから、あなたとお喋りしている暇なんてないのよ」
「車に乗ってるだけなのに」
スウェインが、顔を背けてぼそりと呟く。
これにリリーが、食ってかかった。
「なに、文句でもあるの?」
「別にないけど」スウェインは、ひたとリリーを見据えた。真っ向から視線を向けられたリリーは、少し鼻白む。「機嫌が悪いのは、俺のせい?」
「ち、違うわよ」
慌ててそう言ってから、苦虫を噛み潰したような顔になる。そう言ってしまえば、少年と距離を置けたことにあとから気づいたのだろう。
「許してやってくれ」そう言ったのは、フリージアだ。「この子には同年代の友達がいなくてな。周りに柄の悪い連中が多かったのでちょっと荒っぽいが、悪い子じゃないんだ」
「ちょっと、なんのつもり!?」
リリーは声を荒らげてフリージアの脇を肘で打ったが、彼女は微動だにしない。「短い間かもしれないが、よければ仲良くしてやってくれ」スウェインに、小さく頭を下げた。
「なに勝手なこと頼んでるのよ」
リリーはフリージアの口を塞ごうとしたのかもしれないが、なにぶん体格に差がありすぎる。結果的に、彼女にしがみついただけにしか見えない。
「うん、いいよ」
そんな彼女を尻目に、スウェインが頷く。
「あんたも勝手に請け合うわないで!」憤懣やるかたない様子のリリーだったが、それを眺めていたリロイが笑う。
「なんだ、もう仲良くなったのか」
「節穴!!」
憤るあまり、罵倒の言葉が寸足らずだ。
「なんじゃ、存外元気ではないか」ヘパスは少し残念そうに、薬を鞄に仕舞い始める。
そのうちのひとつ、錠剤の入った小瓶を手に取ったのは、レニーだ。
「本当に効くの?」
そう訊く彼女の顔色は、あまり良くない。
つい先ほどまでは、平然としていたのだが。
「あなた乗り物、弱かったの?」
カレンは、意外そうに驚いている。レニーは力なく首を横に振った。「船も列車も平気だけど、車は駄目っぽい」
「ならばこれを試してみるといい」
ヘパスは、楕円形の錠剤をレニーに差し出した。ぱっと見た感じでは、特におかしなところのない白い錠剤だ。
「これ、材料はなに?」
レニーの疑問に、ヘパスは微笑む。
「天然、自然由来のものしか使っておらんよ」
だから安心、という理論は成り立たないのだが、レニーは納得したようだ。
薬を口内に放り込み、ぼりぼりと噛み砕く。
そして次の瞬間、仰け反った。床に倒れ、のたうち回る。
「苦っ」
レニーが、悲鳴を上げた。「なにこれ苦っ」
「なるほど、苦いか」
どこからともなく取り出した手帳に、ヘパスがなにかを書き込んでいく。
「まさか、人が服用するのは初めてとか言わないでしょうね」
カレンの指摘に、ヘパスは動じることなく肩を竦めた。
「なにごとも初めてが存在するのは、この世の常だな」
「せめてそれは、飲む前に言わないと駄目ですよ」
リゼルが抗議したが、老科学者はとりあわない。「なに、死んだら埋めればいいだけの話よ。シャベルはあるんだろう?」そう言って、にやりと笑う。そう言われては、リゼルに返す言葉はない。
「──飲まなくて良かったね」
悶絶するレニーを見下ろしながら、スウェインがリリーに言った。
「まったくだわ」
リリーは頷いてから、少し気まずそうに視線を逸らした。
「だが、ドクターの薬はよく効くぞ」
別にフォローのつもりはないのかもしれないが、フリージアが言った。それは、リリーが飲んでいる体質抑制の薬を製造したことからもうかがえる。「うちには、体力だけは余りまくってる連中がたくさんいたからな」だが、そう言われて安心できる者はいないだろう。
「科学の発展に犠牲はつきものだな」
ヘパスはしたり顔だが、犠牲になる者からすればたまったものではない。
「み、水……」
砂漠で遭難したかのように、掠れた声が懇願する。
「ほら」リロイがいつも使っている水筒を差し出すと、レニーはそれをひったくるように奪い、一気に呷った。
そのまま、口の中の苦みを洗い流そうとするかのように飲み続ける。
だがしばらくすると、「んごっふ」と意味不明な声を上げてよろめいたかと思うと、仰向けに倒れてしまった。カレンが慌てて抱き起こすが、レニーは完全に目を回してしまっている。
「なにを飲ませたの」
「酒」
水みたいなもんだろ、とリロイは言ったが、それは当然、人による。本人もそれぐらいはさすがに分かっているのか、「もしかして弱かったのか」と尋ねたが、正直もう後の祭りだ。
「弱いのもあるけど」カレンは、叱りつけるように言った。「乗り物酔いしてるところにアルコールは駄目でしょ」
「そうなのか」リロイは少し困ったように頭を掻き、小さく息を吐いた。「――世話のかかる姉弟子だな」そして仕方なさそうに、車の後部に積まれていた物資から水筒を取ってくる。
気絶しているレニーは、自発的に飲むことはできない。
どうするかと思えば、気絶しているレニーの口を無理矢理こじ開け、カレンが止める暇もなくそこへ水筒の飲み口を突っ込んだのだ。
ものには、適量というものがある。
突然流れ込んできた大量の水は逆流し、口と鼻孔から飛び出した。レニーは噎せ返り、跳ね起きる。一体、自分の身になにが起こったのかわからず、呆然としたながらも激しく咳き込んだ。
その涙に濡れた目が、リロイの手にある水筒を捉える。
なんとなく事情を察したのだろう、「こっ──このっ」と、なにか文句が言いたいのだろうが、気管に入った水のせいでなかなか言葉にならない。
そしてリロイを罵倒することが叶わぬまま、またしても仰け反った。
「に、苦っ」彼女は、自分の首を両手で押さえて叫んだ。「気管が苦っっ」
水に押し流された薬の成分が気管に侵入したのだろうが、気管に味覚はない。口腔の奥に残った苦みで、勘違いしているのだろう。
「騒がしい女だな」
リロイは足下で悶え苦しむレニーを見て、呆れたように言った。そんなリロイを、傍らでカレンが信じられないものを見る目で凝視している。
「鬼畜、ってこういうやつのことを言うんだわ、きっと」
リリーが、呟く。スウェインも、首肯した。「いまのはちょっと酷いと思う」
「そうか?」リロイは、不服そうだ。「ちゃんと水もあげただろ」その行動ひとつがどうというわけではなく、一連の言動に対する非難なのだが、どうもこの男はわかっていないようだ。
「やっぱり一度、車を止めましょう」
リゼルが、運転席のテュールに停車を伝える。そもそもの乗り物酔いに苦さとアルコールのダメージが加わって、レニーはもう起き上がる力もないようだ。
「本当に止まってもいいのか」
運転席のテュールが、振り返らずに言った。「ここで迎え撃つんだな?」
「え?」
リゼルは彼の言葉の意味が飲み込めなかったようだが、リロイは違った。運転席へ近づくと、フロントガラス越しの景色に目を凝らす。
車が進むのは、街道を外れた荒野だ。
ヴァイデンから北へ行くには森の中を行くか荒野を突き進むかの二択になるが、小回りの利かない車では森の中の曲がりくねった道は選べない。否応なしに、荒れ果てた土地を進んできた。
代わり映えのしない景色だ。
そこにテュールはなにかを見つけ、リロイもまたそれを視認した。
「このまま進め」リロイはテュールの肩を叩くと、車のドアを開いた。吹き込んできた風が、全員の顔を打つ。
「どうするんですか」顔の前に腕を翳して風を防ぎながら、リゼルが声を張る。開いたドアから外へ身を乗り出していたリロイは「特等席で眺める」と言い残ながらドア枠を掴んだ。「ドアは閉じとけよ」そして腕の力で身体を持ち上げ、逆上がりの要領で車の屋根に登る。
乾いた風が、黒髪とレザージャケットの裾を激しくはためかせた。
進行方向に立ちはだかっているのは、群れだ。ざっと見ただけでも百匹はくだらない。
「あれを全部蹴散らすのは骨だな」
私が言うと、リロイは自分が乗っている車の屋根を拳で叩いた。「こいつで一気に減らせるだろ」
テュールが言っていたような車を止めてからの迎撃より、轢殺はいくぶん現実的である。問題は、強度だ。一見すれば装甲車と見紛うこの車だが、果たしてそれに見合う頑丈さを持ち合わせているのか。
私がその危惧を言葉にすると、「やってみりゃわかる」リロイはそう言って、楽しげに笑う。
なにが面白いのか、私にはさっぱりだ。
「群れのど真ん中で立ち往生しなければいいがな」
警告を込めて返すと、リロイは鼻で笑い飛ばした。
「そうなれば、いつもどおりってだけだ」
まあ、確かにそれはそうなのだが。
なぜいつもそうなるかについて、考えてみようという気にはならないものか。
――ならないから、こいつはいつも、こうなのだな。
「おい、テュール」私の感慨を余所に、リロイは腹ばいになって運転席の窓を叩く。窓、といっても、運転席のそれも非常に小さい。
「なんだ」
窓を開いても、殆ど運転席のテュールを見ることはできない。声だけが、返ってくる。
「まずはこいつで数を減らそうと思うんだが――」リロイは掌で、運転席のドアを乱暴に叩いた。「突っ込んでもらえるか」
「断る」
即答だった。渋られるかもしれない、ぐらいは考えていたかもしれないが、さすがにここまではっきりとした拒絶は予想外だったのだろう。リロイは一瞬、固まり、我に返るとドアをさらに荒々しく叩いた。
「いやいや、突っ込めよ。楽しいぞ?」
そんなものが楽しいと感じるのはおまえぐらいのものだ、と私は心の裡で独りごちていたので、テュールが「なにを言ってるんだ、おまえは。馬鹿か」冷徹にそう言い放ったのには、思わず拍手したくなった。
しかしリロイは、それぐらいでは引き下がらない。
「爺さんを引っかけたのがそんなにショックだったのか? 繊細なやつだな」呆れたように言った。「ほら、ちゃんと前を見てみろよ。年寄りと違って活きがいいやつらばっかりだろ? あいつらを轢き殺せるんだ、やらない手はないぞ」
「車に不要な傷がつく」
やはりテュールは、取りつく島もない。リロイは、低く呻いた。そもそも、あれで説得できる、と考えるほうがどうかしてる。
「テュールさん」
助け船は、車内のリゼルからだった。
「ここはひとつ、リロイさんの提案に乗ってみませんか」
もうリゼルにも、行く手を阻む大群が見えているのだろう。あの数を前にして、さすがに怯えているようだ。
「それは、特例措置か」
テュールの声色は変わらず、同僚の怯懦を責める様子はない。
「え、特例、ですか?」
リゼルは少し困惑しているようだったが、次第に近づいてくる百匹強の群れを前にしてそれどころではなくなった。「そ、そうです、特例でお願いします」
「了解した」
その声と同時に、車は急加速した。「みなさん、なにかに掴まってください!」リゼルの悲鳴に近い警句は、激しさを増した蒸気機関のエンジン音にかき消される。
車は、こちらを包囲しようとしていた群れの真ん中へと突っ込んでいった。車体前部には、エンジンを保護するための分厚い鋼板が取りつけられている。おそらく、この車で一番頑丈な部分だろう。
激突の瞬間、車体が揺れる。
血飛沫には、脂肪の塊が混じっていた。赤茶色の毛に覆われた、長く逞しい腕が宙を舞う。
跳ね上がった体躯は、後頭部から背中にかけてに銅色の鱗が生え、尻尾は完全に蜥蜴のそれだ。
衝撃で剥がれ落ちた鱗が、リロイの頬を叩く。
やつらは、車の突撃を避けようとしない。
そこまでの知能がないのか、あるいは強烈な攻撃性の為せる技か──恐れる様子もなく、次々に飛びかかってくる。
激突寸前で跳躍した一匹は、車体前部の鋼板に膝を砕かれてフロントガラスに顔面から叩きつけられた。
その頭部は犬に似ているが、耳の後ろからは醜い角が生えている。長く伸びた鼻口部からは砕けた牙と血の混じった涎が吐き出され、べったりとガラスに付着した。
両手が、掴むところを探すようにフロントグラスの上を滑る。
その頭を、リロイが上から串刺しにした。頭蓋を貫いた剣身を捻ると、長い腕から力が抜けてその一匹は転がり落ちていく。
それと入れ替わるように、数匹が跳躍してきた。鋭い爪の生えた五指を使って車体に取りつこうとするが、スピードに乗った車を捉えるのは至難の業だ。
一匹目は掴むことさえできずにボディに激突し、弾かれた。頭から落下し、地面に激突した弾みで頸骨を折ったのか、まるで人形のように転がっていく。二匹目はどうにかしがみついたものの、すぐに手を滑らせて転落し、車の下に吸い込まれていった。
車輪が数回、跳ねる。
後ろを見やれば、千切れた足と、はみ出た内臓を両手で抱きかかえるようにして蹲る姿が遠ざかっていく。
三匹目と四匹目は、どうにか車体をよじのぼり、屋根の上に到達した。
直立すれば一般的な成人男性ほどの体長だが、極端な前傾姿勢のせいで低く見える。
むろん人間ではなく、〝闇の種族〟だ。
コボルト、と名付けられたその下級眷属は、太く長い腕から繰り出す一撃で人間の骨を容易く砕き、その顎は喉笛を一息に喰い千切る。
獰猛さでは鬼を凌ぎ、〝闇の種族〟の中でも群れの規模が大きいことで知られていた。
だが、主に山中や洞穴などに生息するコボルトとの遭遇地として、この荒野は些か奇妙である。
「これは、待ち伏せと見て間違いないな」
私は、確信を持って言った。〝闇の種族〟をカテゴライズしたのは人類であり、必ずしもそれが〝闇の種族〟の生態に合致しているわけではないが、力の強い眷属が下位と見られる眷属を使役する姿は幾たびも目撃されている。
状況から鑑みても、このコボルトたちがアシュガンの命で行く手を阻んでいるのは確実だろう。
「待ち伏せ、ね」リロイは、鼻で笑う。「それにしちゃ、お粗末だな」
下級眷属とはいえ、百匹以上の〝闇の種族〟となると通常は軍の管轄だ。それをお粗末呼ばわりとは、この男でなければ噴飯物である。
屋根の上に登ってきたコボルトが、涎をまき散らしながら咆えた。やつらに人語を理解する知能はないので、自分たちが馬鹿にされたことを理解したわけではないだろうが、もしかしたら表情で伝わったのかもしれない。
前傾姿勢のまま、示し合わせたように二匹が同時に飛びかかってくる。
そしてそのタイミングで、車体が大きく傾いた。立て続けにコボルトを轢いて、車輪が激しく跳ね上がったのだ。
二匹のコボルトは素早く反応し、両手で屋根の縁を掴んで落下を防ぐ。
リロイは、構わず前進した。
コボルとの濁った瞳にリロイは映っていたが、これに対処できる体勢になく、また反応できるような身体能力も持ち合わせていなかった。
叩きつけられた刃を、まともに喰らう。
斜めに振り下ろした斬撃はコボルトの頭蓋骨を切断し、顔面を断ち割った。破壊された脳が飛び散り、砕けた顔から眼球がこぼれ落ちる。それでも屋根にしがみつく指先から力が抜けないのはたいした生命力だが、リロイが蹴りつけるとあっさり転がり落ちていった。
そして、二匹目に向き直る。
同時に、跳ねていた車輪が接地し、激しい振動が車体を駆け上がってきた。
二匹目の足が滑り、下半身が宙に浮く。リロイは、出発時の急ブレーキですっころんだのがなんだったのか、と思わせるほど抜群の安定感で屋根の上を駆けた。
それにあわせたかの如く、車が急激に減速する。
車軸が異様な音をたて、車体が右方向へ滑った。
リロイの両足が、屋根を離れる。
コボルトは、すでに指先が引き剥がされて宙を舞っていた。激しく上下に揺れながら滑っていく車を置き去りにして、リロイは空中でコボルトを捉える。
逆手に握った剣を、赤茶色の体毛に包まれた胸元へ突き立てた。
コボルトは顎を大きく開き、雄叫びを上げる。怪力を誇る腕が、リロイの肩を掴んだ。
だがすでに、コボルトの背中は地面に激突する寸前だった。
リロイはコボルトの上に乗った状態で、着地する。
瞬間、思い切り剣を押し込んだ。
切っ先が、固い地面に突き刺さる。コボルトは背中を痛打し、反動で跳ね上がった。
刃は、極めて鋭い。
コボルトの身体は弾みで引き裂かれ、胸から股下までが真っ二つになった。内臓と血をぶちまけながら転がっていき、仲間たちの中に飛び込んでいく。
リロイは剣を引き抜き、ゆっくりと身を起こした。
周囲を、睥睨する。
リロイは、囲まれていた。
百匹を超える敵のど真ん中に、放り出されたのだ。
車は完全に停止し、これもまた囲まれつつある。
ドアが開き、誰かが飛び出してきた。レニーだ。彼女はいまにも倒れそうな足取りで、車の後ろに回り込む。
そして身体をふたつ折りにすると、吐いた。
あの悶絶するほど苦い薬も、効果はなかったらしい。
まあそのあとのリロイによる仕打ちと、最後の激しい車の動きがとどめを刺してしまったのかもしれないが。
「本当に役に立たない姉弟子だな」
それを見ていたリロイは、くつくつと笑う。この状況で笑うなど普通は正気の沙汰ではないが、そもそもこの男のやることなすことすべてが正気の沙汰ではない。
「笑ってる場合か」
それでも私は、いつもどおりの展開に、いつもどおり相棒としての責務を果たす。
「おまえの両手両足の指を足しても足りない数だ。代わりに数えてやってもいいぞ」
「〝闇の種族〟は、殺した数を数えなくてもいいだろ」
リロイは、口の端を吊り上げる。リリーに言われて、相手が人間なら数えようと思い至ったのか。
まあどうせ、すぐに忘れる。
コボルトたちは、蒸気自動車のほうは遠巻きに囲んでいた。見たことのないものに対する警戒心でもあるのか、すぐさま襲いかかろうという気配がない。
しかし、リロイは違う。コボルトたちからすれば、勝手知ったる獲物だ。お互いの身体がぶつかるのも構わずに、押し寄せてきた。
「焦るなよ」リロイは楽しげに、呟く。「ちゃんと、死にたいやつから礼儀正しく並べ」
そして少し腰を落とすと同時に、捻る。剣の切っ先が自分の遙か後方に移動し、そこから一気に弧を描いた。
その軌道上にあるコボルトの肉体が、悉く切断される。
胴を真っ二つにされた一匹はそれでも背骨が辛うじて上半身と下半身を繋いでいたが、後ろから突撃してきた仲間にそれをへし折られ、頽れた。胸部を半ばまで切断された一匹は、噴出する血を塞ぎ止めようと大きな掌で防いだが、指の間から迸るそれを止めることはできない。押しのけて前に出ようとする仲間に血を浴びせながら倒れ、踏み潰された。
喉を切り裂かれた一匹はもんどり打って倒れ、血が気管に逆流して窒息状態になり、もがき苦しむ。
四匹目は下顎を砕かれ、仰け反った。血と牙の破片が混じった涎を飛び散らせて蹈鞴を踏み、これも押し寄せる仲間が、邪魔だとばかりに突き飛ばす。
リロイは振り切った切っ先を引き寄せ、正面に刺突を送り込んだ。
雄叫びを上げて躍りかかるコボルトの口内に、剣身が吸い込まれる。
切っ先は、後頭部の鱗を割りながら顔を出した。
リロイはそのまま前進する。
コボルトの後頭部から突き出た切っ先を、別の一匹の顔面へ撃ち込んだ。鼻面に刺突を喰らった一匹は、脳幹を破壊されてもなお指先をリロイに伸ばす。
コボルトの指先は、四方八方から迫っていた。
リロイはコボルトが二匹突き刺さったまま、剣を横薙ぎに払う。
仲間の身体に打ち据えられて前方のコボルトが転倒し、振り抜いたところで突き刺さっていた二体の身体が吹っ飛んでいった。側面のコボルトがそれと激突し、薙ぎ倒される。
リロイはさらに前進した。
踏み込みとともに振り下ろした一撃で、コボルトの頭部を両断する。刃は喉元までを切り裂くと、一瞬の停滞もなく引き抜かれた。
そして振り向きざま、肉薄していたコボルトの胴へ叩きつける。刃は下級眷属の胴体を完全に切断し、その威力で上半身が回転しながら飛んでいき数人の仲間を巻き込んだ。下半身は地面の上を弾み、コボルトたちは足払いをかけられたかの如く次々に転倒した。
何匹かが、跳躍する。
仲間の背中を踏み台に、頭上から飛びかかってきた。
同時に低い姿勢で、コボルトが数匹、突撃してくる。
リロイは疾走してくる一匹へと自ら間合いを詰め、剣ではなく爪先を撥ね上げた。硬い爪先がコボルトの胸板を捉え、胸骨を粉砕する。折れた骨が押し込まれて心臓に突き刺さり、コボルトの身体が打ち上げられた。
そして頭上から襲いかかろうとしていた一匹に激突し、骨が砕け、肉の潰れる音が絡み合いながら、群れの頭上に落下する。
振り上げた踵は、軸足で回転しながら別の一匹へと振り下ろした。平らな頭頂部を直撃した踵はこれを陥没させ、そのまま地面へと叩きつける。上下からの衝撃を逃がす場がなくなったコボルトの頭部は、鼻孔や耳朶、口腔などから血と脳漿を吐き出した。
上空からは、今にも牙を突き立てんと数匹のコボルトが急降下してくる。
リロイは剣を逆手に握り替えると、これを投擲した。全力ではない。加減された一投はそれでもコボルトの腹部を突き破り、その身体を跳ね上げた。
その傍らを落下してくるコボルトは、もしかしたら、得物を失ったリロイに対して優位性を感じたかもしれない。
ほんの数秒だが。
そいつがリロイの間合いに飛び込んだとき、すでに相棒の手は新たな武器を手にしていた。
コボルトだ。
手近の一匹に低い姿勢で飛びつき、その足首を掴んで棍棒代わりに振り回したのである。
武器代わりにされたコボルトは、凄まじい速度で仲間の腹部にめり込んでいった。骨の折れる音は、武器代わりのコボルトの首から鳴り響く。腹部を押し潰された一匹は、大量に血を吐きながら錐揉みながら墜落した。
首の骨が折れても、コボルトは絶命していない。頸骨という支えを失って頭が垂れ下がった状態でも、リロイに掴みかかろうと暴れていた。
さらに数匹が、リロイの背後と横手から肉薄している。
腹部を剣で貫かれたコボルトがリロイの足下に落下したのは、まさにそのときだった。
蹲るようにして地面に激突したそいつの背中からは、剣身が飛び出している。もしもリロイが全力で投擲していたならば、剣はコボルトの身体を貫通して今もまだ宙を飛んでいたはずだ。
リロイは、棍棒代わりにしていたコボルトを突き出た切っ先の上に叩きつけた。二匹の背中が激突し、下になっていた一匹の喉が断末魔の苦鳴を漏らす。
その喉に、リロイの爪先が突き刺さった。
蹴り上げられた二匹のコボルトは串刺しのまま回転し、リロイの目の前に剣の柄が現れる。それを掴み取り、刺し貫かれていた二匹が抜け落ちて落下するや否や振り向きざまに一閃した。
背後から飛びかかろうとしていたコボルトの首を切断し、頭部を吹き飛ばす。宙を舞い、落下した犬の頭は、蒸気自動車の近くに転がっていく。
その白濁した瞳は、車の運転席のドアが開き、白い姿が降りてくるのを映しただろうか。
テュールは、周りで様子を窺っているコボルトは一顧だにせず、車の下へ潜り込んでいく。
続いて車を降りたのは、カレンとフリージアだ。カレンは、車の後ろでしゃがんでいるレニーのほうへ向かう。
「少しははすっきりした?」
気遣う彼女に、レニーは弱々しく首を横に振った。「胃の中が猛烈にぐるぐるしてて、ただただ気持ち悪い」
「水は飲んだほうがいいわよ。自分のペースでね」
カレンは微苦笑しながら、手にしていた水筒を差し出す。レニーは感謝の言葉を口にして、それを受け取った。
「そっちはどう?」
「やっぱり、絡まってるそうだ」
車体の下をのぞき込んでいるフリージアが、応える。「取り除けば、大丈夫らしい」これを聞いたカレンが、安堵の息を吐く。
どうやらリロイが屋根から吹っ飛ぶ羽目になった車の挙動は、轢殺したコボルトの死体が車軸に絡まったのが原因らしい。
「どれくらいかかるのかしら」カレンは、躙り寄ってくるコボルトたちを一瞥した。さすがに怯えた様子はないが、この数は面倒だと顔に書いてある。
「もう終わった」
車の下から這い出てきたテュールが、嬉しくもなさそうに報告する。「すぐに出られる。車内に戻れ」
「ええー。いやだぁ」泣き言を漏らしたのは、レニーだ。「本当に死んじゃう」
「そうか」
テュールは頷くと、さっさと運転席に戻っていく。
その姿を声もなく眺めたあと、レニーは水筒の水を口に含み、ゆっくりと呑み込んだ。
「見た? あの態度」腹が立っているというよりも、悲しげにレニーは肩を落とした。「先輩に対するとかどうかじゃなくて、人間として相手にされてない感がひしひしと伝わってくるんよね……」
「考えすぎでしょ」
一応フォローするカレンだったが、口元が少し引き攣っていた。
「考えるのは──」
フリージアが、ゆっくりと段平を引き抜いた。
「あとにしたほうがいい」
これまで周囲を囲むだけだったコボルトたちが、じわじわとその範囲を狭め始めていた。知能の低い下級眷属が彼女たちの会話を理解したとは考えにくいが、見慣れぬものから出てきたのが見慣れた人間たちであることが、やつらの警戒心を解いたのかもしれない。
「あなたは休んでなさい、レニー」
カレンは、腰の後ろに手を回した。ジャケットの裾を払うようにして引き抜いたのは、二振りのダガーだ。
「ありがと」レニーは車の車輪を背もたれにして座り込み、青ざめた顔でそれでも小さく笑みを浮かべた。「でも、ちょっとだけ」そして、指先を複雑にくねらせた。
コボルトの頭が、落ちる。
それも十数体が、一度にだ。
首の切断面から噴出する鮮血が、血の壁を造り出した。
「――おまえ、鋼糸使いか」驚いたように、フリージアがレニーを見やる。彼女はひらひらと手を振り、「もう駄目」と力なく呟いた。
「十分よ」
カレンは頷き、疾走した。
レニーに首を切断されたコボルトたちが崩れ落ちる頃、カレンは群れの中に飛び込んでいく。
その速度に、襲いかかろうとしていたはずのコボルトたちがまったく対応できない。
カレンが繰り出した刺突は、一匹目の喉を刺し貫いた。
素早く刃を倒して、傷口を広げる。
血管が切断され大量の血が噴き出すが、カレンがそれを浴びることはない。その血が地面を叩いたときにはもう、彼女は二匹目に躍りかかっていた。
逆手に握ったダガーの切っ先を、ゴブリンの頭頂部に突き立てる。抉って引き抜くと同時に、逆の手に握っていたダガーを横手から肉薄してきた一匹の眼球に撃ち込んだ。
後ろから両手を広げ、カレンを羽交い締めにしようとしたコボルトには、踵を撥ね上げる。硬い靴底がコボルトの股間を強打した。
浮き上がるその腹部へ、膝で軌道を変えた蹴りが叩き込まれる。
仲間を薙ぎ倒しながら、コボルトは吹っ飛んでいった。
カレンは軸足を支点にして、跳ぶ。
着地と同時に、左手の逆手に握ったダガーを背後へ叩き込んだ。肉厚の刃は赤茶色の体毛に覆われた左胸を貫き、そのまま引き裂くことで骨ごと心臓を破壊する。
引き抜きながら、その身体が旋回した。右手のダガーで掴みかかってきたコボルトの指を切り落とし、左手のダガーで額に突き込んだ。
引き抜き、鼻面にも一撃。
そして最後に、喉を抉る。
よろけるコボルトに背を向け、カレンは低い姿勢から別のコボルトの足を払った。仰向けに転がるその心臓を一突きにし、そこを支点に前方へ跳躍する。
着地したのは、前傾姿勢になっているコボルトの肩の上だ。
後頭部に、左右のダガーを連続で打ち込む。
膝から崩れ落ちるその一匹が倒れる前に、カレンは再び宙を舞った。
その落下地点に向けて、コボルトたちが殺到する。
カレンは、空中の彼女を捕まえようと飛びかかってきた一匹の腕を左のダガーで打ち払うと同時に、右のダガーを肩口に突き立てた。
そしてそれを引き寄せるようにして、中空の身体をもう一段高く跳ぶ。
押し寄せていたコボルトたちを飛び越え、その背後に着地したカレンは、一匹の脳幹を刺し貫き、別の一匹の背骨に切っ先を叩き込んだ。
脳幹を破壊された一匹はその場に頽れ、痙攣する。だが、背骨を砕かれたほうはすぐさま両手を背後に回し、ダガーを握るカレンの腕を掴もうとした。
カレンの眼前を、暴風が駆け抜ける。
肘の部分で切断されたコボルトの両腕が、地面に叩きつけられた。
「余計な真似だったかな」そう言って目を細めたのは、フリージアだ。
「助かったわ。ありがとう」カレンは、微笑む。
そして同時に、その場から飛び退いた。
ふたりへ殺到していたコボルトたちは標的を見失い、無様に激突する。
それを尻目に、フリージアは跳躍の勢いのまま着地点にいるコボルトへ段平を叩きつけた。
分厚い鋼の刃は、斬るというよりも潰すといったほうが相応しい。
切っ先が地面に到達し、それを抉る轟音が斬撃の終わりを告げる。
コボルトの頭は、剣撃の圧力で内側へ潰れていた。ふたつに分かれた顔がほぼ横を向いてしまっている。そのまま剣身は股間までを掻っ捌き、内側に収められていた内臓が盛大に飛び出した。
真っ二つになったコボルトの身体は、外側へとゆっくり倒れていく。
そこから溢れ出た腸と鮮血を蹴散らしながら、別のコボルトが正面から突撃してきた。
地面にめり込んでいた段平が、撥ね上がる。
今度は、逆だ。
股間を破壊して侵入した肉厚の剣身が、〝闇の種族〟の身体を駆け上がった。頭頂部から刃が抜ける衝撃で首がもぎ取られ、割れた頭が脳漿を振りまきながら飛んでいく。
そして高く掲げられた切っ先は、一瞬の停滞もなく振り下ろされた。
身体を開き、左手一本で斜め後方へ送り込んだ段平は、今まさに飛びかからんとしていたコボルトを空中で捕捉した。
肩口に激突した一撃は骨を砕き肉を潰して体内に侵入し、そこで停止しながらも打撃力でコボルトの身体を地面に叩き伏せる。
フリージアはすぐさま剣を引き抜こうとしたが、まだ絶命していなかったコボルトが両手を段平に絡ませていた。持ち上げる動きが、瞬間止まる。
そこへ別のコボルトたちが、迫ってきた。
フリージアは掴みかかってきた一匹へ、肘打ちを喰らわせる。その威力に長い鼻口部が半分近くまで圧縮され、フリージアの肩口を握り潰そうとしていた指先が緩んだ。
もう一発、肘を撃ち込むと、顔面そのものが陥没する。
仰け反るその身体を押し退けて、別の一匹が襲いかかってきた。
フリージアは曲げていた肘を伸ばし、その突き出た鼻を五指で掴んだ。
握り締めた指先の中で、牙が砕ける音が響く。
コボルトは喚きながらフリージアの腕に爪を突き立てるが、彼女は顔色ひとつ変えなかった。
そして、鼻口部を掴んだまま片手でコボルトの身体を持ち上げ、こちらに駆け寄ろうとしていたコボルトたちめがけて投擲する。
片手で、それも百キロ以上ありそうなコボルトを投げつけるとは、相当な膂力だ。
しかも、放り投げたのではない。
砲弾のように、撃ち込んだのだ。
鼻面を握り潰されたコボルトと、先頭を切って駆け寄ってきたコボルトが、衝突する。
頭部と頭部だ。
彼らの頭蓋骨は、フリージアの腕が生み出したエネルギーに抗することができなかった。
当たった瞬間に骨が粉砕し、お互いの脳が押し潰される。血と脳漿が衝撃波で微細な粒子となり、四方八方に飛散した。
弾かれたように吹き飛ぶ二匹には目もくれず、フリージアは段平を持ち上げる。コボルトが絡みついたままだ。彼女は構わずに、飛びかかってくる一匹を横薙ぎの斬撃で打ち払う。さすがに高速で振り切られる段平にしがみついていることは不可能だったのか、身体が半分ほど千切れかかった状態で投げ出された。
一度地面で跳ねたあと、停車している車の側面に激突する。砂で汚れた鋼の車体に、血糊と腸がべったりと付着した。
するとまた、運転席が開く。
車を降りたテュールは、コボルトがぶつかった車体部分をじっと眺めた。微かに痙攣しているコボルト自体には、一瞥もくれない。
そしてまた運転席のほうへ戻っていくと、なにかを手にしてふたたび現れた。
なにをするかと思えば、車体についた血を拭い始める。
「おい、テュールとやら!」
叫んだのは、フリージアだ。その喉笛を食い千切ろうと迫るコボルトを左手で押し退けながら、一心不乱に汚れを落とそうとしている白い姿を睨みつけた。「少しはこちらを手伝ったらどうだ!?」
テュールの動きが、ぴたりと止まる。
振り返り、にこりともせずに応じた。
「俺は、車の運転と保守点検を命じられている」
その言葉がすべてだ、と主張するかのように背を向け、作業の続きに取りかかる。
フリージアは忌々しげに罵り、ぐったりと座り込んでいるレニーは弱々しい苦笑いを浮かべていた。
「ああ、しまった」そう言って車から飛び出したのは、リゼルだ。「テュールさん、それはヴァイデンに着くまでの任務です」
「そうなのか」
特に驚いたり、不満を表明することもない。彼は車体についた血を拭う手を止め、リゼルに向き直った。
「では、新しい命令はなんだ」
「〝闇の種族〟の撃退です」
リゼルは、周囲のコボルトたちを指し示した。「わたしたちの仕事を邪魔する〝闇の種族〟を殲滅してください」
「了解した」
テュールは血を吸った雑巾を無造作に投げ捨て、コボルトの群れを見据えた。
その拘束衣に似た白いコートの裾から、紐がするりと垂れる。
銀色の奇妙なその紐は、まるで有機物のように表面が微かに波打っていた。その先端は特に鋭利というわけでもなく、太さは人間の指より少し太い程度だ。
それが、動く。テュールの腕が動いたようには見えなかったが、紐状の武器は確かに、攻撃に備える蛇のように身を捩った。
そして、地を這うように疾走する。
速い。
削れた地面が、その軌跡に砂煙を巻き起こす。
撥ね上がったのは、フリージアの足下だ。
彼女は、しがみついてくるコボルトを押し退け、別の一匹に段平を振り下ろしたところだった。
押し退けられたコボルトがふたたびフリージアに飛びかかろうとしたところを、テュールの袖口から伸びた銀色の紐が捕捉する。低い位置から跳ねたそれは、コボルトの股間を貫いた。
そして縦に突き進み、悲鳴を上げようとした喉から飛び出していく。
その先端は、槍の穂先のように鋭く変形していた。
そこからさらに、変化する。
紐状だったそれが、薄く、研ぎ澄まされた刃のように形を変えた。
コボルトの肉体を内側から切断するのに、殆ど抵抗らしいものを感じさせない。
するり、とそれが抜け出たあと、美しい、ともいえる断面を見せて両断されたコボルトが沈む。その身体が地面にぶつかる衝撃で、忘れていたかのように血が迸った。
薄い刃となったそれは、身震いして血と脂を払い落とす。
凝然と奇妙な武器を見つめるフリージアを尻目に、それは加速して弧を描いた。
フリージアを中心とした、円だ。それは十重二十重に、彼女を囲む。凄まじい速度で回転したその軌跡には、二十匹ほどのコボルトがいた。
そのすべての頸部が、切断される。
同じ種族とはいえ個々に体格は違うし、体勢も違う。さらには動いているそれらの首を高速で、しかも正確に切断していくとは驚嘆に値する技量だ。
普通の刃物に比べて何倍も薄いその武器に斬られたコボルトたちは、一様にきょとんとした顔で目を瞬かせる。自分の頸部がすでに断ち切られていることに、気がついていない。
気づかずに動いた瞬間、切断面がずれ、頭部は重力に引かれて落下した。
それらが地面に到達したときにはすでに、何重にも円を描いていた薄い刃は螺旋状になって駆け上っている。そして螺旋から一本の紐状へ形を取り戻したそれは、今度は数十本の糸状に分裂した。
それが降りそそいだのは、カレンの頭上だ。
細い銀色の雨は、それぞれが正確にコボルトたちの頭頂部に突き刺さった。先ほどは薄すぎてだが、今度は細すぎて、その接触にコボルトたちが気づかない。
カレンは無論、細い銀糸に気づいて眉根を寄せながらも、コボルトの鋭い爪を紙一重で躱し、そのふところに潜り込んだ。
両手に握ったダガーで、立て続けに胴体を抉る。叩きつけるような刺突に、コボルトは大きくよろめいた。
その顔が、震える。
眼球がせわしなくあらぬ方向へと視線を送り、大きく開いた口からはだらりと舌が垂れた。耳朶と鼻孔からは、体液がこぼれ始める。
「――なに?」
カレンは、素早く周囲を一瞥する。
彼女を包囲しているゴブリンたちが、いずれも同じように棒立ちになり、頭部を震わせていた。
あの銀色の糸がやつらの頭蓋の内部に侵入し、脳を直接、掻き回しているのだ。
脳を細切れにされたコボルトたちは、次々に崩れ落ちる。
瞬く間に、カレンとフリージアの周囲からコボルトがいなくなった。
「ほうほう、凄まじいな」
いつの間にか車外に出ていたヘパスが、感心したように呟いた。「まさか〝グレイプニル〟が実用化されるとはな。さすがはドクター・イクスだ」
「まだ危ないですよ、ドクター」
リゼルが止めるのも聞かず、ヘパスはテュールに近づいていく。すでにあの紐状の武器──グレイプニルは、彼の袖口に消えていた。ヘパスは彼の前にしゃがみ込み、袖をのぞき込もうとする。
「もう少し見せてもらえんかね」
「企業秘密だ」
テュールは、にべもなく拒絶する。ヘパスは食い下がるかと思いきや、「ふむ、それなら仕方ないか」とあっさり引き下がった。
今度は鞄を手に、累々(るいるい)たるコボルトたちの屍へ近づいていく。
なにをするのかと見ていると、鞄から次々に手術、あるいは拷問に使われそうな剣呑な器具を取り出し始めた。
「ドクター?」フリージアが怪訝そうに声をかけると、ヘパスは鋭いメスを握った手を、彼女を押し止めるように掲げて見せた。
「フィールドワークは久しぶりなのだ。暫く放っておいてくれんか」
一方的にそう言い放つと、見事な手つきでコボルトの胸部にメスを入れ始める。肉と筋肉をより分け、肋骨を切除し、あっという間に心臓へ到達した。すでに動いていないその心臓を取り出し、ヘパスはうっとりとした顔で眺める。
「やはり死にたては美しい」
「なんなの、この人」
カレンが、フリージアに耳打ちする。フリージアは苦笑いを浮かべ、首を小さく横に振った。「科学的探究心が極めて強い人でな。ああなると止められん」
「止められないなら、置いていくだけだ」
テュールは淡々と言って、運転席へ戻っていく。車体に付着したコボルトの血と内臓には、もう目もくれない。命令が変わったからだろうが、なんとも非人間的なことだ。
その背中を見ていたカレンが、車のドア近くでぽつねんと立っているリゼルに歩み寄る。「人型を見ると、見境がなくなるんじゃなかったっけ?」
「そうですよ」
リゼルは、首肯する。
カレンは首を傾げた。
「冷静だった……と思うんだけど」
確かにテュールは、命令を厳守して戦闘に参加しなかった。人型を見ると我を失う、という話はどうなったのか。
「それはさあ、カレン」ごろん、と地べたに横たわっているレニーが、そこら中に転がっているコボルトの身体を指さした。「あれが人間ぽくないからだと思うよ」
コボルトは分類的には人型、にカテゴライズされるが、人間に似ているかと問われれば微妙なところだ。頭部が犬に似ている猿、といったほうが正しいかもしれない。
カレンはしばし考えたあと、半笑いのような表情を浮かべた。
「え、そんな曖昧な基準なの?」
「というかですね」
リゼルは、閉じられた運転席を見つめながら、言った。
「どうも、トラウマを刺激されるポイント、というのがあるそうなんですが」困ったように、彼は眉尻を下げた。「本人が頑なに話そうとしないので、人型である、という大枠以外は皆目見当がつきません」
「――重ね重ね」カレンは、目を細めた。その奥で、瞳が剣呑に輝く。「実地運用しようと考えたやつを始末したくなるわ」
「だよねえ」
だらしなく寝そべっていたレニーが、のっそりと起き上がる。「まあ体毛ふさふさのに反応しないんなら、あんたたちの大将は大丈夫そーだね」彼女はそう言って、フリージアにへらへらと笑いかける。
「なにが大丈夫なんだ?」
そう訊き返すフリージアの声には、抑えてはいたがわずかに険が含まれている。敏感にそれを感じ取ったカレンが、ふたりの間に半身だけ身体を寄せた。
「なにがって」レニーは鈍いのか、あるいはわざとやってるのか、転がっているときについた砂をはたき落としながら言った。「テュールくんにいきなり襲いかかられなさそうで良かったね、って話でしょ」
「彼に与えられた命令は、〝闇の種族〟の殲滅だろう」
フリージアが、内心の苛立ちを押し込めながら、努めて平静に言った。「そもそもカルテイル様が狙われる道理がない」
「ん?」
レニーは疑問符を頭の上に浮かべ、首を傾げた。「だから、狙われるんだけど狙われないよっ、て話だよ」
「それは」フリージアの指先が、段平の柄に伸びる。「カルテイル様が〝闇の種族〟だと言いたいのか?」
「えっ!」
レニーは、驚いたように目を丸くした。
「違うの?」
この反応に、フリージアは剣の柄を握った。鞘から僅かに、剣身が覗く。
「ふたりとも、そこまでよ」
カレンが、ふたりの間に完全に割って入る。「じゃんけんなら、ここでしなくてもいいでしょう」
「じゃんけん?」
訝しげにフリージアが眉根を寄せると、カレンは己の失言に気づいて少し頬を赤らめた。
「お互い、目的も信条も違うことは了承した上で共同戦線を張っているはずよ。そのためには多少の不愉快は堪えるべきじゃないかしら」やや早口で、まくし立てた。そして振り返り、レニーにも釘を刺す。「余計な口を叩かないことも大事よ」
「はーい」
あまり反省した様子のないレニーの返事だが、フリージアに対して素直に頭を下げた。
「ごめんなさい」
「いや」
フリージアは言葉短かに応じ、剣の柄から手を離す。「こちらも熱くなりすぎた。申し訳ない」そう言って、小さく頭を下げた。
「なんだ、喧嘩か」
そこへ、リロイが近づいていく。
彼女たちは、テュールも含めて戦闘が終わったかのように振る舞っていたが、リロイだけは今の今まで戦っていた。車周辺のコボルトはテュールが一掃したが、彼が意図したかどうかはともかく、リロイに群がる敵には手をつけなかったからだ。
「ほどほどにしとけよ。どうせあとから本気で殴り合うんだから」
その状況を作った本人が、良くもいけしゃあしゃあと言えるものだ。
案の定、カレンとフリージアからきつい目つきで睨みつけられるが、リロイの興味はもう、ヘパスのほうに向いていて気づかない。
ヘパスはコボルトを腑分けし、その臓器のいくつかをガラス瓶に詰め始めていた。リロイはその傍らに、しゃがみ込む。
「それもなにかの材料にするのか」
「できるかどうか、これから調べるのだよ」
ヘパスはきらきらした眼差しで、瓶詰めにしたコボルトの内臓を見つめている。「いままでにない毒を生み出せれば、これに勝る幸せはないのだが」
「薬じゃないのかよ」
さすがにリロイが突っ込むと、我が意を得たとばかりにヘパスは笑う。
「毒と薬は本来、同じものだ。わしは科学者なので毒と言う。医者は薬と言えばいい」
「そうか。わからん」
リロイは、わからないことがわかったので、満足した様子だ。
「そんなことより」カレンが、ふたりを――というよりヘパスを後ろから見下ろした。「スウェインの治療はあれだけで大丈夫なの?」
「なにがあった」
リロイの表情に、戦闘中にさえ殆ど見られなかった緊張が走る。
カレンが説明したところによると、リロイが屋根から吹き飛ばされたあの瞬間、車内にいた彼女たちも派手に投げ出されたらしい。
そのとき、壁に激突しそうになったリリーを庇って、スウェインが怪我をしたというのだ。
「なに、軽い脳震盪と打撲だ。横になっておれば直に良くなる」ヘパスはそう言いながら、並べていた器具のひとつを手に取った。科学者が使うものというよりは、大工が使いそうな糸鋸だ。「まあお望みなら、開頭して診てやっても構わんがね」
「あなたの頭の中身のほうが、よっぽどぐすぐずね」
カレンはそう言い置いて、踵を返す。ヘパスは肩を竦め、いそいそと採集したものを鞄に詰め込み始めた。「最近の若い娘は、老人に手厳しいな」そう言いながらも、なぜかにやにやと笑っている。
確かに、頭の中身がまともではないようだ。
「本当に大丈夫なのか」リロイが確認すると、老科学者は片付けの手を止めないまま首を横に振った。「もしも脳内に異常があったとしても、いまの技術ではどうにもならん。できるとすれば、ヴァルハラの研究室ぐらいじゃろうて」
彼はすべてを鞄の中に収めると、ゆっくりと立ち上がった。
「まあ、あの坊主のはたんこぶができてしまいじゃろう。安心せい」
そう言って、リロイの腰の後ろを枯れた手で叩く。「しかし、咄嗟に女の子を庇うなんざ、なかなか見所があるじゃないか」
「だろ?」
リロイは、嬉しそうに笑う。
だが、その顔がすぐに強ばった。
車が、リロイとヘパスを置いて動き始めたからだ。
リロイはすぐさま車を追うべく駆け出したが、三歩目で急停止して踵を返した。呆然と突っ立っているヘパスに背中を向け、しゃがみ込む。「ほら、乗れ。ぐずぐずするな」
これにヘパスは仰天し、目を見開いた。
「走って車を追うつもりか? わしを背負って?」
「飛べないから、走るしかないだろ」
至極当然なリロイの返答に、ヘパスは「道理だな」と笑った。そして、独り言のようにつけ加える。「無理を通せば道理が引っ込むと言うが、さて、引っ込んだのは誰の道理か」
「なんだ?」
リロイが訊き返しても、ヘパスは「なに、戯れ言だ」と嘯くばかりで答えようとはしなかった。




