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第二章 3

「私の監督不行届だわ。ごめんなさい」


 カレンは、私に深々と頭を下げた。

 リリーが入院している病院から、彼女が姿を消したと連絡があったのは、日付が変わろうかという頃だった。


 リリーは今日の昼頃には意識を取り戻し、少しだが食事もとっていたらしい。意識障害もなく、受け答えもしっかりしていて、現状はしっかりと認識できている様子だったという。

 夜の見回りに部屋を訪れた看護師が、彼女が部屋にいないことに気がついた。

 部屋に荒らされた様子もなく、病衣は綺麗に畳まれていたらしい。


「君が謝る必要はない」

 申し訳なさそうなカレンに、私は言った。「彼女がこの街で攫われる、というのも考えにくいから、自分で出て行ったのだろう」

「でも、どこへ?」


 カレンが首を傾げる。

 そう。拠点にしていた地下街は崩落し、地底湖の中に呑み込まれた。〝深紅の絶望〟が組織的に壊滅状態にある以上、彼女には行くところがないはずだ。


 拠点とは別に、市街に部屋を保有していた?


 だとすると、捜し出すのは困難だろうし、そもそも捜す必要はあるだろうか。自分の家に帰った人間をどうこうする権利は私たちにはない。


「一応、警察に届けを出しておこうかしら」


 カレンは心配そうだが、私はといえばそうでもなかった。

 罠に嵌め、毒で倒れたリロイを足蹴にした姿を見ているからかも知れないが、あの歳でそこそこ組織の中心にいた彼女のことだ、私たちがそこまで気を揉む必要性をあまり感じない。

 そんなことをいえば、薄情者扱いされるだろうが。


「その必要はないだろ」


 私と同意見は、寝室の戸口からだ。

 眠り続けていたリロイが、そこに立っていた。


「ここの警官なんて、役立たずだ。捜すんなら俺が行くよ」


 そう言って、大きなあくびをする。

 寝癖のついた髪に、まだ完全に脳が覚醒していない寝ぼけ(まなこ)だ。

 数日前、人ならざるものに変わり果てて暴れ狂った面影はそこにない。


「もう起きて大丈夫なの?」


 カレンには、カルテイルとの戦いで力尽きた、としか伝えていない。素っ裸だが傷ひとつないその身体に疑問もあっただろうが、カレンは特に追及はしてこなかった。 


「ああ」リロイは頷いたあと、自分の左腕を持ち上げ、手を閉じたり開いたりする。「お、生えた」その呟きを聞きとがめたカレンは、リロイではなく私に言った。

「大丈夫じゃないんじゃないの?」

「あの程度の錯乱はいつものことだ」


 カレンは、リロイがアグナルに左腕を斬り飛ばされたことを知らない。そのまま知らないほうが、面倒がなくていいだろう。

 リロイは、キッチンのほうへふらふらと歩いていく。


「サンドイッチなら、そこの棚にあるわよ」リロイが空腹だと察したのか、カレンがキッチンの戸棚を指さした。「飲み物はそこのポットに水が入ってるから」

「助かる」


 リロイはポットからグラスに水をそそぎ入れると、それを一気に飲み干した。二杯目もすぐさま飲み干し、それからようやくパンを棚から取り出して掴み取る。「よし、行くか」


「その姿で?」


 カレンに指摘されてようやく、リロイは自分がいつもの格好でないことに気づいた。

 なんの変哲もないパジャマだ。 


「ああ、そういえば」自分が獣化した場合、着ていたものが使い物にならなくなることを思い出したらしい。

 そして気づかなくていいところにも、気がついた。


「誰がこれを着せたんだ」

「あなたの相棒よ」


 カレンが、私を横目にする。

 そのときのリロイは、なんというか、喜怒哀楽が絶妙に混じり合った見たことのない表情をしていた。

 思わずカレンが、吹き出す。「なによ、その顔」


「なんでもない」リロイはそう言って、部屋の中をぐるりと見回した。「来客でもあったのか」


 カレンは、リロイと同じように部屋を見渡す。昼間にはリゼルとレニーが訪れ、夜になってからはレナが、シェスタの保護に対する礼を言いに来ていた。

 特にそれを知らせる痕跡は、ない。


「シェスタのお姉さんが見つかったのよ」カレンはリロイとレナの確執を知らず、また彼女が〝冷血〟と呼ばれる凄腕の暗殺者であることも、もちろん知らない。ただ、その立ち振る舞いから凡庸な一般人ではない、とは思ったことだろう。

「そうか、それはよかったな」


 リロイは素直に喜んでいる。結局、レナとシェスタはリロイに一言も感謝の言葉を述べていない。寝ていたから仕方ないと言えばそうなのだが、それでもリロイは一向に構わないようだ。


「ねえ、どうして来客がわかったの?」そこが気になるのか、カレンはもう一度、部屋の中に視線を巡らせる。「もしかして起きてた?」

「いや」リロイはソファ付近――レナが座っていたあたり――を曖昧に指で指した。「なんというか、体温みたいなのが残ってるだろ。ぼんやり見えないか?」


 おまえの目はサーモグラフィーか。


「──見えるわけないでしょ」


 カレンも胡乱な目つきでリロイを見据えたが、その口調にはわずかな躊躇もあった。

 この男なら、もしや──と思ったとしてもまあ、仕方ない。


「スウェインは落ち込んでなかったか?」彼は今、リロイも寝ていた寝室の、追加された布団で寝息を立てている。

「ちょっとね」


 カレンは、優しく微苦笑する。


 別れ際も、彼は立派だった。未練がましい顔はせず、さりとてまったく平気な顔もしない。あれならば必要以上にシェスタを悲しませず、その上で名残惜しさもあるのだと主張できる。計算したわけではなかろうし、計算したのだとしたら末恐ろしいが、あれがスウェインの素なのだろう。

 この時代だと、主な通信手段は手紙になる。大国の一部ではすでに有線による電信が実験段階に入っているが、一般人がそれを手にするのはまだ少々先の話だ。


 シェスタはカレンから、ヴァルハラが経営する施設について根掘り葉掘り聞いていたので、再会はそれほど遠くないかも知れない。


 リロイはそれだけ確認すると、いつもの服に着替えた。

 いつもの、と言っても、すべて私が新しく買い揃えたものだ。

 違う色を買うという衝動をねじ伏せるのに大変苦労したことは、私の胸の裡に収めておこう。


「捜すって、心当たりでもあるの?」部屋を出て行こうとするリロイの背に、カレンの声が当たる。

「一応な」リロイはそう言って、ドアを閉じた。


 そしてホテルを出ると、迷う気配もなく歩き始める。少なくともその動きに、不調を示すものはない。


「で、あれからどうなった?」


 訊かれた私は、リロイが獣化してから今までのことをかいつまんで説明する。

 リロイがカルテイルを打ちのめしたこと、アシュガンという〝闇の種族〟の出現、ヴァルハラはカルテイルが生存していて、アシュガンに拉致されたと見ていること、そしてその追跡に移ろうとしていること等々を、レディ・メーヴの存在だけを隠して語った。


 リロイはまだ、レディ・メーヴェたちが〝闇の種族〟だとは知らない。

 別段、彼女たちの立場を守ろうという気はさらさらないが、リロイが自分自身の目と耳で確認すべきことだ、という気がしたからだ。

 スウェインとシェスタの顛末も、伝える。一瞬、黙っておいてもいいのではないか、とも思ったのだが、私は正直に言った。


「シェスタの姉は、あのレナだったぞ」


 すると、リロイの足が止まった。

 声はない。

 おそらく、頭の中でいろいろな感情と言葉がない交ぜになっているのだろう。

 やがてふたたび歩き出したリロイは、ただ一言「なるほどな」と呟いた。シェスタがどうしてあのような態度を取っていたのか、合点がいったに違いない。


「答えたくないなら別にいいのだが」私はそう、前置きした。「なにがあった?」


 リロイは、すぐには答えなかった。

 部屋から持ってきていたサンドイッチを囓り、暫く歩く。

 やがて返ってきたのは、短い言葉だった。


「信じなかった」


 それだけではふたりの間になにがあったのかはわからないが、その口調だけでわかることもある。

 この男が珍しく、後悔している、ということが。


 だから私は、「そうか」と応じるに(とど)めた。


 そして話を変えるついでに、レナの相棒であるフェンリルが天狼族であることも、天狼族がなにか、というところも含めて教えておく。


「あいつ、喋れるのか」

「人間の姿のときは、声帯で声を発することができるな」狼のときは人間と声帯の形が違うので、私たちと同じ言語を操ることはできない。

 その代わり、精神感応によって直接、脳に言語データを送り込むことが可能だ。故に天狼族同士が吠えたり唸ったりで意思疎通を図ることはなく、単なる感情の発露としてしか機能していない。


「なんだよ」リロイは、ぼやく。「なのに黙ってたってことか」

「おまえと話す利点などなにひとつないからな」


 私は、鼻で笑う。

 さすがは理知的な天狼族、といったところか。

 リロイは言い返さず、小さく笑ってサンドイッチを頬張った。

 それを食べ尽くすと、通りに点在する店でテイクアウトを次々に注文し、歩きながらあっという間に胃袋へ収めていく。リロイが一日に食べる量を普通の人間が摂取したら、間違いなく超肥満体になるだろう。

 水分は、酒だ。

 リロイの身体には極めて毒が効きにくいが、これは酒に関しても同じである。肝機能が優れているので、アルコールの殆どを分解してしまうため、酔っているところを見たことがない。


酔いとは無縁のその足は、あの崩落した一帯へと向かっていた。


 崩落したあの日から、その周辺は変わらず人の姿が絶えない。それを見越して、深夜まで店も開いている。

 大半は、野次馬だ。

 大きく崩落した穴からは、地底湖を覗くことができる。一応、現場付近は立ち入り禁止になっており、警官の姿も見受けられるが、穴の縁から下を見ようとする人々を制止するような動きはない。


 リロイは、穴の縁をゆっくりと歩く。


 時折、穴の奥から人が現れる。大部分が崩落した地下街だが、まだ一部は残っており、そこに侵入して金目のものを持ち去ろうとしているのだ。

 当然、残った部分がいつ崩落するかわからず、そうなれば命はないのだが――実際に、断続的な崩落は起きている――それよりもお宝、ということなのだろう。

 火事場泥棒たちはリロイと出くわすと一瞬、ぎょっとしたように立ち止まるが、こちらがなにも反応しなければ足早に立ち去っていく。リロイもわざわざ、彼らには構わない。


 風が出始めていた。

 この季節の風は、冷たく乾いている。


 その少女は、穴の縁で風に打たれていた。


 左腕は固定され、三角巾で吊されている。右足のパンツの裾が膨らんでいるのは、ギプスのせいだ。彼女は松葉杖をつき、悄然と穴の底を見下ろしている。

 リロイは、少し歩調を緩めた。

 少女──リリーは、こちらに気づく。私は、彼女がいきなり襲いかかってくることも予測していたが、実際はリロイを一瞥すると、また穴の底へ視線を戻してしまった。


 その瞳に、怒りや憎しみはない。

 あるのは、虚無だけだ。

 リロイは、彼女の隣に並ぶ。


「飛び降りてなくてよかったよ」そして、ひやりとするようなことを平然と口にした。リリーがそうしていないのは、ただ単に愕然としていただけで、リロイの言葉がきっかけで行動に移るかも知れない。

「するわけないでしょ」リリーは、ぶっきらぼうに言った。「どうせなら、あなたを突き落とすわよ」憎まれ口を叩くが、やはり口調に勢いがない。


「寒いだろ」リロイはレザージャケットを脱ぐと、リリーの肩に掛ける。彼女は反射的に「いらな──」拒否しようとしたが、肩に掛かる重さによろめいた。

 リロイが慌てて、その身体を支える。


「なによ、これ」


 リリーは、訝しげに眉根を寄せた。そしてすぐに、自分の背に回されたリロイの手を振り払う。そうすると当然、ジャケットの重みに耐えられずに尻餅をついた。傷に響いたのか、顔を顰めて小さく悲鳴を上げる。

 特殊繊維を使用した耐刃防弾仕様のジャケットにはさらに、熱や衝撃を和らげる生地が用いられている。見た目は普通のものと変わらないが、重量が嵩む。子供の筋力で支えきれないのは当たり前だ。


「悪い、忘れてた」リロイは、リリーが脱ぎ捨てたジャケットを拾い上げる。「じゃあ、行こうか」

「は?」


 リリーはリロイの言動についていけず、呆けたように見上げる。リロイは転がっている松葉杖を掴むと身を屈め、差し出した。「ここは身体が冷える。どこかで温かいものを飲んでもいいし、帰る家があるならそこに送る」


「は──」


 今度は、乾いた笑いの欠片が、彼女の唇からこぼれ落ちた。


「帰る場所なら、水の底よ」リリーは、暗い瞳でリロイを睨めつけた。「送ってくれるの?」

「いいぞ」リロイはためらいなく、頷いた。リリーの揚げ足を取るような言葉に、当て擦りで返したわけではない。彼女がそう望むなら、リロイは本気でそうするだろう。


「──いい加減にしてよ」


 座り込んだまま、リリーは顔を背けた。

 声に力はない。

 さすがにカルテイルが行方不明で拠点が壊滅となると、強気だった彼女の心も折れてしまったか。


「ここでずっと、穴を眺めて暮らすのか」


 相変わらずリロイのものの言い様は、容赦がない。

 傷ついて倒れた人間には、起き上がるまでの時間がどうしようもなく必要なのだ。

 なんであれ、すぐさま立ち上がるおまえのような人間のほうが希少なのだ、ということをそろそろ理解して欲しい。


「放っておいてよ」だからこそ、リリーのこの言葉は彼女の偽らざる本心だとわかる。

「風邪ひくぞ」それを放っておかないのが、この男だ。人の気持ちをまるで考えない傍若無人さが、人助けにまで及んでいる。絡まれた──彼女の場合は絡んできたのだが──ほうは、たまったものではない。

「腹、減ってないか?」

「…………」


 リリーはどうやら、無視を決め込むことにしたらしい。

 リロイは困った顔で、寝癖が直っていない髪を掻いた。

 そしてどうするかと思えば、彼女の横に座り込む。


「ちょっと──」リリーは思わず、声を上げる。だが、「カルテイルって、君にとってはなんだった」リロイの唐突ともいえる問いかけに、続く言葉を失った。


 沈黙が、風に流される。


 返答はないもの、と私は思っていた。彼女がリロイに、心の裡を明かすようには思えなかったからだ。

「恩人よ」だから彼女が、独り言のように呟いたのには、驚いた。「あたしがあたしでいられるのは、あの人のおかげ」


 リリーは淡々と、語る。


 彼女は生まれてすぐ両親に売られ、とある組織で成長した。その組織は、子供たちにありとあらゆる暗殺術を叩き込んだ。脱落したものは容赦なく打ち捨てられる、そんなところだったらしい。

 体内で生成した薬物が汗腺から汗と一緒に空気中に散布されるリリーの体質は、そこで造り上げられた。同じ境遇の子供たちが、その過程で何人も何十人も、死んでいく。


 彼女はそこでは、完全に道具だった。


 しかしある日、組織は前触れもなく壊滅する。カルテイルが単身乗り込み、組織の幹部たちを皆殺しにしたのだ。彼女は唐突に解放され、そして自由になった。


「生まれたときから道具で、いきなり人間扱いされても、ね」自嘲的な笑みが、リリーのまだ幼い頬を歪めさせた。


 カルテイルは、組織の下部構成員たちに選択を突きつける。このままカルテイルの部下として残るか、立ち去るか──リリーは、選べなかった。選択したことなどなかったのだから、当然といえば当然だ。


「あの人は言ったわ」リリーの呟きが、微笑した。「ともに自分を探そう、と」


 そうか、とリロイは頷いた。


「あなたが、あたしからあの人を奪った」


 リリーは、崩落あとを見据えたまま掠れた声で言葉を吐き捨てた。

 リロイは、もう一度、頷く。


「そうだな」

「なのにあなたは、あたしを助けようとする」彼女の眉間に皺が寄り、口の端が震えた。「頭おかしいんじゃないの」

「良く言われるよ」


 リロイは、笑う。その反応に、リリーは小さく舌打ちして俯いてしまった。


「そういえば、この前話したヴァルハラって会社な」しかしリロイはお構いなしに、話を続ける。「カルテイルが生きてると思ってる」


 リリーが、顔を上げた。

 その疲れ切った顔に、希望の兆しが浮かぶ。「ほ──」最初の一言を発してすぐに口をつ(つぐ)み、自身を落ち着かせるかのように小さく息を吐いた。

 そして祈るように、問いかける。


「本当に?」

「ヴァルハラはそう考えているらしいな」自分の目で見ていないので、リロイは断言しない。


 というよりも、この話をリリーにするとは思わなかったので、私は少々困惑していた。

 リロイが望む彼女の未来には、カルテイルが死に、〝深紅の絶望〟が壊滅していたほうが良いのではないだろうか。


「いま、どこに?」これまでとは打って変わって縋るようなリリーの眼差しに、リロイは決して、身勝手などと批難したりはしない。

「〝闇の種族〟に拉致されたらしい」変わらぬ口調で、続けた。「ヴァルハラの連中は、拉致したやつとされたやつ、両方を捕獲するつもりで動いてる」

「捕獲してどうするの」リリーの声には、予感があった。

 リロイは、彼女の目を見た。「わかるだろ」


 リリーは唇の端をきゅっと結び、双眸に憤激の炎を揺らめかせた。


「こんなところで風邪を引いてる場合じゃないな」


 リロイは、立ち上がる。その勢いに呑まれたのか、リリーもまた、松葉杖を使って立ち上がった。


「あんたも、そう思うだろ」


 リロイはそう言ったが、それはリリーにではない。振り返り、瓦礫の陰に隠れていた人物へ、だ。


「おまえの話がすべて真実ならな」


 胡乱げな言葉をハスキーな声に載せたのは、長身の女だ。長い黒髪を無造作に後ろで束ね、逞しい肉体を飾り気のない服の中に押し込めている。

 腰に差した段平に軽く手で触れながら、女──フリージアは、ゆっくりと近づいてきた。「カルテイル様が生きている証拠はあるのか?」〝紅の淑女〟以来だが、どうやら彼女は地下街の崩落に巻き込まれなかったようだ。


「証拠? ないな」リロイは、肩を竦めた。「別に、どうしても信じて欲しいわけじゃない」

「…………」


 フリージアは、押し黙った。

 だが、その指先が段平の柄からゆっくりと離れていく。


「攫ったのは、あのカルテイル様に似たやつか」

「なんだ、見てたのかよ」


 リロイは、それなら話が早い、と思ったようだが、フリージアは違う。彼女は、畏怖に近いものをリロイと同じ黒い目に浮かべていた。


「あれは――」彼女はそこで一旦、言葉に詰まった。アシュガンの姿を見た、ということは、獣化したリロイをも見た、ということに他ならない。

 彼女は、あれはなんだ、と訊こうとしたに違いないが、言い方を変える。


「おまえは、なんなんだ」


 これに首を傾げたのは、リリーだ。彼女はすぐ側にいたが、気を失っていて、アシュガンも獣化したリロイも見ていない。であれば、なぜ今更そんなことを訊くのか、と訝しがるのも当然だ。


自由契約(フリーランス)の傭兵リロイ・シュヴァルツァーだ」リロイは律儀に、応答する。「他になにか訊きたいことは?」


 堂々たる態度のリロイを前に、フリージアはためらった。


「ちょっと待って」そこにリリーが、口を差し挟んでくる。「フリージア、あなた見てたの?」事情が詳しくわからないなりに、状況が呑み込めてきたようだ。「カルテイル様が攫われるのを、黙ってただ見ていたの?」


 リリーは松葉杖を使って、フリージアに近づいていく。


「どうして、助けなかったの!?」

「すまない」

 フリージアは、頭を下げた。「あの人の姿を、見失ってしまった」

「この役立たず……!」リリーは、感情的に吐き捨てる。私が耳にした限りでは、元々リリーはフリージアに敵愾心のようなものを抱いていた。燻っていたその感情に、火がついてしまったのだろう。

「すまない」フリージアは、下げた頭を上げずにもう一度、謝罪する。リリーは彼女の前に辿り着くと、「謝ったって!」怒鳴りつけ、松葉杖を振り上げた。


 そして、停止する。


 リリーはそれで、フリージアを打ち据えようとしたのだろう。

 だが、その意図に気づいてもなお微動だにしない彼女の姿に、振り下ろせなくなったのだ。

 やがて、バランスを崩したリリーが倒れ込む。

 フリージアが咄嗟に、それを抱き留めた。


「わかってる」


 リリーが、フリージアの耳元で囁くように言った。「役立たずなのは、あたし」


「まだ、やり直せる」


 フリージアはリリーの背を優しく叩きながら、リロイを見た。「おまえに、依頼がある」

 この言葉に、リリーが弾かれたように顔を上げる。「フリージア!」この状況であれば、彼女がリロイになにを依頼するか、わからないわけがない。


「わたしは見たんだ、リリー」


 フリージアの表情は、硬い。獣化したリロイとアシュガンの戦闘を目の当たりにすれば、誰もが同じように考えるだろう。

 いったい何者ならば、あそこに割って入れるのか。


「わたしやおまえが百人いても、カルテイル様を攫ったあの怪物には到底、敵わない」フリージアは、リリーが反発するのを承知の上で、感情を抜きにした冷徹ともいえる口調で言った。「どうしても、この男の能力が必要だ」

「カルテイルの救出を、依頼するのか」


 リロイが先んじて言うと、フリージアは黙って頷いた。


「報酬は、払えるのか」俺は高いぞ、と告げるリロイに、フリージアはもう一度、頷いた。

「組織の金がある」

「それを全部、差し出せるか」


 いくらあるのかとは、訊かなかった。〝深紅の絶望〟が蓄えた資金となると、相当な額だと予測はできる。

 案の定、リリーが口をあんぐりと開けて驚きをわかりやすく表した。


「そんな法外な──」思わず口走るリリーだったが、リロイはそれを聞いて苦笑した。

「いやいや、おまえたちは法の外にいただろ。いまさらなに言ってるんだよ」

 皮肉でもなんでもなく、リロイはただ単に面白くて笑っていたが、リリーの頬が赤くなる。フリージアも少しだけ笑みを浮かべたが、すぐに表情を引き締めた。

「それでいい」


 彼女の返答は、最初からそのつもりだったかのように淀みない。リリーはぎょっとしたように彼女を見たが、否定の言葉は出てこなかった。

 わかっているのだろう。

 カルテイルを取り戻さない限り、いくら金があっても意味がないことが。


「金だけじゃ、まだ足りないな」


 だがリロイは、容赦なく、追い詰められている彼女たちにさらなる追撃を与えた。


「これ以上、なにが欲しいって言うのよ」リリーが、非難の声を上げる。リロイがそれに対してにやりと笑うと、彼女はなにかを察したかのように頬を歪めた。


「卑劣」

「いや」


 フリージアが、呻くように言った。「差し出せるものはすべて差し出す。あの人を助けるためだ」

「あたしは──」嫌だ、と言おうとしたのだろうが、その先が続かなかったのは、やはりカルテイルの救出、が脳裏を過ぎったのだろう。


 下唇を噛み締め、押し黙った。


「いや、そうじゃなくてな」


 リロイは、あらぬ方向へ曲解されていることに困惑しつつ、言った。「――俺は、そんなに下衆野郎に見えるのか?」それは独り言のような呟きだったが、リリーは小さく頷き、フリージアは目を逸らす。

 普段の言動があまりに人でなしすぎるので、こういう誤解は仕方あるまい。


「そんなもの、差し出さなくていい」


 リロイは溜息をつきながら、首を横に振った。

 あからさまに、ふたりが安堵の表情を浮かべる。


「俺が欲しいのは、確約だ」そんなふたりを睨みつけるようにして、リロイは言った。「カルテイルを救出したら、〝深紅の絶望〟を解体して二度と立ち上げないことを誓え」


 リリーとフリージアは、これを聞いて絶句した。

 否定の言葉すら、すぐには飛び出さない。

十分、考えられる条件だと思うのだが、彼女たちはそこに思い至らなかったようだ。

 先の誤解もそうだが、リロイが悪辣すぎるせいで、どこかで同じ穴の(むじな)だと思っていた節もある。


「それは――」漸う言葉を発したのは、フリージアだ。「わたしたちの一存で決められる話ではない」

「おまえたちの、意思を訊いてるんだ」リロイは、譲らない。「はっきりと答えろ。それで依頼を受けるかどうか決める」


 リリーとフリージアは、目を見合わせた。ごまかしが利く相手だとは、ふたりとも思っていないだろう。その顔には、苦渋の色が広がっていた。


「あたしは――」先に口を開いたのは、リリーだった。「あたしは、それでも構わない」


 フリージアは、その決断を下した少女の横顔を一瞥し、小さく頷いた。


「わたしも、それでいい」口に出してそう言ってしまうと楽になるのか、フリージアは表情を和らげた。「あの人が助かるなら、それでいい」

「だけど」

 リリーが、挑むような眼差しでリロイを見上げた。「もしもカルテイル様が、その条件を承服されなかった場合はどうなるの?」

「契約の不履行か」


 なぜだかリロイは、楽しそうに双眸を煌めかせた。「そいつは、面子に関わる問題だからな」そんなものを気にしたこともないくせに、いけしゃあしゃあと言い放つ。「命のやりとりになる」

 その答えを半ば予想していたのか、リリーに驚いた様子はない。

 フリージアもまた、抗議の声を上げようとはしなかった。


「契約成立だな」


 リロイは、それが履行されないことをむしろ望むかのように、口の端を吊り上げた。





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[一言] ハリウッドで実写化したらいい作品になるな。NetFlixあたりでやらんかな。著作権の問題なんざ弁護士はさんでなんとでもなる。
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