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第二章 2

 実際問題、なにをやっているのか、という虚しさから目を背けることは難しい。


 私は路地に身を隠しながら、天を仰いだ。


 シェスタとスウェインのデートは、順調である。スウェインはそういう経験がなかったのか、うまくエスコートできているわけではなかったが、シェスタはそれに不満を感じる様子もなく、マイペースにぐいぐいと引っ張っていくので問題はなさそうだ。


 ヴァイデンのメインストリートは、今日も人で賑わっている。心なしか警官の数が多い気はするが、街の一部分が崩落しても多勢の生活は変わらない、ということか。

ふたりは無数に立ち並ぶ路面店をウインドウショッピングし、今ようやく、カフェに入っていった。おそらくそこの注文も、シェスタが決めてしまうに違いない。


 支払いぐらいは、できるだろうか。


 ふたりが出かける際、カレンがスウェインにお金を渡していたのを私は知っている。細やかな心遣いはさすがだ。

 私は、路地を出た。今日は、いつものローブ姿ではない。カレンの忠告に従い、ごく普通の、ありふれた服を着ている。ジャケットとスラックスを身につけ、長い髪はひとつに括って帽子を被った。色も地味なものを選んだので、群衆に上手く溶け込んでいるはずだ。


 ふたりが選んだ店の前を素通りし、私は、通りを挟んだ斜め前の店に入る。そこの窓際の席なら、テラスのふたりを見守ることができそうだ。

 紅茶を注文し、席に座る。


「振り向かないで」


 直後に背後から、氷のような声に刺し貫かれた。

 私は、この声を知っている。

 囁くような低く小さい声なのに、店の中の喧噪(けんそう)にかき消されずに私に届く。感情は凍りついたように感じられず、それでいて聴覚が熱を持つほどに美しい。

 振り返らずとも、翡翠(ひすい)の視線を痛いほど感じた。


「あなたは何者? 答えなさい」


冷血コールド・ブラッド”と呼ばれていた女――レナは、私に鋭い切っ先を押し当てているわけではない。それでもなおその声に従って振り向かなかったのは、私にも人間のような生存本能が芽生えたからだろうか。

 答えなければならない、と思わせるその声色は、鋼の冷たさよりもさらに冷えている。


 果たして、どう答えるべきか。


 彼女が未だ“深紅の絶望(クリムゾン・ディスペアー)”と契約している状態にあるのかどうかが、問題だ。

 そしてなぜこの場面で、私に接触してきたか。

 彼女は、私を目にするのは初めてのはずだが。


「特に何者、と言うわけではない」私はゆっくりと、言った。「君こそ何者だ。なぜ私にそんなことを訊く?」


 返ってきたのは、短い沈黙だ。

 感情が欠落した声が、質問を変える。


「〝深紅の絶望〟の人間?」


 これに頷けば後ろから刺されるのか、あるいは首を横に振れば、喉を掻き切られるのか。

 いずれにせよ、それで私が死ぬわけではない。


「違う」


 ここは正直に答えてみよう。


「ではなぜ、彼女を尾行していたの」

「──彼女?」


 それは間違いなくシェスタのことだろうが、そこは一応、とぼけておく。「私はただ、お茶を飲みに来ただけだが」

「嘘をついてるわね」


 レナの口調に、咎めるような響きはない。淡々と事実だけを述べる機械のようだ。「なぜ嘘をつく必要があるのかしら」


「何者とも知れない君に、真実を語る理由がない」


 これに返ってきたのも、短い沈黙だ。

 その沈黙に、普通は苛立ちや敵意が多少なりとも感じられるものだが、彼女にはそれがまったくない。氷の塊に言葉を投げかけるが如くだ。

 そして彼女は、言った。


「死にたいの?」


 殺意など欠片もない脅し文句だ。

 だがそれが逆に、聞く者の心を凍りつかせる。

 わかるのだ。

 彼女にとって人の命が、なんの価値もないことが。

 耳元を飛ぶ羽虫を潰すほどの感慨もなく殺されてしまう、と。


「死にたくはないな」


 実際には、私に死の恐怖や生への渇望はないのだが、とりあえずありきたりに返事をする。そのほうが人間らしいだろう。


「嘘ね」


 だがすぐに、看破される。

 私は、背筋が凍るような寒気を感じた。

 彼女は、適当にそう言ったのではない。確信を込めて、そう言ったのだ。


「――人の心が読めるとはたいしたものだ」


お世辞でも追従(ついしよう)でもなく、私は感嘆を言葉にした。

 超一流の暗殺者は、標的の些細な動作や呼吸の音だけで相手の状況や心理を瞬時に把握し、暗殺に最適なその時を決して見逃さないというが、そういう意味でもレナの能力は特筆すべきレベルだ。


 当然、この賛辞にもレナは応えなかった。

 だが、今度の沈黙はそれまでに比べてわずかに長い。長い、といっても数秒の話だが。

 口を開いた彼女は、少し謎めいた響きを──初めて、感情らしきものを声色に乗せた。


「人の心を読んだわけではないわ」


 私はぎょっとして、思わず振り返ってしまうところだった。

 それは単純に、超能力のようなことではなく技術的に私の心の裡を分析しただけ、ともとれるが、違う意味にも取れる。

 私が人間ではない、と彼女は見抜いたのか?


「――さあ、質問に答えて」レナにとってそれは重要なことではないのか、追究しようとはせず、最初の質問へ返る。「あなたはどこの誰で、どうしてあの娘を尾行していたの」

「私はリロイの相棒だ」

 どうせ見抜かれるのならば、と私は事実を述べる。「彼女とは、ちょっとした縁で知り合った。現在は、遠巻きに見守る保護者役だ」

「彼は死んだ?」


 私が何者かを知っても、彼女の声に動揺はなかった。ただ、自分が嵌めた相手がどういう状況なのかは、把握しているらしい。


「死んでいて欲しいか?」


 別に彼女を責めるつもりもないし、なにかしらの感情を引き出したかったわけでもないのだが、私はそう訊いていた。かつて同じような問答を、レナとリリーが交わしていたことを思い出す。


「別に」


 返ってきた(いら)えは、想像以上に凍えていた。

 どうでもいい、という感情すら存在しないとは。


「酷い話だな」


 さすがに、リロイが哀れに思えてくる。ふたりの間になにがあったかは知らないが、これではリロイも浮かばれまい。

 まだ生きてはいるが。


「せめて憎むなりしてやればいいものを」


 これに返ってきたのは、沈黙ではなかった。いや、言葉はなかったので沈黙ではあるのだが、今までとは違い小さな音が付随している。

 空気が微かに漏れるような音。


 鼻を、鳴らしたのだろうか。


 それを確かめる術もなく、そして丁度、頼んでいた紅茶が運ばれてくる。鼻孔を、淹れたての芳しい香が(くすぐ)った。

 そして私は、振り返る。


 そこに、彼女の姿はなかった。


 そうだろう、という気はしていたが、それがなぜかはわからない。

 窓の外では、テラスにいるシェスタとスウェインへレナが近づいていく。

 私の推測が正しければシェスタに危険はないが、カレンにふたりを託された以上、ここでお茶を飲んでいるわけにもいかないだろう。


 名残惜しいが紅茶には手をつけず、素早く店を出る。


 早足で近づいていく私の姿を発見したスウェインが、驚くとともに安堵の表情を浮かべた。

 しかしシェスタのほうは、椅子から立ち上がると顔を赤くして私を糾弾する。


「人のあとを、こそこそとつけ回してたのですか!?」

「そうだ」


 私はごまかさずに言った。


「プライバシーの侵害ですわよ……!」


 彼女は私の顔に指先を突きつけて主張したが、私は肩を竦めた。「プライバシーより安全を優先した。安心しろ、会話は聞いていない」

「そういう問題では……っ!」


 憤懣(ふんまん)やるかたない、といった様子で、シェスタはぷるぷると震えている。


「そこまでになさい」レナが、彼女の頭に触れた。そして、どうしていいかわからず固まったままのスウェインに、視線を向ける。

 びくっ、と少年が身動ぎしたのは、目の前の女があまりに美しいからか、あるいは非人間的な感情の欠落を感じたからか。


「妹を助けてくれたそうね」だが心なしか、スウェインにかける声にはわずかな温度があった。「ありがとう。感謝するわ」

「い、いえ……」


 スウェインは、耳まで赤くなった。

 まあなんというか、仕方あるまい。

 だが、それを許さない小さな悪魔は、テーブルの下で思い切り少年の足を踏みつけた。

 悲鳴を上げるスウェインは、痛みと困惑で涙目になる。


「――いくわよ」


 妹の暴挙に目を細め、レナはシェスタの耳を引っ張った。「え、もういくんですの?」耳の痛みに顔を顰めながら、シェスタは今し方、お仕置きを敢行した相手を見やる。「せめて、今日ぐらいは」

 彼女は懇願するが、レナは小さく首を横に振っただけで静かに否定する。シェスタは大騒ぎするかと思ったが、意気消沈して俯いた。


 どうやら、姉には頭が上がらないようだ。


しかしこうして並んでいるのを見ると、私はともかくリロイは気がつかなかったのか、とも思う。艶やかな金髪や宝石の如き翡翠の瞳だけでなく、整った鼻筋や形の良い唇、優美な弧を描く眉など、類似点はいくらでもあるではないか。

 そしてシェスタは、リロイと姉の確執を知っているからこそのあの態度だったのだ。

 私はとばっちりだが。


「――リロイと私はともかく」それでもまあ、いくら口うるさいとはいえ、シェスタはまだ子供だ。意気消沈している姿には、さすがに同情を禁じ得ない。「衣食住を世話してくれた相手には、礼のひとつもしておくのが筋ではないか?」


 これを聞いたレナは、無言で妹を見やる。彼女は小さく頷いた。「カレンっていう、ヴァルハラの社員さんよ。とても良くしてもらったわ」

「わかったわ」レナは相変わらず感情の乏しい声で了承する。「案内なさい」

「いや、それがだな」


 すぐにでも行こうとするレナを、私は押し(とど)めた。


「カレンは忙しくて、夜まで不在だ」カレンが出かけたのは事実だ。夜までかどうかは知らないが。「礼をしに行くのなら、今日の夜か明日でないと意味がない」

「…………」


 レナの眼差しは、やはりこちらの心の裡を見抜くような鋭さがある。だが、私の言は完全な嘘ではないし、ただ知らない、というだけだ。


「そう」


 果たしてレナは、拍子抜けするほどあっさり受け入れた。


「では、のちほど伺うわ」


 だが、そう言い置いてシェスタとこの場を去ろうとする。シェスタは一度だけ、自分の手を引く姉に抗ったが、許されないとわかるやすぐに諦めてしまう。

 スウェインは、なにか言いたげだがなにを言えばいいのかわからず、呆然と立ち尽くしていた。


「君の妹は──」私は、レナの背中に言った。「スウェインとリロイが助け出したあと、ずっと外に出られなかった」さりげなく、相棒の名前を加えておく。「〝深紅の絶望〟の目があって、危険だからだ」


 レナは、足を止めた。


「だが、リロイが事実上〝深紅の絶望〟を壊滅させたので、こうしてようやく街を歩けるようになった。少しぐらい羽を伸ばさせてやればどうだ」


 私の提案に、目を丸くして驚いているのはシェスタだ。

 ぞんざいに扱った相手が、自分の味方をするとは夢にも思っていなかったのだろう。


 まあ、リロイならこうしただろうことをしてみただけだ。


 ただし、リロイなら喧嘩腰になっただろうが、私はあくまで理性的に進める。感情を表にまったく出さないレナには、情緒だけでなく、理路整然と訴えたほうが効果的だろう。


「どうしても心配なら、君と私で護衛すればいい。遠巻きにな」

「――いいわ」


 レナは、内心はどう思っているかまったくわからないが、表面上は首肯した。


「ただし、護衛はわたしひとりで十分よ」


 彼女は私の背後を、その美しい指先で指し示した。


「あなたは帰りなさい」

「そうはいかない」


 帰れと言われて、はいそうですか、などと了承できるわけがない。

 私にも、責任というものがあるのだ。


「なら」レナは、言った。「あなたはその少年を連れて、存分に羽を伸ばさせてあげなさい。わたしは妹を連れて行くわ」


 それでは、意味がない。


「私は、ふたりの保護を頼まれた。スウェインだけではないのだ」

「シェスタにはわたしという本当の保護者が現れたのだから、あなたはもう必要ではないでしょう」

「うむ。いや、しかし……」


 私は、返答に窮した。

 彼女の言い分は、いちいち尤もだ。

 これは素直に、スウェインに諦めてもらうしかないか。


「あの――」


 その当の本人であるスウェインが、レナを見上げていた。

 レナは自分より随分と低いところにある少年の顔を見下ろし、次の言葉を待つ。それはおそらく、とんでもないプレッシャーに違いない。あの冷えた眼差しには、大抵の人間の心をへし折る力がある。


「もう少し、駄目ですか」少年の声は微かに震えていたが、それを臆病だと(そし)ることはできない。むしろ勇敢だと、拍手でもして褒めてやりたいぐらいだ。

 だがレナは、なにも答えない。


 普通ならここで、死にたくなるだろう。


 スウェインは頑張った。言葉足らずだと思ったのか、喉を小さく鳴らしたあと、改めて自分の意思を伝える。


「もう少しだけ、妹さんとお話しさせていただいてもよろしいですか」

「姉さん」

 シェスタも、姉の白いブラウスの裾を引っ張った。「わたくしも、もう少しだけでいいので……」


 レナは、少年と少女を無言で見据える。

 拷問のような沈黙は、実際は数秒だが、もっと長く感じた。


「いいわ」


 短い返事にも、やはり感情はない。

 そのせいか、ふたりは一瞬、許可をもらったことが理解できなかった。

 理解すると、喜ぶというよりも開放感を味わうような表情を浮かべる。スウェインは、苦笑と照れ笑いが混じったような顔だ。

 だが、男として立派だったと思う。


 そして私は、役立たずだ。


 そもそも、レナが万が一、敵意を持って近づいていたとしたらどうなっていたことか。

 護衛としても、大人としても、まったく役に立っていない。

 そんな機能はないのだが、そこはかとなく吐き気のようなものを感じた。


「ねえ」


 私とレナは、ふたりをこの店に残し、距離を取ろうとした。

 その私に近づいてきたのは、シェスタだ。


「なんだ?」

「ありがとう」


 非常に小さい上に早口だったので、最初は気のせいかとも思ったが、そうではない。

 彼女が、感謝の言葉を述べたのだ。


「いったいどうした」


 私は愕然と硬直していた。

 感謝、だと?

 私は、聴覚を司るセンサーの故障をすら疑った。

 しかし彼女は確かに、言ったのだ。ありがとう、と。


「お腹でも痛いのか?」


 最初の衝撃が通り過ぎると、今度は彼女の身体が心配になってきた。まだそれほど飲食はしていないはずだが、彼女は今日を非常に楽しみにしていたので、ある意味ストレスから来る体調不良になったとしても不思議ではない。


「失礼ですわね」だがシェスタは、(まなじり)を決すると私の向こう臑を蹴飛ばした。

 そして、ぶつぶつと悪態をつきながら行ってしまう。


 意味がわからないので、私は首を捻りながら、レナとは違う方向へ立ち去った。さすがに、彼女と一緒にふたりを見守るのは精神的にきつい。

 紅茶をそのまま置いてきた店はさすがに気まずいので、その二軒隣の店を選んだ。少し遠いが、同じくテラス席なので目は届く。


 気づくと、レナの姿は消えていた。


 どこにも見当たらないが、間違いなくどこかにいるのだろう。

 私はスウェインとシェスタの姿を視界に収めながら、五感を切り離した。


 リロイが眠るベッドの傍らに、私の本体はある。本体があれば、その周囲のデータを収集可能だ。

 病院に運ばれたリリーはそのまま入院してしまったので、いまは寝室にリロイがひとりで寝ている。カレンの厚意で、ちゃんとベッドの上だ。

 寝室のドアは開いており、そこからリビングが見える。どうやらもう、カレンは帰宅しているようだ。


『ええー、あたしは嫌だなー』


 不満げに頬を膨らませているのは、ヴァルハラの鋼糸使いレニーだ。「そもそも、もう遅いんじゃないの? 今からなんて追いつけないって」彼女はソファに深々と腰掛け、両手で膝を抱えている。


『ええ、ですから車を用意しました』

 そう言ったのはリゼルだ。『近くで別の任務に就いていたテュール君が、車両を運んで来ると共に、追跡任務に参加します』

『おー、あの無愛想くんが来るのか……』


 レニーは天井を見つめたまま、興味がなさそうに呟く。


『どちらにしても目的が曖昧すぎるわ』


 苦言を呈したのは、カレンだ。


『拉致されたと思しきカルテイルの身柄を奪還、並びに拉致した者の目的地を特定し、可能な限り生け捕りにせよって、早口言葉じゃないんだから』

『専務の嫌らしい粘っこさが感じられるよねー』


 女性ふたりは、小さくため息をついた。

 どうやらヴァルハラは、カルテイル生存の可能性を捨てていないようだ。

 そしてそれを拉致した者――となると、考えられるのはレディ・メーヴェかアシュガン、だろうか?


『まああとは、四人でやれるのかどうかよね』


 カレンの言は臆しているようにも聞こえるが、そうではないだろう。相手の戦力がわからない以上、楽観視はしない彼女の慎重さだ。

 いきなりリロイに戦いを挑む程度には、彼女も大胆さを持ち合わせている。


『いやだなぁ、カレンさん。三人ですよ』そう言ったのは、リゼルだ。『わたしは戦力になりませんから』

『頑丈だから盾にはなるんじゃない?』


 レニーが、にししし、と変な声で笑う。リゼルは苦笑して『だとしても、痛いんですよ?』と抗議するが、私が見た限り、確かに彼の頑強さはなかなかのものだ。


『まあでも、テュールくんはにょろ強いよ』リゼルの抗議の声は無視して、レニーは身体を前後に揺らす。『一番の問題は、生け捕りってところじゃないかな』

『ああ……』

 リゼルが、嘆息した。『そうでしたね』


 なにが? と訪ねるカレンに、レニーが『彼さー』と気怠い口調で言った。

『家族を〝闇の種族〟に殺されてるんだよね』

『村が丸ごとひとつ、消えたそうです』リゼルが、捕捉する。テュールというその社員は、その村唯一の生き残りで、のちにヴァルハラの施設に入りギムレーの一員となった。

 非常に優秀だったが、〝闇の種族〟を目にすると歯止めが利かなくなるため、扱いにくい人材でもあったらしい。


『同じギムレー出身なのに、知らなかった?』

『ギムレーはいくつもあるから、全員を知ってるわけじゃないわよ』


 レニーの横で折り目正しく座っているカレンは、手の中で湯気を立てているマグカップに視線を落とした。『でも、〝闇の種族〟が仇なんて珍しくもないんじゃない?』


 確かに、そうだ。家族、友人知人、恋人などを〝闇の種族〟に殺され、それがきっかけとなって兵士や騎

士、傭兵などを志す者は少なくない。


『いや、まあ、そうなんだけどね』


 レニーは、爪先をぶらぶらと揺らす。


『彼さ、〝研究室(ドヴェルグ)〟所属なんだー』


 カレンの、息を呑む音が聞こえてくる。


『実験に志願したそうです』

『まさか』


 カレンの顔が、強ばる。

 リゼルは静かに、首を横に振った。


『あそこは大抵、金で売られた人間か、犯罪者、もしくは世を儚んだ人の行き着く先ですが、彼は間違いなく志願しました』さらりと人身売買に言及しているが、カレンとレニーは反応しない。

 ヴァルハラでは、それが当たり前なのだろうか。

 リゼルは、サングラスのブリッジを人差し指で押し上げた。


『〝グレイプニル〟被験者第一号にして唯一の適合者が、彼なんです』

『それって確か、破棄されたプロジェクトでしょ?』

 カレンはマグカップの中身に、口をつける。『成功してたんだ』

『唯一の、です』


 リゼルは、静かに訂正した。


『彼以降にはただのひとつも成功例がありません。続くのは、百例以上の失敗です』

『百以上?』


 愕然と、カレンが呟く。意図的に数しか口にしていないが、それはつまり百人以上が実験の失敗で命を落とした、ということになる。

 一企業の人体実験でそれほどの死亡者数は異常だ。


『社長は知っていたの?』カレンの声がわずかに硬くなっているのは、義憤のせいか。

『専務の肝いりで進められていたプロジェクトでしたからね。ご存じないと思いますよ』


 リゼルの言葉に、カレンは少し安堵したように見えた。

 知る、知らないとは、プロジェクトそのものではなく人死にのほうだろうか。ふたりの口調からはそう感じられた。


『それで、話を戻すとね』


 レニーはひとり、気の抜けた表情と話し方が変わらない。『テュールくんはそのグレイプニルを使うためにここへ――』と、彼女は自分の頭を指さした。『なんか、機械を埋め込んでるんだって。それにくわえて、なんかめちゃたくさん薬も飲んでたんよ。だからなんかちょっと危ういんよねー』

『なんか、が多すぎる』


 カレンはぼそりと呟いてから、眉間を指先で揉みほぐした。『普段は、ちゃんとコミュニケーション取れるの?』

『無愛想で無口だけどね』

 レニーが肩を竦める。『だけど〝闇の種族〟が出ると、もう駄目。なんかスイッチが入ったみたいに皆殺しモードになっちゃうんよ……』

『全部片付けたら、元に戻るの?』


 まるで一縷(いちる)の望みにかけるようなカレンの問いかけに、リゼルは無情にも首を横に振って否定した。


『彼は拘束具の着用が義務づけられています。戦闘行為が終わった、と判断した時点でそれを起動させて動きを制し――』彼は、なにかを打つような仕草をした。『薬で沈静させるそうです』


 これを聞いたカレンは、掌で顔を覆って長く息を吐いた。


『滅茶苦茶じゃない』

『ねー』


 レニーは同意したが、その表情と口調からは、どうやらカレンの苦悩までは共有できていないようだ。


『まあ、この際だから言っておきますが』


 ひとり立っていたリゼルが、キッチンに向かいながら言った。


『テュールくんの村を襲ったのは人型だったらしく、人型を見ると特に見境がなくなるそうです』

『――絶望的な情報をありがとう』


 力ない感謝の言葉は、床の上に落ちていく。『どうして、そんな扱いにくい子を寄越そうとするのかしら』

『実地運用の経験値が欲しいんでしょうね』カレンの愚痴に、リゼルは律儀に応じる。『辺境なら被害が出てもたかが知れているしもみ消せる──専務の考えそうなことです』

『ちょっとレニー、専務のやつを暗殺してきてよ』

『うわー、楽しそう』


 へらへら笑うレニーだったが、一瞬、その陽気な瞳に暗い影が差したのを私は見逃さない。

 その専務とやらは、本気で嫌われているようだ。


『まあまあ、お腹が減ると機嫌も悪くなりますから、なにか作りましょう』リゼルが、キッチンテーブルの上に置いてあった袋を開け始める。わざわざ、料理の材料を買ってきたのか。

 レニーは立ち上がると、軽やかな足取りでリゼルに近づいた。


『なんか甘いものがいいなー』

『また、なんかって……』


 カレンは口の中だけで呟き、がっくりと肩を落としていた。

 どうにも、常識人には苦労が多そうな職場だ。同情する。


『カレンさんは、なにか食べたいものがありますか?』


 リゼルはエプロンまで取り出して、作る気満々だ。


『──そうね』


 俯いていたカレンは顔を上げ、その表情から憂鬱を消し去るように頬を軽く叩いた。


『なんでもいいわ、栄養のあるものをちょうだい。体力をつけとかないと』重い気持ちを切り替えようとするかのように、カレンはすっくと立ち上がる。『この仕事が無事に終わったら、有休を取って遊びまくってやる』

『あ、それいいなー』


 買い物袋の中を覗き込んでいたレニーが、顔を上げずに賛同する。『あたしもそろそろ、実家に顔を出そうかな』

『いいですね』リゼルが、顔を綻ばせる。『親孝行、したいときには親はなし、です』


 この言葉にレニーは顔を上げ、キッチンに向かっているリゼルの背中に声をかけた。

『あれ、リゼルって?』

『母は存命ですよ』


 そのリゼルの声は、なぜだかいつも以上に感情が読み取れない。『今は体調が思わしくなくて、療養中ですけどね』

『あらー』深刻な表情など存在しないのでは、と思っていたレニーの軽薄な顔に、初めて他人を気遣う色が生じた。『早く良くなるといいね』

『ありがとうございます』


 リゼルは小さく頭を下げたが、その口元に浮かぶ笑みにはどこか空々しさがあった。

 それを見ていたカレンが、小さく首を傾げる。


「――失礼」


 不意に声をかけられた私は、本体側に意識を多く割いていたので、わずかに反応が遅れる。

 テラス席に座る私の前に、男がひとり立っていた。

 長身だ。リロイと同じか、少し高い。長く黒い髪を三つ編みにし、(なめ)し革のシャツの胸元には骨や牙、宝石などを使用した首飾りが揺れている。


「なにか?」


 私が問うと、彼は一礼した。


「わたしはフェンリル──レナの相棒だ」三十代前半ほどだろうか、その壮年の男フェンリルは、私の正面にある椅子を指さした。「座らせてもらってもいいだろうか」

「どうぞ」


 私が許可すると、彼は獣の皮で作られた上着を脱いで椅子の背にかける。銀色の体毛が美しい一品だ。新たな客を目敏く見つけてやってきたウェイトレスに、「コーヒーをブラックで」と頼む。

 こいつもコーヒー党か。


「リロイ・シュヴァルツァーの相棒らしいな」


 彼はそう問いかけると、黄金の瞳で私を見据えた。レナとはまた別の意味で、すべてを見透かすかのような、深く広い眼差しだ。

 私は、無言で頷く。

 フェンリルもまた、頷いた。


「なるほど。彼女から聞いたが、確かに君は人間ではないようだな」


 彼は、確信を持っているようだった。

 この立体映像の姿は、かなり精密だ。間近で見ようが触ろうが、私が人間ではない、と看破する者など皆無だろう。


「人間でないのだとしたら、なんだと思う」


 私はあえて、否定しなかった。

 なにを根拠にそう断言しているのか、という興味もあったが、有り体に言えばばれたところで特に不都合はない。


「兵器」フェンリルは、言った。


 ティーカップを持つ私の指先が、ほんの少し震える。

 彼はそれを目の端で捉えながら、言葉を継いだ。「人間が〝闇の種族〟に対抗するために創り上げた兵器──それが君だ、ラグナロク」

「何者だ?」


 この時代に、正しく私の存在を認識する者は決して多くはない。そしてその多くが、人間より遙かに長い寿命を持つ〝闇の種族ダーク・ワン〟であることも事実だ。

 では、フェンリルは〝闇の種族〟か?

 彼は、敵意がないことを示すように軽く両手を挙げた。


「わたしは天狼族だ──といえば、理解してもらえるだろうか?」

「まさか」


 私は思わず、否定の言葉を口にしていた。

 天狼族は、かつて人間たちとともに〝闇の種族〟と戦った盟友だ。絶大な戦闘能力を誇った彼らは、しかし絶対数の少なさから次第にその数を減らし、数千年前ですら絶滅寸前だった。

 ここ数百年は、私も彼らを目にしていない。


「いや──」私は、思い出す。レナの傍らにいた、巨大な銀狼を。「あれがそうか」


 フェンリルは、微笑した。

 一説には、天狼族こそが獣人の始祖ではないか、ともいわれている。だが、獣人が人間から獣に姿を変えるのとは逆で、天狼族は、獣の姿から人間へと変化する――目の前の男にとっては、あの巨大な狼こそが真の姿なのだ。


「確か天狼族は、記憶を受け継ぐのだったな」彼らの寿命は数百年と、それでも人間と比べれば随分と長い。その上、先祖代々の記憶を数千年分、受け継いで生まれてくるのだという。

 普通の感覚では、それだけのデータを詰め込まれて生まれてきたら情報過多で気が狂いそうにも思えるが、そうでもないらしい。


 昔、私も天狼族と一緒に戦ったことがあるが、そのとき彼はこう言っていた。

 データの詰まった外部記憶媒体を持って生まれてくるだけで、常にその記憶が脳裏に甦るわけではない。必要なときに検索して取り出すだけで、普段はまったく意識もしない、と。


 だが、それが原因で稀に起こるのが〝先祖返り〟だ。


 過去の記憶に現在の精神が汚染されて人格が豹変してしまう奇病で、一旦そうなると、膨大なデータが(あだ)となり、もとの人格へ修復することはほぼ不可能だと聞いたことがある。未熟な若年層や、齢三百年を超えた者が罹患する確率が高いらしい。


 フェンリルは過去のデータから、私が何者か導き出したのだろう。


 その記憶は、ともに戦った彼ら、彼女たちのものだ。

 なんとも不思議な感慨がある。


「私を確かめに来たのか」


 レナはやはり、私が人間ではない、と見抜いていたのか。


「君が敵対的な存在ではない、とは彼女もわかっている。だが、妹の近くに得体の知れないものがいる、となると平然とはしていられないのだ」

「平然としているように見えたがな」


 私には、彼女が動揺したり恐れたりする様子は想像がつかない。


「そう見えるだけだ。心まで凍っているわけではない」フェンリルは、そう思われるのが悲しいかのように、顔が曇る。「むしろ、そうであればよかったと思うほどだ」


 彼の精悍な面と黄金の瞳が与える印象は、誠実さと知性の高さだ。少し話しただけでも、それが間違いではない、とわかる。

 そんな彼の言を信用しないわけではないが、ここまでのレナを見る限りでは、フェンリルの言葉に素直に頷くのは難しい。

 そんな考えが顔に出ていたのか、フェンリルは苦い顔でつけ加えた。


「彼女の心の傷は誰にも見えない。見えなければ人は、ないと判断する。仕方のないことだがな」

「私は人間ではないので、なんとも答えようがないな」


 私の相棒を後ろから刺すような人間に、同情しなければならない義理はない。そんな頑なな態度が見て取れたのだろう、フェンリルは少し困ったように頬を指先で掻いた。


「もうわかってはいると思うが、レナは妹を拉致されて、仕方なく――」

「正式な依頼であれば、必ず断った、と?」


 彼の言葉を遮った私に、フェンリルは言葉を返さなかった。それが雄弁に、物語っている。

 ただ少なくとも、彼の正直さは疑う余地がないだろう。


「まあ、刺された当の本人が気にしないのであれば、外野がとやかくいう問題でもないか」私はそう言って、肩を竦めた。少なくとも、リロイが本気でレナに害意を抱いていたのならば、監禁されていたあの家で邂逅したとき、必ず行動に出ていたはずだ。

 フェンリルは、目礼する。

 察しのいい男だ。


「まあ、できれば――」私は無理な注文か、とは思いつつも、口に出した。「謝罪はともかく、妹を救ったことへ感謝の言葉ぐらいはあってもいいとは思うがな」

「伝えておこう」


 フェンリルは苦笑いしながら、運ばれてきたコーヒーカップを手に取った。

 そして口にすると、顔を(しか)める。


「苦いな」

「――ブラックだからな」私は、少々呆れ気味に言った。「苦いと思うのなら、せめて砂糖ぐらい入れればどうだ」

「うむ」


 彼もそれは承知しているようで、しかし困惑気味に黒い液体に視線を落としていた。


「だが、砂糖やミルクを入れるのは子供だけだと聞いたが」

「レナがそう言ったのか」


 フェンリルは、ただ首を横に振った。ということは、小悪魔のほうか。


「リロイはいつもたくさん入れて飲んでるぞ。――子供だけではない、の証明にはなりにくいが」

「なるほど」


 フェンリルは、騙されていたと知っても不快そうな素振りもなく、ただ小さく笑った。

 そして苦いコーヒーをもう一口啜ると、私を見て首を傾げる。


「そういえば、気になっていたのだが――」と、フェンリルは少し遠慮がちに切り出した。「今日の服は、少しおかしくないか? わたしの記憶と随分、違うのだが」

 どうやら私は、なにを着ていても奇異の視線に(さら)される運命らしい。


「あの姿では、目立つと言われてな」とはいえ、こちらの服装がおかしい、と認識してくれる相手は悪くない。「それで仕方なく、身を(やつ)しているところだ」

「気苦労が絶えないな」


 フェンリルは苦笑する。彼も彼なりに、人間でないものが人間社会で生きていくことの大変さを、コーヒーの件だけでなく痛感することは多々あるに違いない。

 お互い、相棒がとんでもない、という共通点もある。

 気が合いそうだ。


「楽しそうね」


 私の背後で、凍えた声がした。

 気配もなく発せられたその声に、まさしく冷や水を浴びせかけられたかの如く、浮き立つ私の気分は台無しになる。


 こんなにも温度の低い声色は、私の知る限りひとりだけだ。


 振り返って睨みつけてやろうかと思ったが、そんなことをしても彼女の冷えた眼差しの前に凍りつくだけだろう。

 私は振り返らぬまま、大きく溜息をついた。


「どうして、後ろから現れる。人を驚かせて楽しいのか」

「人ではないのでしょう?」


 彼女は淡々とそう言って、スウェインとシェスタのほうを指さした。「ふたりが移動するわ」

「またあとで話そう」


 フェンリルは、残りのコーヒーを一気に飲み干すと、その苦みに少しだけ眉根を寄せて立ち上がった。

 続けて立ち上がった私に、レナが呟く。


「好きなときに、帰ってもらって構わないから」

「──ご親切、痛み入るね」


 私の棘のある返答にも、彼女の表情は小揺るぎもしない。その人間離れした美貌は、彼女の裡の人間的情動をすべて否定しているようにしか見えなかった。

 本当に、見えない傷などあるのだろうか。


 そしてあったからといって、なんだというのだ。


 フェンリルには悪いが、私には彼女を斟酌(しんしやく)する理由がない。

 もうすでにうんざりしているのだが、使命感だけが、私の足を前に進ませる。

 リロイが起きたらたっぷりと文句を言ってやろう――私は、そう決意していた。



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