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第二章 序


 地底湖の巨大な空間を、咆吼(ほうこう)の余韻が震わせていた。


 それは天井に開いた亀裂から、外へと放たれる。

 ヴァイデンの人々は、なにを聞いただろう。

 解き放たれた獣の歓喜か。

 憎悪に囚われた人の怨嗟か。


 銀の双眸は、天空に輝く月を()めつけている。


 地下街の瓦礫の中に佇むその巨躯は、まるで滅びの王の如くだ。

 禍々しいその姿は、カルテイルがリロイに告げた、この世のすべてを否定する意志の顕現にも思える。


 だが、なぜだろうか。

 私には、得体の知れぬ化け物へと変わり果てたリロイが、哀しげに見えて仕方がない。

 それとも、その凶暴性が示すとおり、あれこそがリロイの中に眠る本性なのか。


 ――いずれにせよ私は、任された仕事を果たすだけだ。


 リロイは私に、あとを頼む、と言った。あれは当然、リロイ自身のことも含まれるが、それ以上にこの娘――リリーの身の安全についての言葉であることは間違いない。

 リロイとカルテイルが戦っている間に、私は彼女を抱えて瓦礫の陰に移動した。万が一を考えて彼女の側を離れなかったが、その心配はもうないだろう。


 リロイが獣化すると同時に、私はひとつのプログラムを起動していた。


 すでに、その効果は現れている。

 私の周囲の空間が、その影響で揺らめき始めていた。

 莫大なエネルギーが生成され、放射される熱が空気を灼いている。

 このエネルギーの源は、周囲にあるすべての物質だ。

 物質を構成する最小単位は、素粒子である。この粒子には、物質の構造と性質を維持しようとする意思が宿っている。


存在意思(ノルン)〟と名付けられたその意思は、この世のすべてを形作り、そして同時に、凄まじいエネルギーそのものでもあった。


〝存在意思〟を物質から抽出し、これを純粋なエネルギーとして行使するこのプログラム〝ディース〟こそが、〝ラグナロク〟としての私の存在意義といってもいい。

 なぜならこれは、対〝闇の種族〟として絶大な効果があるからだ。

〝存在意思〟が有するエネルギーは、通常の熱エネルギーが物質を単純に破壊するのとは異なり、対象物の〝存在意思〟に干渉することが可能である。


 干渉であって、破壊ではない。


〝存在意思〟が持つ強固な、維持しようとする意思に干渉して、これを逆の意味に書き換える。

 つまり、構造と性質を維持しなくなり、その結果として対象物が極小の素粒子へと分解されてしまうのだ。


 いかに強力な再生能力を持つ眷属でも、これに抗う術はない。


ただ、問題もあった。特に私の場合、初期型のプログラムのため、破壊力のみに特化している。私が本来設定されているままにこの力を使えば、地底湖どころかヴァイデンそのものが素粒子の塵と化してしまう。

 そして当然、私もリロイを消滅させるつもりはない。

 私は慎重に、抽出した〝存在意思〟をコントロールする。イレギュラーな使用方法は一歩間違えば〝存在意思〟を暴走、逆流させ、私自身が消え失せることになるだろう。


 だが、万が一しくじっても消滅するのが私だけなら問題ない。


 リロイが動きを見せない今こそが、絶好の機会だ。

 私は瓦礫の陰から、糸状に練り上げた“存在意思”を放つ。緻密な制御を必要とするため、標的が――この場合は獣化したリロイ――激しく動いていると失敗する確率が格段に上昇してしまう。

 私は、〝存在意思〟の糸をリロイの背後から接近させた。

 その喉が、警戒と威嚇の唸り声を漏らす。


 こちらに気がついたわけではない。


 頭上のなにかに、気がついたのだ。


 私にはなにも見えないが、もしかすると先ほどからリロイが睨みつけていたのは、月ではないのかも知れない。

 それがなんであれ、私は好機とばかりにリロイの黒い肉体に〝存在意思〟で触れた。

 同時に、その背中が爆ぜ割れる。

 破れた皮膚と黒い血が飛び散り、その中から白い骨が凄まじい勢いで広がった。


 それは、翼の骨格だ。


 そこに神経と筋肉が絡み合い、血飛沫を撒き散らしながら分厚い皮が巻きついていく。鳥類のそれとは違う、骨と骨の間を飛膜が繋ぐ脊椎動物の翼が、黒い風を起こしながら広がった。十メートルを超える巨大な黒い翼が、獣の背に生まれる。


 両脚が、岩盤を蹴った。


 轟音が岩を砕き、巨躯が跳躍する。私は、舌打ちした。〝存在意思〟の先端がリロイの身体から離れてしまう。

 リロイの巨躯は、高々と跳び上がっている。その背の翼が羽撃(はばた)くと、巨躯は落下することなく、さらに上昇した。その翼に撃たれた空気が、爆風の如く私たちに叩きつけられる。


 これはまずい。


 飛んで移動する標的を捕捉して〝存在意思〟で干渉するのは、ほぼ不可能だ。その上このまま天井の亀裂から外に出られてしまうと、追いつくだけでどれぐらい時間がかかるかわからない。

 リロイがこれからどういう行動を選択するのか予測不能だが、その間にヴァイデンが壊滅する確率は決して低くないだろう。


「まったくもって度し難い男だな」


 あとは頼むと言っておきながら、これだ。

 奇しくもカルテイルに言っていたとおり、おまえはどうあってもリロイ・シュヴァルツァーだということか。


 ──などと、感慨に耽っている場合ではなかった。


 私は、気を失ったままのリリーを背負い、走り出す。幸い、私には疲労という概念がない。地上への経路を、全速力で走りながら見つけ出すだけだ。

 頭上で音が炸裂したのは、走り出してすぐだった。

 見上げると、リロイの巨躯が錐揉みしながら落下している。なにかと激突したのか、その衝撃波が地底湖を揺るがし、湖面が激しく波打っていた。


 いったい、なにと?


 リロイは湖面の上に浮かんでいた瓦礫へと墜落し、砕かれた石壁や木材まじりの水柱を立てた。

 私は慌てて、背中のリリーを腕の中に抱き直して背を向ける。

 その背中を、瓦礫の破片と水が激しく打ち据えた。足下には、溢れ出した湖水が押し寄せてくる。

 顔を上げ、振り向いた私は、第二の水柱が立つのを目にした。

 なにかが落下したのだが、私にはそのなにかを視認することができない。


 否──なにかが、いた。


 瓦礫の上に、雨の如く落ちてくる水滴を弾く何者かがいる。巨大なそれは、リロイが墜落した地点にじっと視線をそそいでいるように見えた。

 わずかに空間が揺らめき、ノイズのように景色が歪んでいる。


 あれは、光学迷彩だ。


 無論、この時代の技術ではない。数千年前に失われたはずのテクノロジーだ。

 リロイを撃ち落としたと思われるその人物は、水飛沫を弾く範囲から推測するに相当の巨漢だ。獣化したリロイ並みはあるだろうか。

 次に湖水が爆発したのは、水中からだ。

 翼を折りたたんで飛び出したリロイが、空中で翼を広げて滞空する。その銀の双眸は、迷うことなく光学迷彩で姿を消している人物に向けられていた。


 そして一気に、急降下する。


 黒い翼の羽撃きは、爆発的な推進力を生み出した。音の衝撃が、全身に浴びていた湖水を吹き飛ばす。

 黒き獣と不可視の巨人が激突し、地底湖が打ち震えた。

 ふたりを中心にして、湖水が破裂する。

 大量の水が、瓦礫ごと押し寄せてきた。

 さすがに、逃げる場所など存在しない。私はリリーを抱きかかえたまま、激しい水流に押し流された。瓦礫が次々にぶつかってきたが、私には影響はない。ただし衝撃は腕の中のリリーにも伝わるし、彼女には酸素も必要だ。


 私たちは湖岸を百メートルほど流され、そこで水の中から解放された。


 轟音の響くほうへ、顔を向ける。

 光学迷彩を解除したのか、巨人の姿が目に飛び込んできた。

 我が目を、疑う。

 なぜなら、獣化したリロイと戦っているのが、カルテイルだったからだ。


 様々な疑問が浮かび上がったが、私はそれを思索の外へ追いやる。違う。全身を覆う銀の毛並みに白虎の頭部、紅の瞳も同じだが、大きさが違う。カルテイルは二メートル超ほどだったが、この人物は獣化したリロイと同じ三メートル近い上背があった。身体全体でいえば一回り以上、巨大だ。


 そして驚くべきことに、彼は獣化したリロイと対等に渡り合っている。

 特殊な能力を駆使しているわけではなく、原始的な殴り合いでだ。

 カルテイルでさえ打ちのめした拳を、男は身を屈めつつ左腕で打ち払う。肉のぶつかり合いは、重々しい轟きとなって空を震わせた。


 踏み込む一歩は、まさしく砲撃の発射音だ。


 湖上の瓦礫の上から固い湖岸へとふたりの巨人は移動していたが、固い岩盤が踏み砕かれ、衝撃の伝播が足下を濡らす水を跳ね上げる。

 繰り出される白銀の拳は、リロイの脇腹に撃ち込まれた。

 鋼鉄の如きその肉体に、凄まじい衝撃が伝わる。黒い体毛が総毛立ち、皮膚の表面が波打った。あらゆる打撃を弾き返すと思われた筋肉が、拳の形に撓む。


 そしてまさか、その巨躯が宙に浮くとは。


 飛来したのは、横殴りの水滴──男の踏み込みで浮き上がっていた水の粒が、殴打が生んだ衝撃波で吹き散らされたのだ。

 リロイの喉が、怒号を迸らせる。

 反撃の拳は、振り切る前に捉えられた。両腕で抱えるようにリロイの腕を絡め取り、鋭い踏み込みと体捌きでその巨躯を投げ飛ばす。


 宙を舞うリロイの姿に、私の喉が驚愕の呻き声を漏らした。


 黒い巨体が地に打ちつけられると、地底湖全体が揺れる。岩盤が粉砕され、亀裂が奔った。私の身体が、リリーを抱いたまま浮き上がる。

 背中から叩きつけられ、リロイの翼が押し潰された。骨が砕け、飛膜が引き裂かれる。

 男は、間髪入れずに追撃の拳を撃ち込んでいった。


 それを阻んだのは、リロイの手ではない。


 白い巨人の背後から伸びてきた、鱗に覆われた尻尾だ。

 それは大蛇のように太い腕に絡みついていき、その動きを制する。骨が変形した鋭い先端は、白銀の体毛に包まれた肩口に突き刺さった。それは超高速で振動しているのか、男の体毛が逆立ち、噴出する血飛沫が霧状になって広がる。

 男は、尻尾を掴んだ。


 今度は、その巨体が浮かび上がる。


 下からリロイが、拳を突き上げたのだ。

 腹部で爆音が轟き、背中から衝撃が突き抜ける。喉が、苦鳴とともに鮮血を吐き出した。

 その脇腹を、リロイの足が蹴りつける。

 鋼鉄をへし折る重い響きが、白い巨体を吹き飛ばした。

 激突したのは、地下街を構成していた石壁の一部だ。巨漢を受け止めた壁は砕け散ったが、男の勢いは止まらず、そのまま別の瓦礫──積み重なった岩壁の破片へと突っ込んでいく。

 その固い岩すら粉砕し、白い巨体は激しく回転しながら宙を舞った。


 リロイが、疾走する。


 鮮血を撒き散らす中空の巨躯に、猛然と襲いかかった。拳ではなく、開いた指先には鋭い爪が光る。

 一閃──白銀の体毛は千切り飛ばされ、皮膚は削れ、肉が抉れた。筋肉すら断裂させ、深々と突き刺さる爪の先端が内臓へと到達する。噴出した血が、振り抜く爪の軌跡を辿って飛び散った。

 男の身体も、引き裂いた爪に引かれるようにして旋回する。

 リロイはさらにそこから、身体を捻って上から蹴りを叩きつけようとした。


 だがそれは、白い巨人のほうが速い。


 リロイの一撃で回転するその力を利用し、鞭のように撓る蹴撃が放たれた。

 黒い巨躯の肩口へ振り下ろされ、これを強打する。

 鋼が打ち砕かれるような音が、ふたりの巨人を弾き飛ばした。

 リロイは真下へ落下したが、すでに再生していた翼を広げ、その揚力で速度を低減して着地する。巨人の蹴りで潰された左の肩は、内側から押されるように変形していた。折れた骨が再生し、千切れた筋肉繊維が再び接合を始めているのだ。

 白き巨人も、軽やかに湖岸へ降り立っていた。リロイの爪に抉られた腹部の傷からは、白煙が立ち上っている。破損した細胞が分裂と増殖を繰り返している証左だ。


 やはり彼の肉体も、尋常ならざる再生能力を備えているらしい。


「ふむ」男は、自らの肉体につけられた傷を指先で確認すると、納得したように頷いた。「シュワルベの言っていたとおりか」彼はひとり呟くと、獣化したリロイを見据えた。


「俺のことを覚えているか? アシュガン・ザザだ」


 白い巨人──アシュガンは、リロイに語りかける。

 リロイはそれに、反応しない。少なくとも、銀光を放つ瞳に知己への感情は一切見当たらなかった。

 アシュガンも、それを確認したのだろう。


「だが、確かにいるのだな、そこに」


 そしてそれでもなお、そう呟いた。


「哀れむべきか嗤うべきか──どちらだ、エミール」


 問いかけるが、当然、応えはない。

 黒い巨躯はただゆっくりと、歩を進めた。

 アシュガンは、苦笑めいたものを口の端に浮かべた。


「随分と好戦的になったものだな」彼はどこか楽しそうに、傷跡のなくなった腹筋を撫でた。「だが、それも面白い」アシュガンもまた、足を踏み出した。


 なぜ彼は、リロイに“エミール”と呼びかけたのか。


 そして、それがリロイの中にいる、とは一体どういう意味なのか。リロイの獣化についてなにかしらの答えを、この虎頭の巨人は知っているのだろうか。

 そんな私の疑問を余所に、ふたりの巨人が対峙する。


 私はそこからふと、視線を移動させた。


 瓦礫の上に、誰かがいる。

 一瞬前には、誰もいなかったはずだ。

 センサーも、その人物が突如として出現したことを示唆している。


 少女だ。


 十歳にも満たない、黒のドレスを着たその少女は、瓦礫の山の上で儚げに佇んでいる。透けるように白い肌の中で、血のように赤い瞳がリロイとアシュガンを見つめていた。

 私は、彼女を知っている。


 かつて〝殺戮の淑女レディ・ヘル〟として恐れられ、いまは〝アイントラート〟という名の企業を束ねる〝闇の種族〟の上級眷属──吸血鬼の女王、レディ・メーヴェだ。

 アシュガンもまた、彼女に視線を移す。


「シュワルベか」

「わたくしをそう呼ぶのは、もうあなただけですね、アシュガン」


 美しい、と表現するのも(はばか)られるレディ・メーヴェの声は、聞く者の正気を失わせかねない魔力を有していた。


 空気が、静かなその声色に畏れるかの如く震える。


 吸血鬼の能力のひとつとして他者を洗脳する〝魅了〟が挙げられるが、この私すら狂気の淵に引きずり込まんとする声の持ち主は、私が知る限り彼女ただひとりだ。

 そして真に戦慄すべきは、彼女は自身の魅了の能力を封印しているという事実である。

 かつて彼女は、ただの一声で一軍を同士討ちさせ、全滅に追い込んだこともあるのだ。


「シュワルベも本名ではあるまい」アシュガンは鼻で笑う。「どの名前で呼ぼうが、おまえの本性は変わらん」

「耳に痛い指摘ですね」レディ・メーヴェは、少し笑ったのだろうか。瞳と同じ血の色の唇が、かすかに弧を描く。「確かに、そうなのかも知れません」

「なのにおまえは、俺を止めに来たのか」


 批難ではなく、むしろ愉快げにアシュガンは言った。


「もちろんです」


 レディ・メーヴェは、小さな顎を引いて肯定した。


「古き友の過ちを看過することは、できません」

「この俺をまだ、友と呼ぶか」


 双眸を細めたアシュガンの声音は哀調を帯びて、わずかに揺らぐ。

 レディ・メーヴェは、ひたと虎の瞳を見据えた。


 言葉はない。


 低く地を這うように流れる獣の唸り声が、その沈黙を破る。

 レディ・メーヴェの登場で、事態の推移を見守っていたかのように動きのなかったリロイが、痺れを切らしたかのように歩を進めた。


 その足取りは、不思議だ。


 これまで、ただひたすらに攻撃のために前進するのみだったリロイだが、なぜだろうか、その足取りは少しだけ違うように見えた。

 仲間に歩み寄るように?

 馬鹿な。

 私は、自分の考えを即座に打ち捨てた。

 リロイは、リロイだ。余分なものを付け加える必要はない。


「──おまえには、敵わんな」


 やがてアシュガンは、そう呟いた。


「では、古き友に免じて立ち去るとしよう」


 近づいてくる黒い巨躯を一瞥し、彼は踵を返した。

 その姿が、背景に溶け込んでいく。

 光学迷彩か。

 完全に彼の存在がこの場から消失する寸前、その獣の口元に穏やかな微笑が浮かんだようにも見えたが、あまりに一瞬のことで確証は持てない。

 リロイは、歩みを止めた。

 眼前でいなくなったアシュガンを探すでもなく、訝しがるでもなく、その銀の瞳はすぐさまレディ・メーヴェを捕捉する。


〇一〇九(エアスト・ノイン)


 彼女は、私の製造番号を使って呼びかけた。


「彼を、止めましょう」

「製造番号で呼ばれるほど、おまえとは親しくない」


 私は、思ったよりも自分の声に棘があることに、声を出してから気がついた。

 彼女はただ、静かに笑う。


「では〝ラグナロク〟、わたくしが彼を引きつけますので、以前と同じようにお願いします」

「言われなくとも」


 リロイが前に一度、同じように獣化したとき、レディ・メーヴェもその場にいた。

 同じ説明をしなくてすむのは、不本意だがありがたい。


 私は、〝存在意思〟の糸をリロイへと伸ばし始めた。


 リロイはゆっくりと、レディ・メーヴェへと近づいていく。端から見れば、怪物に襲われそうになっている幼気(いたいけ)な少女だが、その実少女もまた、怪物だ。


「語りかけたとて、あなたたちには届かないのでしょうね」


 レディ・メーヴェは、瓦礫の上からふわりと飛び上がった。重力から解き放たれた優雅な飛行で、リロイの頭上へ移動する。

 リロイは、翼を広げた。飛びかかって握り潰すつもりなのか、その両の手の指が開かれている。彼我の大きさを鑑みれば確かに、レディ・メーヴェはリロイからすれば羽虫のようなものだ。

 強靱な脚が、跳躍のために力を込める。


 レディ・メーヴェは、その小さく細い指先をリロイに向けた。


 まさに、リロイが飛びかからんとしたその瞬間だ。

 空気が圧縮されて破裂するような爆音が黒い巨躯を包み込み、足下の岩盤へと押し潰した。

 黒い皮膚が割れ、筋肉と骨は圧力に耐えきれず音を立てて壊れていく。

 リロイは膝を突き、両手で身体を支えて踏ん張るが、足下の岩盤も悲鳴を上げて砕け散った。

 吸血鬼は様々な超能力を操るが、その精度や威力には個人差がある。


 無論レディ・メーヴェのそれは、桁違いだ。


 彼女は空間を超越して移動し、念動力で装甲車を紙のように握り潰し、発火能力でビルを焼き尽くす。

 手がつけられない、とはまさにこのことだ。

 だが、その凄まじい力を持ってしても、リロイを完全に制圧することは難しい。

 粉砕された骨や千切れた筋肉、潰された肉や割れた皮膚までもが破損すると同時に再生を開始する。地に押さえつけられていたリロイは、黒い血飛沫を霧のようにまといながら徐々に立ち上がろうとしていた。


 その喉から、獣の咆哮が迸る。


 振動する大気が、レディ・メーヴェの美しい銀髪を激しく靡かせた。

割れる岩盤が、私の足下にまで亀裂を伸ばす。


 そこで、〝存在意思〟の糸がリロイに到達した。


 もしも私に心臓があったなら、激しく鼓動を刻んだに違いない。

 先にも述べたが、対象物の〝存在意思〟を書き換え、構造と性質を維持するという意思を反転させるのが、私に組み込まれたプログラムだ。


 それに少し、手を加える。


〝存在意思〟の維持しようとする力は、過去、現在、未来に及ぶ。現状が破損すれば過去の遺伝情報を元にしてこれを再生し、未来に起こりえるであろう損害を予測して現状を変化させる──つまりは、生命体の自然治癒と進化だ。

“存在意思”に干渉し書き換えるということは、時間の流れの一端を支配するということでもある。

 だからこそ、古代神話における時を司る女神(ノルン)の名が冠されたのだ。

 獣化したリロイの体内では、この再生と変化が凄まじい速度で行われている。私がやるべきことは、リロイを構成する“存在意思”を過去の時点へ引き戻すことだ。


 リロイを形作る“存在意思”に、私は触れる。


 レディ・メーヴェの力に対抗して立ち上がろうとしていたリロイの巨体が、大きく震えた。

 それは、静かな攻防だ。

 激しい音も衝撃もなく、血飛沫もない。


 極小の、目に見えない世界での戦いは、静寂の中で進行する。


 リロイの動きを止め、“存在意思”への干渉に成功すれば、あとはリロイの遺伝情報を読み取り、あるべき姿への書き換えを行うだけだ。

 その効果は、すぐに現れる。

 苦しげな、そして口惜しげな呻き声がリロイの喉から漏れた。


 先ほどの獣化の過程を逆回しにするかのように、リロイから黒き獣が剥がれ落ちていく。


 皮膚はひび割れて崩れ落ち、肉は溶けて滴り、筋肉は(ほど)けた繊維となって宙を舞った。

 咆吼は絶え、異臭を放つ黒い廃棄物の中に呑み込まれていく。

 そして遂に、そこに残るのは、あるべき姿のリロイだけになった。


 成功だ。


 私は思わず、長い息を吐いた。なんとか、地底湖の塵にならずにすんだらしい。もしも“存在意思”の書き換えを行っているときにリロイが激しく動きでもすれば、すべてのエネルギーが私に逆流するところだったが、レディ・メーヴェのおかげで危なげなく終えることができた。

 ――おかげ、だと?


「お見事でした」


 地に降り立ったレディ・メーヴェが、優雅に一礼する。私は肩を竦めたたけで、特に言葉は返さなかった。

 そんな自分が酷く狭量に感じるのは、彼女が幼い少女の姿をしているからに違いない。


「近づくな」


 そして私が発した言葉といえば、これだ。

 獣の残骸の中に倒れるリロイへ、レディ・メーヴェが歩み寄ろうとしたのを、反射的に制止してしまう。


 彼女は、逆らわなかった。


 足を止め、少し離れた場所からリロイを見つめる。

 その赤い瞳に浮かぶ痛切な悲哀の、なんと(いた)ましいことか。

 あの時と、同じ目だ。

 初めて獣化したリロイを見上げていた、あのときの彼女の目と。


「――エミールとは、何者だ」


 思わず、そう訊いていた。いったい何者なのか。彼女は、その答えを知っている。

 彼女は、答えるだろうか。


「古い、古い友人です」彼女はその言葉を、壊れ物でも扱うかのようにそっと口にした。


 なんの答えにも、なっていない。

 私はもう一度問いただそうとしたが、それに先んじて、彼女が言葉を継いだ。


「わたくしたちが出会ったとき、彼はエミールと名乗っていました」レディ・メーヴェはリロイを一瞥し、目を閉じる。なにかを思い出そうとするかのように、そしてなんと表現すべきか迷うかのように、眉間に少しだけ皺が寄った。「何者だと問われれば――そう、わたくしたちを導く者だったのでしょう」

「随分と曖昧な言い方だな」


 むしろ宗教的、と言ったほうがしっくりとくる。

“闇の種族”の指導者的立場、ということだろうか。


「わたくしたちは同じ境遇の者たちであって、身分や立場の上下はありませんでしたから」まるで私の心の裡を読んだかのように、レディ・メーヴェは否定した。「それでも、彼の思想に賛同した、という点は間違いありません」

「思想とは?」


 ヴァルハラ社員のリゼルは、“闇の種族”から得られる情報には高い価値がある、と言っていたが、レディ・メーヴェから得られるそれには一体どれほどの値がつくものだろうか。

 彼女は、言った。


「壁を壊すことです」


 それはまたしても曖昧で、抽象的な表現だった。

 それが顔に出ていたのだろうか、レディ・メーヴェは微笑して付け加える。「彼は、欺瞞と愚昧に満ちた世界の壁を壊し、新たな世界を創ろうとしたのですよ」

「まさに教祖だな」


 私は辟易としながらも、少なからず興味を引かれていたのも事実だった。

“闇の種族”は、果たして神を信仰するのか否か。

 だが少なくとも、彼女の表情や口調には陶酔感や盲信の(ひず)みは感じない。


「その教祖様が、なぜリロイの中にいる? あの化け物の姿が、エミールなのか」

「あれは、単なる力の具現にしか過ぎません」


 リロイの身体から剥がれ落ちた獣の残骸を指さして、レディ・メーヴェは言った。


「彼には、もはや姿形という概念がないのです。それ故に、彼はこの世界のどこにでもいることになります」

「まるで──」


 私はふと頭に過ぎったことを口にしようとして、慌てて止める。

 あまりに馬鹿げた妄想で、理知的な私には相応しくなかったからだ。


「──では、リロイのあれはなんだ」

「正直に言うと、わかりません」


 レディ・メーヴェが首を横に振ると、銀細工のような髪がふわりと広がった。


「彼の中にロキの存在を感じるのは確かですが、それがなにを意味するかまでは……」

「ロキとは誰のことだ」

 私が問うと、彼女は口元を指先で隠した。「ああ、つい。彼はそう名乗っていた時期が一番長かったので、アシュガン以外はみんな、そう呼んでいたのです」

「ここまでで一番どうでもいい情報だな」


 私は、ため息をついた。

 ──結局、リロイの獣化については殆どなにもわからないということか。

 私は、一糸まとわぬ姿のリロイを獣の死骸から引きずり出した。それを肩に担ぎ、踵を返す。

 そこで、大事なことを聞き忘れていたことに気づいた。

 答えがあるのかどうかもわからないが、足を止めて振り返る。


「おまえたちは、私の相棒をどうしたいんだ」


 これにレディ・メーヴェは、即答しなかった。

 韜晦(とうかい)したり嘘をつこうとしているわけでないことは、その表情からもわかる。

〝殺戮の淑女〟が困惑し、考え倦ねている様子はなかなかの見物だ。

 私は答えを待たずに、歩みを再開する。どうやら、彼らの中でも明確な方針があるわけではないらしい。

 さすがに獣化した状態であったとしても、アシュガンやレディ・メーヴェに共闘されるのは避けたい事態だ。


「あなたの相棒に、伝言をお願いできますか」


 立ち去ろうとする私の背に彼女の声が届いたが、私は振り返らないし足も止めない。


「自分を畏れないで、とそうお伝えください」


 リロイが畏れるとは、なかなか面白い冗談だ。

 私は、鼻で笑う。


「あなたもですよ、〇一〇九(エアスト・ノイン)──畏れは、目を曇らせるのですから」

「製造番号で呼ぶな、と言ったぞ」


 思わず振り返った私は、しかしそこに、あの少女の姿を見いだすことはできなかった。

 ひとつ舌打ちをしてから、横たわるリリーのもとへ向かう。

 私は担いでいたリロイをいったん下ろし、改めてふたりを担ぎ直そうとしたところではたと気づいた。


 剣は、どこだ?


 私は慌てて周りを見渡したが見つかるはずもなく、そして遅まきながら気づいた。

 リロイが獣化したとき、剣はベルトに提げられていた。

 着ていたものは一切合切が獣の残骸の中に混ざってしまっているから、剣もあの中か。

 私は引き返し、異臭を放つ黒い物質を見下ろして顔を顰めた。こういうとき、人間とまったく同じ五感を備えているのも考えものだ、と製作者に愚痴を言いたくなる。


 気は進まないが、さりとてこのまま眺めていても始まらない。


 意を決して、手を突っ込んだ。

 なんともいえないぬるりとした感触に、思わず呻いてしまう。指先に触れるのは溶けた肉や骨の破片、皮膚の欠片などだが、リロイの服の一部と思しき布の感触もあった。それらを掻き分けていくと、やがて、硬い感触に辿り着く。

 掴んで引き抜くと、鞘に収まった剣が姿を現した。

 私は溜息をつき、意外と粘っこい腐肉を鞘から叩き落とす。なんとも気分が悪い。


 だが、私は気づいてしまった。


 この腐肉の中には、まだリロイの大事なものが埋もれている。私にとってはどうでもいいものだが、あいつにとってはそうではない。


 なぜ、その存在に思い至ってしまったのだろうか。


 私は自らの聡明さを恨みながら、もう一度、獣の残骸に手を突っ込んだ。人間は息を止めれば、短時間とはいえある程度の悪臭を防げるが、私はそうもいかない。あらゆる情報が勝手にデータとして採取され、それに対する不快な感情をもわざわざ発現させてくれるのだ。


 なんという無駄なこだわりか。


 心の裡で悪態をついた頃、ようやくそれが指先に当たった。硬く無骨な、金属の塊。私はそれを引きずり出し、付着した肉を振り払う。


 銃だ。


 これをなくしたとなれば、見つかるまで地底湖をさまよいかねない。

 私はなんと有能で優しい相棒だろうか。

 銃をふところに収め、剣を腰に提げた私は、自らの献身に満足しながら身をひるがえした。


 そろそろ、自己紹介をしておこう。


 私の名は、ラグナロク。

 エメラルドの瞳と、レディ・メーヴェのそれに勝るとも劣らない美しい銀髪、そしてローブを幾重にも重ねて着込んだ見目麗しい美青年――これは、空気中の分子を利用して創られた、立体映像(ホログラム)である。

 先ほど腐肉の中から引きずり出した剣、それこそが、本当の私だ。















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