第一章 12
薄闇の中、淀んだ空気が饐えた臭いを運んできた。
そもそもが人の居住を考慮していないので、空気の流れが悪く、湿気もあって黴臭い。ディトマールは地下街と表現していたが、倉庫として使われていた広い空間とそれらを繋ぐ無数の通路は、どちらかといえば迷宮と表現するのが相応しく思えた。
人影も、ある。危険地帯、という話だったが、入り口付近にはいきなり襲いかかってくるような輩はいないようだ。むしろリロイの姿を目にすると物陰に身を隠し、やり過ごそうとする者のほうが多い。
夜陰に乗じて教会に忍び込み、〝深紅の絶望〟の拠点へ進入したリロイは、特に考えることもなく先へ進んだ。この迷宮のどこかにカルテイルが潜んでいたとして、偶然そこへ辿り着く確率はどれほどだろうか。
左腕の切断面が疼くのか、リロイは時折、無意識に掻き毟っている。真新しいレザージャケットのだらりと垂れ下がった袖が、心許なげに揺れていた。
偽らざる本音を言えば、現状で敵のふところに飛び込むことには反対だ。カルテイルの力は未知数で、リロイは腕を失った事による肉体バランスの変化により、一時的に戦闘能力の低下が見られるだろう。
失った体力も、大きい。
あの日、リゼルたちとともに入ったレストランで、リロイは大量の料理を平らげた。帰り際、領収書に記載された値段を見てリゼルが卒倒しかけたほどだ。
失われた血の補填と、これから肉体の再生に費やされるエネルギーの一部は摂取できたが、それでもまだ十分とは言えない。
少なく見積もっても一週間ほどは、体力の回復に費やすべきだ。
そう言って、素直に聞くような男ではないが。
「新しい服の着心地はどうだ」リロイが着ているレザージャケットは、これもまたリゼルに払わせたものだ。レニーの介入で危うく真っ白なロングコートを買わされそうになったが、漂白されることなく、なんとかいつも通りの色に収まった。
「悪くない」結構な値段だったのだが、リロイの感想は素っ気ない。「ちょっと動いて慣らしたいところだがな」
この場合の動く、というのは健全な運動のことではない。
「身体のほうも、だろう」私が言うと、リロイは口の端を少し歪めた。
「それより、腹が減って仕方ないのが問題だな」
そう呟くと、ナップザックの中から取り出した干し肉の塊に齧りついた。寝ているとき以外は、絶えず食べている。身体に吸収された栄養素は、直ちに左腕の再生へと注ぎ込まれているのだ。
その塊の二本目を取り出したところで、数人の男たちが行く手を遮った。
示し合わせたように、後方にも何人かが立ち塞がる。
リロイは彼らを一瞥したあと、二本目を食い千切った。
「いいもん食ってるじゃないか」
前方にいた、長髪の男が言った。伸ばしているのではなく伸びた、といった感じのするぼさぼさの頭だ。
「俺たち腹ぺこでよ。ちょっと分けてくれよ」
「いいぞ」
リロイは快諾する。
そして、食べかけの干し肉を男に差し出した。
長髪の男はにやりと笑い、差し出された手を叩いて払う。リロイの手から吹っ飛んだ干し肉が、通路の壁に当たって落ちた。落下した先は、なにかよくわからない汚水だ。
「おいおい、誰かおまえの食いかけを──」挑発的な男の言葉は、そこで途絶えた。
リロイの二本の指が、彼の眼球に突き刺さったからだ。
指先に押し潰された男の眼球は、硝子体と血が混ざった液体をどろりと流す。リロイはそのまま指先を男の眼窩に引っかけ、引き寄せた。
「食べ物は粗末にしちゃ駄目だろ」 絶叫する男を、リロイは指先だけで壁際まで引きずっていく。周りの男たちは、唖然として固まっている。彼らの誰ひとり、リロイの擬態を見抜けなかったらしい。
「腹が減ってるんだろう、食え」リロイは男の眼窩から指を抜くと、汚水に浸かっていた干し肉を拾い、激痛に吠えている男の口腔へと押し込んだ。「結構、高かったんだ。美味いだろ」ちなみにこの肉も、リゼルに払わせたものだ。
喉まで肉を突っ込まれた男は、勢いよく絶叫できなくなり、くぐもった呻き声を漏らす。リロイは肉を押し込む手を止めなかったので、遂には完全に気道が塞がってしまう。
ここに至り、ようやく数人が駆け寄ってきた。口々に罵声を吐き出しながら、リロイに掴みかかる。
一人目の指先が肩に掛かった瞬間、リロイは振り向きもせずに肘を背後へ撃ち込んだ。それは男の顎を側面から強打し、衝撃で顎の関節が破壊される。顔の下半分が歪んだその男は、声にならない悲鳴をあげて崩れ落ちた。
肘を撃ち込んだ勢いのまま、リロイは身体を半回転させる。
流れる視界の中に映るのは、顎を砕かれて倒れている男、腰のベルトに差していた短剣を引き抜く小柄な男、そこらに転がっていただろう木の棒を手にした長身の男、そして長い握りのついたハンマーを握り締めた男だ。
まだ他の連中は、間合いに入っていない。
リロイは回転を止めないまま、蹴りを放った。靴裏は、短剣を握っている男の手首を直撃する。骨が砕け散り、力を失った指先から短剣が飛んでいく。
苦鳴を漏らして蹌踉ける小柄な男へ、リロイは手を伸ばした。
首の後ろを掴むと、一気に引きずり倒す。
下には、顎を砕かれた男が倒れていた。激突する寸前、ふたりの視線が交錯するが、お互いの瞳の中に見たのは同じ絶望と恐怖だけだったろう。
頭蓋骨の拉げる音が、響く。
強い衝撃にふたりとも眼球が飛び出し、鼻孔からは血の混じった髄液が噴出した。
ハンマーを手にした男が、雄叫びを上げる。
怒りではなく恐怖が、彼の喉を震わせた。
重々しい鎚頭でリロイを粉砕すべく、ハンマーを振り上げる。
だが、あまりに鈍重だ。
振り上げたところで、ハンマーはぴたりと止まる。男はなぜそこで止まってしまったのか理解できず、渾身の力で振り下ろそうと踏ん張った。
目の前にいたはずのリロイがいなくなっていることに、気づかぬまま。
「落ち着け」
背後からリロイに声をかけられ、男はぎょっとしたように振り返った。そこでようやく、気がつく。眼前にいたリロイが背後で、ハンマーの柄を掴んでいることに。
「少し、訊きたいこともある。そんなに早く死なないでくれよ」
「待て、待ってくれ」
そう言ったのは、ハンマーを握った男ではない。
前方に立ちはだかった男たちの中から、比較的まともな身なりをしたひとりが進み出た。目の細い、若者だ。彼は、リロイの間合いには踏み込まない位置で足を止めると、両手を挙げた。
「すまなかった。俺たちは、あんたに喧嘩を吹っ掛けろって雇われただけなんだ」そう言うと、床の上で絶息している男たちをちらりと見やる。「もう三人も殺された。あんたには敵わない。――見逃してくれないか」
「本気で言ってるのか?」
リロイは、驚いたように目を丸くした。
そして少し、笑う。
「冗談だよな?」
こう聞き返されて、細めの男は狼狽したように見えた。
「冗談じゃねえよ」そう言い放ったのは、ハンマーを握った男だ。喧嘩か、あるいはケアを怠ったのか、変色し、あるいは抜け落ちた歯を威嚇するかのように剥いて見せた。
「あんな端金で死にたくねぇ。金はやるから、手を離せよ」
喚く男は、突然、前のめりになった。
蹈鞴を踏んだ男は、リロイがハンマーから手を離したのだと理解し、振り返ると下卑た笑みを浮かべた。
「へへっ、ありがとよ」
「気にするな」
リロイは頷いたあと、手の中のハンマーを肩に担いだ。男は目を瞬かせてから、なにも握っていない自分の両手を見下ろし、理解する。
「だが、口の利き方には気をつけろよ」
そう忠告したが、それはまったく意味がない。
なぜなら次の瞬間、それを理解するための男の脳が破裂していたからだ。
ハンマーが空を切る轟音に、頭蓋骨の爆ぜ割れる音が呑み込まれる。頭上から振り下ろされた鎚頭は男の頭を踏み砕き、押し潰された脳が周りの床に飛び散った。
リロイの膂力に加速度と重量の加わった打撃は男の頭のみならず、その脊椎を粉砕し、肋骨をへし折り、心臓を破裂させる。
膝が砕け、身長が三分の一ほど縮んだ男の身体が崩れ落ちると、大量の血が迸った。
男たちは、逃げ出すことも忘れて立ち竦む。
「やっぱりバランスが悪いな」リロイはそう呟きながら、ハンマーを持ち上げる。鎚頭には、血まみれの頭髪と肉片がたっぷりと付着していた。
リロイの呟きは、粗雑なハンマーの作りのことではなく、自分自身の肉体のことだ。普通は片腕を失ってすぐの状態でここまで動けるはずはないのだが、それでも納得のいくレベルではないらしい。
「おい、おまえら」リロイが男たちに声をかけると、彼らは一様にびくりと肩を震わせた。「悪いと思ってるなら、ひとりずつそこに並んで立て」
なにをするとは言わなかったが、なにをしようというのかは明確だ。
誰もが思わず、頭を打ち砕かれた屍に目を向ける。
「金なら、ほら、全部渡す」細めの男は、革製の袋を取り出すと、周りの仲間にも目配せした。さすがに撲殺されるのは嫌なのか、異を唱える者は誰もいない。
「受け取ってくれ」
細めの男は、まるで捧げ物でもするかの如くリロイに革袋を差し出してくる。
だが、恐怖で指先が滑ったとでもいうのか、革袋を取り落とした。
普通の人間は無意識に、落下する革袋を目で追ってしまう。
そして、細目の男が袖口に忍ばせていた柳葉状の手裏剣を見逃してしまうのだ。
彼もまた、この絶妙なやり口に相当の自信があったのか、下に落ちた財布を目で追う振りをして俯いたその口元に、微笑が浮かんでいる。
だからこそ、手裏剣を引き抜こうとした腕を掴まれたとき、顔色が変わった。
「演技には自信があったか?」リロイは、意地の悪い笑みを浮かべる。「なら、周りの連中に合わせて、怯える振りもしとくべきだったな」リロイは端から、彼の財布など見てはいなかったのだ。
そのとき背後から、何者かが高速で接近してきた。
明らかに、周りの男たちとは一線を画した動きである。この場所にしては小綺麗な服を着ているのは、細目の男と同じだ。
長い髪を後ろでまとめたその女に、私は見覚えがある。
“紅の淑女”でシルヴィオとの戦闘に巻き込まれ、リロイが助けた娼婦のひとりだ。あのときとは違って派手な化粧もなく、ドレスもない。
その手に握っているのは、短剣だ。
音もなく肉薄し、その切っ先をリロイの背中に突き立てんと繰り出してきた。
同時に細目の男も、リロイに掴まれているのとは逆の袖口から、二本目の手裏剣を滑るように手の中へ取り出している。それを脇の下めがけて、突き上げてきた。
さらにそこへ、男たちの間をすり抜けるようにして投げナイフが飛んでくる。狙いは、リロイの左側面だ。
なかなか、綿密な連係攻撃である。
リロイはこれを、力で迎え撃った。
細めの男を、片手で振り回したのだ。
彼の身体で飛んでくるナイフを叩き落とし、そのまま背後に肉薄していた女に激突させる。まさか仲間の身体が飛んでくるとは予測していなかったのか、辛うじて頭を庇いながらも、女の身体は床上に吹き飛ばされた。
すぐさま立ち上がるが、脳震盪でも起こしたのかふらついている。
リロイは、細目の男を放り投げた。壁に激突して落下したが、ぴくりとも動かない。
おそらく、投げないナイフに毒が塗ってあったのだろう。
リロイが毒に強い体質であることはわかっているだろうから、普通の人間なら即死級のものを用意したようだ。
「転職かい」リロイも、彼女の顔を覚えていたらしい。「残念だが、あまり向いてないようだな」それは、多分に皮肉が含まれた苦言だった。
女は微かに目元を歪めただけで、応えはしない。
今度は背後から投擲されるナイフに合わせて、低い姿勢で突っ込んできた。
リロイは、足下に放り出していたハンマーに爪先を引っかける。空中で柄を掴み取り、振り返りざまにナイフを弾き返した。
打ち払われたナイフは、回転しながら男たちに向かう。
事態の急転について行けずに固まっていた中のひとりが、運悪くナイフを受けてしまい、声もなく崩れ落ちた。
大きなハンマーを振り回した直後には隙がある、と短剣を握った女は判断したのだろうか、一気に加速して間合いへ飛び込んでくる。
果たして彼女は、顔の真横に鎚頭が迫っていることに気がついただろうか?
女の顔が、バラバラになって飛び散った。
顔面が鎚頭の激突に耐えきれず、骨ごと粉砕し、剥がれたのだ。よろよろと二、三歩、横手に歩いたあと、大きく破損した前頭部から脳がこぼれ落ち、そのまま頽れた。
男たちが、小さい悲鳴を上げて逃げ出し始める。
リロイは、手にしたハンマーを思い切り投げつけた。
男たちにではない。
それはしかし結果的に、軌道上にいた男たちを薙ぎ払いながら、狙う相手の胸部に激突した。胸骨と肋骨は枯れ木のようにへし折られ、めり込んだ鎚頭がその打撃力で脊椎までをも打ち砕く。そのまま背後の壁に激突し、ハンマーを胸に抱いたようにして絶命したのは、リロイが助けたもうひとりの娼婦だった。
投げナイフを投擲していたのは、彼女だったのだろう。
「さて」リロイは、脱兎の如く逃げ出した男たちを見やる。かつて助けた人間に刃を向けられ、それを返り討ちにした感慨はこの男にはない。
あのときは助けた。
今は殺した。
ただそれだけのことなのだろう。
そしてリロイは、残りを片付けるべく動き始める。投擲したハンマーの巻き添えを喰らった男たちは呻き声を上げ、立ち上がる気配がない。まずは、元気よく逃げていくほうからだろう。
「ん?」 しかしリロイは、眉根を寄せた。
一心不乱に逃げ出そうとしていた男たちが、リロイがなにもしていないうちにバタバタと倒れ始めたからだ。
なにかが飛来した気配もない。
だがそれは、間もなくリロイをも襲来した。
目眩でもしたかのように身体がぐらつき、二、三歩、後退る。物理的に、攻撃されたわけではない。
これは、匂いだ。
かすかに甘い香りが、男たちが倒れたほうから漂ってくる。おそらくこの匂いを吸い込んだことでなんらかの薬物が脳に作用し、昏倒させたのだろう。
しかも数人が、激しく痙攣を始めている。吸い込んだ量や体質によっては、ただ眠るだけではすまない劇薬のようだ。
「やっぱり、効かないわね」
大の大人が即座に昏倒するような薬物も、リロイの肉体は瞬時に分解してしまうため、殆どその効果は現れない。
「それじゃ、わたしがこんなもの振り回しても無駄かしら」
そう言って、手にしていた短剣を軽く振って見せたのは、リリーだ。
「よう」
リロイは、笑う。それは、馬車の中で彼女に向けたのと同じ笑顔だ。それを目にしたリリーは、可憐な唇を歪め、唾と一緒に言葉を吐き捨てた。
「なによ、その顔は」
「笑うと愛嬌が出るって評判だぞ」
そんな評判などついぞ聞いたことはないが、リリーは忌々しげに舌打ちしただけで、その真偽には取り合わなかった。
「他に言うことがあるでしょう」それはまるで、自分への罵倒を求めるような、奇妙な催促だった。
リロイは少し困ったようにも見えたが、すぐに口を開く。
「本当に学校へ行ってみないか」
「は?」
その提案もまた彼女の予想の範囲外だったらしく、かくん、と開いた口が彼女の驚愕を物語っていた。
だがすぐに、顔が歪む。
それは恥辱と怒りと──哀しみだろうか。
彼女は手にしていた短剣を、リロイに投げつける。刺すために投擲したのではなく、癇癪を起こして投げつけたのだ。それはリロイの身体には届かず、床の上に落ちると乾いた音を立てて滑っていく。
「ふざけるんじゃないわよ!」激昂したリリーは、昏倒している男たちを蹴り飛ばしながら、リロイに近づいてくる。いよいよ甘い香りが強くなるが、リロイの身体はすでにこの毒に対する抗体を造り出しているのか、びくともしない。
「ふざけるな!」
目の前まで歩いてきたリリーは、もう一度そう繰り返すと、その小さな手で、思い切りリロイの腹部を殴りつけた。
素手で、鉄の塊を打つようなものだ。
苦痛の呻きを漏らしたあと、憎々しげに悪態をつく。
「ふざけてなんかいないぞ」
今度は向こう臑を蹴りつけられながら、リロイは大真面目に言った。
「身寄りのない子供を育ててくれる施設が、ヴァルハラって会社にあるそうだ」
「わたしは別に、身寄りがないわけじゃない」今度は蹴った足が痛かったのか、苦痛の表情を見られないように背中を向けてリリーは言った。「それに、あんな怪しげな会社、信用なんて出来るわけないでしょ」そういうことなら“深紅の絶望”ほど怪しい組織もあるまい、と思うのだが、リロイはそう言わなかった。
「もうすぐ身寄りがなくなるんだ、先のことを考えておくべきだろ」
それは、“深紅の絶望”が壊滅することを明言するものだった。
またしても、リリーの顔が憤激に歪む。
「あなたは今から、カルテイル様に殺されるのよ」
「どうして、俺を殺したいんだ?」
まあ、当然の疑問だ。今まで気にならなかったほうがおかしい。
「さあ」しかし、リリーの返答は素っ気ない。「そのにやけた馬鹿面に腹が立ったんじゃないの」小馬鹿にしたように鼻を鳴らす少女は、いかにしてリロイの精神的動揺を誘うかと苦心しているようにも見える。
「いや、面識はないだろ」
しかしリロイは、そんな彼女の努力を素で打ち砕く。
それがいよいよ、彼女の怒りに火をそそぐのだ。
リリーは歯をぎりりと噛み鳴らし、誰かが放り出していった棒を拾い上げる。「いちいちうるさいのよ、あんたは!」そしてそれを、リロイの腰に叩きつけた。
彼女の細腕では十分な威力を得られず、打撃は弾き返される。彼女は棒を取り落とし、またしても忌々しげに悪態をついた。
「なにが学校よ、馬鹿にしてっ」まるで侮辱されたかのように、リリーは唸った。
どうでも良いことなら、一笑に付せば良い。感情を露わにして否定することが、とりもなおさず彼女の心の奥に潜む願望を浮き彫りにしていた。
「こんな身体で、どう通うって言うのよ」彼女は、微かに震える声で言った。「特殊な薬を常用してないと、汗を掻いただけで毒をまき散らすのよ? そんな危険な人間と、同じ部屋で勉強なんて出来ると思ってるの!?」
「思ってるよ」リロイは、こともなげに言い切った。「全員、鼻栓すればいい」
よくもまあそんなにも浅はかな考えを口に出せるものだ、と私は目眩すら覚えた。
愚弄された、とリリーが烈火の如く怒り出すことは必定だ。
しかしながら、薄暗い地下街にこだましたのは笑い声だった。
リリーが、乾いた声で笑っている。
ひとしきり笑うと、彼女は笑いの余韻を溜息で吐き出した。
「本当に馬鹿な男ね」
吐息の底で、言葉が濁る。
「あなたと話してると、馬鹿がうつりそう」
彼女は、リロイの傍らをゆっくりと通り過ぎた。「カルテイル様のところへ案内するわ。ついてきなさい」そして振り返らずに、薄暗がりへと歩き出す。
その後、何度か話しかけてみたものの、彼女は口を開くどころか振り返ることすらなかった。
彼女が次に口を開いたのは、迷宮内にいくつも存在する、なんの変哲もない木製の扉の前だ。
「ここよ」
リリーは、その扉を指さした。
「この中で、カルテイル様がお待ちになってるわ」
リロイは周囲を一瞥する。ここまで歩いてきた地下街の、そのいずれとも差違のない風景だ。警備や護衛の類いすら、見当たらない。
「もしかして、地下街の最奥に居城でもあると思ってた?」
そう言って嘲笑するリリーは、残念ながらいつもどおりの彼女だった。
「ああ」リロイは、素直に頷いた。「どでかい部屋に高そうな椅子を置いて、ふんぞり返ってると思ってたよ」これも別に馬鹿にしているわけではなく、この男の発想が貧困なだけである。
リリーはやはり苛ついたように頬を歪めたが、そろそろ素のリロイに対して怒ってみたところで意味がないと気づき始めたらしい。
「それじゃあね」
冷淡にそう言って、踵を返す。
「学校の話、考えといてくれよ」しかし性懲りもなく、リロイは彼女の背中に言った。
足早に立ち去ろうとしていたリリーは、足を止める。
大きく、息を吸い込んだ。
怒鳴り散らすかと思えば、肺の中の空気をゆっくりと排出していく。その深呼吸で心を落ち着かせたのか、返ってきた言葉に熱はなかった。
「もう会うこともないでしょう。さよなら」
「ああ、またな」
リロイの返答に、リリーの肩がぴくりと震えたが、もうなにも言わずに立ち去っていった。
「おまえは本当に馬鹿だな」
彼女の姿が見えなくなり、リロイが扉を開けようとしたところで、私は言った。
「なんだよ、今更」
まさにこういうところが、リリーの神経を逆撫でするのだろう。
「あんな言い方で、本当に彼女がこの組織を抜けるとでも思っているのか」
「さあな」
リロイは肩を竦め、ドアノブを掴む。「決めるのは彼女だ。俺の言い方の、上手い下手じゃない」
「おまえはもう少し、人が弱いものだと理解すべきだな」
どうして私が、人間に人間の扱い方を指南しなくてはならないのか。
リロイは扉を開けながら、「理解してるよ」と言ったが、怪しいものだ。
開いた扉の向こう側には、通路が延びている。
そして人が隠れるような場所もない狭い通路を進むと、また同じような扉が現れた。
そのドアノブを掴んだリロイは、まるで電流でも流れていたかのように手を離す。
「なるほど」小さく、呟く。私が「なにがだ」と問うと、リロイは口の端を吊り上げた。
「化け物がいる」
私には、人の気配すら感じられない。
そもそも、この男が普段は口にしないようなことを言ったのが驚きだ。
化け物に化け物と言わしめる存在とは、いったいなんなのか。
リロイは臆せず、扉を開いた。
驚くほど清潔で格調高い部屋が、現れる。
一瞬、ここが地下街ではなく、どこかの高級ホテルの一室ではなかったかと思わせる内装だ。ここまでは剥き出しだった壁や天井には上品な色合いの壁紙が貼られ。足下には毛足の豊かな絨毯が敷き詰められている。“紅の淑女”でシルヴィオが案内した部屋に勝るとも劣らない高級な家具と、部屋の一角にはミニバーすら設えてあった。
微かに漂うのは、香の匂いか。
だが、それらすべての印象が、次の瞬間に色褪せる。
部屋の主の存在に、気づくからだ。
彼はソファに座り、本を読んでいる。身体をすっぽりと覆う外套に、頭巾を目深に下ろしていた。
座しているが、立てばおそらく二メートルを超える巨漢だろう。
リロイが部屋に入ると、読んでいた本を閉じ、男は頷いたのか軽く顎を引いた。
「ようやく会えたな、リロイ・シュヴァルツァー」
腹に響く、重くて低い声だ。口調は穏やかで、非合法組織を率いる者にしては高い知性を感じさせる。
その男──カルテイルは、小さく笑った。
「この時を待ちわびたぞ」
「だったら最初から、自分の足で会いに来い」
リロイにしてはもっともな主張だ。
カルテイルは、しなやかな動きで立ち上がる。「そうしたいところだが、そうもいかなくてな」立ち上がった彼は、顔を覆っていた頭巾を後ろへはねのけた。「外を歩くとなにかと目立つ。こんな顔だからな」
現れたのは、人間の頭部ではなかった。
平たい額に、前に突き出した鼻と口、そしてその大きな口からは鋭い牙がのぞいている。雪のような白銀の毛が頭全体を覆い、黒い毛が隈取りのように文様を描いていた。
双眸は、血の如き赤――それは紛う事なき、虎の頭だった。
「なるほど、確かに目立ちそうだな」
リロイは、カルテイルの瞳を真っ向から見据えた。
虎の顔をした男は、人間の瞳でリロイを見下ろす。
「恐れぬか」
「なにを?」
リロイは、眉根を寄せる。「おまえの顔か、それともおまえ自身か。あるいは“深紅の絶望”? 」そして、首を横に振った。「本当に怖いのは、そんなものじゃない」
虎の口が、笑みを象った。
「では、恐れを知らぬおまえの目に、俺はどう映る? 人間か獣人か、あるいは――」カルテイルは、鼻面に厳めしい皺を作った。「あるいは、“闇の種族”か」
確かに、白虎の頭をした人間、というのは考えにくい。
では、獣人か――となると、やはりそれにも疑問符がつく。獣人の定義がはっきりと決まっているわけではないが、概ね、人間の姿から動物へと肉体が変化するものを指す場合が殆どだ。そして変化したあとは、ほぼ獣の生態に準ずる――つまり、カルテイルのようにソファに座して本を読む、などということは出来なくなる。
となると、残るは“闇の種族”となってしまうが……。
リロイは、どう答えるか。
「おまえは、どれがいいんだよ」
むしろ訝しむように、リロイは聞き返した。
カルテイルは、その真意を計るかのようにリロイを凝視する。「どれがいい、だと?」それはリロイに向けてではなく、自分自身への呟きのように、口の中だけで囁かれた。
「どれでもいいんだよ」
リロイにとっては当たり前の話をカルテイルがすぐに理解しないことに苛立ったのか、舌打ち混じりに言い放つ。
「おまえがなりたいものになればいい。勝手に選べ」
「――ふむ」
深く思索するように、カルテイルの眼差しが遠くなった。
そして、独り言のように言葉を紡ぐ。「俺は、自分が何者か知りたかった。ずっとな」
「自分探しなら、旅に出ろ」
リロイは、にべもなくカルテイルの述懐を遮った。
「そんなことより、まさかそれが訊きたかったから、俺を狙ったなんていうつもりじゃないだろうな」内側に押し込めていた憤激が、じわりと口調に滲み出る。「そもそも俺とおまえは、初対面だ。人生相談がしたいなら、相手を間違ってやしないか」
「――そうじゃない」
カルテイルは、重々しく首を横に振った。「俺はおまえを、以前から知っている。遠く弥都にいた友人からの手紙でな」
「まさか――いや」
反射的に否定しかけたリロイだったが、すぐに、得心がいったように呟いた。
「那魄・藤香」
カルテイルは、不吉な赤い瞳に不釣り合いな、悲哀の色を浮かべる。
「その頃、那魄はすでに正気を失いつつあった」そう語り出す彼の言葉には、昔日への郷愁が滲み出ていた。「間もなく人ではいられなくなる、と感じたのだろう、ただひとりの弟子の身を案じ、俺のもとへ送りつけてきた。面倒を見て欲しい、とな」
それがあの、シルヴィオか。
「あいつはあのまま、狂気の中で朽ち果てるはずだった」
カルテイルは、リロイをひたと見据える。「そこに現れたのがおまえだ、リロイ・シュヴァルツァー」
「なんだ、結局おまえも仇討ちか?」リロイの顔には、うんざりした表情が浮かんでいた。「そのたったひとりの弟子は、返り討ちに遭ったぞ」
「シルヴィオに関しては、こうなるだろう事は予感していた」カルテイルは、バーのほうへと向かう。一歩、彼が歩くたびに床がその重みに軋んだが、動きそのものに鈍重さは感じられない。「そうとしか生きられないのなら、そうする他にない」彼の指先もまた、獣と同じく毛に覆われ、短剣のような鋭い爪が伸びていたが、それで器用に手にしたのは急須――弥都で使われる、茶の道具だ。
「忘れて生きていけないのなら、死ぬのもまた救いかもしれん」
「じゃあ、おまえはなにが忘れられなくて、死にたがってるんだ」リロイは出入り口の壁に背を預け、双眸を炯々と輝かせた。「――言ってみろよ」
「那魄からの最後の手紙だ」
カルテイルは手慣れた様子で、急須の中の茶を湯飲みにそそぐ。
「そこには、おまえについて書かれてあった。俺とよく似ている、とな」
「俺はおまえほど毛深くないぞ」
リロイが抗議の声を上げると、カルテイルはにやりと笑いながら、湯飲みを差し出してきた。「那魄は、繊細だった。鋼糸使いとして並外れた才覚を発揮しながらも、人殺しの技を研鑽することに懊悩し、その果てに正気を失うほどにな」
リロイは、ゆっくりとカルテイルに近づいた。湯飲みを受け取る距離は、まさしく両者にとって必殺の間合いだ。
「だからこそかも知れないが、那魄は不思議な感性を持っていた」
リロイは、カルテイルから湯飲みを受け取る。
その瞬間、唯一の手が塞がれてしまう。
攻撃を仕掛けるには、またとない好機だ。
しかし、カルテイルはその機に乗じる気がないのか、話を続ける。
「特殊な眼差しとでも言おうか。我々のような無骨者には視えないなにかが、確かにあいつには視えていたようだ」
それは、どこか羨望を感じさせる口調だった。
「その那魄が最後に記したのだ、我々の相似点は外見ではなく、内側にあると」
「まあ、腸は大抵、同じだろうな」
リロイは、襲撃される可能性についてどう考えているのか、端から見ればリラックスした様子で茶を啜った。「なんなら、おまえの腹を掻っ捌いて確かめてやってもいいぞ」
「魂の話だ」茶化すリロイに対し、カルテイルは淡々としていた。「魂の有り様において我らは兄弟だ、と那魄は言っていた」
「なにが兄弟だ、ふざけるなよ」
飲んだお茶が酷く苦かったかのような顔をして、リロイは言った。「そういうことは、せめて全身の毛を真っ黒にしてから言え」
忌々しげに言い放ったが、それを聞いたカルテイルは一瞬、虚を突かれたかのような顔をした。
それから、声を出して笑う。
「面白い」彼は肩を震わせ、喉を鳴らした。「俺にそんな口を利いた奴は久しぶりだ」
「へえ」リロイは、両目を細めた。「前に言った奴はどうなった?」この挑発的な問いかけに、カルテイルは牙を剥いて応じる。
「墓の中で、今でもがたがた震えてるだろうな」
その表現が気に入ったのか、リロイは口の端を吊り上げて笑う。
「おまえの墓を掘るのは難儀そうだな、でかぶつ」
「折りたため。できるならな」
カルテイルは、瞳に赤光を漲らせる。
部屋の空気が膨張したような錯覚を覚えた。
それまでが逆に静かすぎたのだ、と思わせるほどに、カルテイルの身体から音を立てて闘気が噴き出し始める。
「結局は、こうか」口調はため息交じりだが、リロイの表情はそれを裏切っていた。
カルテイルもまた、大きな口の両端を吊り上げている。
「話し合いでケリがつくのなら、こうは生きていない」彼は、諦観ではなく確固たる意思を見せて言った。「俺は見たいのだ、おまえの中に眠る獣を」
「だったら、殺してみろよ」
リロイは、剣の柄を握る。「ただ、気をつけろ。寝起きが最悪だぞ」
「留意しよう」
カルテイルは湯飲みの茶を最後に一息で飲み干すと、外套を脱いでリロイと対峙する。
「最後に、ひとつだけ教えてくれるか」
「なんだよ」
リロイも湯飲みを空にすると、バーカウンターへ転がした。
「おまえは、なにを選んだ」
カルテイルの虎の目は、その答えを希求して爛々(らんらん)と輝いている。
リロイは、鼻で笑った。
「決まってるだろ。――リロイ・シュヴァルツァーだ!」
そして一気に剣を引き抜くや否や、雷撃の如くカルテイルに撃ち込んでいった。
刃は、肩口を引き裂くべく叩きつけられ――そして、空を切る。
爆発音と振動は、床からだ。
カルテイルの巨躯が高速で移動したため、絨毯を敷き詰めた床が大きく撓み、その衝撃が部屋全体を震わせた。
風が、唸る。
巨大な物体が高速移動したことで、部屋の中に暴風の如き空気の渦が生じていた。
リロイのレザージャケットが、激しくはためく。
圧力が、側面より押し寄せてきた。
リロイは、身体を捻りながら跳躍する。
その背中に感じた暴風は、バーのカウンターを直撃した。天井付近にまで飛び上がっていたリロイの眼下で、木製のカウンターはカルテイルの拳を受けて爆散する。飛散する破片は、弾丸の如くカウンターの奥に並んでいた酒瓶を直撃した。
ガラスの砕け散る不協和音が連続し、飛び散ったアルコールの匂いが、カルテイルの起こした風に巻き上げられてリロイの身体に吹きつける。
リロイの足は、天井を捉えていた。
そこを足場に、下方のカルテイルへと一気に飛びかかる。今度はリロイの脚力で天井が陥没し、亀裂が走った。
その音に、カルテイルは俊敏に反応する。
カウンターを粉砕した右腕を引き戻しつつ、頭上からのリロイに対して左の拳を撃ち込んできた。
空中のリロイに逃げ場はない。
だがその手は、迷うことなく剣を投擲していた。
落下速度とリロイの膂力が加わった切っ先は、正確にカルテイルの顔面へ突き進む。
カルテイルは突き上げる拳と逆の手で、顔を庇った。切っ先は彼の掌に突き立ち、甲から飛び出す。
この威力をそれだけで受け止めるとは、なんたる頑強さか。
そして拳は、勢いを減じないままにリロイへ肉薄した。リロイは激突の寸前、右手で獣の拳に触れる。そして勢いを受け流すと同時に、そこを軸にして身体を回転させつつ豪腕の一撃を躱した。
駒のように回りながら、手と足を使って獣のように着地する。
そこへ、カルテイルの爪先が顔面に飛んできた。
爪の生えた足先が剥き出しの、靴底を革紐で固定した古代様式の軍靴である。まともに喰らえば顔の骨が砕け、爪で引き裂かれるだろう。
着地の衝撃を完全に殺せないうちに、リロイは素早く横倒しになって回避する。手足の腱が、かかる負荷に悲鳴を上げた。
蹴りが掠めていく風圧だけで、吹き飛ばされそうになる。
リロイは、絨毯の上を滑るように巨躯へ接近した。
大きく開いた両足の間へ、急所を狙って掌を突き上げる。
それを、カルテイルの拳が阻んだ。
振り下ろされた拳が、リロイの掌と激突する。肉の打ち合う音は、鼓膜を激しく震わせるほどに重い。
衝撃に、リロイの腕が軋んだ。
加重に関節が呻き、筋肉が限界を超える圧力に押し潰されそうになる。
凄まじい膂力だ。
リロイは、力比べなどにこだわらない。受け止めた拳を手首の返しで下方へ押しやり、同時に床を蹴った。
カルテイルはそのまま床を殴打し、部屋全体がその衝撃に揺れる。
リロイは、前のめりになったカルテイルの身体を掠めるようにして飛び越え、その太く逞しい首に両足を絡めた。
そして上体を起こすと、背中側からカルテイルの顔面に指先を伸ばす。
狙うのは、血色の瞳だ。
指先がその角膜に触れるか触れないか、のタイミングで、剣の刃が二の腕に襲いかかる。それは、カルテイルの左の掌を貫通したリロイの剣だ。
それを引き抜かず、剣身を掴んで叩きつけてきた。
乱暴にもほどがあるが、リロイはカルテイルの眼球を諦め、剣を躱しながら彼の背中側へと上体を倒す。
そして、腰から生えた尻尾を掴んだ。
その尻尾を起点に、カルテイルの首に回した足で一気に締め上げる。巨躯が弓なりになり、喉からは、狭まった気道を通る空気が音を立てた。
窒息か、頸骨粉砕か、あるいは尻尾が引き千切れるか――カルテイルは掌に刺さっていた剣を投げ捨て、両手でリロイの足を掴むや否や、猛然と後退する。彼の意図を察したリロイが離れようとする暇も与えずに、そのまま部屋の壁に突進した。
石壁と屈強な肉体が、リロイの身体を挟んで押し潰す。
リロイの肺から押し出された空気が、苦鳴と一緒に吐き出された。
激突の衝撃で壁が砕け散り、天井からは欠片が雨のように降ってくる。
逃げ場のない衝撃がリロイの体内で暴れ狂い、骨と内臓に多大なダメージを与えた。喉から血が迸り、カルテイルの首を絞めていた足から力が抜ける。
彼は素早くリロイの足を振り解くと、これを握り締めた。
リロイの身体が、軽々と持ち上げられる。
ふわりと浮き上がったその身体は、次の瞬間、猛烈な勢いで床に叩きつけられた。リロイは、咄嗟に右腕で顔を庇うことしかできない。
激突音が、室内の空気を破裂させた。
リロイの身体を受け止めた床は、木がへし折れる音をあげて激しく波打つ。床の羽目板が、衝撃で次々に捲れ上がっているのだ。
粉塵が、血飛沫のように噴き上がる。
カルテイルは、リロイの足を離さなかった。
そのままさらに持ち上げ、部屋の奥の壁に渾身の力で投げつける。
リロイはその時、僅か一秒ほど、意識を失っていた。
覚醒したとき、壁はもう目の前だ。辛うじて身体を丸めて衝撃に備えることはできたが、衝突を回避することはできない。
壁は、木っ端微塵に弾け飛んだ。
砕けた煉瓦が宙を舞い、リロイの身体は冷たい地面に叩きつけられた。二転、三転し、剥き出しになった土の上を滑っていく。
背中がぶつかったのは、荒く削られた岩盤だ。
どうも、拡張するために掘り進んでいた空間を、煉瓦の壁で仕切って部屋にしていたらしい。
リロイは悪態をつきながらも、すぐさま立ち上がった。しかし、蓄積したダメージがさすがに多すぎたのか、ふらついて岩盤にもたれ掛かる。
まあ普通なら、三回は死んでるところだ。
割れた額から流れ落ちる血が視界を塞ぎ、忌々しげに袖で拭う。
「どうだ、〝黒き雷光〟」
カルテイルが、崩落した壁を越えて近づいてきた。「目は覚めたか?」
「おまえ、ちょっと激しすぎやしないか」
リロイは口の中に溜まった血を吐き出し、にやりと笑う。
「俺は、優しく起こして欲しいほうなんだ。招待したのはそっちだろ? 気を遣えよ」
「気を遣うのに慣れてなくてな」
カルテイルは、剣が刺さった掌の具合を確かめるように、閉じたり開いたりを繰り返した。その傷口は、閉じかけている。リロイ並みの再生能力だ。
「だが、激しいのも悪くないぞ」カルテイルは、獣のように前傾姿勢を取った。「壊れなければ、な」そして、巨大な砲弾の如く突進してきた。
剥き出しの地面が、地を蹴る獣の足に陥没する。
連続する足音は、ただひとつの砲撃音として鼓膜を打ち据えた。
リロイは鋭く、呼気を吐く。
肉薄するカルテイルは、さながら押し寄せてくる巨大な壁のように見えた。
腰を低くしたリロイには、それを避けようという動きがない。
さしものリロイでも、カルテイルの重量に加速度が加わったこの突進を真っ向から受け止めるのは自殺行為だ。
白い巨躯が、黒い姿を呑み込んだ――そう見えた刹那、黒い疾風が駆け抜ける。
ふたりが激突する寸前、リロイは前進した。一歩目でトップスピードに達した“疾風迅雷”は、まさに紙一重で、突進する巨躯を撫でるように身体を旋回させながら躱した。
ふたりの間で空気が掻き乱れ、渦を巻く。
確実にリロイを捉えた、と確信したはずのカルテイルは、リロイの速さに反応できなかった。
旋風となってカルテイルの背後へ回り込んだリロイは、猛スピードで突き進むその巨体に蹴りを叩き込む。ブーツの硬い靴底が、白銀の背中にめり込んだ。自らの前進するエネルギーに蹴りの打撃が加わり、カルテイルの筋力を持ってしても急制動がかからない。
両手で頭を庇った状態で、固い岩盤に激突した。
まさに、砲弾の直撃が如くだ。
衝撃に負けた岩盤に亀裂が走り、それが天井にまで奔る。激突の轟音が、広い空間にこだました。
リロイは追撃せず、部屋の中にとって返し、カルテイルが投げ捨てていた剣を拾い上げる。
「思った以上の手練れだったか?」私は正直、このまま遁走するのもひとつの手だと考えていた。
カルテイルは、万全の状態で臨むべき相手だ。
「逃げるのは恥、とは考えていないだろうが――」
「逃げるもなにも」リロイは、喉を震わせて小さく笑った。「こんなに楽しいのに、どこに行くってんだよ?」
そして剣を引っ提げて、崩れ落ちた煉瓦の壁を越えていく。
ふむ、これはどうも、悪い癖が出ているようだ。
以前に語ったとおり、リロイにとって暴力の行使はあくまで手段でしかない。
だが稀に、目的になってしまうときがある。
リロイは否定したが、カルテイルという男に対してなにか感じるところがあるのかもしれない。
ならばじっくりと話し合えば良いものを、と私などは考えるのだが、おそらくこのふたりはどうしようもなく不器用なのだ。
あるいは、万の言葉よりも撃ち込む拳のほうが雄弁というべきか。
いずれにせよ、両者は再び対峙する。
カルテイルも先ほどの激突で、頭を庇った腕の体毛が赤く染まっていた。普通はあの勢いで固い岩盤にぶち当たれば、骨のひとつやふたつは折れてもおかしくはないのだが、その様子は見受けられない。頑強にもほどがあるというものだ。
「走るときはちゃんと前を見ないと、危ないぞ」
リロイは、楽しげに笑う。
カルテイルも、口の端を歪めて笑った。
「つい、童心に返ってしまったな」そう呟く彼の口調は、それが本心から出たものであることを窺わせる真摯さがあった。
こんなに恐ろしい子供は願い下げだが、どうやらカルテイルにもリロイと同じ事が起こっているらしい。
子供は体力の限界まで遊ぶと糸が切れたように眠るものだが、このふたりの場合、それが永眠になりそうだ。
リロイは剣の切っ先を下に向けたまま、じりじりと、カルテイルとの間合いを計る。
今度は先手をリロイに取らせて迎撃するつもりなのか、カルテイルに動く気配はない。
予備動作は、なかった。
リロイの脚力は、カルテイルとの間合いを驚異的な速度で踏破させる。
カルテイルの赤き瞳は、しかしこの速度を捕捉していた。
カウンター狙いの拳が、リロイの顔面を捉える。
だが、飛び散るはずの鮮血と肉片はない。リロイは、豪腕の一撃をすり抜けていた。
間合いに入った瞬間にほんの僅かだけ速度を緩め、カルテイルの拳が動き出すと同時に、最高速度で突っ込んだのだ。
彼我の距離感を見誤った拳は空を切り、リロイの眼前でカルテイルの胴ががら空きになる。そこへ身体ごと切っ先を突き込んでいった。
脇下から心臓を貫く軌道だ。
それが、肩の骨に当たって弾かれる。切っ先はカルテイルの肩を削り取り、上方へと跳ねた。
まさかあのタイミングで躱されようとは、尋常ならざる反応速度だ。
今度はリロイの胴が、カルテイルの前でがら空きになる。
そこへ下から、巨大な拳が唸りを上げて迫ってきた。押し潰された空気が先に、リロイの髪を掻き乱す。
身体を強引に捻りながら、軸足で地を蹴った。すれすれを通過した巨大な拳の風圧で、リロイの身体が激しく回転する。
普通なら、自分がどちらを向いているかを判断する間もなく地に叩きつけられていただろうが、リロイは猫のように両足で着地した。
そこに、押し潰さんとする打撃が振り下ろされる。
拳は地面を激しく殴打し、大気を震わせた。
リロイは寸前で横手に飛び退き、そして素早く元の位置へ飛び込んでいく。地を打つカルテイルの腕に、横薙ぎの一撃を叩き込んだ。
刃は、彼の肉と筋肉を断ち割り、骨に到達する。
だが、骨を完全に切断することはかなわなかった。砕いたものの、斬撃のエネルギーはそこで果てる。
リロイは剣を引き、地面を転がるようにして遠ざかった。
カルテイルの逆の手が、立て続けに打ち下ろされたからだ。爆発音とともに、砕けた石片が散弾のように飛んでくる。
そして五発目が撃ち込まれた時、リロイとカルテイル、両者が同時に異変に気がついた。
微かに、揺れている。
カルテイルの打撃が揺らしているのではなく、なにか別の要因で、この採掘途中の空間が震えているのだ。
見れば、先ほどカルテイルが激突した岩盤の亀裂が深くなっている。硬いなにかが擦れあうような、巨大な獣の唸り声のような轟きが、空気の振動となってこの空間に押し寄せていた。
そしてふたりは、お互いがその異変に意識を取られた瞬間を、好機と見る。
ほぼ同時に、前進した。
リロイは、渾身の力で剣を叩きつける。
カルテイルは、拳ではなく抜き手で、鋭い爪を繰り出してきた。
リロイは心臓めがけて突き出される爪を身体を捌いて辛うじて躱し、剣の軌道を保つために、肩と肘の関節を絶妙に捻りながら振り下ろす。カルテイルは爪の先でリロイのレザージャケットと肉を削り取りながら、頭上から逆しまに飛来する刃を避けるために逆の手の爪で頭上を払った。
両者の攻撃が交錯し、甲高い金属音と踏み込みの轟きが響き渡る。
ひときわ大きな破砕音が、その瞬間にふたりの足下で発生した。
部屋全体が、大きく縦に揺れる。
岩盤にできた亀裂が、部屋中を縦横無尽に駆け抜けた。
硬いものの折れる音が、連続する。
なにが起こっているのかは、明白だ。
しかし、ここで攻撃以外の動きを選択すれば、その瞬間にやられてしまうこともまた、明白である。
断末魔の痙攣を繰り返す部屋の中、リロイは打ち払われた刃を再びカルテイルの胴めがけて横殴りに叩きつけた。
軸足の下で、地面が陥没する。
カルテイルは剣の軌道に身体を割り込ませ、剣身に十分な威力が乗る前にこれを押し止めた。刃は彼の肩口に喰らいついたが、その硬い筋肉の半分をも切り裂けない。
そして鋭い拳の一撃が、下顎めがけて飛んできた。
その踏み込んだ獣の足が、地面を踏み抜く。
リロイは上体を反らして躱し、空気の灼ける匂いを鼻孔に感じながら、膝を撃ち込んだ。
だが、その膝は届かない。
カルテイルとの間合いが、広がっていたからだ。
正しくは、リロイの位置が急降下していた、というべきか。
足下が瓦解し、空中に放り出されていた。
地下で空中などとはありえないはずだが、確かに足下にはなにもない空間が広がっていた。
巨大な地底湖だ。
ヴァイデンの四分の一ぐらいはすっぽりと入ってしまいそうなその巨大な湖に向かって、リロイは落下していく。
頭上──地底湖の天井部分に空いた亀裂は、止めどなくその範囲を広げ、崩落していた。大量の瓦礫と、部屋にあった調度品も次々に落ちてくる。
やがてカルテイルもその崩壊に巻き込まれ、転落してきた。
リロイは素早く剣を鞘に収め、銃を引き抜く。この時ばかりは、その忌々しく騒がしい無骨な武器に感謝した。こんな場所で投擲され、湖の底にでも沈んでしまったら、あまりに面倒だ。
リロイは自然落下に身を任せながら、白銀の巨体へ弾丸を撃ち込んでいく。
空中ではさすがにこれを躱す手立てがなく、カルテイルは頭部を腕で庇い、身体を丸めるしかなかった。
弾倉に込められた六発の弾丸が、すべて撃ち放たれる。
初弾は頭部を庇う逞しい腕に着弾し、二発目と三発目はその毛先を掠めていった。四発目は逞しい腹筋に守られた腹へめり込み、五発目は瓦礫に当たって砕け散る。
最後の一発は、命中したかどうか確認できなかった。
リロイが着水したからだ。
盛大な水飛沫を立てて、冷たい水の中へと沈んでいく。数十メートルを落下したその衝撃だけで、骨が砕けても不思議ではなかった。
大量の瓦礫も、一緒に水中へ飛び込んでくる。地上と違って大幅に行動が制限される水中では、この落下物だけでも大変な脅威だ。
湖の深さは、これも数十メートルはありそうで、光の差さない底を視認することはできない。
リロイはすぐさま、水面に向かって水を蹴った。
しかし、何者かが猛烈な速度で水中を泳いで迫ってくる。
カルテイルだ。
どうやら銃弾で与えたダメージは、彼の水中での動きに制限を課するほどではなかったらしい。
瞬く間に肉薄し、リロイに掴みかかった。
さすがに水の抵抗で格段に動きは鈍いが、筋肉の塊にしか思えない巨漢がこれほど速く動けるのは驚嘆に値する。
リロイはなんとか躱そうと試みたが、指先は回避できてもそこから伸びる爪に補足された。切り裂かれた脇の傷口から、水の中に血が溶けてふわりと広がる。
リロイは、自分の肉が付着したカルテイルの指先を逃さずに掴んだ。同時に両足を白銀の腕に絡め、肘と指を一気にへし折りにかかる。
だが、指の骨は破壊できたものの、肘の関節はこれに耐えた。
やはり水中では、思うように力が入らない。
今度は逆に、カルテイルの空いた手が襲いかかってくる。鋭い爪の先が、リロイの首を狙って伸びてきた。リロイは、絡みついているカルテイルの腕を起点に後ろへ身体を倒してこれを躱そうとしたが、それはフェイントだった。
カルテイルは最初から、自分の腕を極めている足に狙いを定めていたのだ。
大腿部を鋭い爪が抉ると、先ほどとは比べものにならない大量の血が湖の中に溶け込んでいく。
リロイは、足を解いた。
だがこれは、逃げるためではない。大量に出血している足で水を蹴り、カルテイルに正面からぶつかっていった。
水の中では、打撃は効果がない。カルテイルはここぞとばかりにリロイの身体に太い腕を回し、背骨ごと粉砕しようとする。
リロイは素早く、指先を伸ばした。
狙いは、カルテイルの赤い瞳だ。水中で最も効果的にダメージを与えられるとしたら、確かにここだろう。
カルテイルがリロイの胴に両手を回した瞬間、一気に突き入れた。
眼球の上から眼窩に滑り込んだ指先で、抉るようにして眼球を引きずり出す。視神経が引き千切れ、眼球は指先の圧力に負けて破裂した。
カルテイルの口から、気泡が大量に吐き出される。
だが、リロイの胴を閉める両腕の力は緩まない。背骨が、悲鳴を上げる。
リロイはすぐさま、眼球を抉りだしたカルテイルの眼窩へ再び、指先を突き入れた。そのまま眼底骨を突き破り、さらに奥にある脳を目指す。
リロイの指先が脳を貫くのが先か、カルテイルの腕が背骨を粉砕するのが先か、あるいは酸欠で意識を失い溺れ死ぬか――
結末は、地底湖を揺るがす轟音と衝撃波がもたらした。
地下街が、落ちてくる。
地底湖天井の崩落は止まらず、支えを失った街がバラバラになりながら降ってきた。街を構成していた床、壁、天井、そのすべてが湖面を叩く。
当然、そこにいた人間も例外ではない。
罪を犯し、地上にいられなくなった者どもが、悲鳴を上げて崩落に押し潰されていく。
大質量の落下に、湖面は爆撃を受けたかの如く爆ぜた。
湖水は嵐のように荒れ狂い、そしてそれは、リロイとカルテイルをも呑み込んでいく。
凡そ、人間が抗えるエネルギーではなかった。
湖面が破裂する爆音は鳴り止まず、その衝撃がぶつかりあい、リロイの身体を引き裂かんばかりに翻弄する。
瓦礫が何度も身体を打ち、幾度か意識を失いかけたが、それでもその黒い瞳は水面を見据え続けた。体内に残された僅かな酸素を使い、足を蹴る。落ちてきた地下街の住民たちは、いずれも水の中で天地が判断できず、湖の底へ沈んでいった。リロイはそれを尻目に、荒れる水を掻き分けて上昇していく。
やがてどうにか水面に顔を出したリロイは、大きく空気を吸い込んだ。
頭上にあいた巨大な穴を見て、簡単とも驚愕とも取れる呻き声を漏らす。
だが、まだ街は崩れ終わっていなかった。リロイが見上げる中、ゆっくりと倒れてくる木造の建築物には、屋根の部分に十字架がついている。
地下街の入り口に立てられていた、教会だ。
それが、木材の割れる音を道連れに湖水へと真っ逆さまに落ちていく。
遂に地上にまで、被害が及んだらしい。
薄暗かった地底湖に、月光が差し込んできた。
柔らかく暖かな光が、陰惨な街の屍を照らし出す。
「正直、沈んだおまえをどうやって引き上げようか、考えていたところだったぞ」私の声は、間違いなく震えていたに違いない。肝があるわけではないが、肝を冷やす、とはまさにこのことだろう。
「心配するな、泳ぐのは得意なんだ」
リロイはその言葉どおり、依然として嵐の海の如く荒れた湖面を力強く進んでいく。
だが、その顔色は決して良くはない。すでに大量の血を、湖に吸い取られているのだ。どうにか湖岸に辿り着き、水の中から身体を引き上げると、さすがにその場へ倒れ込む。疲労困憊の様子で、息も絶え絶えだ。
「あいつは死んだかな」
ぼそり、と呟く。そこに感慨はなく、ただの事実確認以上でも以下でもない──ように聞こえるのだが、この男は肝心な部分で、その内心を語らないことがある。
「自分の手で決着をつけたかったか」
私が訊くと、リロイは笑った。
だが、応えはない。
暫く無言だったが、ゆっくりと上体を起こした。「これ、どうやって帰るんだ」ぼんやりとそう呟いた次の瞬間、唐突に立ち上がる。
そして、今の今まで半死半生状態だったのが嘘のようなスピードで走り出した。
そのまま、湖の中へ飛び込んでいく。
リロイの目は、捉えたのだ。
波打つ湖面で、瓦礫にしがみつく小さな姿──リリーを。
リロイが彼女の元へ辿り着いたとき、意識はなかったが息はあった。水に浮く木片にしがみついていなければ、今頃は湖の底へと沈んでいたことだろう。
リリーを背負ってどうにか岸まで泳ぎ切ったリロイは、彼女の身体をそっと横たえると背中を向けた。
激しく咳き込む喉から迸ったのは、血の塊だ。
リロイは口の中に残る赤い唾液を吐き捨てると、リリーの状態を調べる。頭部に傷はないが、右手と右足の骨が砕けていた。
「治療できるか」
リロイに訊かれた私は、少し考えたあと答える。「もちろんできるが、彼女の体力が心配だ。幼すぎる」
私には、人間の外傷を治すための機能が備わっているが、成人し、訓練を経て肉体的に頑強な男女──つまりは軍人、兵士への適用が前提になっている。致命傷でない限り、大抵の傷は回復できるが、その際に体力を大きく消耗してしまう。まだ幼いリリーを私が治療した場合、怪我を治したとしても、体力の減衰が却って彼女の生命を脅かしかねなかった。
「なら、病院のほうがいいな」リロイは頷く。幸い、リリーの怪我に致命的なものはなさそうだ。そう判断すると、リロイは手早く、そこらに転がっていた残骸の中から使えそうなものを集め始めた。
天井の崩落は、まだ完全には収まっていない。湖面に浮かんだ瓦礫に落ちてきた岩壁や家財が激突し、断続的に、爆砕する轟音が地底湖にこだましていた。
添え木になりそうな木片を手に戻ってきたリロイは、剣を使ってジャケットを切断する。それを包帯代わりに、骨の折れた箇所に添え木を固定した。
本人は医者いらずなのに、怪我の応急処置などは手慣れている。一度訊いたところ、昔の相棒がドジでよく怪我をしていたから、らしい。
「火を焚いたほうがいいかもしれないな」私は指摘する。地底湖の水は、かなり冷たい。ここから病院までどれほどかかるかわからないが、濡れた服は覿面に体力を奪い去る。
リロイは首肯すると、燃やせるものを探すために立ち上がった。瓦礫は大半が水に浸かっているので難しそうだが、激突の際に飛び散り、水面ではなく岸辺に到達したものなら希望はある。
カルテイルとの戦いでは到底、助けになれなかった私だが、これならばいくらでも手伝えそうだ。
武器なのに、できることが薪拾いとはなかなかアイデンティティの危機を感じるが、致し方ない。
「私も手伝おう」一声掛けて、実体化する。リロイは軽く手を上げて、打ち上げられた瓦礫の山に向かう。
その足取りは、想像以上に弱々しい。
言葉にはしないが、おそらく体力の限界はとうに超えているはずだ。
私は足早にリロイへ近づき、「おまえも少し、休んでいろ」と、肩を掴む。
「大丈夫だって」
リロイは、私の憂慮を笑い飛ばした。
鈍い、音がする。
私の手に、衝撃が伝わってきた。
頬に、生暖かい飛沫が付着する。
リロイが少し驚いたように顔を強張らせ、自分の身体を見下ろした。胸から、鋭く尖った鉄骨の先端部分が飛び出している。
その位置にある臓器は、心臓だ。
「リロイ──!」掠れた声が、私の喉から迸る。
「くそっ」
言葉短く罵倒したリロイは、その場に膝を突いた。
「暢気に人助けなどしているからだ、リロイ・シュヴァルツァー」
積み重なる瓦礫の、教会の屋根にあった十字架が逆さまに突き立つその後ろから現れたのは、カルテイルだ。眼球を失った左目は閉じられ、リロイが骨まで裂いた右腕は、激流にもぎ取られている。足を引きずっているのを見ると、そちらにも傷を負っているらしい。
「俺を探し出し、とどめをさそうとしなかった結果が、その一撃だ」
そう告げたカルテイルだったが、リロイが助け出した相手がリリーだと気づいたのか、眉間に皺を寄せた。
「おまえ、知っていて助けたのか」いろいろと言葉足らずだが、言わんとしていることはわかる。
「悪いか」
リロイは、声を絞り出す。
理解しがたい、とカルテイルはその表情で答えていた。
確かに、自分を騙した組織の、しかもその実行犯をわざわざ助ける人間はそう多くはない。
カルテイルは、リロイの考えを読もうとするかのように右目を細めたが、考えれば考えるほど、答えは出ないだろう。
やがて考えても意味がないことに思い至ったのか、彼は神妙な口調で言った。
「彼女を助けてくれたことには、感謝する」。
リロイは鼻を鳴らし、横たわるリリーを指さした。「感謝するなら、あの娘を連れてとっととここから逃げろ」
「それはできん」
即答するカルテイルに、リロイは忌々しげに舌打ちする。
そして、前のめりに倒れそうになるのを、私が抱き留めた。
鉄骨を伝って流れ落ちる血が、赤から次第に色を変え、黒ずみ始めている。
悪い兆候だ。
「意識を失うな」私は声をかけたが、おそらく無駄だろう。
心臓を貫かれるのは、さすがに致命傷だ。
「無茶言うなよ」こんな状況でも、リロイは口の端に笑みを浮かべる。その笑みが浮かんだ頬に、首筋から膨張した血管が蛇のように這ってきた。それは毒々しく脈打ち、まるでリロイを内部から侵蝕しようとするかのように全身へ広がっていく。
「おい、相棒」リロイの声は、少し割れていた。声帯部分にも、変異が及び始めているのだ。「あとは、頼んだぞ」すでにその黒い瞳には、私の姿は映っていない。白目部分に浮かび上がっていた毛細血管が破裂し、黒い血で染め上げていた。
溢れ出した黒が、涙のように頬を伝っていく。
「仕方あるまい」
私は、言った。
「相棒だからな」
するとリロイは、私の背中を軽く叩いた。
その掌が滑り落ちていき、私の腕にかかるリロイの重さが急激に増す。
意識を、失ったのだ。
普通の人間であれば、このまま意識を取り戻すことはない。心臓が破壊されて生きていられる人間はいないからだ。
しかし、リロイの肉体は違う。心臓が破壊されても、死は訪れない。
それを証明するかのように、全身から湯気が立ち上り始めた。
傷を回復、再生するために、細胞が凄まじい速度で分裂と増殖を繰り返している。膨大なエネルギーが消費され、それがリロイの服に染み込んでいた湖水と血を蒸発させていた。
力なく下がっていた腕が持ち上がると、胸に刺さった鉄骨を掴んだ。
リロイが覚醒したわけではない。
右腕は、リロイの意思に関係なく、再生の妨げになる鉄骨を引き抜き始めた。痛みもないので、その動きに躊躇いはない。
引き抜いた鉄骨は、無造作に投げ捨てた。胸の傷口からは黒い血が噴き出したが、ものの数秒で止まる。傷口周辺の肉が盛り上がり、瞬く間に塞いでしまった。
「凄まじいな」
いつの間にか近づいていたカルテイルが、驚愕の呟きを漏らす。「あれが致命傷たり得ないとは、この目で見ても信じられん」
「リロイも言っていたが――」私は努めて平静に、言った。「あの娘を連れて逃げたほうがいい。その状態では、死ぬだけだぞ」
「おまえが、シュヴァルツァーの相棒か」カルテイルは、私の言葉を聞き流す。「俺の周りをこそこそ嗅ぎ回る奴がいるとは聞いていたが、なるほど、確かに珍妙な姿だな」
「勝手に死ぬがいい」
私がそう吐き捨てると、虎の口元が歪み、凶暴な笑みを象った。
声がしたのは。そのときだ。
低い地響きのようなそれは、私のすぐ側――リロイの喉が放つ音だ。怨嗟の声にも似た、苦しげで哀しげなその呻き声は、だが次第に、その音色を変えていく。
虜囚からの解放、拘束からの自由を謳う歓喜の雄叫びだ。
リロイが、ゆらりと立ち上がる。心臓の傷口を中心に、新たな肉と筋肉細胞が際限なく増殖し、それが全身を覆っていく。
まるで、リロイというひとりの人間を押し潰し、喰らい尽くそうとするかの如くだ。
失った左腕も、再生される。切断面に肉が盛り上がったかと思うと白い骨が再生され、それに絡みつくように神経や血管、筋肉が見る見るうちに欠損部分を埋めていく。
「おお」
カルテイルの喉が、感嘆とも畏怖とも取れる吐息を漏らした。
その耳朶を打つのは、骨の砕ける音だ。
巨大になっていく肉体を支えるためには、骨格もまた変わらざるを得ない。人間とはまったく別の形へと、破壊と再生を繰り返しながら成長していた。
瞬く間にカルテイルの背丈を超え、三メートル近くにまで到達する。
もはや、リロイの面影はない。
黒い血に染まっていた眼窩は今や銀光を宿し、頭蓋骨の変形による巨大な角が生えていた。耳まで裂けた口には、カルテイルのものより格段に大きく鋭い牙がずらりと並んでいる。
リロイが獣人であることを私が疑問視するのは、まさにこの姿を見たからだ。
獣化、というのなら、これはいったいなんの獣なのか。
「これがおまえの本性か」
カルテイルが、黒い獣に語りかける。
そこには理解と共感、そして絶望があった。
「ならばやはり、俺たちは違うということだな」
赤い瞳は、しかし炯々と輝き始めていた。
絶望の先にある諦観を超えて、カルテイルはその先に踏み出そうとしていた。「では俺は、すべてを踏み潰す。俺を認めぬ世界など、こちらから否定してやろう」リロイに相似性を求めた異形の男は、その果てに、背反の境地に達しようとしていた。
「まずはおまえからだ、リロイ・シュヴァルツァー」
満身創痍のカルテイルは、それでもなお、戦いを欲していた。
猛然と、リロイの間合いへと飛び込んでいく。
陰りがないとはいわないが、それでもなお、目を見張る速度だ。
左の拳を、黒い脇腹へ叩き込む。
鳴り響いたのは、肉と肉ではなく、鋼と鋼の激突音だ。カルテイルは一度ならず二度、三度、と拳を撃ち込んでいく。
だが、まるで効いた様子がない。
リロイであった獣は、そこに至ってようやく、カルテイルを認識したかのように、目を向けた。
銀色の双眸が、白銀の獣を睨めつける。
赤い瞳も、巨大な獣を見据えた。
打撃音が、生じる。
そう認識したときにはすでに、カルテイルの身体は大地に叩きつけられていた。
再びの打撃音で、今度は真横に吹っ飛んでいき、何度か地面でバウンドしながら瓦礫の山に突っ込んだ。逆さまに突き刺さっていた十字架に背中から激突し、これを粉砕する。
一撃目は、振り下ろした拳によるもので、二撃目は蹴りだ。
この巨体でありながら、いずれもリロイであったときよりも速い。
カルテイルはどうにか一度、立ち上がったが、すぐにに身体をふたつに折り曲げて胃の内容物を吐瀉した。血が、混じっている。あの筋肉の塊とでもいうべき男の内臓にまで、いとも容易くダメージを与えていた。
リロイは、カルテイルに向かってゆっくりと歩き出す。
カルテイルをさっきまで戦っていた敵として認識しているのか、あるいは攻撃されたから本能的に反撃しているだけなのか、それとも攻撃したいからしているのか――それを知る術はない。
リロイにも、獣化している間の記憶が殆どないからだ。
カルテイルは、手近にあった鉄骨を手に取った。その先端には、石壁の一部が鎚頭のように残っている。それをハンマー代わりに殴りつけようという算段か。
無造作に近づいていくリロイは、猛獣のように喉を鳴らした。まるで、カルテイルの行動を浅知恵と嘲るかのように。
鉄骨を握り締めたカルテイルは、躊躇なくリロイの間合いへと飛び込んでいった。人間の頭なら一撃で粉砕しそうな凶器を、巨大な獣へと振り下ろす。
轟、と唸りを上げる一撃は、しかし、リロイの掌に受け止められた。
そしてそのまま、握り潰す。
石壁の破片が豆腐のように砕けるさまは、あまりに非現実的だ。
しかしカルテイルは、それを予測していたのか、些かも臆さなかった。素早くリロイの指先から鉄骨を引き抜くと、槍のように突き入れる。その先端が狙うのは、下顎だ。
鈍い音に、低い呻き声が続く。
鉄骨の先端はリロイの下顎を打ったものの、貫くことは出来なかった。硬質化した鱗状の皮膚が、その侵入を阻んだのだ。
カルテイルは再び鉄骨を引くと、身体を横手に捌きながら脇下を狙う。獣化したリロイの肉体は、硬くて柔軟性のある黒い皮膚と、しなやかな黒い体毛に覆われていて打撃が通りにくい。カルテイルは最初の打撃でそれを思い知らされたのか、弱点を探すかのように攻撃箇所を変えていた。
諦めが悪い点では、やはりこの男、リロイと似ているのかも知れない。
だがそれも、そこまでだった。
脇下を抉ろうとしていた鉄骨を、リロイは易々と掴み取る。石壁の破片同様、鉄骨も飴細工のように手の中でぐにゃりと曲がった。
カルテイルは、素早く鉄骨を放棄している。低い姿勢でリロイのふところ深くへ踏み込んでいき、強烈な蹴りをその膝めがけて放つ。
なにかが破裂するような音が、その攻撃を呑み込んだ。
衝撃波が、カルテイルを中心に弧を描いて発生する。瓦礫が吹き飛び、カルテイルも体勢を大きく崩した。足下の固い地盤が爆ぜ割れ、轟音が地底湖を揺るがす。
大質量の獣が超高速で移動しただけで、この現象だ。
衝撃波に打ち据えられたカルテイルは、それでもすぐさま地を蹴ってその場から飛び退こうとした。
だが、リロイが圧倒的に速い。
カルテイルの軸足を、背後から掴み取った。片手で、二百キロはあるだろう白銀の巨躯を引きずり倒し、振り上げる。
そして一気に、足もとの地面に叩きつけた。
肉が押し潰され、筋肉は断裂し、骨は粉砕される。それらの音が、打ちつけられた地面の上で弾け、破れた皮膚から鮮血が飛び散った。
二度、三度と繰り返し叩きつけられたカルテイルの身体は、白銀の体毛が瞬く間に紅へ染まる。
地下街の部屋でリロイが受けた攻撃をそのままやり返しているようにも見えるが、果たしてその記憶と人間的な感情が残っているのかは疑問だ。
やがてカルテイルは、動かなくなる。我が身を守ろうという反応もなく、人形のように地面へ叩きつけられていた。
それに気がついたのか、リロイは手を止めて、カルテイルを持ち上げる。今自分が壊したものがなんなのかを確かめるように、眉間に皺を寄せ、目を細めて観察し始めた。
だがすぐに興味を失ったのか、無造作に放り投げてしまう。
そしてふと、天を見上げた。
頭上遙か高くに開いた巨大な亀裂からは、暗い夜と輝く月が望める。
月光が、降りそそいでいた。
その光に照らされた黒い獣は、牙の並んだ口を大きく開く。
咆吼、した。
喉を震わせ、吼える。
それは赫怒なのか、憤激なのか、あるいは慟哭なのか――人ならざる獣の胸中は計り知れず、また人ならざる私には、人が人ならざる者へ変異するその恐怖と絶望は到底、理解できない。
今、リロイはなにを思うのか。
月下に黒き獣は、長く長く、吼え続けた。