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第一章 11

 館の中庭は、美しい庭園だった。

 おそらく、熟練の庭師が丹精込めて作り上げたのだろう。

 幸いにも、ここは領主の変質的な情熱から見逃されたらしく、美しさがそのまま保たれていた。優美な女神像を中心に備えた噴水と、葉が赤く色づいた木々、そして点在する彫刻や四阿(ガゼボ)など、実に完成度が高い。


 この素晴らしい眺めともお別れか、と思うと、一抹の()びしさを感じずにはいられなかった。

 リロイとアグナル──ふたりは、適度な距離を取って対峙する。心配なのか単に物見高い性格なのか、リゼルもついてきて、中庭を囲む回廊から様子をうかがっていた。


「抜かないのか」


 リロイが剣を引き抜いても、アグナルは剣の束に軽く手を添えているだけで抜く気配がない。


「先手を打たせてやろう」アグナルは、悠然と言った。「どうせ暇だからな。稽古をつけてやる」先ほどリロイが吐いた悪態を受けて、強者の余裕を見せる。

 余裕だが、決して油断ではない。

 相変わらず一分の隙も感じさせない自然体で、たとえどの瞬間にリロイが襲いかかっても確実に対応するだろうことを確信させた。


「いいのか?」明らかにリロイを格下扱いするアグナルだったが、リロイはそれに対し憤激したりはしない。

 スピード勝負を挑んだカレンやジェルベーズに対してもそうだったが、命のやりとりが好きというわけでもないし、誰が一番強いのか、というランクにも興味を示さない男だ。

 先手をくれてやる、と言われれば、嬉々として殺しにかかるに決まっている。


「構わん」アグナルは、鷹揚(おうよう)に頷いた。「SS級とやるのは初めてだろうからな」

「どうしてそう思う?」


 リロイが訊くと、SS級の傭兵は嘲笑うでもなく、当然の如く言い放った。


「戦ったことがあるなら、貴様はここに立っていない。墓の下だ」

「なるほど」


 リロイは、楽しげに笑った。

 そしてその爪先が庭園の土を抉り、それが宙に舞ったときにはアグナルの間合いへ飛び込んでいる。

 瞬時にして圧縮された両者の間の空気が、横薙ぎに叩きつけられる一撃で打ち砕かれた。

 擦過音と火花が、弾け飛ぶ。


 耳に痛い金属の悲鳴が、美しい半円を描いた。


 アグナルが、左手の剣で受け流した――それは理解できたのだが、彼がいつ剣を抜き、どのようにリロイの攻撃を(さば)いたのか、知覚できない。剣に込めた力の大半を流されたリロイは姿勢を崩し、しかしどうにか踏ん張り、至近距離で第二撃を放とうとした。


 その首筋に振り下ろされたのは、アグナルが右手に握る剣だ。


 リロイの剣を受け流した時点では抜かれていなかったもう一本の剣が、気づけば頭上高くに振りかぶられている光景は、悪夢そのものだ。

 咄嗟に軸足を蹴り、身体を旋回させながら強引に剣の軌道から逃れ出る。いつもならばそのまま側面に回り込み反撃に移れるのだが、アグナルの斬撃の速度が速すぎた。

 防弾、防刃仕様のレザージャケットの肩口が裂け、鮮血が飛び散る。刃が骨を削り、リロイの体勢をわずかに崩した。


 そこに、鋭い切っ先が飛んでくる。


 脳がそれを認識するよりも早く、本能が反射的に頭を傾けさせた。鋼の剣先はリロイのこめかみを抉り取り、抜けていく。

 視界に飛び散る血飛沫の中、二本目の剣が下方から撥ね上がってきた。


 躱す余裕は、ない。

 完全にバランスを欠いた姿勢から、辛うじてアグナルの剣が描く軌道上へ自らの剣を叩きつけるようにして放った。


 だがまさか、それが空を切るとは。


 駆け上がってくるはずの斬撃は瞬きの間に軌道を変え、横手から襲いかかってきた。リロイは咄嗟に地を蹴り、身を捩りながら振り下ろした剣を振り上げる。人外の反応速度を誇るリロイでなければ、到底、切り抜けられない連続攻撃だ。


 しかし、それすら空を切った瞬間、リロイの喉が驚愕の声を漏らす。


 二度、軌道を変えた刃は、刺突となって飛来した。

 鋭い切っ先が、リロイの胸部を抉って肺に到達する。切り裂かれた肺の血管から血が噴出し、それが呼気と一緒にリロイの喉から外へと迸った。

 心臓を狙った一撃である。辛うじて躱せたのは、突出した反応速度と身体能力の為させる技だが――それでも、稼げた距離はわずか十センチに過ぎない。

 深く突き込まれた剣身はリロイの背中から飛び出し、肩胛骨(けんこうこつ)を削り取った。

 普通はこの時点で、肉体は死から遠ざかろうと本能的に逃げようとする。肺を刺し貫く冷たい鋼の感触に、心も折れるだろう。


 だが、リロイは踏み止まった。


 すでに剣は、アグナルの首筋へ落雷の如く振り下ろされている。

 刺されてなお、攻撃を選択する人間はそう多くはない。しかしアグナルは、これに対して至極(しごく)冷静に対応した。

 剣の束から手を離し、後退したのだ。

 引き抜けばリロイに相応のダメージを与えられたが、今この瞬間にはその必要はない、と判断したのだろう。


 リロイの決死の反撃は三度(みたび)、空を切る。


 そして後退したアグナルは、すぐさま前進し、左手に握った剣を突き入れてきた。

 これもまた、正確に心臓を狙っている。

 リロイは胸に剣が突き刺さったまま、半身になってこれを躱した。その突き刺さっている剣と突き込まれた剣が交錯し、刃同士の微かに触れる音が耳を打つ。


 そして間髪入れずに、横薙ぎの一閃が叩きつけられた。


 予測していなければ、到底、反応できなかっただろう。

 リロイは縦に立てた剣でそれを受け止め、火花が飛び散ると同時にするりと下がっていくアグナルの剣を追尾するかのように、前進した。

 斜めに切り落とす斬撃を、アグナルはやはり受け流す。咬み合う刃の不協和音は、一瞬の沈黙のあと、風斬り音に変わった。

 至近距離で再び鋼がぶつかり合い、今度はそれが連続する。あまりに高速すぎて、一連(ひとつら)なりの甲高い悲鳴のように庭園に鳴り響いた。


 リロイの周囲で、火の花が次々に咲いては消える。


 急所への正確な攻撃が、絶妙なフェイントと変幻自在の太刀筋で繰り出されていた。光刃、と二つ名にあるとおり、畏怖すべき速度の斬撃だ。

 頭頂めがけて振り下ろされた一撃を、リロイは斜めに傾げた剣で受け流す。刃の上を滑り落ちた細身の剣は、しかし加速して下方より飛んできた。それを切っ先を下にした剣で受け止め、手首を返しつつ切っ先をアグナルへと向けた瞬間に突き出した。

 剣を持つ腕の肩口を狙う鋭い刺突を、アグナルはわずかに身体を(ひね)ることでやり過ごし、その剣に沿うようにして前進する。


 剣を振り回せる距離が、なくなった。


 左手の拳が、リロイの右脇腹を狙う。リロイは剣を突き出した姿勢から、踏み込んだ足を軸にして身体を旋回させた。握った剣が、アグナルの側頭部に襲いかかる。

 だが、拳の打撃は(おとり)だった。

 アグナルは身を屈めて横薙ぎの斬撃を躱すと、握っていた拳を開き、さらに踏み込みつつその指先を伸ばす。


 狙っていたのは、未だリロイの胸を刺し貫いている剣の束だ。


 アグナルの指先が、それを捉える。

 裂くか、抉るか。


 その選択を、リロイは与えなかった。


 アグナルの五指が束を握り込んだ刹那、凄まじい勢いで飛び退る。剣は一気に引き抜かれ、開いた傷口から鮮血が迸った。後ろも確認せずに跳んだリロイは、そこにあった彫刻に激突して停止する。背中の傷口から噴出する血が、見事な獅子の彫刻をべったりと濡らした。

 アグナルは追撃せず、人体に深く刺さっていた剣を一振りし、付着した血と脂を飛ばす。

 リロイは口元を濡らす血の泡を拭い、口の端を吊り上げた。


「大事なもんなんだろ? 返せてよかったよ」


 これにアグナルは、微笑を返す。

 私は初めて間近でSS級の戦闘を見ることで、理解していた。A級以上の傭兵が二つ名を名乗るのは、それ相応の実力と実績があることの証明だが、その為か、その大半が戦闘技術等における自らの得意な領域から名付けることが多い。

 アグナルの剣技を目の当たりにすれば、光刃、の二つ名に頷かない者はいないだろう。

 だが彼が、剣の技が突出しているが故にSS級へ到達したのではないことは、明らかである。


 人間に備わっているあらゆる能力が、突出しているのだ。


 でなければ、通常の人間を遙かに超える戦闘能力を有したリロイが、ここまで圧倒されることなどありえない。

 現時点では、リロイよりもアグナルが強いということは認めざるを得ないだろう。

では、どうするか。


「もはや呼吸すらままならないはずだ」


 アグナルは両手の剣をだらりと下げたまま、言った。

 確かに、刺し貫かれた肺からは大量に出血し、その血が肺の中に溜まることで呼吸を妨げている。速やかに排出しなければ、自らの血で溺れ死ぬことになるだろう。

 普通の人間ならば。


「そろそろ稽古は終わりにするか?」アグナルの口調に、見下した響きはない。猛獣が、自分より弱い獣を侮蔑しないように。「短くとも、得られるものはあっただろう。死んではそれが()かせんぞ」

「SS級は優しいんだな」


 リロイは穴の空いたレザージャケットを軽く叩き、言った。「だが、まだ準備運動が終わったところだろ。暇なんだったら、もうちょっとつきあえよ」

 肺に穴の空いた人間の言うことではないが、アグナルは小さく肩を竦めた。

「いいだろう」


 そして猛然と、地を蹴った。

 切っ先が弾丸の如く、飛んでくる。

 紙一重で躱すリロイの背後で、剣先が獅子の彫刻に激突し、これを爆砕した。飛散する石の破片を受けながら、開いた体勢のアグナルへ、刃を斜め下から叩き込む。

 アグナルは右手の剣でそれを受け流しながら後退し、滑るようにリロイの側面へ回り込んだ。

 それを横目にしながら、リロイは後ろ回し蹴りを放つ。明らかに、間合いの外だ。


 だが、リロイの狙いはアグナル本人ではない。


 砕けた獅子の彫刻、その残骸が宙を舞っている。

 リロイの靴裏は、そのうちのひとつを捉えた。

 靴の裏に蹴りつけられた石片は、その衝撃でさらに三つの小片となり、激しく回転しながらアグナルに襲いかかる。その速度と威力は、間違いなく散弾に匹敵するだろう。


 しかし、SS級の動体視力はそれらを完全に捉えていた。


 一番大きくアグナルの顔面へ向かっていた石片は、右手の剣の腹で叩き落とされる。二つ目の尖った小片は身体を捌いて躱し、最後のひとつは左手の剣で打ち砕いた。

 一秒にも満たないその挙動の隙を縫って、リロイは間合いに飛び込んでいる。

 半身になったアグナルの死角から、突き上げるようにして剣の切っ先を撃ち込んでいった。

 アグナルの右手の剣が、それを受け流すべく軌道上に滑り込んでくる。

 だが、激突の寸前、リロイの刺突は急激に方向を変えた。身体ごと軸足を支点に回転し、アグナルの足下へ地を這うような斬撃を送り込む。


 それを阻むべく、左手の剣が雷撃の如く天から地へと突き刺さった。


 鋼の激突音は、ない。

 横薙ぎの斬撃を停止させ、リロイは軸足を蹴って跳躍していた。高い位置から、アグナルの肩口へ剣を振り下ろす。


 これをアグナルは、右手の剣で受け止めた。


 瞬間、リロイの爪先が彼の顔面へと放たれる。アグナルは上体を反らして避け、同時に左手の剣でリロイの胴を薙ぎ払おうとした。


 そのダークグレーの瞳に、銃口が映る。


 空中で銃を引き抜いたリロイは、自然落下に身を任せながら連続して引き金を引いた。六発の銃弾が、至近距離からSS級傭兵に喰らいつく。


 連続する銃声に、金属が奏でる甲高い響きが重なった。


 柔らかな鉛は、鋼の刃によって次々に斬り砕かれ、あるいは弾き飛ばされる。ただの一発も、アグナルの肉体には到達できなかった。

 着地したリロイは、すでに間合いを詰めている。七発目の銃弾と言っても過言ではない速度で、剣先をアグナルの喉元へと送り込んだ。

 しかしこれもまた、細身の剣の優美ともいえる動きで受け流された。


 鋼の血飛沫とともに、金属が放つ苦痛の叫びが迸る。


 そこに初めて、異音が混じった。

 それは、受け流しの角度とタイミングにズレが生じた証だ。

 剣の切っ先が、跳ね上げられながらもアグナルの頬を削っていく。


 遂に、リロイの攻撃が届いた瞬間だ。


 アグナルはしかし、僅かも動揺しない。

 追撃にリロイが放つ刺突の連打を、的確に捌いていく。その動きは相変わらず正確で美しく、隙がない。

 にもかかわらず、その二の腕が裂け、脇腹を剣先が抉り、大腿部から鮮血が飛び散った。


 リロイの速度が明らかに、増している。


 それは時間にして、僅かにゼロコンマ秒の加速だ。普通の人間には、その差など永劫にわかりはしないだろう。

 しかし、その刹那の加速が、アグナルの完璧な剣捌きをして誤差を生ぜしめる。


 そして加速は、さらに続いた。


 速度が増せば、打撃力もまた増していく。受けるアグナルが、徐々にではあるが、後退し始めた。

 庭園の隅でこの戦いを見学していたリゼルが、思わず、といった様子で感嘆の声を漏らしている。

 攻守が入れ替わり、アグナルが防戦一方の展開になった。


 なのに、なぜだろうか。


 彼の顔には、焦慮も切迫感もない。隠そうともしない感嘆の色が双眸にあるだけで、極めて冷静だ。

 非常に不気味だが、それは実際に戦っているリロイが一番、感じていたのかもしれない。優勢だというのにその顔には一切の油断がなく、むしろ緊張の度合いが増していた。

 だからこそ、唐突にリロイが飛び退いたのも、不思議には思わない。傍観者であるリゼルなどは、有利なのになぜ、といわんばかりの顔をしていた。

 もちろん、理由があって距離を取ったのだ。


 それは、リロイが、アグナルの顔面めがけて突きを放った次の瞬間だった。


 リロイの攻撃を完全には捌けなくなっていたアグナルだが、それでも致命的な傷は負わず、軽傷だけに(とど)めていた。顔を狙った一撃も、撥ね上がった刃が阻もうとする。

 そのまま撃ち込んでも決定打には至らない、と瞬時に判断したリロイは、刃と刃が触れ合う寸前に剣身を引き戻し、その残影の下をくぐり抜けるような刺突を繰り出した。

 防ぐほうからすれば、リロイの刺突が自分の剣をすり抜けてきたように見えるはずだ。

 切っ先はアグナルの肩口に突き立ち、その衝撃で彼の身体が蹌踉(よろめ)く。


 リロイが跳び退(すさ)ったのは、まさにその瞬間だった。


 アグナルの肩の傷から、鮮血が流れ落ちる。今までで一番大きな、傷だ。リロイならばさらにそこから追撃できたはずだが、なぜそうしなかったのか――それは、リロイ自身にも明確にわかっているわけではなさそうなのが、その表情からも見て取れる。


「──なるほど、身体が温まってきたということか」


 アグナルは、肩の傷口に指を這わせながら言った。指先についた血を見つめながら、どこか楽しげだ。


「とはいえ、スロースターターというわけでもなさそうだ。一見、猪突猛進にも見えるが、相手に合わせる

器用さ、臨機応変さがある。SS級の話があっただけのことはあるようだな」彼は、賞賛にも似た表情を浮かべていた。

「ところで、その回復力は自前か?」


 さすがに、気がついていたようだ。

 そもそも、剣が肺を貫通するような傷を負って、動き回れるはずがない。あっという間に、出血多量と呼吸困難で昏倒するだろう。

 傷口はすでに、体組織の癒着が始まっていた。無論、出血も止まっている。驚嘆すべき回復能力──というよりも再生能力、といったほうが正しいかもしれない。


「昨今カルト教団では、化学的に肉体を改造して分不相応な力を得ることに躍起だと聞く。まさかとは思うが──」

「物心ついたときから、こうだよ」


 続くアグナルの言葉を遮って言ったが、変な疑惑をかけられるのが嫌だというふうでもなく、リロイは肩を竦めた。


「腹が痛くなったり風邪を引いたりはするが、怪我をしてもすぐ治るし、毒も効かない。羨ましいか?」

「少しな」


 アグナルはそう言ったが、すぐに「だが、それで動きが雑になるのでは意味がない」と切って捨てた。

 他の人間がそう言えば単なる妬みにも聞こえたかもしれないが、この男が言うと重みが違う。


「俺、そんなに雑か?」ともすれば挑発的な言葉であったが、リロイが素直にそう聞き返したのも、アグナルの実力から来る説得力あればこそだ。

「生まれつきそうであるならば、雑というよりも癖のようなものかもしれんな」

「なんだよ、随分と曖昧だな」


 リロイが不服そうな顔をすると、アグナルは小さく笑った。

 まるで、不出来な生徒に教育を施す教師の如く。


「おまえのようなタイプは、座学よりも実戦が良かろう」


 アグナルは左手の剣を鞘に収め、右手の剣を両手で握った。「わたしも未だ、二剣では為し得ぬ領域だ」

 そして、やはり自然体で剣を構えた瞬間、大気が震えたような気がした。


「死ぬな。学べ」


 その静かな言葉が、合図だった。

 アグナルが、地を蹴る。

 その重い響きが妙に遅く、遠くでこだましたような錯覚を覚えた。


 目の前に、彼が現れる。


 間合いを詰める過程が、認識できなかった。

 両手に握った剣の切っ先は、地につきそうなほど低い位置にある。そこから撥ね上げてくるのか、と判断したが、そうではない。

 すでに、振り切られていたのだ。

 リロイの左手が、宙を舞う。


「よくぞ、躱した」


 その声が、遠ざかる。

 大きく跳躍して間合いを取ったリロイは、着地で体勢を崩した。肘の部分で腕を切断され、身体のバランスが狂っているのだ。

 アグナルはゆっくりと、こちらに向き直った。


「人間の身体は実に良く出来ているが、その反面、非常に扱いにくくもある」淡々と、彼は言った。「あまりに個人差があって、唯一の最適解が存在しない。畢竟(ひつきよう)、自らの肉体を自らの才覚で最適化しなければならないが、それはまさしく、一歩先すら見えない霧の中を行くが如くだ」

「──SS級にもなると、小難しいことを言うんだな」


 リロイが、鼻を鳴らす。その顔色は、決して良くはなかった。驚嘆すべき再生能力を持っているとはいえ、肺の傷と腕の切断面からの出血は無視できない。傷口は塞がっても、失われた血をすぐさま体内で作り出せるわけではないのだ。


「俺はあんまり頭が良くない。わかりやすく言ってくれ」リロイが冗談めかして言うと、アグナルは「そのようだな」と、双眸を細める。

「自らの肉体を自らで完全に支配する、ということだ。おまえはまだ、その域に達していない」


 リロイの血を吸った剣を引っ提げ、彼はそう告げた。


「無論わたしも、まだ道半ばだがな」


 この男がそうなのならば、大抵の人間はそうだろう。リロイも同じことを思ったのか、口元に苦い笑いが浮かんだ。「生憎と」やや上の空とも聞こえる口調で、言った。「昔から、自分の身体とは折り合いが悪くてね。なかなか難しい注文だ」

「問題ない」


 アグナルは力強く頷き、剣を構えた。


「足の二、三本でも失えば、身体のほうが考え直すだろう」

「いや、それだと酷くなるだけだった」


 その返答が予想外だったのか、アグナルはわずかに眉根を寄せた。リロイは、血の気の失せた顔に笑みを浮かべる。


「躾が大変なんだよ、俺は」


 そして次の瞬間、アグナルが突然、なにもない空間を剣で薙いだ。

 真横に剣を叩きつけたのち、すぐさま頭上へと刃を撥ね上げつつ飛び退る。庭園に響くのは、鋼の咬み合う擦過音だ。

 アグナルを追うように、足下の土が裂けて捲れ上がる。

 彼の剣に撃ち弾かれたなにかが、周囲の木々を切断し、倒れゆく木から赤い葉が雪のように舞い散った。


 鋼糸だ。


 リロイは、シルヴィオの使っていた鋼糸を隠し持っていたらしい。

 しかもそれを操っているのは、切断された左腕である。シルヴィオが見せた、切断箇所を糸で繋ぎ、斬られた腕の指先を操るあの技だ。


 まさか一度見ただけの技を、この土壇場でやってみせるとは。


 おそらくアグナルも、自分がなにに攻撃されているのか最初はわからなかったに違いない。その時点で大きな手傷を負わせることができれば形勢が逆転したかもしれないが、SS級の傭兵は狼狽(うろた)えることもなく、自らを攻撃するものの正体をすぐに理解した。

 鞘に収めていた二本目の剣を引き抜き、見事な太刀捌きで鋼糸を受け流していく。

 弾き返された鋼の糸は太い幹を持つ木々を雑草の如く刈り取り、周囲を囲む回廊の柱を薙ぎ倒していった。

 瓦解する回廊の地響きの中に、リゼルの悲鳴が呑み込まれていく。


 噴水の中に佇んでいた美しい女神像が真っ二つになり、血潮の如く水を噴き出しながら倒壊した。


 瀟洒な四阿は斜めに切断され、滑り落ちていく屋根を鋼糸が裁断する。細かな欠片(かけら)が肉片の如くばら撒かれ、赤い葉の浮かぶせせらぎへ落下していった。


 鋼糸を防ぐアグナルの動きに、隙はない。このまま小一時間攻め立てたとしても、まったく揺るがないであろうことを確信させた。


 リロイも、鋼糸の攻撃は決定打にならない、とは予測していたのだろう。


 鋼糸での連続攻撃を続けながら、猛然と突進した。切断された腕を糸で繋ぎ、それを神経代わりにして指先から鋼糸を操る技は、凄絶な集中力を要することは想像に難くないが、その動きに陰りはない。

 視界を埋め尽くす紅雪の中、身体を内側に捻ってアグナルから見えない位置に剣身を置きつつ、間合いに飛び込んだ。

 鋼糸で牽制しながら、捻った反動とともに剣を撃ち込んでいく。アグナルの両手の剣が、首と胴を狙う鋼糸を撃ち落とした、まさに絶好のタイミングだった。

 鮮血と肉片が、飛び散る。


 だが、大きく姿勢を崩したのはリロイのほうだ。


 左の肘から肩までが、内側から(めく)れ上がるようにして爆ぜ割れている。

 同時に、切断された肘から先の腕も、千切れ飛んでいた。


 まるで、糸剥ぎだ。


 しかしあのときは、リロイがシルヴィオから剥ぎ取った糸が制御を失い、周囲を無差別に切り裂いたが、今回はそれがない。同じ技だが、レベルが違う。


 一体、何者か。


 いずれにせよ、アグナルの間合いで完全にバランスを失ったのは致命的だ。

 リロイは、崩れ落ちそうになる身体を右足の踏み込みで辛うじて耐える。そしてその足を軸にして、斬撃を叩きつけた。

アグナルはこれを受け流しもせず、また受け止めようともしない。滑るようなバックステップで距離を取った。


 奇妙な行動だ。彼我の状況を鑑みれば、畳みかける以外の選択肢はないはずである。

 しかし、リロイがそれを訝しがる暇などなかった。


 空を裂く音が、高速で飛来する。


 リロイは素早く後退しながら、右からの音へ剣を叩きつけた。耳に痛い激突音は、火花とともに足下へ落下して庭園の土を抉り取る。飛び散る土塊の中、逆方向から横薙ぎに叩きつけられる一本を仰け反って躱し、そのまま背中から倒れ込んだ。


 鋼糸はそこへ、上空から牙を剥く。


 連続する五本の糸が、高速の斬撃となって振り下ろされた。

 胴を狙ってきた一本目は下半身を胸元まで引き寄せて躱し、首の切断を狙う二本目は足を引き寄せた反動を利用して前方に飛び起きることでやり過ごす。

 三本目は、急激に軌道を変えて左手側から喰らいついてきた。今度は俯せに倒れ、頭上を糸が通過した瞬間に、右手と両足のバネで斜めに跳んだ。


 四本目が、リロイが寸前まで俯せになっていた場所を断ち割った。


 そして宙にいるリロイを、五本目が捕捉する。背中から斬りかかってくる鋼糸に対し、関節の可動域を限界まで酷使して剣を叩きつけた。

 甲高い金属音に続いて、空を切る音が激しくうねる。

 五本目を、完全に弾き返せなかった――わずかに角度が足りなかったのか、打ち据えられてもなお、その糸は弧を描いてリロイの頭上から逆しまに襲いかかってきた。


 リロイはまだ、着地できていない。


 そしてその耳には、六本目と七本目の鋼糸が放つ風切音が届いていた。


「駄目です、レニーさん、違いますよ!」


 叫んだのは、回廊の瓦礫から辛うじて顔を出しているリゼルだ。

 途端に、風が静かになる。

 リロイは何事もなく着地し、しかしほんの少しだけよろめいた。

 先ほどの鋼糸の攻撃、すべて躱したはずだったが、それぞれがリロイの肉体を削いでいた。レザージャケットが裂け、じっとりと濡れている。血を流しすぎたのか、さしものリロイですら顔色が悪くなっていた。


「あらー、やっぱりそうだったんだ」


 中庭を囲む建物の陰から、間延びした、緊張感のない声が聞こえてきた。


「鋼糸使ってたけど、どうも聞いてた人相と違うなー、って思ってたんよ」


 現れたのは、リロイとそう歳の変わらぬ女だった。リゼルがレニーと呼びかけていたから、同僚だろうか。その割にはラフな格好で、スーツは着ていない。


「だから一応、手加減したんだけど──って、あれ、どうしたのリゼル」彼女はようやく、瓦礫の山に埋もれているリゼルに気がついて目を丸くした。「なんか地震でもあった?」


 そんな局地的な地震などあるわけがなかろうと思うのだが、瓦礫に全身が挟まれて動けないリゼルは、ただ苦笑いを浮かべただけだ。


「まあ、そんなところです。できれば、助けていただけませんでしょうか」


 まかせてー、と気の抜けた返事をして、彼女はピアノでも弾くかのように指先を動かした。すると、大きな瓦礫が軽々と持ち上げられ、次々に庭園の隅に放り投げられる。

 状況からして彼女がリロイを攻撃した鋼糸の操り手なのだろうが、切断を得意とする糸でどうやってあれほどの重量を持ち上げているのか、見当も付かない。

 そして、結構な量の瓦礫に潰されていたリゼルが、特に怪我をした様子もなく平然と立ち上がったのも腑に落ちなかった。


「興が殺がれた」

 呟いたのは、アグナルだ。彼はすでに、二本の剣を鞘に収めている。「今日はここまでだな」

「なら、カルテイルは俺がもらうぞ」


 なにがならなのか知らないが、リロイは当然のように言い放つ。

 アグナルは思わず頬を歪め、喉を小さく鳴らした。

 それが表すものは、いったいなんだったのか。


「好きにしろ」


 彼が言い残したのは、ただそれだけの言葉だった。

 踵を返し、庭園から立ち去っていく。

 これほどあっさりと譲るのならば、なぜあのときそうしなかったのだろう。

 彼自身、そこまでカルテイルという人物に興味がなかったのか、そうであれば、あるいはリロイとの手合わせこそが彼の望みだったとでもいうのだろうか。


 それでは本当に、稽古をつけられたようなものだ。


 本気で殺しにかかることが稽古、と言うのならばだが。

 いずれにせよ――


「おまえの完敗だな」


 私がそう言うと、リロイは小さく肩を竦めた。

 特に悔しがる様子もないのは、勝ち負けにこだわる性格ではないからだ。

 リゼルにも言っていたが、暴力で物事を解決する傭兵という職を選んだリロイは、その高い戦闘能力を手段として用いている。


 目的では、ないのだ。


 速さを競おうとしたカレンを揶揄したように、リロイ自身には誰かと優劣をつけることに興味がないし、そもそもいわゆる戦闘狂でもない。

 状況を打破するため、暴力を行使することに躊躇がないだけだ。

まあ、その如何(いかん)ともし難い状況を作り出すのもまた、この男の融通の利かない粗暴な性格故なのだが……。


「大丈夫ですか、リロイさん」


 リゼルが、鋼糸使いの女──レニーを引き連れて近づいてくる。彼のスーツは埃まみれで袖が取れかかっているし、鋭い瓦礫が所々、生地を引き裂いている。しかし出血した様子はなく、動きを見ても骨折などの被害はないようだ。

 奇跡的に挟まり具合が良かったのか、とんでもなく頑丈なのか、いずれにせよ不可解な存在である。


「大丈夫そうには見えないだろ?」


 リロイはシニカルに口の端を歪めたが、すぐに顔を(しか)めた。冗談めかしてはいるが、端的に言ってリロイは重傷だ。原形を留めないほど破壊されてしまった左腕に関しては、この時代の医療ではどうにもならないだろう。

 治療にかかった費用はすべてこちらが払います、と頭を下げるリゼルに、リロイは必要ないと告げる。内臓がはみ出たり折れた骨が皮膚を突き破って飛び出したりしなければ、割と医者いらずの身体だ。


「この度は弊社の社員がご迷惑をおかけいたしました」

「いやー、ごめんね。人違いでした」


 深々と頭を下げるリゼルの横で、レニーは軽く手を振った。まるで、後ろから声をかけたら別人でした、みたいな調子で謝るレニーに、傍らのリゼルのほうが顔を強張らせた。

 リロイ本人は、その態度に気分を害した様子はない。


「こいつもセキュリティのひとつか?」レニーではなく、リゼルに訊いた。「はい」彼は頷く。「鋼糸使いには、鋼糸使いです。──まあ、必要なくなっちゃいましたけどね」


 リロイは鼻を鳴らし、レニーに目を向けた。彼女はまったく悪びれた様子もなく、リロイの視線を受け止める。


「おまえ、弥都の人間には見えないな」


 ハイネックのセーターに薄手のコートを羽織り、キュロットスカートを穿いた出で立ちは確かに大陸風だ。さらに彼女自身も、褐色の肌に青い瞳、金色の髪と、南部辺境地域のさらに南にある群島国家ムスペルに見られる特徴を備えている。


「うん」彼女は、頷いた。「生まれも育ちもムスペルだからね」私の予想どおりの返答をしたレニーは、小首を傾げた。「それがどうかした?」

「どこで、誰からその技を習った?」

 問われたレニーは、「うーん」と、なにか考え込むかのように顎へ指を這わせた。

「話すと長くなるよー?」

「コンパクトにまとめろ」


 横暴ともいえるリロイの要求に、レニーは難しい顔で唸った。その長い話を、頭の中で必死に圧縮しているらしい。

 やがて彼女は、眉間に皺を刻んだまま「近所で、知らないお爺さんから?」と呟いた。


「ふざけてるのか」


 リロイの語気は、それほど強くない。

 彼女が韜晦しているのかそれともこれが本気なのか、判断がつけ難いからだろう。


「ふざけてないってば」レニーは、不服そうに抗議した。「ホントにそのお爺ちゃんから習ったんよ。基本だけだけど」

「――そいつがなんて名乗ったか、覚えてるか」


 もう少し様子を見ようとでも思ったのか、リロイは重ねて問いかける。


「ナタとかナタクとか、そんな感じだった……かな」


 レニーの(いら)えは、覚束なげだ。

 だが、リロイの顔色が僅かに変わる。「その爺さんはどうなった」

 これにレニーは、少し哀しげに目を伏せた。


「逮捕されました」

「――鋼糸使いだぞ?」リロイは驚きの声を上げたが、確かに、鋼糸使いをただの警察官が捕らえられるとは思えない。


「詳しくは覚えてないんだけど」と、レニーは斜め上を見ながら言った。「あたしを本格的な弟子にするために、連れて行こうとしたみたい。それで捕まったんだって」

「抵抗もせずに?」


 リロイは胡乱げだったが、レニーは確信をもって頷いた。「仕事以外では殺しはしない、って言ってたもの」

「それで、大人しく牢獄行きだと?」


 信じられない、とばかりにリロイは低く唸った。すでに、レニーの語る言葉のどの部分なら信用できるのか、わからなくなっているようだ。

 彼女はそこに、追い打ちをかける。


「でも模範囚だったから、わりと早くに保釈になったみたい。保釈中の奉仕活動なんかもきっちり参加してたから、きっと更生したんだよね」

「――そうだといいな」


 最終的にどうでも良くなったのか、リロイはぞんざいな相槌を打つ。


「もしかして、あのお爺ちゃんの知り合い?」


 彼女にとっても謎だったのだろう、その老人の素性がわかるかもしれないと、レニーの目が輝いた。


「ナタク違いだ」


 だが、リロイの返答は彼女の期待したものではなかった。そんな彼女の表情に気がついたのか、少し考えたあと、リロイは付け加える。「ナタクってのは、名前じゃなくて称号みたいなもんだ。おまえが出会ったのは、俺の知ってるナタクの前任者かなにかかもしれないな」

「君は、君の知ってるナタクから鋼糸の使い方を教えて貰ったの?」


 リロイが無言で頷くと、なぜかレニーはにんまりと笑う。そして、怪訝な顔をするリロイの肩を気安く叩いた。腕を失ったほうの肩だったので、リロイは痛みに顔を歪める。


「じゃーあたし、君の姉弟子じゃない」

「は?」


 どうしてそうなるんだ、と異議を唱えるリロイに対し、レニーは当然の如く「あたしは子供の頃からこれ使ってるんだから、そうなるでしょ」彼女は、長く優美な指先をくねらせる。「師匠もおんなじナタクだし、これであたしが姉じゃなかったらなんだって言うのよ」

「ただの他人だろ」


 雑に言い放ち、リロイは歩き始める。

 すると、慌ててリゼルがあとを追ってきた。そして、手前味噌ですが、と前置きする。「我が社には、性能の良い義手があるんですよ」すわ営業か、と思うような口調だったが、義手そのもの、接合手術、アフターケアに至るまですべて無料だと言う。


「気前がいいな」


 リロイはそれほど興味を引かれたようではなかったが、リゼルは揉み手をせんばかりに喰らいついてきた。


「それはもう、リロイさんに我が社の義手を使っていただければ、最高の宣伝になりますからね。かかる経費なんて安いものですよ」

「そういうの隠さないスタイルなんだ」


 後ろから付いてきていたレニーが、リロイより先に突っ込んだ。


「営業に大事なのは誠実さですよ、レニーさん」リゼルはそう主張したが、同僚の賛同は得られなかった。

「悪い話じゃなさそうだが」リロイがそう言うとリゼルの表情が明るくなったが、続く言葉に陰った。「もし腕が生えてこなかったら、そのとき検討してやるよ」

「生えてきちゃいますか」極力、落胆の色を出さないように努めていたが、まるで隠し切れていない。

「いやいや、生えてこないっしょ」レニーが後ろで呟いた。その気持ちは、私にもよくわかる。人間の腕は──あるいは足も──蜥蜴の尻尾のように、切り離したあとに生えてくるような類いのものではない。


「──どうかしましたか?」


 リゼルの声に、焦慮と不安が滲んだ。

 いきなりリロイが足を止めると、苦しげに頬を歪めたからだ。


「駄目だ」上体をふらつかせながら、リロイは呻いた。「腹が減って死ぬ」


 それはまあ、もっともだ。常人なら死んでいるような外傷を塞ぎ、出血を止め、失われた細胞を今現在も尋常でない速度で再生させているのだ。

 体内のエネルギーが枯渇するのも、時間の問題である。


「おい、姉弟子」

「お、なんだね、弟弟子」


 弱々しいリロイの呼びかけに、レニーが上機嫌で応じる。リロイは今にも飛びかかりそうな、飢えた眼差しで彼女を見据えた。


「なんか食わせろ。奢りで」

「やだ」


 清々しいほどに、即答だった。リロイは、忌々しげに舌打ちする。「偉そうに姉弟子を主張するなら、空腹の弟弟子に飯ぐらい食わせろよ。役立たずだな」悪態をついてはみたが、初めから期待はしていないのだろう。

 ただ、心の裡で燻っている憤懣(ふんまん)を少しだけ発散したに過ぎない。

 なのにレニーは、両手で顔を覆い、大げさに嘆いて見せた。


「ああもう、どうしてこう、あたしには可愛げがなくて生意気な後輩しか出来ないんだろ。テュール君も人の話聞かない上にめちゃ無愛想だしさー」

「彼は真面目で良い子だと思いますけどね」


 ヴァルハラ社員の内情になどまったく興味がないリロイは、一刻でも早く空の胃袋に食料を詰め込むため、足を速めた。


「お待ちください、リロイさん」リゼルは、わかりました、仕方ありません、と覚悟を決めた顔をしていた。「お詫びの意味も込めて、ここは経費でご馳走させていただきましょう」「おまえは話がわかるやつだとわかってたよ」


 タダ飯にありつけた、と料簡(りようけん)の狭い喜びを噛み締める相棒を見るのは、なんとも哀しいものだ。


「腕が生えてくるまで、たらふく飲んで食おうぜ」

「お手柔らかにお願いします」


 やや引き()りながらも、リゼルは笑顔で応じる。

 その顔を固まらせたのは、「あーあ、あたし知らないよー」(とが)めるようなレニーの声だった。「ロティスが受け取ってくれると良いね、領収書」

「彼女も……鬼ではありませんから」


 そういうリゼルの顔色は、端から見ても良くはない。確かカレンも、会社の経理が厳しいようなことを言っていた。大企業なのに経費にうるさいのか、あるいは経費にうるさいからこその大企業なのか。


 いずれにせよ、末端の社員にとっては頭の痛い話だろう。


 そもそも、軽率にレニーがリロイを攻撃などするから、こうなっているのだ。リゼルもそこはしっかりと指摘するべきだと思うが、彼は同僚を責めようとはしない。

 最初に私が感じたとおり自制心の塊なのかもしれないが、さすがにこれでは身が持たないのではないだろうか。

 などと私が考えているところへ、甲高い悲鳴が頭上から降ってきた。

 見上げると、崩れた壁の穴から、領主のディトマールが顔を出している。壁の(ふち)(すが)りつくようにして、膝を突いていた。

 あれだけ美しかった庭園が崩壊していれば、まあ、悲鳴のひとつも上がろうというものだ。


「これ、結構なお金を請求されそうだね」


 レニーの呟きに、リゼルの低い呻き声が続いた。



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