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第一章 10


 ヴァイデン領主ディトマール・ベーデは、臆病者と評判の男だ。

 彼が住まう館は、ヴァイデン中央部に城のように(そび)えている。

 否──城のように、というよりも要塞の如く、といったほうが正しいかもしれない。〝闇の種族〟の脅威がある以上、街そのものを守る防壁は必要不可欠だが、街の中でさらに自らの館を高い壁で囲むとなるとなかなか変質的だ。

 周囲はいわゆる高級住宅地で、瀟洒(しようしや)で巨大な屋敷が建ち並んでいるせいか、ディトマールの無骨な館はなおさら奇異に映る。


 ディトマールが領主になったのは、数年前だ。それまではこの館もごく普通の、(ぜい)を凝らした領主の館に過ぎなかった。彼の父親である前代領主アマデオと兄フィデリオが立て続けに原因不明の死を遂げ、自身が跡を継いでのちに要塞化が始まったらしい。

 警備の数もまた、尋常ではなかった。館をぐるりと取り囲む壁の各所に詰め所を設け、それとは別に巡回の兵士が絶えず周囲を警戒している。


「質より量か」彼らを眺めていたリロイは、どこか呆れているようでもあった。まあ挙動を見る限り、彼らが練度が高い兵士だとは到底、思えない。


 館の正面玄関口は、巨大な鉄の門を挟んでふたつの詰め所があり、総勢二十人ほどが詰めていた。

 リロイの姿を認めると、槍を手にした兵士が数人、こちらへやってくる。

 カレンを通じ、リロイのこの日の訪問はすでに領主側に伝わっているはずだ。


 ディトマールから送られた依頼書を彼らに手渡すと、兵士たちは特に怪しむ様子もなく、巨大な鉄扉を開いてリロイを招き入れた。

 練度が低いというよりも、やる気がないように見える。彼らが生来の怠け者なのか、あるいは雇い主ディトマールの人望のなさか。

 背後で重々しく扉が閉まると、リロイは広大な前庭にひとり、取り残された。兵士たちは、誰もついてこない。


「簡単に殺せそうだな」リロイが物騒な感想を漏らす。「むしろ殺して欲しいんじゃないか?」まあ、確かにそう思われても仕方のない警備体制だ。質も悪いが、これでは数の意味もない。


 とはいえ、あの程度の兵士では何十人が束になってもこの男は止められないので、結果としては同じかもしれないが。


「まさか、彼女の顔に泥を塗るつもりじゃないだろうな」


 仕事の依頼書がどれほどの効力を持つのか計りようがないが、少なくとも今回の謁見は、カレンがヴァルハラを通してセッティングしてくれたものだ。その結果、リロイがディトマールを殺害した場合、ヴァルハラの面子は丸潰れになる。カレンの社内における立場は、相当に悪くなるだろう。


「そんなつもりはない」リロイはそう言ったが、ディトマールの出方次第では、そんなつもりになるのは目に見えている。


 そうなると私は、カレンに対して頭を下げるどころか、土下座でも足りなくなりそうだ。


「なんだ、あいつ」


 広大な前庭を進み始めたリロイは、館のほうからこちらへ駆け寄ってくる人影に眉根を寄せた。

 兵士たちが着用しているお仕着せの制服ではない、黒いスーツ姿の男だ。彼は結構なスピードでリロイにまで到達すると、深々と頭を下げた。


「遅れて申し訳ありません」サングラスをかけ、黒髪をオールバックにしたその男は、ふところから名刺を取り出した。「リゼル・ジルバと申します。以後、お見知りおきを」


 受け取ったそれには、彼もまた、ヴァルハラ社員であることが示されていた。

 リゼルと名乗ってはいるが、どこからどうみても男性だ。


「女みたいな名前だな」


 私が思っていても口にしないことを、リロイはなんの躊躇いもなく言ってしまう。そういうところが無意識にトラブルを呼び寄せるのだ、と()いたところで、直らないのだから致し方ない。

 だが、リゼルという名のヴァルハラ社員は、怒るどころか少し照れくさそうに微笑んだ。


「生まれたてのわたしが天使のように可愛かったので、母が思わずそうつけてしまったようです。お恥ずかしい限りで」それは生来の性質なのか、あるいはビジネスライクなのか、気分を害した素振りすらない。


「まあ元来、母はそういうことに(うと)い質でして、女性名というよりは響きの綺麗なものを、といった感じだったらしいのですが――」

「おまえの名前にそこまで興味はない」


 嬉々として語り始めたリゼルを、リロイは冷徹に切って捨てる。自分で話を振っておいてそれはなかろう、と思うのだが、リゼルはこれにも憤慨することなく、「では、ご案内いたします」と先だって歩き始めた。

 自制心の化け物か、とも思ったのだが、老獪(ろうかい)とも若輩(じやくはい)とも取れそうなその顔に浮かぶ笑顔を見る限り、どうもこれが素のようにも感じる。

 リロイも胡乱(うろん)げに、彼の背中を見据えていた。


「カレンさんからお話があったときは正直、驚きました」そんな視線など意に介さず、リゼルは上機嫌でリロイに話しかけた。「まさかこんなところで“疾風迅雷のリロイ(リロイ・ザ・ライトニングスピード)”にお会いできるとは、思っても見ませんでしたから」

「領主からはなにも聞いてなかったのか?」これが他の人間の発言なら、探りを入れている、と思うところだが、リロイなのでそれはない。


 ところが訊かれたほうも、「え、あ、はい」と挙動不審だ。どことなく捉えどころのない人物だが、腹芸は苦手なのだろうか。


「その、カレンさんからは領主直々の依頼についてあなたからディトマールさんに話がある、ということでしたが」取り繕うように、早口で言葉を継いだ。「穏便に済みそうな話でしょうか?」

「どうだろうな」


 リロイは、口の端を不吉に吊り上げる。「あっちの出方次第じゃないか」

「ディトマールさんは非常に繊細なお方でして」リゼルは、困った顔で擁護を始める。「フィデリオさまがご健在であったならば、自分が領主になるなどとは夢にも思わないような、野心のない方なんですよ」

「そうか」


 リロイは、ただ頷く。驚くほど、了承の意が感じられない口調だ。リゼルも当然、不安を感じたようで、それが顔色に現れていた。


「もし今、ディトマールさんまでもが逝去(せいきよ)された場合、ヴァイデンは政治的混乱に陥ることは必死です」


 ベーデ家は、長くヴァイデンを支配してきた一族だ。有力商人たちで構成された議会も存在するが、領主の権限は強い。リゼルの言うとおり、ここでベーデ家の血筋が途絶えた場合、後釜を狙って壮絶な権力闘争が起こるだろう。


「我々としては、それは避けたい事態なんです。ヴァイデンが安定していないと、南部辺境地域全体が影響を受けますので」

「そりゃ大変だな」


 どうでもいい、という心の声が聞こえてきそうな同意だった。

 しかしリゼルは、そうなんですよ、と力強く続ける。「ですから是非リロイさんには、この度のトラブルを暴力以外の方法で解決していただきたいのです」


「馬鹿なこと言うなよ」


 リロイは、リゼルの懇願に苦笑いする。


「暴力で解決するから、傭兵なんだぞ」


 その意見には異論が頻出しそうだが、この男が言うと紛う事なき真実のように聞こえるから不思議だ。

 自分の意見を無下に否定されたリゼルも、言葉に詰まっている。


「心配するな」そんなリゼルを気遣ったわけではないだろうが、リロイは、彼の背中を軽く掌で叩いた。「なにも、問答無用で殺しに来たわけじゃない。訊きたいことがあるだけだからな」


 つまりそれは、問答になにかあれば殺すことも(いと)わない、ということでもある。

 リゼルも、穏やかな口調の裏にそれを感じ取ったのか、さすがに口元が少しだけ引き()っていた。

 前庭を踏破して辿り着いた館は、静寂に包まれている。

 窓にはすべて鉄格子が()められ、分厚いカーテンで遮られた内部の様子を見ることは(かな)わない。重厚な扉の前には、正門にいたような兵士の姿は見られなかった。


「ディトマールさんは、極度の人間不信に陥っています」館の様子に眉を(ひそ)めたリロイに、リゼルが説明する。「ですので、館の中に殆ど人はいません。数人の使用人だけが側近くに仕えることを許されているような状況です」

「おまえはよく入れてもらえたな」


 別にリゼルが怪しいと言ったわけではないのだが──私は個人的に、油断のならない人物だと思うが──、彼は少し傷ついたような、物悲しげな顔をした。


「わたしこれでも、誠実と正直さがモットーなんですが」

「十分、嘘くさいぞ」


 良くも悪くも、正直さでいえばリロイも相当である。面と向かってそう言われたリゼルは、苦笑いして、館を囲む壁を指さした。


「実は、この館のセキュリティを担当しているのが我が社なんですよ」

「へえ」特に感銘を受けた様子もないリロイは、振り返りもせず、先ほど通ってきた正門を親指で差した。「あのやる気のないのが、おまえのところのセキュリティなのか」


 リゼルは少し困惑したあと、リロイの言うやる気のないのがなんなのか気づいたらしく、慌てて両手を大げさに振って見せた。


「あれはディトマールさんの私兵ですよ。さすがにあれは売り物になりません」


 毒のなさそうな顔をしておきながら、なかなか辛辣(しんらつ)なことも言えるようだ。


「我が社のセキュリティには、値段に見合った価値があります。ディトマール様にも、ご満足していただいていますよ」

「おまえらさ」誇らしげなリゼルの言葉を、リロイは完全に無視した。「結局のところ、この街でなにがしたいんだ?」

「勿論、ビジネスです」


 リゼルは、淀みなく答えた。


「南部辺境地域には、ビジネスチャンスがまだまだ眠っています。他の企業に先駆けてそれを掴むべく、日々、努力している次第ですよ」

「“深紅の絶望クリムゾン・ディスペアー”がなくなったら困るか?」


 情報を引き出すための駆け引きなどする気もないリロイは、単刀直入に訊いた。


「いいえ」


 意外にもリゼルは、躊躇(ためら)うこともなくそう言い放つ。

 ではなぜ、わざわざ“深紅の絶望”とコンタクトを取ろうとしていたのか。

 リロイは、続けて訊いた。


「カルテイルが死んだら、どうだ?」

「正直、困ります」


 根っからの正直者――というわけでもないだろうが、リゼルはリロイに対して真摯に対応するつもりのようだ。

 なるほど、ヴァルハラの目的は組織としての“深紅の絶望”にではなく、その首領であるカルテイル個人にあるらしい。


「カルテイルってのはそんなに重要人物なのか」

「興味深い人物です」


 リゼルは、サングラスのブリッジを指先で持ちあげた。


「突然この街に現れ、犯罪組織を叩き潰して我が物とし、瞬く間に裏の世界を支配した手腕は見事と言う他ありません。その影響力はヴァイデンだけに留まらず、南部辺境地域に点在する街の犯罪組織をじわじわと吸収し始めています。あと数年もすれば、大陸中央にも進出してくることは間違いないでしょう」


 彼は一度そこで言葉を切ると、奇妙な表情でリロイをサングラス越しに見据えた。


「実は、彼は“闇の種族ダーク・ワン”ではないか、という噂がまことしやかに囁かれています」彼は、その与太話を口にするには生真面目すぎる口調で、続ける。「出自はまったくの謎ですし、その為人(ひととなり)は不明、容姿に関する情報は殆どありません。彼――性別すら定かではありませんが――と敵対し、その姿を見た者は例外なく、(ことごと)く殺害されているんです。組織の中でも、選ばれたほんの数人しか彼と直接会うことは許されないそうです」

「そんなに珍しい話か?」


 リロイに、感銘を受けた様子はない。

 犯罪組織や、暗殺、盗賊などの闇ギルドにおいて、そういった逸話は事欠かない。裏の社会で生き延びていく為には、実際の暴力と同じぐらいに情報操作──要はハッタリが重要なのだ。


 ただ、そのすべてが虚構だと断じることはできない。


 特殊な能力や外見に尾鰭(おひれ)がついて大げさな話になる場合もあれば、実例として、〝闇の種族〟が裏社会に潜んでいたこともある。人間の姿形を擬態する眷属や、人の精神を浸食し、異形を人と認識させてしまう能力などが代表的だが、もっとも警戒すべき脅威は上級に類される者どもだ。

 人間と変わらぬ姿でありながら、人間を遙かに超えた能力を有する彼らは、常に人類社会の裏側に見え隠れしてきた。彼らの仕業だとみられる陰惨な事件は、枚挙に(いとま)がない。


 もっとも有名なのは、吸血鬼だろう。


 人の血液を養分に永遠を生きる彼らは、不死身の肉体と様々な異能力を誇る恐るべき化け物だ。人の身体を易々と引き千切り、空間に干渉してあらゆる場所へ瞬時に移動し、その視線だけで人を狂わせることができる。その身を獣に変化(へんげ)させて地を駆け、空を飛び、吸血した相手を(しもべ)として操った。


 私もかつて、〝死の淑女(レディ・ヘル)〟と呼ばれた吸血鬼と対峙した経験がある。


 さまざまな眷属と戦ってきた私だが、彼女との戦いでは、これほど恐ろしい生物がこの世に存在しうるのか、と戦慄を禁じ得なかった。

 さすがにあのレベルはそうそう邂逅することなどないだろうが、現に彼女が人間社会に紛れ込んでいることを知っている私としては、カルテイルの噂についても即座に否定することはできない。


「そもそも、カルテイルって奴が〝闇の種族〟だとして、だからなんなんだ?」

 リロイは、首を傾げる。「そんなの街の外に出れば、いくらでもいるじゃないか」

「街の中にいるからこそ、価値があるのです」


 リゼルは淡々と、商品を説明するかの如く述べた。「ただ人間に襲いかかるだけの下級ではなく、人間とコミュニケーションが取れる眷属から得られる情報には、高い希少価値がありますからね」

「“闇の種族”と友達にでもなりたいのか?」


 冗談めかしてリロイは言ったが、リゼルはにっこりと微笑んだ。


「どちらかと言えば、逆ですね」


 表情とは裏腹に、物騒なものの言い様だ。リロイは彼を横目に見て、「変な会社だな」と呟く。

 人類に仇なす“闇の種族”から人々を守るのは、主に兵士や傭兵の仕事だ。ヴァナード王国やアスガルド皇国、アルヴヘイム共和国などの大国は、兵士に厳しい訓練を課して練度を高め、高い給金と引き替えに国民の安全を保証している。


 辺境地域では小さな傭兵派遣会社が乱立したりもしているが、大陸中部から北部にかけては傭兵ギルドがほぼ独占状態だ。傭兵の質はランクそのものがわかりやすく示し、料金もほぼ一定で、法外な金額はS級以上と明確な線引きがされている。任務の失敗に対する保証もあり、要人の護衛から小さな村の厄介ごとまで、安心して任せられるシステムは高い評価を受けていた。


 これはギルド結成から数百年、地道な努力の賜物といえる。


 そういった状況で、大企業が“闇の種族”討伐に商機を見いだせるとすれば、やはり辺境ということになるだろう。傭兵ギルドも、管理が行き届いているのは現在のところ南はヴァイデンまでだ。


「だけど、言葉が通じるからって話が通じるとは限らないだろ」リロイにしては珍しく、まっとうな意見である。

「確かにその通りですが」リゼルは微笑みを絶やさずに、言った。「情報を聞き出す手段は、いろいろありますからね」


 非常に剣呑なことを言いながらも、彼の表情に暗い陰りはない。人間としてのなんらかの感情が欠落しているようには思えないのだが、かすかな違和感を感じた。


「今時の会社はそんなことまでやるのかよ」


 えげつないな、とリロイは呟いていたが、責める口調ではない。

 (もつと)も、この男にえげつないと非難されて納得する者など、どこを探してもいないだろうが。


「我が社の理念の為です」


 リゼルはそう言ったが、あまり公的な口ぶりではなかった。


「理念ってなんだ?」


 リロイに訊かれると彼は、恥ずかしげもなく答える。


「世界平和ですよ」

「正気か?」


 まさかリロイが、他人のそれを疑う日が来ようとは。

 強めに否定されたにもかかわらず、リゼルは気分を害した様子もなく、「もちろん、正気ですよ」と頷いた。


「無理でしょうか?」


 そう問いかける彼の表情は──サングラスで目を見ることはできないが──至って生真面目なものだった。

 リロイは口の端に、苦笑いを漂わせる。


「俺がいておまえがいるなら、世界平和なんて無理だよ」


 これにリゼルは、小首を傾げる。「わたしたちの関係は良好だと思いますが」なにを根拠にそう断言しているのかは定かでないが、まあ確かに今のところ、険悪とまではいえないだろう。


「無理だな」


 しかしリロイは、無下に否定する。


「俺かおまえ、どちらかひとりになれば世界平和だよ」

「それは少し、寂しくないですか」


 人は絶対にわかり合えないと暗に主張するリロイに、リゼルは疑問を呈した。

 リロイは、肩を竦める。


「寂しくはないが、退屈だな」


 だからこれでいいんだよ、とリロイは勝手に議論を終わらせた。

 リゼルは特に反論するでもなく、「なるほど」と首肯する。それはリロイの暴論に賛同したわけではなく、リロイのものの考え方、その一端を理解した、ということだろう。


 そこでふたりは、歩みを止めた。


 目の前に、館の扉がある。重厚な、鉄製だ。それがふたりの到達を察知したかの如く、ゆっくりと開き始めた。

 現れたのは、燕尾服を着用した初老の男だ。


「ようこそお越しくださいました、リロイ・シュヴァルツァー様」


 執事と思しき男は、深々と頭を下げた。


(あるじ)がお待ちです。こちらへどうぞ」


 招き入れられた館の中は人気がなく、静寂に包まれている。最低限の人間しか側近くに置いていない、というリゼルの言は正しいようだ。

 しかし静けさより、内部構造の異常さが目を引いた。

 元は開けた玄関ホールだったのだろうが、あとから仕切りを無数に立て、狭く複雑な通路へ作り替えている。


「なんだ、これ」

「暗殺を警戒しているんです」


 思わず呟いたリロイに、リゼルが答える。


「館の内部を迷路のようにすることで、暗殺者が自室へ辿り着けないように、と」

「誰か止めてやれよ」


 リロイは呆れ返って執事に目を向けたが、彼は心苦しそうに目を逸らす。

 仕方なく案内されて進み始めたリロイだったが、ただでさえ広い館の内部を無駄にぐるぐると歩き回らされ、明らかに苛つき始めた。


「この先ですよ」


 それを察したのか、リゼルが指さしたのは増設した壁だ。

 リロイは、舌打ちする。

 そしていきなり、壁を蹴り破った。

 リゼルと執事がぎょっとしたように固まるのを背に、壁に空いた穴を通って進む。その先に当然のように現れる壁をさらに破壊して、リロイは先へと向かった。


「いやいや、リロイさん」暴挙に声もない執事の代わりとばかりに、リゼルが追いついてきた。「それはまずいですよ。ディトマールさんがショック死しちゃいます」

「すればいい」


 リロイは非常に言い放ち、仕切りの板を蹴破った。


「むしろ、こんなもの暗殺者に意味がないって教えてやるのが親切だろ」


 暗殺者はこんなに騒々しく近づいてきたりはしないと思うが、意味がないという点は同感だ。

 やがて、割れた板の向こうに扉が現れた。

 そこでようやく我に返った執事が駆けつけ、リロイと扉の前に割って入る。


「少々、お待ちいただけますか」

「嫌だね」


 リロイの愚行を目の当たりにしながら、それでもまだ、こんなに子供じみた否定の言葉が返ってくると予想していなかったらしく、執事の開いた口が塞がらなくなる。

 その傍らを通り、リロイは、ディトマールの部屋の扉と対峙した。


 間違いなく、手で開けるつもりがない。


 話を聞きに行くのに、その部屋の扉をぶち破るのは如何なものか、と普通は思うのだが、残念ながらこの男は普通ではなかった。

 通路の仕切り板とは違い、玄関のものと同じ頑丈な鉄の扉だったが、重々しい音を響かせて表面が陥没する。蝶番が甲高い音とともに弾け飛び、扉全体が傾いた。


「お──」


 執事の喉が、なにか言葉を絞り出そうとした。おそらくは、お待ちください、あたりだろう。

 だが、リロイの二回目の蹴りが放たれるほうが早い。


 鉄製の扉が、部屋の中に飛び込んでいった。


 二転、三転しつつ、小さなテーブルと花瓶を踏み潰し、正面の壁に突き刺さる。

 誰かの悲鳴が、鉄の軋む音に紛れて小さく聞こえてきた。

 部屋に入ったリロイは、しかし悲鳴とは逆の方へ視線を向ける。


 そこには、壮年の男がひとり、壁に背中を預けて佇んでいた。


 突然、鉄の扉を破壊して入ってきたリロイに対し、まるで動じた様子がない。

 年齢は、四十代初め頃だろうか。口髭を生やした相貌は厳めしく、眼光は穏やかだが鋭さを秘めている。よほどの修羅場をくぐり抜けてきたのか、ただそこにいるだけで、鬼気も殺気も放っていないにも関わらず凄まじい威圧感があった。


 丈の短い上着を着込み、年季の入った革のパンツを穿いている。腰のベルトの左右には細身の剣が二本、提げられていた。いずれも、鞘には美しい装飾が施されている。一見するとただの飾り物のようにも映るが、彼の隙のない立ち姿がそれを否定していた。


「騒々しいにもほどがある」


 男が、声を発した。


「ノックもできんとは、聞きしに勝る問題児だな」


 低く深みのある声質は、落ち着き払った口調と相まって非常に質実剛健とした印象を受ける。

 リロイは彼をしばらく見据えたあと、リゼルに訊いた。


「もしかしてあれが、自慢のセキュリティか」

「我が社が用意できる最高ランクの、です」リゼルが恭しく、肯定する。「彼をご存じでしたか」

「悪い冗談だな」


 リロイは、口の端を吊り上げる。


「傭兵やってて、〝光刃のアグナル(アグナル・ザ・グリームエツジ)〟を知らない奴がいるかよ」


〝光刃のアグナル〟の二つ名で知られるアグナル・バロウズといえば、傭兵ギルドの最高ランクであるSS級のひとりだ。

 単純にランクだけで考えれば、リロイより強い男、ということになる。


「まさかそいつが、こんな辺鄙(へんぴ)な場所で用心棒まがいをしてるとはな。最近はSS級のバーゲンセールでもやってるのか?」

浅慮(せんりよ)だな、“黒き雷光”」


 アグナルは、口髭の下で薄い唇をかすかに歪めた。ダークブラウンの瞳は強い理性と冷徹なまでの平静さによって揺るがず、彼の内心を読み取ることはまったくできない。


「ランクがどうあれ、雇われれば働くのが我々傭兵だ。それ以上でもそれ以下でもない」

「アグナルさんは、ヴァルハラの特別顧問でもあるんですよ」


 リゼルが、アグナルの言葉に付け加える。

 特別顧問とは言うが、要は企業お抱えの危機管理の専門家ということだ。ある程度以上の企業になれば、傭兵ギルドと交渉し、お抱えの傭兵を雇うことはなかば常識である。


 ただ、その傭兵がSS級というのは規格外だが。


「俺の邪魔さえしなければ、顧問だろうがSS級だろうが、どうでもいいさ」リロイはそう言うと、アグナルに背を向ける。アグナルもまた、静かに頷いた。

「邪魔をするなら、それがなんであれ斬って捨てるだけのことだ」

「気が合うな」


 リロイは振り返らずに同意して、この部屋の主へと向かう。

 ヴァイデン領主ディトマール・ベーデは、部屋の角で身体を小さくして震えていた。

 五十代と思しき小柄なその男は、良い生地を使った高そうな服を着込んでいたが、まるで似合っていない。


 その一因は、痩せすぎの身体だ。


 元来の痩躯(そうく)ではなく、まともに食事を取っていない故の状態であることは、不健康そうな肌の状態や目の下の隈から察することが出来る。服がなまじ発色の良い高級品なので、中に収まっているディトマールが余計にくすんで見えた。

 リロイはくしゃくしゃになった依頼書を、ディトマールに放り投げる。髪が薄くなった頭に落ちてきたそれを、領主はゆっくりとした動きで拾い上げた。


「読め」


 リロイに命令されたディトマールは、びくりと肩を震わせる。大都市の領主であるにもかかわらず、自らへの無礼を怒るどころか、唯々諾々(いいだくだく)と指示に従い、依頼書を広げて目を通し始めた。

 死んだように暗いその双眸が、わずかに輝きを取り戻す。

 顔を上げ、目の前に立つ男を初めて見上げた。


「〝黒き雷光〟か」

「そうだ。黒いだろ?」面白くもなさそうにリロイは頷き、身を屈めてディトマールが手にしている依頼書を指さした。「おまえが書いたのか?」


 これにディトマールは、かくかくと首を縦に振った。


「そうだ、おまえにどうしても依頼したことがあったのだ」

「〝深紅の絶望〟がこれを利用して俺を罠に嵌めたことは知ってるか」


 普通なら激しく問い詰めるところかもしれないが、リロイは淡々とした穏やかな口調を崩さなかった。

 ディトマールの姿があまりに哀れだったから、ではない。

 そもそも、この男にそんな高次元の感情が備わっているのかどうか。


「知っているとも」領主は、力なく項垂(うなだ)れた。「わたしはてっきり、おまえは奴らに殺されてしまったと……」

「関与してない、と言いたいのか」


 ディトマールの述懐など無視して、単刀直入に問う。脅すような声色ではなかったが、ディトマールは首元にナイフでも突きつけられたかのように顔を青くして首を横に振った。「わたしは利用されただけだ!」

「そうか」


 リロイは、否定も追及もしなかった。自分の保身のためなら、役者もかくやとばかりの演技力を見せる者もいる。果たして、ディトマールはどちらか。


「それで、依頼はなんだったんだ?」


 リロイは、領主の動揺する姿を静かに見据えている。相手の心を見透かそう、などと考えているわけではないが、あまりに真っ直ぐに見つめられると、後ろ暗いところがなくても人間は落ち着きを失うものだ。


「――殺して欲しかったのだ、あの男、カルテイルを」


 ディトマールは、溜息をつくように答えた。

 彼の父と兄は、“深紅の絶望”の暗殺者によって殺害された、とディトマールは主張する。“深紅の絶望”の首領カルテイルはこの街を裏側から支配するため、ディトマールの父を懐柔し、あるいは脅迫し、便宜を図らせた。それをよしとせず、密かに“深紅の絶望”を壊滅させようとした父は、その企みを看破されて暗殺される。あとを継いだ兄も、どうにかカルテイルたちの影響下から逃れようと様々な策を講じたが、やはり命を奪われてしまった。


「それでおまえは、部屋の角で震え上がってるのか」

「おまえは見ていないからだ」


 ディトマールは呻くように言って、両手で顔を覆った。


「父も兄も、突然、首を切断されて死んだのだ。わたしの目の前で」彼の声は、そのときの衝撃を思い出したのか、恐怖に掠れていた。「だが、誰がどうやって、なにを使ってやったのかわからない。あそこには、わたしたち以外には誰もいなかったはずなのに」

「鋼糸だな」


 リロイは、合点がいったように頷いた。ディトマールは、意味がわからずに眉根を寄せる。


「研いで切れ味を高めた、鋼の糸のことだ。目に見えないぐらい細いから、どんな場所にだって入ってくるし、防ぎようがない」

「そんな、恐ろしい……」


 父と兄の死の真相を知っても、恐怖は(やわ)らぐどころかいや増した様子だ。館の中を擬似的な迷宮に作り替えてしまうほど暗殺を恐れている人物に、それは防ぎようがない、と告げれば、こうなるのも当然である。

 リロイは、自分の肩を抱いて恐れ(おのの)いている領主を見下ろし、肩を竦めた。


「だが、そいつはもう死んだぞ」


間違いなく、前二代の領主を殺害したのは、シルヴィオだろう。リロイがそう断言しても、ディトマールは(しばら)くその意味を飲み込めずに愕然としていた。


「ど――」喉につっかえる言葉を無理矢理、押し出すように、言った。「どうやって?」


 これにリロイは、一旦は説明しようとした。

 だが、開いた口から言葉が出てこない。

 両手がなにかを形作ろうとするかのように動いたが、結局、意味を成すことはなかった。

 最終的にリロイは、自分の胸の中心を指で指し示し、「ここに剣を突き刺したら、死んだ」と、驚くほど大雑把に説明する。


 まるで、落としたらお皿が割れた、と弁解する子供のようだ。


 しかしディトマールは、「おお」と感極まったように小さな歓声を上げる。自分を震え上がらせた存在がもうこの世にいないと知り、全身から力が抜けていくのが端から見てもわかった。


「では、あの男も――」

「お断りだ」


 この流れで拒否されるとは考えてもみなかったのか、ディトマールは硬直した。なぜ、という言葉すら出てこない。


「殺す相手は自分で決める。いくら金を積まれても、殺しは引き受けない」


 それは、断固とした意思表示だった。さらなる交渉を許さない、静かだが苛烈な決意に、領主は二の句が継げなくなる。

 リロイはふと、壁に掛けられている長剣に目を向けた。

 手にとって引き抜いてみると、鞘はインテリアの一部として装飾が施されているが、剣身の刃は潰していない。十分に、武器として機能しそうだ。


「どうしてもカルテイルが殺したいなら、これを使え」リロイはその剣を、ディトマールの目の前に置いた。「心臓を刺すか首を切れば、大抵の奴は死ぬぞ」

 だがディトマールは、その剣が毒でも持っているかのように身を退き、触ろうとすらしない。「無理に決まっている」彼は、怯えたように口の中で呟いた。

「なら、人にやらせようとするな」

「おまえは傭兵ではないのか?」縋るようなディトマールの詰問に、リロイは冷ややかな眼差しで応じる。

「そうだ」首肯し、指先を領主の怯えた顔に突きつけた。「殺し屋じゃない」

「まあまあ、リロイさん」


 そこでリゼルが、割って入ってきた。


「ディトマールさんは睡眠不足で少し情緒不安定なんです。ご容赦を」


 確かに、ディトマールに睡眠も栄養も足りていないのは見ればわかるし、それが思考や判断力の低下を引き起こしていることは確かだろう。

 だが、本人を前にして言うことではない。


「寝不足だろうがなんだろうが、知ったことか」


 リロイも、配慮などとは縁遠い性格だ。(うずくま)ったままのディトマールの胸ぐらを掴み、持ち上げる。彼は小さな悲鳴を漏らしたが、抗う様子はない。


「そもそもカルテイルの暗殺を頼むって事は、おまえ、あいつがどこにいるのか知ってるんだよな?」


 襟が喉を締め付けるので呼吸すらまともに出来なくなったディトマールは、声が出せないので激しく首を縦に振ることでリロイの問いに答えた。


「教えろ」


 これに対しては、首を横に振る。「なんでだよ」リロイは、指先に力を込めた。ディトマールの青ざめた顔が、赤くなり始める。


「リロイさん、それじゃ返事が出来ませんよ」リゼルがやんわりと指摘すると、リロイはあっさりと手を離した。床の上に落下したディトマールは、激しく咳き込みつつ、這い(つくば)ってリロイから距離を取る。


「彼は、確実にカルテイルを殺害する意思と技量の持ち主にしか、教えたくないんだそうです」


 リゼルは、我々も困っていまして、とぼやく。


「仕返しが怖いってか」リロイはうんざりしたように言って、後退(あとずさ)るディトマールへ近づいていった。「話さなきゃ、カルテイルじゃなくて俺がおまえを殺すぞ」口調は説得しているかのようだが、内容は完全に恫喝だ。


「殺し屋ではない、と言ったではないか」


 ディトマールは、消え入るような声で、それでもどうにか(あらが)って見せた。リロイは、「そうだな」と彼の主張を認めた上で、にやりと笑う。「殺す相手は自分で決める、とも言ったぞ」

 ディトマールの喉が、引き()った音を漏らした。しかし激しく首を横に振り、必死で脅しに抵抗している。

 己が身を守る最後の切り札、という自覚はあるようだ。


「リロイさんでも駄目でしたか」


 リゼルが、落胆の色を隠さない声で呟いた リロイはじろりと、彼を睨みつける。「情報を聞き出す手段がいろいろあるんじゃなかったのか」


「もちろん、ありますよ」リゼルはいそいそと、スーツの内側から細長い箱を取り出した。その中に入っていたのは、注射器だ。

「まだ試作品なんですが、凄いんですよ、これ」

「なにが」


 胡散臭そうにしているリロイの様子には気づきもせず、リゼルは少し興奮気味に説明し始める。「これは人間の脳に直接作用する薬でして、認識能力や判断能力が低下し、敵対心や警戒心を和らげ、思考を極端に鈍くさせてしまいます。わかりやすく言えば、酩酊状態でしょうか? 複雑なことを聞き出すのには技術がいりますが、単純な質問になら問題なく答えてくれますよ」


「そんな便利なものがあるんなら、初めから使えよ」


 なんで使わないんだよ、とばかりにリロイが言うと、リゼルは困ったように愛想笑いを浮かべた。


「実は少し副作用がありまして」

「熱が出て倒れるとか、そんなやつか」


 リゼルは、いえ、と首を横に振った。


「元に戻らなくなります」


 それは副作用と言うよりも、後遺症といったほうが正確ではなかろうか。


「廃人同然になってしまうので、我々としても最後の手段でして」

「――おまえら本当にえげつないな」


 リロイは眉根を寄せ、足下に転がったままだったディトマールの剣を拾い上げた。「こいつは、ただの臆病者だぞ。廃人はやりすぎだ」そして引き抜いた剣身の切っ先を、ディトマールに向ける。「治る傷にしてやるべきだろ」


 このえげつないやりとりを、当然ディトマールはすべて聞いている。

 愕然と固まってしまった顔には、恐怖の色がへばりついていた。まるで未知の怪物とでも遭遇したかのような戦慄に、思考が麻痺してしまったかの如くだ。


「なあ、おまえもそっちのほうがいいだろ?」


リロイは自分のほうが人道的だとでも思っているのか、ディトマールに選択の機会を与えた。

 普通はどちらも願い下げだろう。

 もちろんディトマールは、返事など出来ない。

 リロイは勝手にそれを了承と判断したらしく、抜き身の剣を手に歩み寄った。


「安心しろ、腕を叩ききったりはしない。くっつかないからな」


 どこをどう安心しろというのか、と声が出せたらディトマールも叫んだに違いない。


「とりあえず、突くか削ぐか、どっちがいい」


 恐るべき二択を迫るリロイは、かすかに笑っていた。

 もはや逃げようという気力も失ったのか、座り込んだままディトマールは動かない。ただ、長く細い息を吐いたあと、枯れた声が呟いた。


「──教会の、地下だ」


 臆病者の領主は、いずれにせよ自分の身に危機が降りかかると観念したのか、最後のカードを素直に切り始めた。


「元々はまだこの街が小さかった頃、“闇の種族”や盗賊たちから我が身と財産を守るために作られた避難壕ひなんごうだったらしい」偽装として教会を建築し、街が拡大するにつれて避難壕も拡張していく。十数年に亘って増改築を繰り返され、避難壕というよりも地下街、というに相応しい場所になった。

 だが、発展を遂げたヴァイデンは巨大な壁で〝闇の種族〟などの脅威を防ぎ、訓練された兵士が犯罪者たちを取り締まった。人口も増え、それぞれが自分の裁量で財産や家族を守るようになると、避難壕としての地下街の必要性が薄れていく。


「祖父の代には廃棄されたはずだったのだ」


 しかし気づけば、格好の隠れ家として犯罪組織の拠点となっていた。まともな設計図すらない迷宮のような地下街は、身を隠したい犯罪者たちにとってこれ以上ないほど理想的な場所だったのだ。


「そしてその組織を乗っ取り、〝深紅の絶望〟としてさらに強大に作り替えたのがカルテイルというわけだ」


 項垂れているディトマールの声は、床に落ちていく。リロイは領主の薄くなった頭頂部を見下ろしていたが、静かに剣を鞘に戻した。「その教会はどこにある」ディトマールからその詳しい場所を聞き出すと、その剣をもう一度、彼の前に置いた。すでに切り札を開示したディトマールは、武器から逃げることすらせずに、ただぼんやりとした視線を送るだけだ。


「最後に身を守れるのは、自分自身だ。ちょっとは使えるようになれ」


 リロイの助言も、おそらく届いてないだろう。寸前まで自分を拷問しようとしていた人間の言葉など、聞く耳を持つはずがない。

 しかし、相手が聞き入れるかどうかには興味がないらしく、リロイはすぐさま踵を返した。その足で教会へ向かうつもりだろう。

 部屋の扉は、リロイが破壊している。


 そこに、代わりとばかりに立ち塞がっているのは、アグナルだ。


 リロイは足を止め、SS級の男を見据えた。


「なにか用か」

「貴様がどこへ行くかによるな」


 アグナルはただ佇んでいるだけだが、凄まじい存在感で、広い部屋の空間そのものを圧しているように感じられる。この圧力だけで、気の弱い者なら膝を屈してしまうだろう。

 リロイはそれを、鼻で笑い飛ばした。


「教会に決まってるだろ、空気読めよ」


 まさかこう返ってくるとは思わなかったのか、アグナルは片方の眉を少しだけ持ち上げた。


「それよりも、あのおっさんに少しぐらい稽古をつけてやったらどうだ。どうせやることもなくて、暇なんだろ」


 別に、喧嘩を売っているわけではない。相手が誰であれ、思ったことをそのまま言葉にしてしまうので、そう聞こえてしまうだけだ。

 街のチンピラだと、このあたりで堪忍袋の緒が切れて飛びかかってくる。

 アグナルは、どうか。


「面白い」


 美しく整えられた口髭の下に、笑みが生まれる。


「空気を読め、か。そんなことを言われたのは初めてだ」


 くつくつと喉を震わせて、アグナルは笑う。

 挑発しているつもりはなくとも、まさか笑われるとは思っていなかったようで、今度はリロイが少しだけ面食らっていた。


「――とりあえず邪魔だから、そこをどけよ」

「そうすると、貴様がわたしの仕事の邪魔をすることになる」


 アグナルはまだ微笑みを浮かべたまま、しかし、巨大な壁のように立ち塞がっていた。


「ホテルの部屋に帰って美味い酒と食事を食らい、惰眠を(むさぼ)るというのなら通してやろう」

「あ、もちろん、お支払いはすべてヴァルハラ持ちで構いませんよ」


 リゼルが、ここぞとばかりに付け加えてくる。リロイはその発言を無視して、アグナルと同じように微笑を浮かべた。


「邪魔をすればどうするんだった、〝光刃のアグナル〟」

「斬って捨てるだけだ、〝疾風迅雷のリロイ〟」アグナルの顔から微笑みが消え、その指先が剣の束に触れた。


 だが、驚くほど自然体なので臨戦態勢に見えない。


 圧力は相変わらずだが、敵意や殺気などの不純物が存在せず、彼の心の裡を推し量ることは不可能だ。それはつまり、次の瞬間に彼がどのような行動を取るか予測できない、ということでもある。


「ちょ、ちょっと待ってください、おふたりとも」リゼルが慌てて、取り成そうとする。「こんなところで、いけません。お客様の部屋を滅茶苦茶にするつもりですか」

「おまえは依頼人そのものを滅茶苦茶にしようとしてただろ」


 リロイの真っ当な突っ込みに、リゼルは「ええ、まさに」となぜか首肯する。「打ったあとだったら構わなかったんですが、幸か不幸か、依頼人がああしてご健在ですので……」

「頭おかしいな、おまえ」


 リロイは、しみじみと言った。

 常ならば、おまえが言うな、と思うところだが、確かにこのリゼルという男、いささか言動に難がある。わりと素直に感情を吐露するが、拭いきれない胡乱さが漂い、アグナルとはまた別の意味で心情が読み取りにくい。

 頭がおかしい、と面と向かって言われても柔和な表情は崩れず、「それはともかく」と何事もなかったかのように話を変えた。


「今回の件、リロイさんに譲ろうかと思うんですが、如何いかがですか」



 どのような意図があるのかは不明瞭だが、ひとまずこの場を収めよう、という苦し紛れの提案のように思えた。


「まあ正直に言えば、我々の会社に人的被害がなく“深紅の絶望”をこの街から排除できるのであれば、一定の成果と言えるんです」リゼルは、熱を込めて言った。「ただ希望としては、首領のカルテイルさんは生け捕りが望ましいですし、たとえ死んでしまっても遺体さえ引き渡してくれるのであれば――」

「断る」


 リロイは、リゼルの提案を一刀両断にした。


「譲られる理由がない」


 忌々しげに、吐き捨てる。

 アグナルは、その鋼のような双眸に少しだけ、楽しげな光を宿した。


「譲る理由もないな」


 静かに、告げる。

「そう──ですか」


 リゼルはがっくりと肩を落とした。

 胡散臭い男であるのは変わらないが、少なからず同情する。どう見ても常識を逸しているふたりを説得し、不必要な争いを避けようと努めたことは私だけが評価しよう。


「だが確かに、ここは少し手狭だな」そうは思えない巨大な私室をぐるりと見回し、アグナルは言った。「中庭はどうだ」


 リロイは返事の代わりに、肩を竦めた。












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