第一章 9
ドアを開け、リロイを一目見た瞬間、「酷い姿ね」とカレンは顔を顰めた。
シルヴィオとの戦闘でレザージャケットや革パンは至る所が裂けているし、血糊のおまけつきだ。
さらには全身が粉塵まみれで、黒い髪もやや白みがかっている。
「とりあえず、先にあっちね」
彼女は、バスルームを指さした。リロイは特に不平は漏らさず、言われるがままにそちらへ向かう。
その途中、頭上を指さした。
「これか」
「それよ」
私が踏み抜いた天井は、応急処置として板を二重にして釘で打ちつけられている。これでは、雨が降った場合に部屋が水浸しになりそうだ。
「相棒が迷惑をかけたな」
リロイはそう口にしたが、さして大事だとは思っていないのが声色からもわかる。
「いいえ」
カレンの返答も、ぶっきらぼうだ。
その口調から察するに、もう修理代の請求は諦めたらしい。
申しわけない限りだ。
「ちょっと、ドアくらい閉めなさいよ」
バスルームに入るや否や服を脱ぎ始めたリロイに文句を言って、カレンは乱暴にドアを閉じた。それから、床の汚れに気がつき、溜息をつく。
「施設の子供たちを思い出すわね……」
彼女は独り言を呟き、リロイが落としていった汚れを雑巾で拭き始めた。別にホテルなのだから清掃係に任せればよいものを、とも思ったが、そこはまあ性分なのだろう。
一通り綺麗にしたところで、彼女はバスルームの外に立てかけられていた剣に気づき、少し呆れたような顔をした。傭兵家業の人間が、手に届かないところに得物を置いておくのは不用心――そんなところだろう。
だがリロイからすれば、私をバスルームへ持って入るのは男同士で一緒にシャワーを浴びるようなものらしい。大浴場ならまだしも、ホテルなどの小さなバスルームでは外に置いておくのが慣習になっていた。
「リロイ、帰ってきた?」
廊下から、スウェインが顔を出す。
随分と、見違えていた。
継ぎ接ぎだらけで汚れていた服は新品のゆったりとした部屋着に替わり、長めだった髪もさっぱりと短くなっている。
「ええ」カレンは、バスルームを指さす。「まったく、男の子が泥だらけで帰ってくるのはいくつになっても変わらないわね」
「じゃあ、無事だったんだ」
幾分、安堵したようにスウェインは息を吐いた。
「無事だったのですか」
スウェインの背後から、声だけが聞こえてくる。「残念ですこと」相変わらず、シェスタはリロイに手厳しいようだ。
「ところで、スウェイン」カレンが腕組みをして、少年を見下ろした。「食事はもうすんだの?」
問い質され、スウェインはばつが悪そうに肩を窄める。
「俺、昔からどうしても人参だけは駄目なんだ」
「嫌いなものを無理矢理食べさせるのは、好きじゃないんだけど」カレンは、威圧するように組んでいた腕を解くと、スウェインに近づいてその頭に掌を乗せた。「自分でもわかってると思うけど、君は栄養状態がよくないでしょ。健康状態が改善するまでは、残さず食べなさい」
「――はい」
観念したのか、スウェインはカレンに連れられて、とぼとぼと戻っていった。
バスルームの中の、水音が止まる。
しばらくして出てきたリロイは、新しい革パンを履いてはいたが上半身は裸だ。タオルで髪を拭きながら、ナップザックと立てかけていた私を掴み、部屋の奥へ向かう。
「シャツぐらい着たらどうだ」
一応、そう提案してみるが、「部屋の中だからいいだろ、別に」と概ね予想どおりの言葉が返ってくる。
間違いだとは言わないが、ここはおまえの部屋じゃない。
「好きにしろ」私は、いつものようにそう言った。
バスルームの先にはキッチンとリビングがひと繋ぎになった大きめの部屋があり、寝室はさらに奥にあるようだ。キッチンテーブルにはテイクアウトの料理が置かれ、スウェインとシェスタが席に着いている。
スウェインは難しい顔で、フォークの先に刺さった人参を見つめていた。
カレンはちょうど、コーヒーの用意をしていたようで背中を向けている。気配を感じて振り向いた彼女は、半裸のリロイを見て目を細めた。
「女の子もいるのに、なんて格好してるのよ」
案の定、叱られる。
「不愉快ですわね」
食後のデザートにケーキを食べていたシェスタは、軽蔑しきった眼差しでリロイを貫いた。唯一スウェインだけが、「凄い筋肉だね」と感心している。
結局リロイはカレンに部屋を追い出され、バスルームへ戻されてしまった。ぶつぶつ言いながら服を着る様子は、どう見ても大の大人ではない。
故に私も、だから言っただろう、とは言わないでおいた。あまりに哀れだ。
「誰が哀れなんだよ」
どうやら、最後の部分を口に出してしまっていたらしい。
まあ、よくあることだ。
もはやどうでも良いのだが、聞かれてしまったので仕方なく、諭すように言った。
「誰が哀れかと訊かれれば、いい歳して服をちゃんと着なさいと叱られているおまえのことだよ、相棒」
「誰が見てもおかしな格好してるおまえよりはマシだ」リロイは、バスルームのドアを開けながら聞き捨てならない暴言を吐く。「むしろおまえは脱げ。もっとまともな服を選べ」
何事にも、限度はある。服装に関しての嘲笑は甘んじて受けてきたが、この言い様はどうだろうか。
自らの残念さを棚に上げての発言は、甚だ許し難い。
ならば、黒しか着ないおまえはなんなんだ、前世は鹿尾菜か、と言い返そうとしたが、開いたドアの向こうにカレンがいるのを見て慌てて声を呑み込んだ。
「わたし、耳がいいのよ」
彼女は、そう言いながらも怪訝な顔だ。
「最初は気のせいかもと思ったけど、やっぱり聞こえるのよね、あなたの相棒の声が」
「いないだろ?」
リロイは脇にどいて、バスルームの中をカレンに見せる。彼女はもちろんそこにいる私をそうとは認識せず、首を傾げた。
「おかしいわね」よほど自分の耳に自信があるのか、普通なら空耳で済ませそうなものだが、カレンはしきりに狭いバスルームの中を訝しげに見回していた。
「まさかあなたの相棒、忍者ってことはないでしょうね」
カレンは、冗談交じりにそう言った。
忍者とは、東方の島国耶都に起源を持つ暗殺者の総称で、特殊な訓練と薬物によって肉体を強化した上に、忍術という得体の知れない技まで駆使する厄介な連中のことだ。
リロイは、口の端に楽しげな笑みを浮かべる。
「あんな格好の忍者がいるかよ。忍べないぞ」
そう言って、小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。やることなすこと、どうしてこう子供じみているのか。
「それもそうね」カレンがあっさりと同意したのも、腹立たしい。
いや、別に忍者に相応しいと思われたいわけではないのだが。
「じゃあ、伝えておいてくれる、彼に?」
リロイが頷くと、彼女は言った。「もうお金のことはいいから、一言お礼を言いに来なさいって」
「──だとよ」
まるで傍らにいるかのようにリロイが言ったので、カレンが不審な顔をしてまたもや周りをぐるりと見渡す。
その反応にリロイがにやにやしていると、からかわれたことに気がついたカレンが鋭く睨みつけてきた。
「冗談だ。ちゃんと伝えとくよ」
リロイが謝ると、彼女はそれでもしばらくは睨んでいたが、やがて疲れたように大きく息を吐いた。
「──それで」
カレンは、声のトーンを落とした。
「シルヴィオはどうなったの」
「死んだよ」
ひとの生き死にを語るにはあまりにあっさりとしたものの言い様だったが、少なからず予想していたのか、カレンはそれほど動揺はしなかった。
「そうなると、この街から逃げ出すのは難しくなったわね」
「いや、逃げないぞ」
当然の如く言い張るリロイを、カレンは信じられないものを見る目で見つめた。
「逃げないでどうするつもりなの」
まあ、当然の疑問だ。
リロイはやはり当然とばかりに言った。
「組織ごと潰すつもりだが」
「はあ?」
素っ頓狂な声が、カレンの喉から飛び出した。それに続く、馬鹿じゃないの、という言葉が聞こえてきそうだ。
「一応、訊くけど〝紅の淑女〟のことじゃないわよね」
それはもう人的にも建築物的にも破壊済みだ。
「〝深紅の絶望〟だ」
リロイが頷くと、カレンは頭痛でもしたかのように眉間を指先で押さえた。
この男の言動は、慣れないと心身に支障を来すほどに常軌を逸している。
「あなたは確かに強いけど、人と組織は違うのよ」誰もが最初は、この男に常識を説こうとする。ただの考えなしだろう、と痛い頭を押さえながら意見するのだ。
「同じだ」そしてその大半が、挫折する。「ひとりずつ殺していけば、最終的に組織も死ぬだろ?」この男は、決してただの考えなしではない。
人並み外れた戦闘能力と驚嘆すべき生命力、そしてなにがあろうとも折れない精神力を持った最悪の考えなしだ。
「そもそもあなたは、シェスタを助けるために〝紅の淑女〟に乗り込んだのよね? どうして〝深紅の絶望〟を叩き潰そうなんて話になるの?」
彼女は、リロイが〝深紅の絶望〟の首領であるカルテイルにその身柄が狙われていることを知らない。
「シェスタを助けたのは、スウェインに依頼されたからだ」そこが、〝深紅の絶望〟につながる娼館だったのは偶然である。「それよりも前に、俺はカルテイルに喧嘩を売られてた。それを買っただけの話だ」リロイの考え方からすれば、非常にシンプルな話になる。
「──とんでもないわね」
詳しい事情を聞き出すでもなく、カレンはそこに至りむしろ、感心さえしたように見えた。
「わたしの会社にもわけのわからない連中がたくさんいるけど、あなたはそれと比べても断然に馬鹿だわ」
「そりゃどうも」
リロイの気のない返事にカレンは一瞬、苛立ちを覚えたように見えた。だが、そうしたところでどうにもならないと理解したのか、すぐに落ち着きを取り戻して続ける。
「あなた、“深紅の絶望”を潰すなんて言ってるけど、どこに根城があるのか知ってるの?」
「いや」
潰すだの殺すだのと言っておきながらのこの為体を、リロイは一切、恥ずかしいと思っていないようだ。カレンもそろそろこの男のことがわかってきたのだろうか、その態度には特に口を出さない。ただ一言、「どうするつもりなの」と訊いた。
「知ってそうな奴がひとり、いるだろ。そいつに訊くよ」
それが誰のことか、カレンは即座に理解した。
同時に目を閉じ、なにかに耐えるかの如く眉間に皺を寄せる。
「領主のところへなら、わたしの会社からもふたりほど派遣されてるわ。あなたと同じ理由でね」
そう言うカレンの声には、疲労感が漂っていた。
彼女が苦悶の表情を浮かべたのも、宜なるかな。
〝深紅の絶望〟と接触するための手段として、〝紅の淑女〟経由はすでに潰れてしまった。あといくつ経路を用意していたのかはわからないが、ヴァイデン領主の線は切り札に近いのではないだろうか。
それを、考えなしのリロイに闖入され、ぶち壊されたくはないはずだ。
最悪の場合、私が危惧したように、ヴァイデンとヴァルハラまでもが敵に回る可能性がある。
それを裏付けるように、だが、カレン本人は決してそれが本意ではない、と訴えるような静かな口調で言った。
「もし、あなたがわたしたちの業務を著しく妨害するのなら、排除しなければならなくなるわ」
「怖い言い方だな」口調は戯けているが、黒い双眸は笑っていない。「今度は本気、ってことか?」空気がほんのわずか、変化した。肌を刺すような緊張感が、ふたりの間に流れる。
「──明日一日、待ちなさい」
なんと言われようが退かない、というリロイの意思表示を感じ取ったのか、カレンは重ねて説得しようとはしなかった。「あなたが領主に会えるよう、話をつけるわ」彼女は指先を、リロイの顔に突きつけた。
「だから、間違っても勝手に殴り込んだりしないでよ?」
「一応、領主に仕事を依頼されてこの街に来たんだがな」リロイはそう言うと、ナップザックからくしゃくしゃになった依頼書を取り出す。
「なんなのよ」カレンは忌々しげに呟くと、リロイの手から依頼書をひったくった。それが本物であるかどうかを確かめるように、書面にじっくりと目を通す。
「本物――よね」
「そうだと思うが」
リロイが曖昧に応えると、カレンは「こういうの持ってるなら、もっと早く出しなさいよ」と苛立たしげに言って、依頼書を突き返した。若干、理不尽さを感じてはいるようだが、リロイは特に言い返すこともなく依頼書をナップザックに仕舞う。
「まあそれはそれとして」カレンはやや感情が高ぶったと感じたのか、咳払いして自らを落ち着かせた。「余計な摩擦を起こさないために、やっぱりわたしが話を通しておくわ。了承してくれる?」
「まあ別に、構わないんだが」
リロイは、面白そうに喉を鳴らした。
「そこは、あのふたりの面倒を見てるんだから言うことを聞け、でいいんじゃないのか?」
これにカレンは、頬を赤くした。
照れたわけではなく、憤ったのだ。
「そういう人間に見える?」
口調は穏やかだが、秘められた憤激が青い瞳から漏れ出ていた。
リロイはふと笑みを浮かべると、「見えないな」と呟き、両手を挙げる。「謝るよ」
「──本当に失礼よね、あなたたちって」
カレンは怒りの矛先をひとまず収めたようだが、なぜ複数形なのか。
この男と並べられて礼を欠くと言われるのは、さすがに受け入れ難い。
しかし文句を言う隙を与えずに、彼女はさっさとバスルームから出て行く。「コーヒー、呑むでしょ」
「ミルクと砂糖を頼む」
二つ名を踏襲するならブラックで味わうのが定石だろうが、リロイの味覚はその精神同様に子供並みだ。
カレンもそう思ったのか、その口元を微笑が掠めた。
キッチンでは、シェスタが優雅に紅茶を味わっている傍らで、スウェインが最後に残った人参の一欠片と格闘している。
それを横目にしていたリロイは、首を傾げた。
「スラムで満足に食べられない生活を経験しても、好き嫌いはなくならないのか?」
不思議そうに言われて、スウェインは、フォークの先に突き刺さった人参を凝視しながら応える。「俺も自分で不思議なんだけど、久しぶりに食べてみたらやっぱり駄目だったんだよね」
そして、挑戦すべき物体から意識を逸らすように、リロイを見やる。
「リロイは好き嫌いなさそうだね」
「いや、犬は食わないぞ」
それは、スウェインの言う好き嫌いの範疇には入っていない種類のものだ。ちょうどコーヒーを運んできたカレンが、「わたしも食べないわよ」と冷ややかに同意する。
「じゃあ猫はお食べになるんですか? 野蛮ですこと」
優雅に紅茶を飲みながら、シェスタが小さく鼻を鳴らした。正面に座る彼女に視線を向けたリロイは、にこりともせずに頷く。
「猫は結構、美味い。丸焼きで皮ごと炙るといいんだぞ」
「……!」
まさかそう返されるとは思ってもいなかったのか、シェスタは危うく、口の中の紅茶を噴き出すところだった。その慌てた様子を見て、リロイは笑う。
「嘘に決まってるだろ」
「……!」
無理矢理飲み込んだ紅茶が気管に入ったのか、苦しそうに咳き込むシェスタは、涙目でリロイを睨みつける。
「――本当に?」
そう訊いてきたのはシェスタではなく、カレンだった。なぜか、先ほどよりも距離を取っている。その目に浮かぶのは、非難の色だ。
「猫を食うほど落ちぶれちゃいないって」そう付け加えるが、手持ちの金が少なくなると野生動物を捕獲し、捌いて食うような男だ。猫を食っていないのも、たまたまその時、近くにいなかっただけではないだろうか。
「まあ、あなたが猫を食べようが食べまいが、どうでもいいけど」
カレンは、どうでも良さそうな顔はしていなかったが、言葉どおり、話題を変えた。
「この娘――シェスタには、お姉さんがいるらしいわ」カレンは、ふたりに食事を与えたり風呂に入れたりしながら、ある程度は聞き出していたようだ。「この街にも来ているらしいけど、ただ、連絡の取りようがないみたい」
彼女の報告に、なるほど、と頷いたあと、リロイはシェスタを見つめた。
「そもそも、どうして拉致されたんだ? やっぱり客を取らせるためか?」
すぐさま、カレンの肘がリロイのこめかみを打つ。
言葉を選ぶ、ということがこの生物にはまだできないので、仕方がない。
シェスタは、まだ潤んでいる目をリロイから逸らし、「あなたに教える義理はありませんわ」と全面的に拒否の姿勢だ。
義理ならあるだろう、と私などは思うのだが、リロイは別段、気にした様子はない。「そうか」と呟くだけだ。
これにシェスタは、小さく舌打ちした。
どれだけ嫌みや皮肉を言ってもリロイがまったく気にしないので、苛ついているのだろう。
リロイは、そっぽを向いてしまったシェスタの横顔に微笑しながら、言った。
「じゃあ、姉さんを探すか」
「駄目です」驚いたことに、それまでのすました態度はどこへやら、シェスタが強い口調で主張した。「姉さまが見つけてくれるから、探す必要なんてありません」
「なんだ、探偵かなにかなのか、おまえの姉は」シェスタの慌てようにリロイも不審な顔をしたが、彼女は、我を失ってしまったことを羞じるように俯いてしまう。
こうなると、強く出られないのが我が相棒だ。
「いろいろと事情があるんでしょうから、暫くはこの部屋にいれば良いわ」
助け船を出したのは、カレンだ。
「その間にお姉さんが見つけてくれればよし、そうでなければ、それはそのとき考えましょう」
うむ、面倒な部分は後回し、ではあるが、建設的な提案だ。シェスタが黙りを決め込むのなら、この街の警察機構が当てにならない以上、そうするしかあるまい。
「それでいいわね、シェスタ」
しっかりと本人に確認をとるあたりも、如才ない。
シェスタは、リロイに相対するときとは違い、素直に頷いた。
「次に彼だけど」
カレンは、ようやく最後の人参を飲み込んだところのスウェインに目を向けた。
「あなた、王国か皇国に行きたいのよね」
「うん」
シェスタとは別の理由で涙目になりながら、スウェインは頷いた。
「一応あなたが連れて行くことを了承している、ってことで間違いないわね?」
「ああ」
リロイが頷くと、カレンは「そこから先は考えてる?」と問いかけた。
答えようがない。
考えていないからだ。
困ったように顔を見合わせるリロイとスウェインを見て、カレンはがっくりと肩を落とした。「まあ、そうでしょうね」短いつきあいだが、さすがにその点は理解し始めたようだ。
彼女はしばらく唸ったあと、リロイを手招きしてリビングの隅に移動した。
「提案がひとつあるわ」
リロイが促すと、彼女は続けた。「ヴァルハラが管理経営している施設があるの。そこに入れば衣食住が保証され、学校にも通えるわ」
王侯貴族や大企業が福祉事業に手を出すのは、特に珍しいことではない。金が手に入れば、次は名誉や名声が欲しくなるのが人間の常だ。
ヴァルハラは確か、病院や学校なども運営していたと記憶している。養護施設もそういった事業のひとつなのだろう。
「そこは誰でも受け入れてくれるのか」
「誰でも、とはいかないわ。施設の数と定員には限りがあるもの」
でも、とカレンは付け加えた。「わたしはヴァナード王国の施設出身だから、そこならひとりぐらいならなんとかなると思う」
「いいところなのか」
リロイの質問に、カレンは肩を竦めた。「良くも悪くも、ごく普通の施設よ」そう答えたあと、「ただ、身体能力や知能が一定水準を超える子供は、また別の施設に送られるわ」と続ける。
ギムレー、と名付けられたその施設は、擁護のためではなく完全に人材育成のための機関だという。それを聞いたリロイは、ちらりと、食後のデザートにようやくありつけて喜んでいる少年を見やった。
「言っておくけど」カレンは、リロイの憂慮を見抜いたかのように言った。「ギムレーは高度で専門的な教育を施す場所で、確かに訓練なんかは大変だけど、洗脳や薬物によるコントロールがされるわけじゃないわよ」
「そこはまあ、出身者の言い分を信じるよ」
それにあいつが優秀かどうかはわからないしな、とリロイは苦笑する。
カレンは、眉間に皺を寄せた。
「わたしがギムレー出身なんて、言ってないわよ」
「でも、養護施設出身なんだろ」
リロイは、言った。
「それであんたが引き抜かれなかったんなら、一定水準が高すぎる。ギムレーとやらにいける奴なんていなくなるぞ」
勿論リロイは、思ったことをそのまま口にするので、お世辞やおべっかとは縁がない。
最初は胡乱げだったカレンも、それに気がつくと表情を緩めた。「讃辞は素直に受け取っておくわ」と小さく微笑み、「もし彼がギムレーに引き抜かれても、高度な教育が受けられるだけ、という点を出身者が保証しましょう」と、真摯な口調で言った。
リロイは、首肯する。「あとは、スウェイン自身の問題だな」
「そのことなんだけど」
カレンは、表情を引き締めて言った。
「わたしが口利きしたことは、内緒にしておいてもらえるかしら」
その理由を、リロイは訊かなかった。おそらく、リロイも同じ事を望んだだろう。代わりに、「どうして、そこまでしてくれるんだ?」と少し不思議そうに尋ねた。
「あなたがそれを訊くの?」と、カレンは苦笑いする。
確かに、そうだ。
ふたりはキッチンへ戻ると、スウェインに施設について説明した。
デザートのケーキを食べていたスウェインは、カレンの話を聞くにつれて、フォークを握った手が動きを止める。
「すぐに答えを出さなくてもいいわ。ゆっくり考えなさい」
説明をひととおり終えたカレンがそう言うと、スウェインは首を横に振った。施設への入所を断るのかと思いきや、「俺、そこに行きたい」と即答する。「学校行くためにお金貯めなくちゃ、って思ってたところなんだ」
カレンは、少年の即決ぶりにやや戸惑っていた。「勿論それが最良の選択だとわたしも思うけど、すぐに決めちゃって良いの?」
「うん」スウェインは揺るがない。「頑張れば大学まで出してもらえるんでしょ?」
あまりに迷いがないので、なにかやりたいことでもあるの、とカレンが探りを入れると、彼は少し照れくさそうに頷いた。
「父さんみたいな新聞記者になりたいんだ」
「それなら、勉強は大事ね」カレンは納得したように、言った。「わたしの友達にもひとり新聞記者がいるけれど、毎日走り回って大変そうだから、体力も必要よ」
「スウェイン、あなたお父様が新聞記者だなんて一言も仰らなかったわね」
唐突に、シェスタが言った。
「この街の新聞社ですの?」
「ヴァーケルンのシャッテン新聞社だよ」スウェインは、少し顔を輝かせる。「昔は、あそこに住んでたんだ」
ヴァーケルンは、アスガルド皇国の皇都エクセルベルンに次ぐ大都市だ。傭兵ギルドの本部があり、第一皇子バルドルが居城ブレイザブリクを構えている。
スウェインの返答に驚きの声を上げたのは、カレンだった。「わたしの友達と同じ会社なのね」と呟き、敏感にスウェインが反応したのを見て微笑んだ。
「落ち着いたら紹介するわ。いろいろ聞きたいこともあるでしょうから」
「うん、ありがとう」
スウェインは、満面の笑みをカレンに向ける。
その傍ら、ふたりに聞こえないように顔を背け、シェスタが小さく舌打ちをした。どうして彼女がそんな反応をしたのかはわからないが、なにやら空恐ろしいものを見てしまった気がする。
これは、見なかったことにしたほうが良いだろう。
まさに、触らぬ神に祟りなしだ。
だが、祟りを恐れぬ馬鹿がいた。
「先制点を取られたな」
リロイには彼女の行為の意味が理解できたのか、からかうようにシェスタへ耳打ちした。
次の瞬間、シェスタの二本の指が、問答無用でリロイの両目に突き刺さる。
「──なにやってんのよ」カレンが冷ややかな眼差しと声で、悶絶するリロイの心を抉った。
いやむしろ、その台詞はリロイの人生全般に対して投げかけて欲しい。
一番、相応しい気がするのだが、どうだろうか。




