序
まったくもって度し難い。
相棒について忌憚なき意見を述べよ、と言われれば、私は迷うことなくそう答えるだろう。
どうしてこの男は、理性よりも感情に走るのか。
感情的であることがことさらに愚かであるとは、私も断じない。
だが、理性的であることを放棄した短絡的な行動の結果、これまでどれほどの災難に見舞われてきたか少しは考えろ、と言いたいのだ。
「さっきからなんだよ、煩いな!」
豪腕の一撃をかいくぐり、相手の顎下に剣の切っ先を突き刺しながら、直情径行の我が相棒リロイ・シュヴァルツァーが苛立たしげに吐き捨てた。
「言いたいことがあるなら、はっきり言えよ!」
怒鳴るリロイの頭上では、顎から脳天までを串刺しにされた相手が口腔にあふれ出す血で喉をごろごろと鳴らしていた。
気が散ってはいけない、と思って呟くに止めていたのだが、そちらがそう言うのなら良いだろう。
私は、言った。
「いきなり飛び出す馬鹿がどこにいる」
これにリロイは反論――もとい、悪態をつこうとする。だが、異常に筋肉の発達した両腕が五指を開いて掴みかかるほうが先だった。
頭を串刺しにされてもなお、それは絶命していない。
丸太でさえ易々と握り潰す驚異の握力がリロイの頭に襲いかかるが、それをまともに食らうほどリロイは鈍重ではなかった。
むしろ、その言葉から最もほど遠いのが、この男だ。
凶悪な指先はなにもない空間を押し潰し、交差する。
リロイは剣から手を離し、跳び退っていた。そして着地と同時に、再び前進する。両腕が交差し、無防備な状態の相手に対し、リロイはそのふところへともぐり込んだ。
低い姿勢から、掌を突き上げる。
全身のバネを利用した一撃は、顎下に突き刺さっていた剣の束頭を強打した。衝撃で、剣は突き刺さっていた頭部を破裂させ、頭蓋の破片と脳漿を撒き散らしながら吹き飛んでいく。完全に脳が破壊されては、いくら尋常ならざる生命力を持つとはいえ、絶命は免れない。
二メートルを超える巨躯は、重々しい地響きとともに倒れ伏すと、死の痙攣を開始した。
「いきなり飛び出す馬鹿がどこにいるかって?」空中から落下してくる剣を掴み取りながら、リロイは鼻を鳴らした。「――ここにいるだろ」
なるほど、自分が馬鹿だということは認識していたようだ。
「その馬鹿は、数は数えられるのか」
「当たり前だ」
絶命した巨躯を踏みつけて、リロイは憤然と言った。
森の中に敷かれた、街道だ。
このあたりには都市国家が乱立する辺境地域だが、当然の如く物流はあるし、商隊なども盛んに行き来している。切り開いただけで舗装すらされていないが、馬車がすれ違えるほどには広い。
そこを埋め尽くしているのは、今し方リロイが息の根を止めたのと同じ化物たちだ。
いずれも凄まじく発達した筋肉と巨躯を誇り、形は違えど、頭部に骨が変形して出来たと思われる角が生えている。黒ずんだ皮膚を外套のように覆っているのは、針のように鋭く硬い灰色の体毛だ。
リロイを囲む奴らの喉が威嚇の音に震え、不気味な旋律を奏でていた。捲れ上がった分厚い唇からは、猛獣に匹敵する鋭く巨大な牙が見える。
仲間を易々と屠ったリロイを、警戒しているのだ。
睨めつけてくるその眼球に瞳孔はなく、人間でいうところの白目にあたる強膜は鈍い銀色をしていて、黒い毛細血管が浮き出ている。
その相貌は、あまりに醜悪でおぞましい。
常人なら、目にしただけで卒倒してしまうだろう。
人の形をしているが、人ではない。
“闇の種族”と呼ばれる、異能、異形のものどもだ。
その起源や生体は殆ど解明されておらず、分かっていることは、強靱な肉体と膂力、あるいは超常的な能力を有し、人間に襲いかかってくるということだけだ。
まさしく、人類の天敵である。
なんらかの生命体であることしか分からない“闇の種族”を、人類は長い時間をかけ、多種多様な能力と姿形、知能に基づいて分類し、体系化した。大きくは、上級、中級、下級と三分割し、そこから人型や獣型、虫型等々に細分化していった。下級、中級に属するものが大半で、上級にもなると遭遇することはまれで実在すら怪しい。
今現在リロイが対峙しているのは、下級の人型に分類される眷属、鬼だ。知能は低いが、素手で人間の躰を引き千切る怪力の持ち主である。到底、一般的な人類が太刀打ちできる存在ではない。
それが、ざっと見たところ三十体以上ひしめいていた。
我が相棒は、自由契約の傭兵だ。傭兵にとって“闇の種族”との戦いは日常茶飯事だが、ひとりで相対する数としては些か多すぎる。
「おまえ、もしかして両手の指の数以上は数えられないんじゃないだろうな」
「そんなわけあるかよ」
リロイは、にやりと笑った。
「足の指があるだろ」
そして無造作に、鬼の群れに突っ込んでいく。
黒のレザージャケットがひるがえると、一体の鬼が血飛沫を上げて仰け反った。胸板を斜めに斬りつけられて倒れるその鬼に、黒いブーツの踵が激突する。巨躯を踏み台にして大きく跳躍し、次の獲物めがけて飛びかかるその姿は、彼のふたつ名が示すが如く、まさに“黒き雷光”――反応できなかった鬼の一体が、顔面をふたつに断ち割られて崩れ落ちた。
そして着地と同時に前方へ猛進し、別の一体の心臓付近へと剣を突き入れる。硬い体毛や分厚い筋肉をものともせず、剣身は鬼の体を貫き、背中から顔を出した。
リロイは、それを捻りながら引き抜く。
同時に体を旋回させ、黒い血を曳きつつ背後から襲いかかろうとしていた鬼へと剣撃を叩きつけた。
脇腹に食らいついた刃は、体毛をへし折りながら肉を裂き、内臓へ到達する。さしもの“闇の種族”も、腸は柔らかい。リロイの一閃は半ばまで内臓を切断し、激突した背骨を砕き折った。
肉体の支柱を失ったその鬼は、それでもリロイを捕まえようと指先を蠢かしながら、くの字に体を折って頽れる。
鋭い牙の並ぶ口から断末魔の呻きと黒ずんだ血を吐き出すその鬼を、リロイは邪魔だとばかりに蹴り飛ばし、肉薄してくる別の鬼に激突させた。
死にかけの身体は仲間の足を払い、勢いよく転倒させる。
横転する巨体は、さらに仲間を巻き添えにしながらリロイの足下で停止した。
果たしてその瞳なき目に、掲げられた剣の切っ先が映ったであろうか。
リロイは仰向けに倒れた鬼の眼球へと、無造作に剣を突き入れた。そして眼窩の奥にある脳を破壊するため、大きくかき回してから引き抜く。聞く者を怯ませるような咆吼が鬼の喉から迸るが、リロイは眉ひとつ動かさない。
「いつものことだが――」
周囲の鬼を一瞥で牽制するリロイへ、私は溜息まじりに言った。
「おまえは、割に合わないことが本当に好きだな」
「別に、好きってわけじゃない」
リロイは、剣に付いた鬼の血と脂肪を一振りして落とすと、「それに」と続けた。
「割に合わないとも、思ってない」
「――だろうな」
もはや呆れるを通り越して感心するほど、この男の馬鹿は筋金入りだ。
だから言うだけ無駄、とは半ば分かっているが、軸のぶれない馬鹿は容易に間抜けへと転じてしまう。筋金入りの馬鹿はまだしも、馬鹿で間抜けな相棒など耐え難い。
それ故の、苦言なのだ。
しかしながら、そんな私の苦悩など露知らず、リロイは泰然と鬼の群れに対峙する。
ここまで顔色ひとつ変えなかったリロイが、そのとき初めて、表情に緊張を走らせた。
黒い双眸が捉えるのは、街道をわずかに逸れて林の中に身を隠していた四頭立ての馬車だ。大陸の至る所で見られる乗合馬車で、リロイもこれに乗車してここまでやって来た。
物流があり、商隊の通る道があるとはいえ、旅そのものが安全なわけではない。
“闇の種族”だけが脅威というわけではなく、肉食の野生動物や金品目当ての盗賊団、傭兵くずれの無頼漢なども跋扈しているからだ。
従って、よほどの命知らずでない限り、乗り合い馬車も護衛を雇うのが常識である。
ちなみにリロイは傭兵だが、この乗合馬車に護衛として雇われたわけではない。今回は仕事の依頼で呼ばれたので、乗車料金も依頼主持ちのただの一乗客だ。
そもそも通常の相場でリロイに護衛代を払ったとしたら、完全に赤字になる。
なぜなら、リロイは元S級の傭兵だからだ。
大陸全土に支部を持つ傭兵ギルドでは、所属する傭兵をランク分けし、仕事の内容や報酬などを選別して管理している。
新人の傭兵は最低ランクのEから始まり、D、C、B、Aと実績に応じてクラスアップしていくのだが、さらにその上にはS、SSと続く。SS級ともなれば、人間離れした超人的能力の持ち主でなければ到達できないといわれている。
リロイは、かつて傭兵ギルドに所属していたとき、最年少でSS級に到達する、といわれていたのだ。実際には、SS級を約束されていたにもかかわらず、その直前でギルドを脱会したために、公式には元S級となる。
ちなみに傭兵ギルドでS級、SS級となれば、顧客の殆どが国や大企業、もしくは資産家に限定される。それほど大金を積まなくては、雇えないということだ。そのため、ギルドに属していない自由契約の傭兵が過日のランクを偽ることが、日常茶飯事になっている。やはりギルドの格付けは信用が高く、自由契約の身としては少しでも自分を高く買ってもらいたい、という本音があるからだ。
だが、実際に仕事をすれば剥がれ落ちるメッキに過ぎず、そのせいで身の丈に合わない仕事を受けて、命を落とす者も多い。
リロイの場合は、自分からわざわざ口にせずとも、黒髪黒瞳、全身黒ずくめの姿と、ギルドの歴史上、ただひとりSS級の座を蹴った人間として、その筋の人間にはよく知られていた。
とはいえ、リロイが元S級の傭兵としての相場を請求することはまず、ない。
単純に金に頓着しない性格もあるが――まあ、ギルドの威を借りるのが癪に障る、といったところだろう。
ともあれ、私が度し難いと表現したように、リロイは仕事でもないのに“闇の種族”の群れに自ら飛び込んでいき、そしてその黒い双眸は今、守るべき馬車に二体の鬼が近づいていくのを捉えていた。
本来、馬車を守る為の護衛役として雇われていたはずの男たちが、飛び出してくる様子はない。“闇の種族”が現れたと聞いて馬車の隅で震え上がっていたから、当然といえば当然だ。
「まさか、いざとなれば彼等も勇気を振り絞る、とでも考えていたのか」
私は少々、意地悪くそう言った。リロイは今、少なくない数の鬼に囲まれている。奴らを馬車から少しでも遠ざけようとしたことが返って徒となり、今から駆けつけるとなると正直ぎりぎりのタイミングだ。
「そんなこと、いちいち考えてるわけないだろ」
リロイはそう言うや否や、躊躇うことなく手にした剣を投擲した。
私の、「おまえがなにかを考えたことなどなかったな」という自戒の呟きは、相棒に届かない。
空を貫く音が、ほぼまっすぐに馬車に群がる鬼へと向かった。
そして狙い違わず、鬼の頭部に命中する。砲弾の直撃でも喰らったかの如く鬼の頭蓋は粉々になり、内容物をばら撒いた。
そのまま剣は、わずかも威力を減じないままにもう一体の首に突き刺さる。
鬼の首を貫通した剣は、それでもまだ推進力を失わずに巨躯を引きずるようにして一本の木へと縫い止めた。
衝撃で紅の葉が無数に降りそそぐ中、鬼はもがきながら剣を引き抜こうとしていたが、ただでさえ頸部の損傷が激しいところに、その行動は逆効果だった。
噴出する血は、紅葉と混じり合いながら地面を濡らし、刃で断裂した首の筋肉組織がぶちぶちと千切れ始める。
それでももがくのをやめないのは、下級眷属の知能の低さ故か。
やがて、その鬼の巨躯は音を立てて地に沈み、その背中へ、頭部が落下する。
なんとか馬車を守ったものの、リロイは剣を失った。
信頼すべきただひとつの武器を自ら手放すなど、言語道断、愚かにもほどがある。
鬼たちは、得物を手放したリロイに対し好機と感じる程度の知性はあったらしく、我先にと殺到してきた。
リロイはレザージャケットを跳ね上げ、腰の後ろに手を伸ばす。
そしてそれが前方に突き出されたとき、握られていたのは鉄でできた無骨な武器――拳銃だ。
リロイは正面にいた一体を照準すると、引き金を引いた。
火薬の爆発により生じた燃焼ガスが、薬室から鉛の銃弾を発射させ、銃身内のライフリングによって回転運動を加える。銃口から飛び出した旋回する鉛の弾は、鬼の逞しい胸筋に激突した。人間のものとは形の違う分厚く硬い肋骨を粉砕して、勢いを減じつつもその奥にある心臓へと到達する。
鬼は、蹈鞴を踏んだ。
人間ならば即死だが、相手が“闇の種族”となると話は別――それを分かっているリロイは、その鬼の足を払って転倒させながら、横滑りに移動する。そして、接近してきた鬼の足下に転がり込み、真下から股間めがけて銃撃した。
そいつが呻きながら膝をつく傍らで跳ね起き、上から覆い被さるようにして襲いかかる別の一体の側面に回り込んだ。
すれ違いざまに、こめかみに弾丸を撃ち込む。
着弾の衝撃で横転するが、やはり絶命した様子はない。
“闇の種族”に拳銃程度の火力で挑むのは、無謀だ。
肉体そのものをバラバラにできる砲弾や、無数の弾丸を浴びせる機関銃、もしくは体組織を焼き尽くす火炎放射器などの使用が理想である。
まあ、この時代では無い物ねだりだが。
リロイはさらに三回、鬼を銃撃したところで、シリンダーをスイングアウトして空薬莢を排出する。拳銃はリボルバータイプで、装弾数は六発だ。
リロイはジャケットの内ポケットに突っ込んであった予備の弾を取り出すが、大勢の敵に囲まれながらの再装填はそう容易いものではない。
二発目をシリンダーに押し込んだところで、ついに鬼の手がリロイを捕らえた。
凄まじい握力を誇る指先が、リロイの肘を背後から握り込む。
動きを止めたら、戦闘状況は圧倒的に不利になる。
リロイの決断は早い。
二発だけ装填したシリンダーを手首のスナップで元に戻し、撃鉄を起こして自分の肘を掴む鬼の手に銃口を向けた。
一発を鬼の手首に発射し、そしてすぐさま持ち上げられた拳銃は、照準を鬼の目に向けていた。
弾丸は、鬼の眼球を突き抜け、後頭部から抜ける。
筋組織を断裂されて力を失った鬼の手を、リロイはもぎ取るようにして引き剥がし、そして銃を腰の後ろに戻しながら身体を旋回させた。
鉄板が仕込まれたブーツの踵が、背後に回り込んでいた鬼の腹部を抉る。鈍く重い響きに、鬼は身体をふたつに折り、大量に吐血した。リロイの強靱な脚力は、鋼のような鬼の腹筋をものともしない。
血を吐いてよろめく鬼を裏拳で仰け反らせ、次の一体へと飛びかかった。
その速度は、鬼の動体視力では到底、捉えきれない。
鬼からすれば、仲間が裏拳で打ち据えられたと思ったら、自分の膝が踏み抜かれていた、という状況だ。体勢を崩すその醜い凶悪な顔には、呆気に取られたような表情が浮かんでいた。
その顔面に、リロイの拳がめり込んだ。
一撃めで鼻骨がへし折れ、続く打撃が顔の骨を砕き、とどめの拳が顔を陥没させた。顔が大きくひしゃげた鬼は、眼球を飛び出させながら前のめりに倒れ伏す。
リロイなら、状況と時間が許せば、すべての鬼を素手で捻り殺してしまうだろう。
だが、剣と違って、素手では一体を屠る時間がかかる。
そのせいで、またもや、馬車のほうに気を取られる鬼たちが現れ始めていた。
リロイは舌打ちし、目の前の鬼たちを蹴散らしながら前進する。
後先を考えないにも程があるが、まあ、相棒としては、そろそろ力を貸してやってもいい頃合いだろう。
私がそう考え始めたとき、なにかが林の奥から飛び出してきた。
それは凄まじい速度で鬼に激突し、“闇の種族”の巨体を吹き飛ばす。大地に叩きつけられ、もんどり打った鬼の胴には、鋭い爪で抉られたような跡があった。内臓まで達しているであろうその傷は、大量の血を迸らせる。
現れたのは、巨大な狼だ。
鬼と比べても遜色のない巨躯の、銀色の体毛をしたその狼は、着地と同時に跳躍――別の鬼の首筋に食らいついた。
鋭い牙は深々と頚部に突き刺さり、そして激しく振り回す。
鬼の身体と頭が分かれて宙を舞うのに、数秒とかからなかった。
舞い散る紅葉の中、美しい銀の狼は、鬼の血で顎を濡らしながら威嚇の唸り声を上げる。
まるで、馬車を鬼たちから守るかのように。
それを見るリロイの目には、なぜか怪訝な光が灯っていた。
新たなる脅威としてではなく、さりとて心強い味方が現れたことへの安堵でもない胡乱なその眼差しは、巨躯の狼を既知のものとして捉えている。
どういった間柄なのか推し量る術もないが、お互いに近づくことも遠ざかることもしないのを見れば、少なくとも良好な関係ではないようだ。
だが、鬼たちにとってこの銀狼は明確な敵である。
さしたる動揺や狼狽を見せることもなく、鬼たちは狼へとその矛先を向けた。もともと人間を襲う、という低レベルな本能のみで動いているようなものだから、予測や想定などには無縁であり、だからこそ不測の事態には強いともいえる。
殺戮の衝動のままに肉薄してくる鬼の群れに対し、狼は、待ち受けることはしなかった。
地響きを立てて、自ら突っ込んでいく。
跳躍し、猛然と鬼に飛びかかった。
繰り出される前足の一撃は、鬼の顔面を破壊して四散させる。骨ごとバラバラになった鬼の顔が舞い散る中、狼は着地と同時に低い姿勢から次の一体へと飛びかかった。
巨大な顎は鬼の足に喰らいつき、深々と鋭い牙を突き立てるや否や、一気に引きずり倒す。
そして身体ごと旋回し、吹き散らされる紅葉とともに周囲の鬼へと激突させた。
薙ぎ倒される鬼たちへ、巨狼の爪が襲いかかる。その太く鋭い爪は鬼の首を半ばまで切り裂き、腹を抉り、心臓に突き刺さった。
狼の周囲で、肉片と血飛沫が踊る。
それはもはや、獣の形をした竜巻だ。
地面に倒れてもなお絶命しない鬼に対しては、容赦なく頭を踏み潰していく。見る見るうちに、銀の体毛が血に染まっていった。
それを横目に、リロイも残った鬼を次々に殴り殺していく。
撃ち込まれる拳は衰えることなく鬼の肉を打ち据え、内臓を押し潰し、骨をへし折った。
いずれにせよ、あと数分もすればこの場から生きた“闇の種族”はいなくなるだろう。
それでも、退くことを知らない鬼たち――リロイに殺到するその異形の間隙に、なにかが煌めいた。
黄金の輝きだ。
そして唐突に、リロイが膝を突く。
そのまま崩れ落ちそうになる身体を、どうにか片手で支え、喉の奥で忌々しげに呻いた。
まだ鬼が二体、生き残っている。なぜリロイが突然そうなったのか、理解はしていなかっただろうが、好機が訪れたとばかりに襲いかかっていく。
だが、その巨躯もまた、よろめいた。
なにかに抗うように両手をうごめかせ、倒れまいと踏ん張るが、それも数秒と持たない。
地響きをあげて、俯せに倒れ込んだ。
その首の付け根に、短剣が突き刺さっている。位置的に、切っ先は延髄を貫いているはずだが、頭抜けた生命力を誇る“闇の種族”を即死させ得るほどの一撃ではない。
同じ短剣が、リロイの背中にも突き立てられていた。
リロイは震える指先でその束を掴むと、ゆっくりと引き抜く。その動きは緩慢だ。いつもなら悪態のひとつもつくだろうに、食いしばった歯の間からは忌々しげな呻き声しか漏れ出てこない。
その背後に、女が現れた。
長身の、美しい金髪を靡かせる彼女は、今にも昏倒しそうなリロイを翡翠色の双眸で冷徹に見下ろしている。
「お久しぶりね、“黒き雷光”」
それは艶やかで美しく、そして背筋を凍らせるように冷ややかな声だった。
リロイは声の主に目を向けて睨みつけようとしたが、もはや背後へ首を巡らせる力も残っていない。「レナ――!」と、憎々しげに女の名前を吐き捨てるのが限界だ。全身から脂汗が噴き出し、顔からは血の気が失われている。
おそらくあの短剣の刃には、毒が塗布されていたのだろう。
とはいえ、リロイは元来毒物が極端に効きにくい体質だ。
鬼を即死させた短剣にも同じものが使用されているのだとしたら、相当に毒性の高いものに違いない。そんなものを人間に使うとは良識を疑うが、リロイが相手ならばまあ、正解だ。
そしてそれほど強力な毒物の知識があるということは、彼女がある種の特殊技能の持ち主だということを示唆している。
さらには、驚嘆に値する彼女の隠密技術だ。
鬼たちの巨躯と殺意に隠れ、毒塗りの短剣を投擲して命中させる――それだけならば、超絶的な技巧とまではいえないが、相手がリロイとなると話は違う。
元S級傭兵という部分を差し引いても、その戦闘能力、技術が群を抜いているからだ。
たとえ死角からであろうが、気配を消そうが、相棒に致命的な一撃を加えるとなると至難の業である。
それを成し遂げたのだから、彼女――レナが、卓越した能力の持ち主であることは疑いようがない。
リロイは体内で猛威をふるう毒素に抗い、なんとか立ち上がろうと試みていた。
しかしそれも、無駄な足掻きに終わる。
絶命した鬼の如く前のめりに倒れて、動かなくなってしまった。
なにか言おうと――間違いなく悪態か罵倒――開いた口も、言葉を発することは遂にできない。
完全に、昏倒してしまったようだ。
それを待っていたかのように、馬車の扉が開く。
現れたのは、ひとりの少女だ。
十五、六歳のその少女は、馬車の中でリロイと言葉を交わしたとき、リリーと名乗っていた。確か、馬車の目的地であるヴァイデンには親戚がいて、そこで世話になりつつ学校へ通うと言っていた。
辺境随一の大都市であるヴァイデンは、教育機関も充実している。ここで学び、資格を取った上で、ヴァナード王国やアスガルド皇国の企業、研究機関へ行くのが辺境においての成功の形のひとつだ。
そんな彼女が、なぜ事ここに至って馬車を降りるのか。
辺り一面に倒れている鬼の屍や飛び散ったどす黒い血だまりに、彼女は顔をしかめた。
だが、怯えた様子はまったくない。
返り血で体毛を染めた巨大な銀狼にも臆することなく、倒れたリロイへと駆け寄っていく。
学校が楽しみだ、と笑っていた少女が、累々と横たわる“闇の種族”の死体の合間を平然と進む姿は、強い違和感を感じさせた。
早足に倒れたリロイへと近づいていったリリーは、そこで初めて、この場にふさわしい表情を浮かべる。
すなわち、怯怖と嫌悪だ。
リリーはしばし、昏倒したリロイを凝視していたが、ふいに足を持ち上げた。
なにをするかと思えば、リロイの後頭部にそれを振り下ろし、踏みにじる。
それを二、三度、繰り返すが、リロイに目覚める気配はない。
「――さすがね」
彼女は無理矢理、リロイから視線を引き剥がし、自分より高い位置にある凍えた翡翠の双眸を見上げた。感嘆の言葉を口にしたものの、表情はむしろ、薄気味悪さを感じているように見える。
一方、手際を賞賛されたほうはといえばまったく感じ入った様子もなく、機械的に、リロイが引き抜き力なく投げ捨てた短剣を拾い上げていた。
鬼の首に刺さった二振りも、同じく回収する。すべてを丁寧に革の鞘へ収めると、ベルトに金具で固定した。
その所作をつぶさに観察するリリーの青い瞳には、リロイへ向けたのとは少し別種の、負の感情の中にも憧憬に似た輝きがある。
「でもまさか、殺してないわよね」
だが声には、その色はない。自分のほうが立場は上だ、と誇示するように居丈高な響きを持たせてある。
「“闇の種族”を即死させるような毒で、こいつが死なない保証はあるの?」
その問いかけに、レナはなにを感じたのか。
つと顔を上げてリリーを見返す翡翠の瞳は、すべてを見透かした冷ややかな色を浮かべていた。
「殺して欲しかったのなら、今からでも遅くないわよ」
「…………」
レナの問いかけにリリーは無言で返し、自らも膝をついてリロイの脈を確認する。そこに確かな鼓動を確認しても、彼女は特に安堵した様子もなく、馬車へ向かって事務的に合図を送った。
それに反応して馬車から姿を見せた男たちは、周囲の惨状に顔を少し歪めながらも、お互いに言葉をかけることもなく、リロイの身体を担ぎ上げる。震えて使い物にならなかった護衛たちも、あの怯えた表情が嘘のように平然と、街道の上に横たわる“闇の種族”の屍を排除し始めた。
なるほど。
これはどうやら、嵌められたらしい。
鬼の出現はさすがに偶発的であろうが、いずれにせよリロイは、この乗合馬車に乗ったときから――いや、正しくは、乗る前から身柄を狙われていた、と考えて良いだろう。
昏倒したリロイを乗せた乗合馬車は、鬼の血が染み込んだ街道を進み始めた。
レナと銀狼は同乗せずに、それを見送る。
どうやら進路に変更はなく、当初の目的地であるヴァイデンへ向かうようだ。
さて、どうしたものか。
――そういえば、自己紹介がまだだったな。
私の名は、ラグナロク。
リロイが投擲し、木に突き刺さったままの剣――それが、私だ。