○○の場合
目が覚めると、そこは知らない所だった。
身体中がどこかにぶつけたように痛む。顔をしかめながら起き上がると酷い頭痛がした。思わず片手で頭を押さえると、触り慣れない布の感触が指先に伝わった。
「……?」
包帯とおぼしきその感触に目を細めながら室内を見回す。
1LDKの、こざっぱりとした生活感のある部屋だった。飾り気がなくシンプルで、直感的に気性の穏やかな男が住んでいることを連想させる。見覚えのない場所だった。キョウが借りた部屋だとは考えにくい。
時計の針は十一時の少し前を指していた。
自分以外の他人がいない室内を歩き回るのは気が引けて、ゆっくりと数度瞬きをして頭を働かせる。一体ここはどこなのだろうか。
部屋のドアが開く音がしたのは、起きてから数分後だった。
「キョウ、起きたの。少しは調子よくなった?」
部屋に入ってきた男はこちらに気づくと、手に持っていた袋を床に置いて柔らかく笑いながらそう言った。親しげな口調と声音で、キョウと仲の良い知り合いなのだろうと予測する。しかし、彼からこんな人物の事を聞いたことは一度もない。彼と自分はいつでも事細かに情報を共有し合っているはずなのに。
「キョウ?まだ具合が悪いようなら、もう少し寝ていた方が……」
近づいてくる男に、思わず身体が強張る。知らない相手に触れられることに強烈な抵抗があった。相手を半ば睨み付けるように見上げる。
「……、キョウ?」
違和感を覚えたのだろう。彼は怪訝そうに眉根を寄せて動きを止める。ふっと相手の目の色が変わるのがわかった。観察するようにこちらを眺める。その視線に込められた疑念と困惑が、キョウではなく自分に向けられている事がわかる。
キョウにとってこの男はどういう関係性の人間なのだろう。
「ごめん、今、酷く頭が痛いんだ……」
混乱する心を押さえ込んでそう声を発する。キョウは普段どんな喋り方をしているだろう。どんな調子で接しているだろう。声のトーンは、表情は……。
「そっか。じゃあ、あまり触らない方が良さそうだね」
彼は特に気にした様子もなく、小さく微笑んで先ほど床に置いた袋を取りに行った。白いレジ袋は全国チェーンの薬局のもので、中には包帯やガーゼなどが入っているようだった。
「……、…きみが、手当てしたのか」
言葉を選びながら躊躇いがちにそう聞くと、彼は振り返ることなく穏やかに言葉を返す。
「いつもみたいに『アキホ』って呼んでよ。キョウ、どうしたの。何か変だよ」
そう言われ、言葉に詰まる。この『アキホ』という人物は自分がキョウとは別の人間だと薄々気づいている。気づいた上で確実に追い込もうとしているような、そんな気がする。このまま話していれば、いずれ自分の存在を知られることになりかねない。
「そんなこと、ないよ」
表情を作ろうとするが、うまくいかない。頬が不自然に引き攣っているのが自分でもわかる。動揺を増長するように、激しい動悸がする。
ふと、彼が。
ふと彼が、思い付いたようにこちらを見やる。
その目に浮かぶのがどんな感情なのかまるでわからない。
彼がこちらへ近づいてくる。
ゆっくりと落ち着いた動作であるはずなのに、なぜだか胸の中に不安と恐怖が沸き上がってくる。
目の前の彼が、無言でこちらへ手を伸ばしてくる。
他人の『手』が、肩に触れる。
「ッ!!」
その手を払おうとしたところで、意識は闇の中へ引き込まれていった。
目を、閉じている。
水の中とも違うどこか心地よい浮遊感に包まれながら、落ちているのか上昇しているのかもはっきりとしない。
外界の恐怖や焦燥から完全に隔絶された場所で、幸せな夢を見る。
『キョウ』、という名前のキャラクターがいた。あれはそう、確か小学校の頃に流行っていたアニメに出てくる主人公の友人。粗野で乱暴、見方を変えれば、クールで最強な頼れる存在。
そんなキャラクターに、憧れていた。
内気で人見知りな性格の自分がそんな風になれないことには、子供ながらに気付いていた。
友達も少なく、本ばかり読む子供。肌は不健康に白く、細い手足と薄っぺらい体をしていた。女の子のようだとクラスの男子にからかわれることも多かった。いつしかいじめられるようになり、塞ぎ込むようになった。
生きているのが辛く、もう嫌だと思った。
誰か、誰か、
助けてほしいと、『誰か』に願った。あのアニメのように、いつかヒーローが自分を助けてくれるのを待った。
誰か、誰か、救いに来て
内側に向けたメッセージは、誰にも届かず消えた。
何度も、何度も、宛先の無い手紙は誰にも届かず胸の中へ返ってきた。
言葉は心の奥に吐き出して、声は誰にも届かなかった。
誰にも何も、伝える勇気が足りなかった。伝えなくても、気づいてほしかった。話を聞いてほしかった。あのアニメに出てくる主人公の友人のように、乱暴でいいから傍に居てほしかった。現実にそんなことが起きないとわかりながらも、自分を助けてくれる存在を望んでいた。
望みながらも、他人と触れ合うことができなかった。意思を持って接してくる相手に、どうしても恐怖を覚えて仕方がなかった。
『キョウ』という人物が現れたのは、中学の頃だった。
誰に見せるでもなく吐き出すように日々を綴った手帳に、荒々しい文字で自分へ向けてのメッセージが書かれていた。
それは、ずっと待ち望んでいた救いの手だった。誰がそれを書いたのか、どうしてそれを書いたのか。
『俺は、お前の中にいる。キョウ。どうか、俺に気づいて』
もう風化してしまった記憶の中にある、大事なヒーロー像。
それは自分の中に居た。不可解に記憶が飛ぶその時に、彼は自分を守ってくれていた。そう、思った。
何度も文字を交わして、彼のことを知った。自分のことを話した。
手を伸ばしてくれる相手が内側に居ようと外側に居ようと関係なかった。関わりを持てる『他人』がいてくれるだけで救われた。
嫌なことからは目を背けてきた。
ずっとそうしてきた。
目を塞いで耳を塞いで、心も塞いで。
それでもキョウは優しく接してくれた。見捨てずにいてくれた。自分のことを第一に考えて、立場を代わってくれた。
だから今、こうして暗闇に居るのは自分の意思で選んだこと。
外界に出ていきたくないと拒むのは正直な心。
いっそキョウがこの人生を歩んでくれれば良いと思うのは、どうしようもない本心。
彼には幸せな人生を送ってほしい。
そのためには自分が居なくならなければいけないとわかっているが、それを自覚するのがとてつもなく恐ろしい。きっとキョウは自分に遠慮して『生きる権利』を拒否するんだろう。
自分は彼の優しさに甘えている。まだ生きていても良いんだと肯定してくれることにすがって、彼から自由を奪っている。自覚がある分たちが悪い。肺にどす黒い液体が溜まっていくように、苦しくなる。早く死んでしまえばいいのに。
結局、自分の意思では生きることも死ぬことも決められない。
『レオ』というのは、そんなどうしようもない男。
――これは俺の、独白。