キョウの場合
恋人とキスをして、彼の衣服を脱がせる。
固められていない彼の長い前髪を指先で払ってやり、今度は長く舌を絡ませ合う。
重ねた互いの身体が熱かった。
キョウは限られた時間を極力恋人と過ごすようにしている。
遊びであったりセックスであったり、彼と一緒であれば何でもよかった。自分以外の他人を感じられることであれば、何でも。
ただそれは、誰でもいいという事ではない。彼でなければいけなかった。彼はキョウだけを見てくれるから。
彼は今、キョウの隣で小さく寝息をたてている。
シングルベッドで大の男が二人も並んで寝ていると、やはり窮屈だ。互いの距離が近い。
不意に彼の事を見つめていられなくなって、キョウは体を反転させて壁と向き合った。
目を閉じていると、背後で彼が起き出したのがわかった。背中に冷たい空気が触れる。
髪を撫でていく感触と、身体の熱が抜けていくような感覚。
思わず寒いと声を出すと、彼はごめんと言って小さく笑った。
布団をかけ直そうとする彼を見ていると堪らなくなって、片手で引き寄せる。舌を絡めて長くキスをすると、彼はすぐに息が上がる。僅かに上気した顔を見ていると再度唇を重ねたい衝動に駆られるが、表情に出さずにそれを抑える。
俺はなんて卑怯なんだろうか。
絡ませた視線を故意に伏せて、布団に横になった彼を抱くように腕を絡ませる。
贖罪のように。
すぐに彼の寝息が聞こえ始め、肺が緩やかな上下を繰り返す。微睡みに誘うような暖かさが身体に伝わる。
心地よさに包まれながら、祈るような思いでキョウは眠りにつく。
キョウの最も古い記憶は、人を殴っている場面から始まる。
あれは確か小学校の終わり頃だった。自分を取り囲んでいるのは、同級生の子供たち。放課後の夕日が差し込む教室の中。
キョウの身体にはたくさんのアザができていて、それらが服の隙間から痛々しくのぞいていた。
後ろの男の子が、箒の先でキョウの身体を乱暴につつく。
堪らなくなって、キョウは周りの子供たちを睨む。どうしてこんなことをするの?
笑っている子たちを見ているとどうしようもなく苛立って、キョウは正面にいた男の子を殴った。何度も何度も何度も。
先生が止めに来て、キョウを叱った。両親が学校に呼び出され、何事かと問いただした。
レオくん、どうしてお友達を殴ったの?どうして怪我させちゃったの?レオくん、レオくん、レオくん……。
両親はキョウの名前を呼ばなかった。先生も呼ばなかった。キョウはそれが気に食わなかった。
二つ目の記憶は中学校に入学してすぐ。
雨の日だった。教室の窓に大粒の雨が激しく叩きつけられている。
キョウは尻餅をついていた。肩を小突かれ、知らない少年に罵倒されて思いきり蹴られた。それが癪に障って殴り返した。
唇の端が切れて血が出た。それを乱暴に拭って教卓の近くに移動する。
自分がたおした少年を視界にも入れたくなかった。
何気なく見やった教卓の上の座席表には、キョウの名前がなかった。
代わりにあるのは、同じ名字の『レオ』という名前。
前に両親が呼んでいた、キョウとは違う名前。
キョウは、そこで初めて自分の中にもう一つの人格があるのではと思い至った。
自分とは違う、『レオ』という存在。
突拍子もない考えであることはわかっていた。それでもキョウは、そんな考えでも信じざるを得なかった。
ひとつの身体の中に、二つの人格が存在する。そんなことがあっていいはずはない。
キョウは自分の中に居るかもしれない人物を憎んだ。
ある日、気がつくと自分の部屋にいた。
綺麗に整頓された、シンプルで殺風景な部屋。
思い返すと、自分がここにいた時間はずいぶん少なかったような気がする。
もしかすると『レオ』に繋がる何かがあるのではと思い机を漁ってみるが、気になったものは引き出しの中に入っていた手帳だけだった。
それは日記のようだった。日記というには文が短かったが、キョウよりも数段綺麗な字で言葉が綴られていた。
『クラスのみんなにいじめられる。どうして?ぼくは悪いことなんてしてないのに』
『学校に行きたくない。でも、学校に行かないとお母さんに怒られる。先生はお友だちと仲良くしましょうって言うけど、きっとみんなぼくのことがきらいなんだ。だって、今日もなぐられた。箒でも頭を何回もたたかれた。今も体が痛い。』
『もういやだ。死にたい死にたい死にたい』
『今日、お母さんとお父さんに怒られた。先生にも。ぼくは何もしてないのに、どうしてお友だちにけがさせたのって。けがをさせられたのはぼくなのに。先生はぼくがなぐったって言う。ぜんぜん分からない。ぼくは何もしてない!』
『ここのところぼーっとしていることが多い。気がついたら時間が進んでいる。その事を母さんに話したら、母さんに今度病院に行こうと言われた。』
『今日母さんと一緒に精神科に行った。最近の事は何か精神的な病気かもしれないからと言われた。病院では簡単な質問をされ、アンケートを書いた。担当してくれた先生に、解離性同一性障害の疑いが高いと言われた。俗にいう二重人格なんだそうだ。俺の記憶がない空白の時間、もうひとつの人格が現れているらしい。なんだよそれ。まるでフィクションの世界じゃないか』
「二重、人格……」
手帳に書かれていた言葉を吐き出し、キョウは茫然と内容を見返した。
自分の知らない、『レオ』という人物。もうひとつの人格。母が呼んでいた、元々この身体に備わっていた人格……。
キョウは、誰にも望まれずに存在している。
キョウはそれが形容しがたいほど悲しかった。
自分の存在が価値のないものなのだとしたら、そんなに恐ろしいことはない。自分がここいる事に、何か理由があるのだろうか。きっと『レオ』も、キョウと同じように自分の中にあるもうひとつの人格を憎んでいるに違いない。この身体が『レオ』のものなら、自分が彼を憎むのはお門違いもいいところだ。
「俺は、どうすれば......」
キョウはほとんど無意識に、手帳のページを開いた。机の上に置いてあるペン立てから無造作にペンを取り出す。
「……だれか、『レオ』……俺に、気づいて………」
綺麗に書かれた文字列の下に、荒々しい文字で書かれた一文が追加される。
『俺は、お前の中にいる。キョウ。どうか、俺に気づいて』
手帳に変化があったのはそれから数日後の事だった。
真夜中に目が覚めたキョウは、微かな期待を持って机の上の手帳を開いた。
手帳には新しい文が載っていた。キョウの言葉の下に整った筆跡で綴られた文が増えている。
『君は、キョウという名前なの?俺はレオ。君の中にいるもう一人の人格、というべきなのかな。どうして俺にコンタクトをとってきたの?』
それから二人の一風変わった交換日記が始まった。
内容は互いに関してが大概で、キョウがレオの愚痴を聞くこともあった。レオが不満を口にしても、キョウがそれをすることはなかった。自分がレオよりも後の存在であることに、キョウは少なからず気後れしていた。
キョウの存在を知っているのはレオ一人だった。レオは他人に二重人格であると話してはいなかったし、両親にすらもキョウのことは話していないようだった。
『ねぇキョウ。きっと、君は俺のためにいるんだね。俺が辛いとき、君は俺と代わってくれる。ありがとう』
『意味わかんねぇ。俺は代わりたいと思って代わってるわけじゃない。礼を言われるような筋合いなんてないぜ』
『そんなことないよ。君の意思じゃなくても、俺は君に守られている。君からしたらとてつもなく理不尽な話だろうけど、俺はそれに助けられているんだ』
「レオは、俺を必要としてくれている……」
いつしか、キョウはレオのために存在しているという自覚が強くなった。キョウはレオの心を守るためにいる。レオを守ることが、キョウの、唯一の存在意義。
日を追うにつれ、レオとキョウが入れ替わる回数は増えていった。
キョウは――恐らくレオも、その理由には気づいていた。
レオは、明らかにクラス内で浮いた存在だった。誰とも話さず、どちらかというと陰気な印象を与える。
他人と触れ合う機会が極端に少ない。それがレオにとってストレスになっていた。人は、他人の存在を無くしては生きていけない。
レオは目に見えてキョウにすがるようになっていき、キョウはそんな彼を受け入れながら彼のために行動した。
レオもキョウも、互いのどちらかが欠けては生きていけない。互いになくてはならない存在。キョウはそれを、レオへの愛と思い込むようになった。
キョウにはレオしかいないように、レオにはキョウしかいない。だからキョウが、レオを守らなくてはいけない。
一度そう思い込んでしまうと、それ以外の考えは容易に出てこないものだ。レオへの一方的な片想いは決して叶わないと知りながら、キョウはレオへの思いを胸の内に忍ばせる。
キョウが彼と出会ったのは、たまたま受けた講義に顔を出した時の事だった。
基本的にキョウは勉強というものは嫌いだ。ただ座ってじっとしているということに我慢がならない。それでも、愛しい片割れのために講義をノートに写すという作業を毎回やっている。
その日顔を出した講義は、教授に声を掛けられたからとレオが見学に来るはずだったものだ。レオの取っている講義とはかけ離れていたが、誘いを断れなかったと聞いた。無論、キョウには何の興味も関心もなかった。ただ、講義に出席した方がレオにとって都合がいいだろうと判断した。
キョウとレオが入れ替わるのはいつも唐突だった。午後の講義に向かう途中、キョウは目を覚ました。壁にもたれ掛かって、貧血でも起こしたような格好だった。誰かに見られてはいないだろうかと考えながら、やることも分からず手に持った鞄を開き日記を探した。いつでも日記を持ち歩くようになったのは、入れ替わる回数が増えてからだった。
『教授の講義を受けに行くとは言ってしまったけど、僕がやりたい分野とは全然違う内容なんだ。教授は俺にこの道の素質があるって言ってくれたんだけど、気持ち半分で講義に行くのはやっぱり申し訳ないかな。キョウにはいつも迷惑をかけて、本当にごめんね。この間のノートとても助かったよ。俺にできることがあったら言ってね。きっと俺も、キョウの助けになるから』
新しく書かれた文字に指を乗せて考える。レオは手帳に様々な事を書き記しているはずだ。キョウはそれをまるで女のようだと思ったが、レオには普通だと言われた。
携帯で日付を確認し、手帳を開く。今日の日付には、「特別講義、3階○○教室 1時~」と書かれている。時計を見ると、針が十二時四十五分を指したところだった。
キョウは三階に向かって階段を登り始めた。
教室に着いたのは時間の五分より少し前だった。教室内にはすでに人が集まっていた。あまり前の席に行く気にはなれず、キョウは少し後ろの席に腰を下ろした。鞄からノートと筆記用具を取り出す。
講義が始まって十分ほど経った時だった。教室の扉が静かに開き、一人の生徒が入ってきた。黒髪を後ろに撫でつけて固めた男。急いで来たらしく、息が上がっている。彼はキョウの隣に座ると、人懐っこそうな笑みを浮かべて話しかけてきた。
「用事が長引いちゃってさ。ごめん、ノート見せてもらえる?」
「は?」
思わず睨み付けるように相手の顔を見ると、そちらも驚いたようにキョウの顔を見つめ返した。
「ごめん。君、普段この講義取ってないよね。見たことない顔だ。俺はアキホっていうんだ。よろしく」
嫌な感じのしない声音で彼が言う。妙に毒気を抜く様子で、キョウはほとんど無意識に差し出された手を握り返した。
「キョウは何であの講義受けに来たの。全然違う分野みたいだけど、興味があったとか」
「教授に声を掛けられて。それだけだ。はっきり言ってつまらなかった」
「本当にはっきり言うなぁ」
彼は微笑んでコーヒーのカップを傾ける。
講義が終わり、ノートを見せるために学内のカフェに入って雑談していた。彼はもうノートを写し終えて、互いに空いた時間を潰すために話しているようなものだった。
「つまらない講義でも、最後まで聞いているのは偉いと思うよ」
「相手に悪いだろ。それに、一応全部聞いてみないことには本当につまらないかはわからない。今お前と話しているのも本音を言えばつまらない。けど、次の講義まで時間を潰せるような事は生憎無い。長く話していればお前と話しているのも楽しくなるかもしれない」
「……俺もはっきり言わせてもらうけど、君は酷いね。性格的な問題なのか故意にそうしているのかはわからないけど、他人に対してどうとも思ってないって感じだ。話してる相手を血の通った人間だと認識してないような。少しは相手の気持ちを考えた方がいいよ」
苦笑してそう言う彼を見て、不思議に思う。キョウには彼が笑う理由も、いまだに自分と話している理由もわからなかった。キョウと話していれば大抵の人間が途中で話を切り上げるのに、彼は楽しそうに話を続ける。これが演技なのだとしたら、きっと彼はその道で有名になれる。
「それでこの間講義中に教授が.........」
「へぇ」
話はほとんどキョウが聞き手に回っていた。キョウは他人と話せるような世間話は持ち合わせていなかったので、彼が嫌な顔ひとつせずに色々なことを話してくれるのはありがたかった。彼の話を聞いているうち、キョウは彼の話を長く聞いていたいと思うようになっていた。
「悪い、もう時間だ」
「あぁ、そっか。俺は次、講義入ってないんだ」
「じゃあな。また」
「うん。また話そう」
彼と別れてから、キョウは自分の言葉を思い返して目を細めた。どうして自分がもう一度会うようなことを口にしたのかわからなかった。普段ならそんなことは言わないはずだ。
すべての講義が終わり家に帰ると、キョウは早々に日記のページを開いた。一日にあったことを記すのが、最早習慣になっていた。
『今日の特別講義はつまらなかった。レオが学ばなくていいって意味で。講義の後にアキホって男と話した。黒髪のオールバック。もしかしたら校内で顔を合わせることがあるかもしれない。話しかけられても無視していいと思う』
書いてから、アキホの事を思い出す。彼を無視するというのは、なぜか気が引けた。最後の一文を消ゴムで消し、代わりに『勝手な事してごめん』と付け足した。きっとレオは謝らなくていいと言うだろうが、キョウはそうしたかった。
その後半月ほど経った頃から、キョウが大学に行くのは珍しい事ではなくなった。最近では頻繁に入れ替わり、もうどちらが正しい人格なのかわからなくなっていた。もともと内気なレオは外界の事をキョウに任せるようになっていき、キョウはレオのために苦手な勉強に打ち込んだ。レオが生きやすくなるように、最大限を考えた。
彼に再開したのは、そんな折だった。
彼は自動販売機で飲み物を買っていた。その日は午後の講義がなくなり、キョウはそのまま帰る予定だった。そうする予定だったのだが、大学のエントランスで飲み物を買う彼を見て、キョウは不意に彼と話をしたくなった。
「よう。久しぶり」
「ん。あ、キョウ。久しぶり……というか君、俺から話しかけたら無視するくせに。嫌われたのかと思ってたよ」
「天の邪鬼、なんだ」
彼との会話はいくつか繋がらないところがありちぐはぐだったが、それでも気が合うのか息苦しさは感じなかった。やはりキョウが聞き役に回り、アキホの話を聞いていた。彼の講義までの時間をそうして過ごし、家に帰った。
キョウは大学に行く間、彼と顔を合わせる度に話をした。彼の話を聞くのは楽しかった。
『付き合おうか、俺達』
気まぐれに彼へそう告げたのは、出会ってから一年ほど経った頃だった。特に深い理由もなく、彼に恋をしていたわけでもなかった。ただ、話の流れで
遊び半分にそう言ってみただけ。相応の返しがあるだろうと思っていたが、彼からの返事はキョウが思っていたものと少し違った。
『いいよ』
彼は一瞬の間をおいて、複雑な表情でそう言った。笑みのような、悲しみのような、呆れたような。その表情の指し示すところが何なのか、キョウには何となく読めてしまった。もしかしたら彼はそうだったのか、と。キョウは彼の顔を引き寄せて、唇に軽く触れるようなキスをした。
キョウは男にも女にも関心が持てなかった。唯一興味を持てたのはレオだけ。自分の中にいる存在。絶対に手に入れられない相手。
キョウにとって恋愛は遊びでしかなかった。特に何の感情も抱かない、ただの遊び。だから、相手が同性であってもキスやセックスをすることに抵抗がなかった。他人と触れあうことに対して何とも思わない。レオにとって有利になるか、ならないか。考えることはそれくらいだった。
そう考えると、キョウが彼と付き合い始めたのはそれまでのキョウからでは考えられないような事だった。レオのことを介入させず、キョウ自身の意思で行動しキョウ自身のためにとった行動。
キョウは彼に頻繁に連絡を入れるような事はなく、付き合い始めてからは大学内でも必要以上の関わりを持たないようにした。彼と会う時は大抵が金曜の午後か休日で、講義が終わってからの空いた時間に顔を会わせることもほとんどなくなった。
彼にルームシェアを提案された時も、キョウははぐらかすようにして断った。他人と同じ家に住むというのはキョウだけでなくレオとも相談するべき事柄であり、キョウはレオに肉体関係のある相手がいると伝えたことがなかった。レオにそれを知られたくないと思うのと、彼に二重人格であると知られることが怖かった。キョウにとって、二重人格を拒絶されることは何よりも恐ろしいことだった。
キョウは彼に自身の事を教えようとはしなかった。教えることで気づかれる事が、怖かった。
キョウはその一週間、レオと交代することなく活動していた。最近ではそれが普通になりつつあり、長い時では一ヶ月もの間レオは出てこようとしなかった。
いつものように大学から家への道を歩いている途中、脇道から出てきた柄の悪い集団に絡まれてしまった。いつもなら適当に無視して帰るのだが、いきなり殴りかかられてキョウは反射的に相手を殴り返してしまった。
結果的に相手を伸して公園まで逃げてきたが、やり返された傷が鈍く痛んでいた。
全身を襲う痛みが怠さを伴い、家に帰る気が起きなかった。
「今からお前ん家行っていいか」
近くにある彼の家に行こうと電話をかけて在宅を確認し、重い身体を引き摺るようにしてキョウは彼の家へと向かった。
彼はキョウが訪問の旨を伝えると必ず家の鍵を開けておく。キョウはそれを無用心だと思うが、今回はそれがありがたかった。
「キョウ、いらっしゃい……」
リビングに入った途端、彼の顔から血の気が引いていくのがわかった。顔が強張っている。キョウは普段なら少しくらい平気な風を装うのだが、この状況ではそれができそうになかった。
「キョウ、どうしたの、それ」
正直立っているのも辛く、彼に促されるまま椅子に腰かけた。少しは身体が楽になる。息をついてから、緊張した彼の声に答える。
「喧嘩した。それだけ」
「怪我をしてる。手当てしないと」
「大したことない。大丈夫だ」
微かに声が震えたのを隠したくて、彼の手を払う。彼は納得のいかない顔をしたが、それ以上手を伸ばしてはこなかった。
キョウはいつも彼の聞き分けの良さに救われている。
キョウは目の前に出されたコーヒーを一口飲んだきり、それ以上飲む気になれず椅子の背に身体を預けた。目を瞑れば意識が落ちていきそうになる。
彼から掛けられる言葉にも、どこか上の空な返事を返してしまう。彼にこれ以上迷惑をかけたくないと思いながらも、揺れる意識の中で彼に隠し通せた自信が全くなかった。
「……俺はもう寝るけど、君は?」
何分経った頃だろうか。ふらふらと浮遊する意識の中で、彼がそう言ったのが聞こえた。頭痛に顔をしかめながら視線を彼に合わせ、重い頭を小さく動かす。
「今夜、泊まっていいか?」
「勿論。ベッド、使っていいよ」
彼にそう言われたが、一人で眠りたくなかった。どうしようもなく寂しくなり、彼を引き寄せる。狭いベッドの上で身を寄せ合うと、相手の体温に安心する。
彼の腕がキョウをあやすように背中を抱く。目を閉じると暗い闇が視界を覆った。