アキホの場合
長い前髪が視界に垂れていた。
1LDKの室内は薄暗い。
ワックスをつけていない黒髪が、目の前に垂れている。邪魔臭くて、右手で髪を掻き上げながら上体を起こした。
何も身に付けていない上半身を夜の寒さが撫ぜていく。
自室のシングルベッドの上には愛しい恋人が、こちらも上半身裸で布団にくるまっていた。アキホが起き上がったせいで、隣にいる彼の白い背中が暗闇の中にうすぼんやりと露になる。
腰元からなぞるように目線を動かしていくと、柔らかな茶髪と彼の中性的な、女性的とも言える横顔が見えた。いつもは眉間に皺を寄せて口をへの字にし、どんな時でも苛立っているようなのに、寝顔はとても穏やかで、女性よりも綺麗だ。
急に、堪らなく愛しくなって、アキホは彼の髪を軽く撫ぜた。色素の薄い髪は見た通りに柔らかく、男にしては長くてさらさらだった。
ふ、と。
彼が目を開いた。普段の粗暴さはどこへ行ったのかというほど静かに、ゆっくりと体をアキホの方へ向ける。眉間には不機嫌そうな皺が刻まれていた。
「寒い……」
寝起きの、少し掠れた低い声で彼が言う。
「ごめん」
そっと布団をかけ直してやろうとすると途中で首を抱き寄せられ、求められるままに舌を絡め合ってキスをする。
唇が離れた時、アキホは軽く息が上がっているのに彼は顔色ひとつ変えずにいる。
アキホは彼の噛みつくようなキスが好きだ。
彼の冷たい目を見つめ返していると、体を重ね合いたくて、体の芯の方が熱くなる。さっきあんなに激しく求め合ったばかりだというのに。
降りてきた髪をもう一度掻き上げ、アキホは彼と抱き合うようにして布団に入った。
アキホが自身の恋愛対象を自覚したのは中学校二年生の時だった。同じ部活の先輩を好きになった。
アキホとその先輩は仲がよかった。だからこそ、ショックだった。
自分が同性に惹かれる質であることが心底気持ち悪いことだと思ったし、その相手が大好きな先輩であることが申し訳なかった。
胸が詰まりそうなほど相手の事を考えて、自己嫌悪に陥り、一人で苦しんだ。
とてもじゃないが他人に相談できる事ではないと思い、相談して気持ち悪いと拒絶されるのが怖かった。同じ理由から、告白することもできず気持ちを抱え込んだ。
どうして自分は他人と違うのだろうと何度も考え、自分と同じような人物をネットで探した。検索にヒットした件数は気が遠くなるほど多かったが、アキホの求めるようなページはなかなか見つからなかった。
『あなたと同じことで悩んでいる人はたくさんいます。大丈夫、ほんの少しでいいから勇気を出して!!』
そんな文を見るたびにうんざりした。液晶のディスプレイを通して見る世界は、作り物の幻想のように見えた。
現実はきっとそう簡単にはいかない。
否定されて傷付くくらいなら気持ちを殺した方がいいように思えた。
アキホはだんだんと部活に顔を出さなくなっていった。
先輩がアキホを訪ねてきたのは、アキホが部活に行かなくなってから丁度一週間後の事だった。
「どうした、最近元気ないな」
「先輩…」
顔を見るだけで胸の奥が苦しくなる。
いっそすべてを話してしまおうかとも考えたが、勇気が出なかった。
「悩みがあるなら相談に乗ろうか」
「っ……!」
優しげに笑いかけられて、涙腺が緩むのが感じられた。両目から大粒の涙が溢れて、視界が滲んだ。
「せ、先輩……っ、俺、」
「うん。どうした?」
「俺、先輩のこと、……す、好きに、なっちゃってどうしたら……いいのか、わかんなくてっ………おと、男が好きなんて、気持ち悪いし……」
その時の先輩の顔は覚えていないが、泣きじゃくるアキホの背中を力強く擦ってくれたのは覚えている。
その後、泣き止んだアキホに先輩は笑いかけて言った。
「お前はいい後輩だよ。お前とは……付き合えないけど、これまでみたいに仲良くやろう」
嬉しかった。こんな気持ち悪い自分でも突き放さずに受け入れてくれた事が、アキホにとって何よりも嬉しかった。
アキホがそれに気づいたのはその年の冬。学校帰りに先輩を見かけた時の事だった。
「そういえばお前さ、仲のいい後輩居たじゃん?最近一緒にいるとこあんまし見ないな」
「あぁ、アキホ。あいつさぁ、男が好きなんだってよ」
「まじかよ」
「本当。告白された。マジないわ」
「うわ~。それはキモすぎだろ」
友人と笑いながら話していた。それを聞いた瞬間、アキホは体が竦むのがわかった。信頼していた、自分を受け入れてくれたと思っていた人に裏切られた事がとてもショックだった。
アキホは塞ぎ込むようになった。学校でも誰とも話さずに一人でいることが多くなった。先輩やその友人がアキホの事を周りに言いふらしていたらと思うと、学校に行くのも億劫だった。
「お前、ゲイなんだろ?」
「気持ちワリィ」
いつしか暴言を浴びせられるようになり、それはいじめに繋がっていった。
アキホは学校に行かなくなった。
両親はそんなアキホを気遣い、引っ越しを決意した。中学二年の秋だった。
転校した先の学校では、アキホは以前のように明るく振る舞うよう心掛けた。友人は多くできたが、関係は浅く広いもので心を開くような相手は作ることができなかった。
アキホが彼と出会ったのは大学一年の時。
たまたま講義で隣の席になり、いつの間にか意気投合して仲良くなった。顔を会わせれば下らない事を話し合うような気軽な友人。アキホにとって彼はそんな存在だった。
アキホが彼と付き合い始めたのは、知り合って一年が過ぎようとしていた頃だった。
『付き合おうか、俺達』
彼はいとも簡単にそう言った。
アキホが同性愛者であると彼が何かで知ったのか、何も知らずに告白してきたのかは分からなかった。
『今時珍しくないだろ、こういうの。少なくとも俺は恥ずかしいとは思っていないし、『普通』だと思ってる。けど、お前が嫌なら別にいい』
同性愛は世間的にはあまり受け入れられていない。
自由な恋愛観を示す一方、水面下では異性愛者が基準であることが前提の考え方が根深く残っている。実際、差別的な見方も多い。
アキホも同性愛者であることが罪であるかのように感じ、ひたすらに他人からその事実を隠してきた。
しかし彼は、アキホが今まで異常だと思ってきた事を『普通』だと平気な顔をして言ってみせた。
その後、アキホと彼は世間的に言う恋人同士になった。何度も肌を重ね合い、愛していると囁きあった。
半年もしない内に、二人は蜜な関係になっていった。
大抵は彼がアキホの家に来て、ゲームなんかをしたりして遊ぶことが多かった。
付き合い始めると彼は不思議なほど外でアキホと関わりを持とうとしなくなった。あるいは、アキホが他人に性的指向を知られたくないと知っていてそうしているのかもしれない。
何にしろ彼は大学内でもアキホにあまり話しかけては来なかったし、必要以上のスキンシップもとろうとしなかった。頻繁に連絡を取り合うことも少ない。それがアキホにとって気楽でもあり、同時にもどかしくもあった。
前に一度、彼にルームシェアを提案したことがあった。
彼はその時、はぐらかすようにキスをしてはっきりと「それは出来ない」と言った。理由を聞いても、答えは返されなかった。
アキホはそれを彼らしいと割り切って考えるのと同時に、彼の態度には多少の違和感を覚えてもいた。
彼には秘密が多すぎる。
それはアキホにも言えることだが、彼とアキホの隠し事には大きな違いがある。
アキホは自分の身の上の事は彼にほとんど話したつもりだ。ただ、中学の頃の話だけはしていない。自分がいじめられていた過去は他人に話すにはアキホ自身へのショックが大きいし、それを彼に話すような機会も度胸も無かった。
一方彼はというと、本当に何も話さないような男だ。せいぜい趣味嗜好といったところで、自身について話しているところを聞いたことがない。過去の話も彼の恋愛についても話してくれたことはない。きっと聞いたところで教えてはくれないのだろうという諦めもあり、アキホも聞こうと思ったことがなかった。
彼は何か、自分に知られたくないことがあるのか。もしくは、自分に知られるとまずいことがあるのだろうか。
そう考える度に、アキホは彼が恋しくなる。本当は聞いてしまいたい。けれど、聞いたことで彼との関係が終わってしまうことに恐怖を覚えてしまう。アキホはそんな自分が嫌いだった。
彼から連絡があったのは、夕方頃だった。丁度アキホが大学から帰ってきた時に電話が鳴った。
『今からお前ん家行っていいか』
「いいよ。今帰ってきたところなんだ。どれくらいで着きそう?」
『……たぶん、10分くらい。近くで用事があったんだ』
「そっか。わかった、待ってる」
彼から急に連絡が入るのは珍しい事ではない。むしろ、そうでない時の方が稀だ。
アキホは彼が来る前に部屋着に着替え、コーヒーの用意をした。彼はアキホの家に来ると必ずコーヒーを飲む。コーヒーには砂糖もミルクも入れない。
お湯を沸かしていると、玄関の扉を開く音がした。
「キョウ、いらっしゃい……」
部屋に入ってきた彼を見て、アキホは目を見張った。
彼は怪我をしていた。大怪我と言うほどではないし、大量に血が出ているわけでもない。彼の腕や首元など、目につくところにいくつものアザができている。服の下にもアザがあるのだろうと容易に想像できる。彼の唇の右端が切れて血が滲んでいた。
「キョウ、どうしたの、それ」
少しふらついている彼を椅子に座らせながら聞く。アキホの声は固く、震えていた。
「喧嘩した。それだけ」
彼は淡白にそう言う。あくまで事務的で、つまらなそうな声。
ポットのお湯が沸騰して湯気を上げている。
彼はいたって冷静に振る舞っていたが、呼吸は乱れていた。体の節々が痛むのか、微かに震えているように見える。いつもよりも目付きが悪く思えた。
「怪我をしてる。手当てしないと」
「大したことない。大丈夫だ」
彼に伸ばした手はあっさりと払われる。睨むようにこちらを見る目に怯んで、アキホは渋々コーヒーを淹れに行った。
「それでその怪我、何があったのさ。普段なら喧嘩なんてしないだろう?」
コーヒーを出して少し落ち着いたところで、そう切り出す。彼は何を言っても大丈夫の一点張りで、体を休めようとしなかった。
「絡まれたから殴っただけ」
「いつも殴ってるわけじゃないだろ。それとも、そんなにむかつく相手だったの?」
「今日、俺は、機嫌が悪い」
言葉をゆっくりと発音しながら低い声を出す彼に、アキホはこれ以上話しても意味がないと感じ取った。
「……」
「……」
しばらくの沈黙が続く。
彼に何らかのトラブルがあったことは明白だ。しかし、アキホの知る限り、彼は人に絡まれるということ自体少ない。確かに言動や行動の端々に荒さは目立つが、彼が誰かと口論している姿は想像できない。彼が人に暴力を振るう姿は想像できるが、頭に血が上ったからといって不用意に彼が相手を殴るほど馬鹿ではないことをアキホは知っている。彼は状況をよく見て最善の判断を下せる男だ。
目の前に座る彼は辛そうに見えるが、本人はそれを隠そうとしている。彼は自分に助けを求めて来たのだろうに、プライドが邪魔して気を張っている。そんな気がした。
「…俺はもう寝るんだけど、君は?」
沈黙を破り、アキホはそう言葉を投げる。まだ寝るには大分早い時間だが、彼を休ませるには自分も一緒に休む以外に方法が思い付かなかった。
きっと彼はそれに気づいている。わずかに目を細めてアキホを見つめた後、ちいさく頷いた。
「今夜、泊まっていいか?」
「勿論。ベッド、使っていいよ」
そう言ったにも関わらず、彼は寝る直前になってアキホをベッドの中に抱き留めた。どうやら彼はアキホも一緒に寝る事をご所望らしい。
狭いシングルベッドの中、二人で身を寄せ合う。
優しく腕を絡ませると、彼が震えているのがわかった。相当体の傷が痛むらしい。彼にしては珍しく、横になってすぐ眠りについた。辛そうに顔をしかめながら、苦しそうに息をしている。
アキホは彼が弱音を吐くところを見たことがない。彼は他人に弱みを見せることがないのではないか。何でも一人で抱え込んで、自己解決しようとする。それではいつか壊れてしまう。彼の寝顔を見ていると、そんな気になってくる。アキホはそれが怖かった。何か辛いことがあったなら、自分に半分背負わせてほしかった。それで彼が少しでも楽になるなら、アキホはいくらでも一緒に背負う覚悟がある。大切な恋人だから。
彼を見ているとあまりにも痛々しく思え、アキホは視線を外すように目を瞑って眠りについた。