すれ違い
「ねぇ隼人、お母さんはあの子のこと嫌いじゃないけど、でも心に傷を負ってる子って厄介だから。一筋縄じゃいかないこと多いし」
畔柳隼人は、母親の顔を真正面から見ることなど最近ではほとんどなかったなと思う。目尻のシワや、頬に浮き出たシミ、こけた口元などがじりじりと追い詰めてくる。
最初は息子が連れてきた女の子ということで、ウキウキしていた母親もさすがに様子を見て何かあると感じたらしい。確かに、何も言わずに男の家に居着く女というのはおかしい。
「うまく言えないけど、あいつは頑張ってる、1人で。そういうの偉いなって思う」
「友達、なのよね。どうこうなろうってわけじゃないのよね」
夕食の後、ヨアが風呂に入っている時に、珍しく母親が「お茶いれなおすから」と引き止めたと思ったら、そんな風に切り出してきた。父親は押し黙っているだけで何も発言しない。新聞を盾にして話題に参加しないのだ。
「迷惑なら話すよ、俺からちゃんと」
「そういうことじゃないの、あんたの気持ちを聞いてんの。隼人。あんたはまだまだ可能性があるし、将来のこともちゃんと」
「ちゃんとって何。俺はちゃんとしてる、ヨアもちゃんとしてる、だから何」
隼人は何に突き動かされているのかわからない。生来の兄貴魂に火がついたのか。別に何の義理も関わりもないはずの女なのに、どうしようもなく守りたい気持ちになる。
「俺は、頑張ってるやつは偉いって思う。だから余計に」
そこまで言ったところで、ヨアが気まずそうにキッチンの入り口に立っているのが見えた。「お先にありがとうございます」ひょこっと首を折り曲げるその姿が頼りなくて、隼人は飲み込んだ言葉を思い出す。
だから余計に気になるんだよ、ヨアのこと。
これまで、守ってやりたい女のことを好んで選んできた。ちょっとノロくて、どんくさくて、てへへって笑って手を差し出してくるようなそんな女の手を握って、引っ張っていくのが好きだった。
ただそんな女は大抵図太いのだ。頼りたいときだけ頼って、こっちがいい気になって身を乗り出すと「干渉しないで」と一線を引く。頼っている自分に酔っているのだけれど、預けようとはしない。だからこっちがこけそうになったら、さっと手を引く。弱いから、頼りたいからと振りかざして安全な場所に身を置いているのが心地良いだけなのだ。
「俺は、ヨアは、いいと思う。どこにいてもヨアだから」
隼人は自分が何を言っているのかわからない。ヨアも母親も言葉がなくなった。
「たまには一緒にお茶どうだ、ヨアさん」
メリメリと新聞を大雑把にまとめた父親が、沈黙を切って口元を歪める。笑っているつもりなのだ。
「もうお父さんまた、新聞をそんな風にして」
母親が立ち上がって急須の中の茶葉を変える。ヨアの視線は父親を経由して、隼人に止まった。
「座れよ、ここ」
隼人は自分の隣の椅子を引く。弟からヨアに変わったいつものこの席を。
「酒を飲むのも酒に飲まれるのもいい。けど、そろそろほどほどにしたほうがいいな。女の子なんだから、君は」
父親は隼人とヨアを交互に見る。隼人は久しぶりにこんなに毅然とした父親を見た。
「わかっています、もうすぐできると思います。約束、できます」
ヨアはバスタオルで髪を覆い、そのまま顔を隠すように俯いた。そう、決して倒れてこないその頭に隼人は手を乗せて軽く叩いた。小さなその頭はほんのり温かくて、隼人はようやく自分の気持ちを自覚した。
給湯室でコーヒーを入れていると、毬恵が入ってくる。隼人は目の前にある扉を開いて、彼女にいつものカップを取り出して渡した。
「ココア、飲みますか?」
毬恵はココアの粉の入った袋を開こうとするけれど、もたもたしているうちに手から滑り落ちた。「あっ」と2人して叫んで、一緒にかがむ。隼人のすぐ近くに毬恵のふっくらした頬があった。
「あー、またやっちゃった」
苦笑いする毬恵の唇が艶めいて可愛らしい。隼人は袋を毬恵の手に乗せて、「ドンくさいなぁ、相変わらず」と笑いながら立ち上がり、こぼれた粉を足でぐちゃぐちゃっと散らせた。
「あの」
出て行こうとする背中を毬恵の声が追いかけてくる。
「合コン、しませんか?私と私の友達と」
「ああ、ごめん、そういうの卒業したの、俺」
隼人は「ああやっぱ可愛いなぁ、あのほっぺいいな」と胸の中だけで呟いて立ち去った。




