空の色を忘れない
空と大地の博物館は、大昔の空と地表の様子を展示していた。
私は妻と六歳になる息子を連れて博物館に来ているのだが、寂れていてあまり人気がない。
確かに、他の娯楽施設に比べるとやや地味ではあるが、昔の文明や文化を知る事ができるのは貴重だろう。
パラパラと崩れ去る剥がれかけた蒼い塗装が、その昔あったとう本当の空の様子を無残な形で遺している。
人間が空を見上げる時代は終わり、やがては見下ろすようになると、誰もが空の色を忘れた。
地表を覆っていた大気を今は人工的に造っているので、空というものがあった事を子供達は知らない。
百年前、居住地の確保の為の三度の住み分けがあった。大部分の貧困層と一部の職人階層以外はより高い地域に移り住んだ。
地面を恋しがる余裕もない程に、地球には人やビルが溢れていたというが、私にはそれを見る術はない。
「ここも随分と寂しくなったな」
私は妻と息子を購買店に向かわせ、ガイドの八重山と世間話をしていた。
「国が援助を打ち切ったせいもあるが、入館者が激減してるんだ」
「そうかもしれないな。昔を懐かしむのは老人と私みたいな物好きだけか」
多少は老けているが、彼はまだ三十代の後半だ。
「昔から飛行機が好きで、お前はよくここに来てたなぁ」
八重山がしみじみと言った。
「今も、妻と息子を連れて来ているじゃないか」
「本当に物好きだなお前」
「空にはロマンがある。それを今の世代の人間にも知って欲しいんだ」
「俺に言ってどうする」
「まったくだ」
お互いに笑い合い、その場で別れた。息子は一機で五千円もする飛行機の模型を買った。
私が模型を買おうとすると、妻が機嫌を損ねたので仕方なく諦めた。
入り口付近で、カップルとすれ違ったが、彼ら以外に客は居なかった。
「近くにショッピングセンターができてたよな」
「そうね、確かサンシャインモールっていうおっきなセンター。行ってみたいと思ってたの」
妻の機嫌が良くなるように前もってリサーチしておいたのだ。
「行っておいでよ。空太は私が面倒を見ておくから」
「そう?悪いわね」
「えぇ、僕もショッピングがいいなぁ」
「わがままを言うな。たまには父さんと遊ぼう」
あまり乗り気ではない息子を無理やり引き留めて、妻を見送った私は、息子と自分の入館料を払った。
一番最初の展示室には、大昔の写真パネルが展示されている。
大きなパノラマになっている海の写真や、高層ビルの建ち並ぶ大都市の写真が数枚飾られている。
「空太、これが海だよ」
「知ってるよ。本で読んだ事あるし、ショッパい水でできているんでしょ?」
「まぁ、そうだ。これなんかどうだ?」
そういって私が指を指したのは色褪せた森林の写真だ。
「木?」
「そう。沢山の木があるだろう。沢山の木は森って言うんだ」
「モリ?ふーん。じゃあこれは?」
「これは東京。昔、人間が住んでいた首都だ。今も偉い人が住んでいるエリアを首都って言うだろう?それさ」
「へぇー、お父さんは東京に行った事があるの?」
「ないな、行ってみたいが、もうないらしい」
「え?ないの」
息子が不思議そうな顔をしている。
「東京は海に沈んでしまったんだ」
「どうして?」
「さぁな、どうしてなんだろうな。お父さんもそこまでは知らないんだ」
「ふーん」
私達は、次の展示室に向かった。そこは、昔の空をバーチャルの映像として記憶してある部屋だ。
「さぁ、この眼鏡をして」
「うわぁ、だっさぁ」
確かに奇妙なデザインの眼鏡だった。まるで、パーティーグッズで使う類の鼻眼鏡みたいだ。
しばらくすると、電気が消えて、十分間の上映が始まった。
赤く燃える朝焼けがEと書かれた方角から昇ってくる。私達が普段見ている太陽は、もっと大きい。
それは直ぐに頭の近くまで昇り、真っ青な空が見えてくる。
私も息子も、ただ黙ってその映像の空を見上げた。真っ白い、大きな雲がゆっくりと漂い、時には本や動物園でしか観たことのない鳥が出現する。
あっという間に、太陽は傾いて、真っ赤な夕焼け空が映し出された。
私は、この夕焼けを何度か目にしていたが、これほど美しいものが、今はもう失われてしまった事を残念に思った。
夜になると、今度は月が現れて、深く蒼い空を照らした。
「綺麗だったね」
と息子が言った。それだけでも、来た甲斐があったというものだ。
しかし、なんといってもメインは次である。次の展示室は、空の歴史についての展示だ。
様々な飛行機や飛行船の模型や写真が並んでいて、一番力が入っている。
「すごいだろう、これが飛行機だよ」
「へぇ、もっと小さいと思ってた」
私達は等身大の小型単葉機の模型に乗って、その操縦が体験できる機械に乗った。
息子に体験させるつもりが、つい自分が夢中になってしまい。結局、拗ねてあまり飛行機の模型を見せてあげられなかったが、バルーンや、世界初の飛行機などには興味を示してくれた。
「この飛行機は誰が発明したの?」
「誰だったかな、確かライト兄弟だったと思うんだが……」
「ライトって、光るやつ?」
「え、たぶん」
私が曖昧に受け答えをしていると、八重山がやってきた。
「おいおい何回、この博物館に来てるんだよ。全く」
「お、良いところに。ゼロ戦とかボーイングとかなら詳しいんだが」
「そんなマニアックな知識を子供に教えてどうする。基本を教えろ」
「まぁな」
息子は八重山の話を熱心に聞いていた。
「アメリカのライト兄弟は人類で初めて有人動力飛行を行った人物で、れっきとした人間だ」
「まぁな、知ってたさ」
息子が飛行船に興味を持ってくれたのは嬉しかったが、親としての立場がなかったので、そこは濁しておいた。
最後の展示室は特別展で、今は空をモチーフにした絵画が展示してあった。
「いつもは、特別展といっても対した展示はしてないが、今月は最後って事でお金がかかってる」
「前に来た時は、ベンチが置いてあっただけだしな」
少し、寂しい気持ちになったが、最後まで空の絵を見た。あまり有名でない画家の絵にも、見事な空があった。
どの空も、同じものではなく、微妙なタッチの加減や濃淡によって様々に変化している。
「絵の具の種類よりも、空の色は多いんだ」
八重山が言った。
「それに見る人によっても違った空に見える」
お前には、どんな空に見えたんだろうなぁ、空太。
出口では買い物袋を両手に抱えた妻が待っていた。
「いつまで待たせる気?」
「ああ、すまんな」 買い物袋を一つ持って、先に行っている空太を呼ぶ。
「どうだ、ショッピングより楽しかっただろう」
少し考えて息子は頷いた。
「また来ような」
という言葉を飲み込んで、私は妻に言った。
「あの模型、買っていい?」
「うーん、許す」
空と大地の博物館は今月いっぱいで閉館します。観たい人はお早めに。