彼女と過ごす時間。
さらに、僕は西田のブログ記事をいくつか拝見してみた。
すると、僕の心ノートの詩が、全部載せられていることが分かった。
動画サイトのリンク先も貼り付けられていて、飛んでみると、西田と数人の男性の姿が映っていた。
その男性達は、西田が探してきたバンド仲間のようだ。
僕は、西田が歌うその曲に耳を澄ませてみる。
誰が作曲したかは分からないが、僕の作詞そのままが使われていた。
僕のノートを取ったのは、西田と断定はできていた。
ノートが無くなった日が、ちょうど西田が泊まりに来た日のことだから。
確定はできないけれど、僕の疑いの目は西田にしか向けられていなかった。
僕は、人を信じるのが怖くなっていた。
そして、こうして人を信じられなくなっていく自分も怖くなっていた。
誰が本物で、誰が偽物で……。
誰を信じたらいいのだろう?
裏切られる運命なのに、どうして僕等は友達になってしまったのだろう?
裏切られることを知っていたら、僕等は友達になっていなかったのだろうか。
いずれにせよ、「友達」という存在は、時に心の華になり、時に心の氷になる。
『1週間お疲れ様でした。明日、会えるの楽しみにしてます!!』
ありささんからのメール……。
いつもは待ち遠しく感じるはずのメールが、今日は億劫に感じてしまう。
「ノート……ノート……」
僕の頭の中は、引き出しから姿を消したままのノートのことで一杯だった。
必死に汗を流してノートを探し回る。
もちろん、探すだけ無駄なことは分かっているのだが。
結局、ノートのことを西田に言い出せないまま、時が過ぎてしまった。
今現在、気まずいと思っているのは僕の方だけで、西田は僕を何とも思っていない。
ノートのことを西田に言ってしまえば、以前のような関係は壊れてしまうかもしれない。
それなら、言わないで、このままの平凡な関係を保ったほうがいいかもしれない、と思ったのが本音。
探す宛もなく、床の上にバタリと寝転ぶ。
目が覚めた時、小鳥のさえずりが聞こえた。
時計を見ると、朝の6時。
昨日、床の上に寝転んだまま、風呂も入らずに寝てしまったのだ。
僕は、いつも以上に重く感じる体を起こした。
彼女との約束の時間まで、まだ余裕があるし、とりあえず、とシャワーを浴びに行く。
クシュンッ
昨日、汗を掻いたまま寝てしまったから、風邪を引いたのかもしれない。
風呂上がりの一杯の水を飲み干す。
彼女との時間を待つのに焦りつつも、まだ時間が進んで欲しくないと思っていた。
為すすべがなく、ただぼーっと椅子に腰掛けては、時間を過ごす。
クシュンッ
約束の30分前。
まだ彼女は家を出ていないだろうと思い、メールを送る。
『ありささん、本当にごめんなさい。体調が優れないようなので、今日は会うことができません。自分勝手でごめんなさい。心配するような病気とかじゃないので大丈夫です。また、元気になったら会いましょう。』
ふらふらと部屋に戻っては、パジャマに着替えベッドに潜る。
携帯を枕元に置き、じっとその画面に目を向ける。
すぐに彼女からメールが帰ってきた。
『そうなの??心配!今からイチさんの家にお邪魔してもいい??』
予想もしなかった言葉に驚きつつ、カチカチと本文を打つ。
『本当に大丈夫ですから。ありささんは、家でゆっくりしててください。』
『私、どうしても行きたい!!わがまま言ってごめんね。お節介焼くの好きなので!イチさんの家に行って看病したいの……。ダメかな??』
彼女は見かけによらず芯が強いから、ここは引かないと見た。
仕方なく、彼女が家に来ることを受け入れる。
『いいですよ。ところでありささん、僕の家知ってますか??』
彼女は明快な返事を寄越した。
『……知りません!!』
ある喫茶店の前で待ち合わせをする。
彼女の方がいくらか先に来ていたようで、僕の姿を見つけるなり、小さな手をおおげさに振って見せた。
僕は、重たい体を何ともないような素振りで動かす。
「待ちましたか?」
笑顔で首を振り、「全然」と彼女。
「よかった。じゃあ乗ってください」
今日は外に出ないと決めていたが、結局、彼女を僕の家へ迎えに行くことに。
何だか変な話だが、彼女は僕の家を知らないのだから、仕方がない。
この車に女性を乗せるのは、初めてのことで緊張した。
隣に座る彼女から、ほんのり香る花の匂い。
植物系の専門学校に通う彼女のことだから、毎日花に囲まれた暮らしでもしているのだろう。
僕はその匂いと共に、初めて彼女と電車で隣同士座ったことを思い出していた。
「あーぁ。私って馬鹿だよね。家がどこだか知らないのに、家に行きたいだなんて……」
彼女が恥ずかしそうに、顔を赤くしながら言う。
「いや、馬鹿ではないですよ。ありささんは、天然なんです」
「天然……。それっていい事なのかな??」
彼女は、少し考え込むようにして言う。
僕は、笑顔で言った。
「はい。天然なありささんは、とっても可愛いです」
「……ありがとうございます」
彼女は長い髪で顔を隠し、しばらくして、顔を上げると、
「……何だか、すごく照れる~。さっきの言葉」
彼女は、「恥ずかしさ」の余韻に浸っているようだった。
「はい。僕もです……」
車は、赤信号を前にして止まる。
しばらくの沈黙が続く。
また、車が走り出すと同時に、彼女が話し出す。
「イチさん。具合が悪いのって、風邪??」
「はい。そうみたいです」
彼女の表情は、窓の向こうを見ている僕には分からない。
「そっかぁ。熱は??」
「うーん。大丈夫だと思いますけど……」
「し、失礼しますっ……。」
彼女の掌が、僕の額にそっと触れる。
彼女の白い腕が僕の視界にちらっと映る。
僕は、緊張で運転を誤らないか心配だった。
「けっこうあるんじゃない?熱いよ!!」
彼女が言う。
「そうなんですか?自分ではよく分からなくって」
「ごめんね……。私が運転できたら変われたんだけど……」
僕は、彼女が自分のことを見ているかすら分からなかったが、表情を和らげた。
「いえいえ。気にしないでください。大丈夫ですから」
車がマンションの駐車場に着く。
何とか無事に着けてよかった、と額の汗を拭う。
僕等は車から降り、僕の部屋へと向かう。
「お邪魔しまーす」
彼女が玄関に足を踏み入れる。
そこで、お行儀よく靴を揃える。
「マンションなんでもちろん狭いですけど……」
僕は、ヘラヘラと笑って見せる。
「私の家も狭いよ~」
彼女が、僕を安心させるかのように言う。
「あ、すみません……」
床に脱ぎっ放しのパジャマを急いで拾っては、ベッドの上に置く。
「いえいえ。あ、キッチン借りていい?私何か作るね♪イチさんは着替えてて」
「はい。でも、僕の家、全然食料揃ってないですけど……」
彼女が自信あり気に言った。
「それなら大丈夫!自宅から持ってきたから!」
……すごいやる気だなぁ。
「そ、そうですか?じゃあ、ありがとうございます!!着替えますね」
僕が服を掴んだタイミングと共に、彼女がそっと戸を締める。
彼女がガサガサと、ビニール袋から何か取り出す音がする。
僕はその音を聞きながら、パジャマに着替える。
しばらくして、彼女が部屋の戸をノックする。
「イチさーん。入っても大丈夫??」
「あっ、はい」
返事をし、僕は部屋の戸を開ける。
エプロン姿の可愛い彼女が目に映った。
「あ、わざわざ開けてくれて……私開けるから大丈夫なのに」
「いや、ありささん、両手塞がってますから」
彼女が「そうだね」と照れ笑いした。
彼女が机の上に置いたのはレトルトカレー。
「カレーは栄養もあるし、いいなと思って」
僕は両手を合わせて言った。
「ありがとうございます。いただきます」
僕は、そっとスプーンを手にし、カレーを口に運ぶ。
「どう……??味の方は」
「美味しいですよ!!すごく」
「本当??お世辞じゃない……よね??」
心配そうに言う彼女に、僕は満面の笑顔を見せる。
風邪を引いている人だとは思えないくらいに。
「お世辞じゃないですよ。本当に美味しいです」
僕はニコッと微笑んで見せる。
彼女も安心したように笑う。
「さ、布団に早く潜って寝てね。私、熱冷まシート用意してきたの」
彼女は、鞄から熱冷まシートを取り出した。
「何から何まで……ありがとうございます」
僕が申し訳なさそうに言うと、
「いいえ!私こそ、イチさんにたくさん助けられてますから!!」
彼女が僕の前髪を上げては、ペタッと熱さまシートを額に貼る。
僕は、そっとその白い腕に触れる。
「イチ……さん??」
「ありささん。ごめんなさい」
彼女は、まじまじと僕の顔を見つめる。
「……どうかした?」
「ごめんなさい。どうしてもノートが見つかりませんでした。たぶん、ずっと見つからないと思います」
彼女は、首を傾げながら言った。
「ずっとって……?一緒に探そうよ」
「いえ……。探しても、もう出てこないと思います。その……取られたみたいなので」
僕は、諦めがついた表情で言う。
「えっ」
彼女は、いくらか目を見開いた。
「取った人は何となく分かります。会社の同僚で、隣の席でよく話します。大切な友達なのでどうこう言うわけにもいかないですし……」
僕が冷静に言うと、
「そんなのひどい……。イチさんは何も悪くないのに」
彼女の眉尻が下がった。
「いえ、僕の自己管理が甘いのが悪いんです」
僕は、ヘラヘラと笑って見せた。
「そんなことない!その人は友達なんかじゃない!!人の物を勝手に取るような人……」
「そんなこと言わないであげてください。僕の大切な友達です……から」
彼女は、真剣な顔付きで言った。
「本当にそう思ってるの??」
僕は、その問いに口を閉ざす。
「イチさん、その人何て言うの?名前」
予想もしなかった質問に、少し間を置いて答える。
「えっ……。名前は……西田智明ですけど……」
「西田……?」
彼女が思い返すようにしてそう言った。
「ありささん、知り合いなんですか??」
彼女は、妙に口元を和らげて言った。
「いや、別に……」
「そう……ですか」
目が覚めると、隣には彼女の姿があった。
「あ、ごめんなさい。僕、いつの間にか寝ていたようで……」
まだ、寝起き眼で彼女を見る。
「いえ。寝なきゃ風邪は治らないし!」
彼女は、いつもみたく、穏やかに微笑む。
「そうですよね」
彼女は立ち上がり、遠慮がちに言った。
「あの……それじゃあ私、そろそろ……」
身支度を始める彼女。
「帰りは大丈夫なんですか??」
「はい。駅まで行けばいいんですよね。そこからタクシーで帰ります」
「タクシー?お金かかるじゃないですか!一緒に電車乗りましょうか??」
僕は、心配そうに言う。
「大丈夫ですよ!では」
そう言って、僕の部屋から出た後、
「あ……」
彼女がゆっくりと僕の方に戻ってくる。
「……??」
僕は、その場でじっと固まる。
彼女は僕の目の前まで来ると、微笑んで言った。
「今日は、ありがとうございました。嬉しかったです」
僕は、彼女を抱きしめる。
彼女の華奢な体が、僕の腕の中にすっぽりと収まる。
「イチ……さん??」
彼女は顔を上げ、僕の目を見る。
「はい」
そして、僕等は見つめ合った。
「……好き」
「僕もです。好きです」
「ではっ!!」
彼女が顔を真っ赤にしては、逃げるように部屋から出て行く。
僕は、そっと額に手を当ててみる。
冷たいタオルで冷やしたはずなのに、ますます熱が上がったような気がしたのは、気のせいだろうか?
ピンポーン
突然鳴ったチャイムに驚きつつも、玄関のドアを開ける。
「……ありささん??」
「こんにちは」
ドアの向こうからニコッと笑って顔を覗かせたのは、可愛い僕の彼女。
「こんにちは。今日は何しに??」
「ごめんね!!突然押しかけて……。今日から春休みなので、イチさんの看病をしようかと」
「いえ……。え、看病?」
僕がそう言って、彼女の大きな手荷物を見つめると、
「え、あ、これ?私、春休みで、特に予定ないし、しばらくイチさんの家に泊めさせてもらおうと思って……。ダメですか……??」
彼女の言った言葉を、もう一度頭の中でリピートさせる。
「ダメ……ですよね」
彼女が言う。
「いや、いいですけど……。びっくりしました。ありささんがそんな行動を取るなんて!!」
「だ、だよね。私がこんな積極的になることは、本当にないんだよ?イチさんだから……だよ??」
彼女の最後の言葉が、胸にくすぐったさを残す。
「ありがとうございます!!ぜひ泊まってください」
僕は、照れながら言う。
「しかし……すごい荷物ですね。一体何が入ってるんですか??」
僕はもう一度、彼女の荷物に目を見やる。
「えっ。女の子の鞄の中身をそんな簡単に見たいと!?」
「いや、そういうわけじゃ……。そんなに準備しなくても大丈夫なのに」
僕は焦りつつ、言う。
「いいの♪私がそうしたいから。私が……お節介焼きたいから」
彼女が恥ずかしそうに言う。
「ありがとうございます」と、僕が言ったすぐ後に、彼女は「では、早速……お粥作ります!!」
そう言って、重たい鞄の中から5kg程もあるお米の袋を取り出した。
「あ、ありささん!?」
「はい??」
彼女があまりにも平然とした顔で返事をするので、僕は思わず笑ってしまった。
「えっ。えっ??」
彼女が戸惑った様子を見せる。
僕は尚更おかしくなって、笑いそうになるのを必死に堪え、
「いえ、何でも。ありがとうございます!!」
今はレンジでチンすれば食べれちゃう、便利なご飯があるというのに……。
わざわざ5kgもある米袋を持ってこなくても……。
「じゃあ、さっそく調理するね!!」
彼女は、気を取り直して言う。
「あ、イチさん。熱は下がった??」
「はい。お陰様で。大分楽になりました」
彼女がどれどれ、と僕の額に手を当てる。
「まだ下がってないじゃんー!!昨日よりは、少し下がったような気がするけど??ちゃんと寝ててね」
彼女の方が年下なのに、何だか彼女は母のように振舞っている。
「はい。分かりました」
僕は、言われた通り布団に潜る。
ここしばらく、会社を休むように電話したばかりだ。
中には、熱があっても少しくらいなら我慢して行ってる人もいるのだが。
正直な事を言えば、西田と顔を合わすのが億劫なので、休みたい気持ちはあった。
僕がいない間、会社に少しの迷惑をかけるだろうなぁ……。
そんなことを考えている間に、彼女が戸を叩く音がした。
「はい。今開けますね」
僕はすぐにベッドから体を起こし、彼女の待つ戸の前へと急いだ。
「ご、ごめんね……」
彼女は、落ちないよう、しっかりと両手でお盆を抑えている。
「お盆あるから、寝ながら食べて大丈夫だよ!」
「分かりました」
僕が布団に体を入れると、彼女が僕の膝上に、そっとお盆を置いた。
お盆の上には、湯気のいい香りを放ったお粥が載っていた。
その香りにそそられて、自然とスプーンが動く。
「いただきます」
「はい。どうぞっ」
彼女は笑顔で、僕の食事を待つ。
「美味しいです」
僕はあっという間にお粥を間食する。
空になった茶碗をお盆の上に静かに置く。
「ごちそうさま」
「全部食べてくれて嬉しいです!!」
彼女はお盆を下げると、僕の額に熱さまシートを貼った。
「あはは。ありがとうございます」
「いえいえ」
彼女はそっと立ち上がり、
「茶碗、洗ってきますね」
彼女はキッチンへと向かう。
「行ってらっしゃい」
彼女の姿が遠くなって行く。
それが少し寂しく思えたが、一晩中彼女と一緒にいれると思うと、思わず顔が綻んでしまう。
僕は布団の中に顔を埋めては、彼女のことばかり考えていた。
僕は本当に彼女を幸せにしてあげられているだろうか?
こんな、風邪何か引いてしまって、録に彼女の相手もしてあげられていないし。
楽しい所にも、連れて行ってあげられないし……。
僕は、次第に不安を募らせていった。
彼女が中々戻ってこないようなので、僕は彼女の様子を見に行くことにした。
彼女は何やら考え中のようで……。
「あり……ささん?」
「はいっ?」
彼女がビクッと体を震わせた。
いきなり後ろから呼ばれて、驚いたのだろう。
彼女の綺麗な黒い瞳が、僕を見つめた。
「どうかしたんですか??」
「ううん。ただ、夕食を考えていただけ」
「夕食?今、昼食食べ終わったばっかりじゃ……」
僕が薄ら笑みを浮かべて言うと、
「だってー。することないし、イチさんの食べる食事に拘りたいし♪」
彼女はふふんと微笑んで言う。
「そんな……ありささんが作ってくれるなら何でもいいですから!!」
僕はお世辞でも何でもない、誠実な気持ちで言う。
「そう言わずに……。好きでやってることなんだから」
「わ、分かりました。では、お言葉に甘えて……」
僕は遠慮がちに微笑む。
彼女は、無邪気な笑みを見せる。
「ありささん。夕飯考えて4時間近く過ごすんですか??」
「えっと……。うーん」
彼女はそう言ったきり、言葉に詰まる。
「家に居ても、特にやることないですよね~」
僕は、彼女の返事を待たずに言う。
「とりあえず、テレビ見たり好きに過ごしてくださいね。では、僕は大人しく寝ます!!」
「はーい。おやすみなさい!!」
僕は、ゆっくりとした足取りで部屋に戻る。
布団に潜り、目を綴じたままじっとする。
カチカチカチカチ……
何の音だろう?
あ、携帯のボタンの操作音!
彼女は、いつも携帯をいじってる気がするけど……一体何をしてるんだろう?
女友達とメールとか?
そういえば、ありささんの友達の話とか、聞いたことないなぁ。
たった一人、「由希」という女の子の名前を、何度か耳にしたことがある。
何も、同じ専門学校の親友なんだとか。
悪質なサイトか何かに入ってなければいいけど……。
というか、彼女に限ってそんなことがあるはずないし。
僕は、どうして、こう、疑ってしまうんだろう。
彼女のことを何より、僕が一番に信じてあげなきゃいけないのに……。
例え会社の友達に裏切られようとも、ありささんだけは……。
ありささんだけは……。
「イチさん??」
「あっ、ありささん」
背中越しに聴こえた声に、驚いたような反応を示す。
「何を……してるの??」
「あ、いや……その……」
言葉に詰まる僕に、彼女は首を傾げる。
「ノート……。ノートを探しているんです」
「あぁ。この間言ってたノート!」
彼女が、思い返したように言う。
「そうです。そのノートを夢で思い出したんです。夢の中で、引き出しを開けたらノートがあったんです。」
僕は少し寂しそうな顔をして、
「でも、やはりなかったようです。夢とは違いますね。」
「イチさん……」
「はい」
彼女が真剣な瞳を向けて言う。
「ノート、必ず取り返すから……」
それは呟きのように聞こえたが、彼女の目は本気だった。
「えっ?」
「あ、いや、何でもないよっ」
嘘じみた笑顔を見せる彼女。
「そう……ですか??」
「うん!!」
そして、二人で夕食を共にする。
「ありささん。料理、本当に凝ってますね」
僕は、テーブルに並べられた、色とりどりのディナーに目を向けて言う。
「そうかな?いつも通りに作ったんだけどな」
そう言う彼女の頬は、赤く染まっていて。
僕は、彼女が必死に料理本でも読みながら練習する姿を思い浮かべた。
そんな彼女を思う僕は、顔が綻ぶ。
「ありささん、料理の腕上げましたね!!」
「えっ。そうかな?嬉しい♪」
そう言った彼女の表情は、本当に嬉しそうだった。
彼女の春休み最終日の夜。
僕はベッドに、彼女は床に布団を広げて寝そべる。
「イチさんの風邪、大分治ったみたいでよかった」
夜だからもちろんのこと、静けさに包まれていて、僕等の声だけがこの部屋に響く。
彼女のほっとするような声。
暗闇の中で、表情は確認できないのが残念。
「ありささんのお陰ですよ。明日から出勤できますし」
僕は暗闇の中で微笑む。
彼女も、僕の表情は分からない。
「私なんか何も……。お仕事がんばってね?」
「はい。頑張ります!!」
夜の静けさに響く、ワントーン高めの声。
「イチさん」
再び彼女が僕の名を呼ぶ。
彼女に名前を呼ばれ、僕は少しの心地よさを感じた。
「はい」
「イチさんと、たくさん一緒にいれてよかった……」
その彼女の声が、何故か切なさを漂わせた。
「僕もです」
「今度は、遊園地とか行ってみない?」
「遊園地……ですか?確かありささん苦手なんじゃ?」
「嫌いな訳じゃないもん」
彼女は、少し強気に言う。
「イチさんが楽しみ方教えてね?」
僕は、過去に一度だけ行ったバンドのライブを思い浮かべた。
「はい。あ、ではライブとかどうでしょう??」
「ライブ?それもいいですね♪」
彼女が賛成したことに、気持ちが舞い上がる。
「僕、ライブ行ってみたいなーって思ってたんです。ライブ決まったら、すぐチケット買いますから!行きましょうよ」
僕の口角は、いつの間にか上がっていた。
「うん。楽しみにしてる!」
「はい」
それから僕は、彼女と二人でライブを楽しむ姿を思い浮かべた。
二人で手を繋ぎながら、僕の大好きな歌手、“wind”に目を輝かせた。
windは、甘く幸せに満ちたラブソングを僕等に届けてくれた。
僕等は少しだけ体を揺らしながら、そのラブソングを受け取っていた……。
「おはよ」
僕が声をかけると、西田が振り返り、言う。
「おー!市村!!久しぶりじゃん。風邪、大丈夫だったか??」
「うん。僕がいない間、迷惑かけたね」
「気にすんな。また今日からがんばろうぜ?」
やっぱりいいやつじゃん、と僕は心無しか思う。
「うん。そうだね」
以前と変わらぬ西田の反応に、安心する僕。
だけど心の隅に、不信を募らせたままの僕。
そんな自分に僕は首を振り、いつものパソコン画面に集中した。
ありささんにしばらく会えないのかぁ。
そう思うと、少し肩を落としそうになってしまうが、少し離れた専門学校でがんばる彼女の姿を思い浮かべた。
……がんばろう。
オレンジ色の夕日を背負いながら、僕は彼女へのメールを打った。
『久々の仕事がんばりましたよ!ありささんは学校、どうでしたか?また明日も頑張りましょうね。』
しばらくして、彼女からの返信が来た。
『お疲れ様です♪私もがんばったよ~。疲れたけど、明日もがんばるよ!』
やっぱり、彼女も同じ気持ちだったんだ。
一緒にがんばる誰かがいるから、僕もがんばろう。
彼女がいれば、明日も明後日もずっとがんばれる。
そう、夕日に語りかけた。
それから1週間、2週間と経ったけど、未だに彼女とは会えないまま。
メールは毎日のように出来るのに、顔を合わせることはできない。
忙しいから仕方ない。
そう自分に言い聞かせていたけれど、どうしても彼女の声が聴きたい、顔を見たい。
僕は彼女に電話してみた。
思ったよりも早く彼女は電話に出てくれて、
「もしもし?イチさん??」
相変わらずの、女の子らしくて可愛い声に癒される。
「はい。ごめんなさい。急に電話してしまって……」
普通に会って話すよりも、照れてしまう僕。
耳元に、直接彼女の声が響くからだろうか。
「いえ。どうかした?」
「いや、ただ、声が聴きたくなっただけです」
「そっか。いいよ。話そう♪」
彼女の優しい返事が嬉しかった。
「ありがとうございます」
それから僕等は、いつも通りのたわいもない話を交わした。
最近のお互いの心境報告とか。
彼女はいつもと変わらず元気で、専門学校も楽しいとのことだけど。
「ありささん、こんなこと聞くのは変ですけど……」
僕は、ためらいがちに言う。
「ありささんは、僕と出会えてよかったですか?今、幸せですか?」
「出会えてよかったよ。本当に。幸せだよ。……大好き」
彼女は、囁かな声で言う。
僕はほっとして、
「よかった。僕も……幸せです。大好きです!!」
こうして、僕等は通話を終える。
今でも耳に残る余韻。
「幸せです」の一言……。
久しぶりに、彼女の顔を見ることができた。
電話をした日以来も、彼女の顔を見ることはなかったから、この日を待ちわびていたのだ。
今日は、二人でライブに行くと決めていた日。
僕は前日、興奮しすぎて眠れなかった。
けれど、そんなことは思わせないくらいの元気ぶりだ。
憧れの“wind”に会えるなんて……。
彼女は少し、痩せたように見えた。
気のせいだろうか……?
「今日は少し暑いね。でも、天気が良くてよかった」
そう言って、彼女は長袖の裾を折った。
その裾から覗く彼女の腕は、朗らかに細かった。
あえてそこには触れずに、「そうですね」と答える。
「行きましょう」
僕は、彼女の手を引いてライブ会場へと駆ける。
彼女も慌てて、僕に付いてくる。
ライブ会場は想像していた通り広くて、人ごみを掻き分けるのにやっとだった。
「やっぱり人気なんだねー。すごい人の数!!」
僕等は、辺りを一望する。
「そりゃそうですよ!歌詞もいいし、歌も上手いし最高なんですから」
僕は、興奮気味に言う。
「あ、なんかイチさん、いつもと違ーう!」
「え、そうですか??」
僕は、焦るようにキョロキョロする。
「うん。顔に出てるもん。本当に好きなんだね、“wind”」
「もちろん」
僕は笑顔で言う。
しばらくして、windのメンバー達が登場する。
ボーカルの慎汰が第一声を上げる。
その瞬間から、すでに僕は興奮を止められずにいた。
「あぁーもうヤバイ!!カッコ良すぎる~」
そう、独り言のように呟くと、彼女は横目で僕を見ては、ニコニコと笑う。
windの“風”という曲が流れる。
タイトルは、windというバンド名そのものだけど、曲の雰囲気はラブソング。
「風に載せてあなたに恋の歌を届けたい」という歌詞が印象的。
この曲は告白ソングとしても捉えられるし、カップルに取っては記念ソングにもなるし。
僕は彼女に告白前、何度もこの曲をリピートしていた。
僕はwindの“風”を感じながら、そっと彼女の手を握り締めた。
隣にいた彼女も、僕の手を握り返してくれた。
ギュッと……強く……。
ライブ会場から出る頃、僕は汗でビッショリだった。
「イチさん、盛り上がりすぎだよー。汗掻いて、また風邪引いたらどうするのー?」
「大丈夫ですよ。もう引きませんから」
そう笑顔で言う僕に、彼女は心配そうな表情で、
「うーんと、タオルタオル……。あ、朝、鞄の中整理してる時に置いてきちゃった!!」
「あはは。いいですよ。タオルならありますから」
僕は、ライブ開始前に買ったタオルを見せつけるように持った。
「本当?あ、windのロゴ入りタオルだ~!」
「はい。でも、これで汗拭くのは勿体ない気もしますね」
彼女は頬を膨らませた。
「拭いてください。風邪引かれたら困るので」
僕は「分かりました」と体の汗を拭き、
「あ、近くで飲み物でも飲みますか」
「うん」
僕等は近くにあった自動販売機でそれぞれ飲み物を買い、白いベンチに腰を掛けた。
「あー。楽しかった」
僕は青い空を見ながら、満面の笑みを浮かべていた。
「イチさんが、ライブであんなに人が変わるとは……」
「そうですか?自分では気づいてませんでした」
「いやー。かなり変わってたよ?大声まで出してて、ビックリした!!」
僕は笑いながら、
「生のwindがカッコ良すぎたんですから、仕方ないですよ」
僕はもう一度、生のステージを思い浮かべた。
未だに全身に残る、胸騒ぎの熱。
「ふーん。イチさんは、好きなものにはとことんハマるタイプですねー。なるほど」
彼女が学者のように、面白そうな目つきで言う。
「何ですか。人間観察みたいに……」
「人間観察です!」
彼女は、もう一度僕に熱い視線を送る。
「そう……ですか」
僕は苦笑いを浮かべた。
「はいっ。あ、この前言ってたノート……」
そう言って、彼女が鞄から一冊のノートを取り出す。
「えっ。これ、どうやって見つけたんですか??」
僕は、思わず彼女を見返した。
「西田さんに、返してもらった」
僕は、思わぬ答えに目を丸くする。
「え、西田さんに……?知り合いなんですか??」
僕は思わず身を乗り出す。
「はい。知り合いです」
彼女は、どこか興味なさげな感じだった。
「あれ、でもこの間、西田さんのこと知らないって……」
「え、そうだった?ごめん。物覚えが悪くて……」
彼女は薄ら、笑いながら言う。
「あの、西田さんとはどういう関係なんですか?」
僕は、何の不審も感じることなく聞く。
「あ、彼氏とかそういうのじゃないよ?ただの中学時代の友人」
初めて聞く、彼女の中学時代に関する話。
僕は、その話に興味津々だったが、特に深く聞き入ることはしなかった。
「えっ。そうなんですか!!」
「うん!西田さん、ノート間違えて持って行っただけだから、悪気はないんだって」
「そうだったんですか……。あ、ありがとうございます!!」
そうは言ってみるものの、未だ心は納得できずにいる。
「どういたしまして」
彼女が笑顔を見せる。
その笑顔が何か物語っているような……。
僕は、彼女からノートを受け取る。
風によって開かれたページ。
そこに見えたのは僕の詩で、僕は、西田のことを連想した。
悪気がないのに、無断でブログに歌詞を載けて、おまけに作曲を付けて動画サイトに投稿したりするだろうか……?
やはり、ありささんのことは信じたいけど、さっきの言葉には何か隠れているような気もする。
僕は、どうにもならない複雑な思いに囚われていた。
そして、静かに飲料水を飲む彼女の姿を、ただ呆然と見つめていた。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
第5章もよろしくお願いします☆