8話
「ストーカー、僕たちを――」
「どうする気かって?」
ストーカーは僕の問いに対し、食い気味に反応した。
「教えてやろう」
宇宙からふっと星が消えた。瞬きして目をならすと、ぐらりとよろめいて壁に手をついた。
マイダスが動いている!
指先がアリルに触れて、僕たちは痛いほどに抱き合った。
「なにがおきてるの? こわい、こわいよ」
アリルの頭を胸に引き寄せて、彼女のつむじに向かってつぶやいた。
「シーッ、大丈夫だ、ここは僕の個室だ。大丈夫」
大丈夫、と繰り返すと、アリルの大げさな呼吸が収まっていった。足下をアイスクリームのカップが転がる、かすかな物音が走った。
インターフェースの機能が戻っていた。個室の明りをつけ、アリルの様子を確認した。目許が濡れている以外はなんともなさそうだ。
「ストーカーのやつ、どういうつもりだ」
『船外モニターをつなげ』
視野にGH1係留港と惑星グッドホープが映った。その直後、減圧警報がけたたましく鳴り響いた。係留港とマイダスを繋ぐ、古びた気密通路が捩れて、破片を飛び散らせた。床が傾き、加速を感じた。係留港の外壁にまぶしい光が反射する。
「馬鹿な、マイダスのエンジンが動いてるじゃないか!」
普通はタグボートにやんわり押されるか、イプシロン・インディのより設備の整った港ならば電磁スラストでステーションを離れ、それから低速用エンジンで主機関の動作可能宙域まで移動することになる。なのに、マイダスはいきなり補助推進系を作動させたのだ。そんなことは、どの船でも管制システムの仕様上、不可能だと思っていたのに。
個室の外の通路を、何かがゴロゴロと転がる物音が近づき、去っていった。エアロックが開きっぱなしになっているのか。船外モニターは、船体の2ヵ所から空気に紛れてゴミが宇宙空間に噴出する様をとらえていた。紙やなんかのゴミに混じって、時には大きな物体も飛び去ってゆく――人間ほどの大きさの物体が。
「やめろ!」
僕は絶叫した。
壁面にストーカーが出現した。
「やめないよ」
「エアロックを閉じろ、早く」と僕は懇願した。
「だめだ。私の船には君たちしかいらない。船に残っていた他の者には退船してもらう。君たちの個室を除き、全ての個室を開放した。もう、船内はほぼ真空だ。いま――」
ストーカーはギョロ目を細めて笑った。
「――最後の一人が息絶えた。君たちを除いてね」
衝撃のあまり、頭の芯がぐらりと揺らぐのを感じた。アリルがしがみついているおかげで、無様に引っくり返らずに済んだ。
長い航海の間、ゲームや賭け事に興じた同僚たちは、もういない。冷たい真空が彼らを飲み込んでしまった。
「この――」
言いかけて、罵詈雑言を飲み込んだ。この狂人が生殺与奪の権を握っているのだ。
だが、アリルは違っていた。
「このばか! なんてことしたのよ。あたしたちをみなとにかえしてよ!!」
「ちょ、アリルッ」
口を押さえられたアリルはモゴモゴと抗議した。
おそるおそるストーカーを確認すると、彼はかすかに苦笑したように見えた。
「そのご希望には応えかねるね、お嬢さん」
「モゴモゴッ」
アリルは拳を振り上げる。
「おお、第2文明人らしい、素直な怒り様だね。君はヒルダとはずいぶん違う。でも――」
「でも、なんだ」
「君たちをどうするか、さっきそう聞いてきたな。答えよう。君たちにはグルームブリッジ1618に行ってもらう。太陽系から16光年、グッドホープからは25光年……」
「はぁ!?」
僕の手から逃れて、アリルが叫ぶ。
「いやよ、あたしたちをかえして!」
「だめだよ。君たちは選ばれたんだ。もう決めたことだよ。数千年ばかり遅れたけど、私とヒルダの愛の逃避行を実現させよう。グルームブリッジ1618の第2惑星“アカーサ”に向かうんだ。きっと、いまごろはすっかりテラフォーミングされて、快適な惑星になっているだろう」
「無理だ! ロスト・コロニーは知能カースト文化圏を毛嫌いしているんだから」
「悲観するな、そんなことはないさ。手土産に私の船をロスト・コロニーズにプレゼントしてもよいぞ」
アリルが僕の上着の肘をつつく。
「ねえ、どゆこと? あたし、あしたもしごと、あるよ」
「いや、仕事どころじゃないよ。もう家に帰れないかもしれない」
「うちに?」
僕はうなづいた。いたいけなアリルに、つい率直に話してしまったことを後悔した。
「もしかして……しんこんりょこう?」
誤解しているらしい。
「アリル……違うよ。僕たち、拉致られたんだよ」
「マジで?」
「拉致ではないよ」とストーカー。「私は君たちに、私の果たされなかった願いを叶えてもらいたいのさ。この地獄から抜け出せるなら、悪くない取引だと思うが。それに、ハポナ・ミナミ。君は恒星船乗りで、彼女は寄る辺ない劣後人に過ぎない。同じ時を歩むことはできないことはわかっているだろう? それとも、アリル君に手を出したのは単なる興味本位の火遊びかな?」
アリルが僕の顔をじっと観察しているのを感じた。
ローレンツ収縮を相手に戦うことなどできない。最初から、船を下りて標準時間の中でアリルと時を共に過ごすか、星々の間を飛びまわるか、そのどちらかの選択肢しかなかった。ただ、これまで僕が送ってきた、孤独な人生が最終的な判決を出すのに躊躇しただけだ。考えれば、結論は一つだっただろう。
「恒星船乗りには惚れるなよ、という歌があった。確か、ストーカー、あんたの時代の歌だろう」
「……そうだな」
アリルの冷えた指先を握り返した。そして、アリルの瞳を捉え、その中に決断したことを告げた。
「次の航海の前に船を下りて、堅実に生きるつもりだよ」
ストーカーは僕を見据え、ゆっくりとうなづいた。
「やはり見込んだ通りの男だな。わかっていたさ、彼女と話しているときの君の顔を見ていれば。やはり君たちにはロスト・コロニー行きの片道切符をプレゼントさせてもらうよ」
「なぜだ! もう船を下りて、地上で暮らすと言っただろ。加速をやめて回頭してくれ」
「君こそ、どうしてこんな陰鬱な社会に耐えられるんだ? この牢獄から脱出させてやろうと申し出ているのだぞ。この、人類の再生産を神に祭り上げたおぞましい身分社会から」
知能段階区分でIQ120以上は全体の6%で、僕のようなメザニンが含まれる。130以上は2%で社会ヒエラルキーのトップのプライアーたちだ。それ以外は劣後人に分類される。僕もIQ125程度だったが、第1文明時代には僕くらいの知能が平均的だったのだそうだ。病んで虚弱そうなストーカーも、会話内容から推測できる知能は僕と同じくらいだと思う。
「再生産を崇めて悪いことはないだろう。あんただって、かつてこの船で愛の逃避行に漕ぎ出そうとしたことがあったじゃないか。滅亡の運命から逃れたくて。新天地で再生産に励みたかったんだろう?」
「そういう言い方はやめろ。私はヒルダが滅びを従容と受け入れる、その諦観を憎んだ。薄ら寒い人類への軽蔑をこめて、文明の断絶を見詰める彼女を救いたかったんだ。子供などつくっても、困難な生活に放り出すだけだったろう」
子供などつくってもどうしようもない。自分のような苦労をさせたくないから――なんて愚かしいのだろう。人類を、いや人生を軽蔑しているのは、ヒルダだけではない、この男もだ。
ストーカーの姿は忽然と消えうせた。気を悪くしたのかもしれないな、と考えた。そして、外の真空を断ち、僕とアリルの生存を支える、個室の薄い扉に不安な視線を投げかけたのだった。