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恋人の星  作者: 逍蕾花実
6/15

6話

 「どうやってここまで来れたの?」


 「……」


 僕の問いを無視して、アリルはアイスクリームをなめている。


 「ごめん、本当にごめん、この通り」


 籐製のチェアーに腰かけたアリルは、なんだか僕の個室に不釣り合いだった。陰鬱でむさくるしい男しか収容してこなかった(と思う)この小さな部屋に、華やかな女性が降臨したせいかもしれない。空気の成分が変わったように感じた。


 祈るような動作でアリルに詫びる僕を、彼女は細く片目を開けて一瞥した。


 「ほとんどとけちゃった。せっかくならんでかったのに」


 とむくれるアリル。むくれていてもかわいかった。


 でも、彼女は不機嫌でい続けることができない性質らしい。ふとした拍子で機嫌を直してしまった。


 「あっ、そこにストロベリージャムがはいってたっ」


 たぶん、このときに機嫌はすっかり直っていたのだろう。僕はそんなこととはつゆ知らず、再び許しを乞うた。


 「ごめんね、本当に」


 アリルがアイスクリームを食べる手を休め、きょとんとする。


 「なにが?」


 「え……いや」


 彼女は僕が急にいなくなった理由も聞かなかった。普通なら気になるだろう。それなのに、もう原因や理由から彼女の関心が離れていた。単に忘れているのだろうか、それとも……。


 黙って物思いにふけっている横顔など、人生の真理か古典文学の名文句を思い返しているようにしか見えない。喋らなければ、アリルはプライアーにだって間違われるだろう。ああ、あと口元にこぼれたアイスクリームを拭き取れば。


 僕の目の前で、アリルが手を振っていた。


 「はろー? どうしたの」


 じっとアリルをみつめていたらしい。ちょっと赤面しつつ言い訳をする。


 「いや、その、おいしそうだな、と思ってさ」


 「そうよね」


 手に持ったアイスクリームのカップに視線を落とすアリル。


 「んっ」


 おもむろに、彼女はズイ、とカップを僕に突き出した。低重力のもとでは、アイスクリームはなかなか溶けない。溶けた部分がなか


なか下に流れていかないからだ。表面張力まとまったアイスは、慣性に抗ってプルンと揺れた。


 でもこれって、その、間接――ベーゼ?


 いやいや、僕25だよ? 暦上は100歳だよ? 何を戸惑っているんだ、僕は。むしろ平然とガッつくくらいじゃないとおかしいよ。ああおかしいさ!


 さりげない風を装ってスプーンを持つ。


 「悪いね」


 パク。ひとくちほおばる。


 おお――。


 この微かなストロベリーの甘酸っぱい香り、どこまでがアリルの唾液で、どこからが増粘多糖剤かわからないが、ねっとりした食感――うんめ、マジぱねぇ。


 はっ。


 アリルの視線に気づいてハッとした。彼女は僕の口元を盗み見ては、アイスクリームのカップをどこか落ち着かない様子で注視していた。両手を擦り合わせるようにして太腿に挟み、左右の肩を交互に上下させている。


 ……寒いわけではなかろう。


 アリルが僕にたずねる。


 「ねえ、おいしい?」


 「うん? ああ、あいしいよ。さすが、アリルがお勧めするだけのことはあるね」


 「んん、そうでしょ!?」


 彼女も頬を赤らめて、それを隠そうとしてうつむいた。


 「ねえ、ハポナ――」


 アリルの声は切羽詰ったように抑えられて、いつも以上にかすれていた。そして、彼女は顔を僕に近づけた。意外なほど熱い吐息が鼻先をくすぐる。


 彼女は何の駆け引きもなく、直裁にこう聞いた。


 「あたしのこと、すき?」


 こんな態度は、酸いも甘いも噛み分け成熟した女か、まだ色恋には早いお嬢ちゃんだけが示すことができるものだろう。それに挟まれた年代、つまり青春時代にあっては、逆に恋のあらゆる仕草が多情多感な心を激しく動かしてしまって、その簡単な言葉を、嵐のただなかで翻弄される木の葉に変えてしまう。


 僕の顔をみつめるアリルの落ち着かない瞳、ぴくぴくと何か言いたげに震える唇、ほつれ髪が白い頬にかかっている。アイスクリームを食べるには、マイダスの船内は肌寒かった。でも、少々の不快がどこかに吹き飛ぶほど、熱い炎が僕の胸のあたりを焼き焦がしていた。空気はあまりに軽く肺を出入りするようにも思え、息苦しささえ感じた。


 数分にも思えたが、まばたきする間だったと思う。僅かな間を置いて、やっとこれだけ答えた。


 「好きだよ」


 好き、という表現がこれほどもどかしいものだとは思わなかった。好きなんじゃない、愛しているんだ! ラヴなんだよ!!


 内心で猛り狂う叫びを喉の奥に押し返して、誠実な顔を保とうと努力した。この重要な瞬間に、少しでも誤解を与えるような表情をしたくなかった。今は“好き”で留めよう。余りに押し過ぎるのも警戒心を招くだろう。


 しかし、僕の細心の注意をよそに、アリルは濡れたように輝く瞳で僕を見据えて、僕のあらゆる堅苦しい予想や狭い常識を踏み越えることを言い放った。


 「あたし、ハポナのおもうがままになりたいの」


 言葉の意味もつかめぬうちに、彼女は僕の胴にしゃにむにかじりついてきた。


 「な、な……」


 僕のみぞおちから胸郭にかけての丘陵を越えて、きれいな額ときらきらした赤い瞳をラカーユの日の出のようにのぞかせて、アリルは体を密着させたまま、僕の顔を見上げた。生き生きと、露骨なほど真直ぐに、曲ったところもなく、ただ恥じらいに声をかすれさせながら。


 驚きのあまりスタチュー化した僕は、ああ、と痙攣するようなか細い吐息をもらした。


 幸福というものは、金がいくらあろうが関係ないのだ。まして知能などとは何のかかわりもない。メザニン御用達のBar“セキショ”で、心配事や世の中への不満に苛まれ、自己肯定感とは無縁の沈痛な表情でうつむいていた客たちの顔。マイダスの乗組員たち。みな、高い知能と所得に恵まれて、劣後人から見れば羨むべき境遇にいるはずだ。それなのに、メザニンのなんと哀れなことか。僕らに、こんなに護身に無頓着で、開けっぴろげな態度がとれるだろうか?


 おそらくこの世には、幸せを実現できる三種の人間がいる。思いのままに自分が欲するものを手に入れられる者と、自分をうまく騙せる者、そして自分の不幸を客観視できぬ者がだけが幸せに生きられるのだ。僕たちメザニンは、プライアーのように思うさま自己実現したり、自分を完璧に騙し尽くすには知性が不足しているのに、不幸を悟るに足るだけの知能は手にしているのだ。


 劣後人のように、世界が霧に包まれて自分も他人も見切れずに、計り知れぬ期待を持てた方が幸せというものだ。何も持っていなくても、それで心が満ち足りるならば。メザニンのように先を見切ってしまえば、完成してしまえば、そこには重いくびきに縛められて感動にふるえることもない心が、人生の底に無感動に沈むだけだ。激しい感動も、希望も、もうそこからは去っているのだ。昔の格言に言うではないか。“頭からっぽの方が夢つめこめる”と。


 アリルは小鳥のように首をかしげて、僕にねだった。


 「あたしを、うばってくれる?」


 もはや見慣れた個室も、見知らぬ壁だった。非現実感が押し寄せて、昨日までの生活を押し流してしまった。もう、二度とかつての生活には戻れないだろう。この、あまりに壮麗な瞬間を経験してしまっては。


 不思議な確信があった。今日のこのときを軸に、人生は転回するだろう。否応なく、幸せの爆心地として。爆心の閃光は、どれほど長く続くにしろ、短いにしろ、等しく僕の心を焼き、爆風は翻弄してくるに違いない。


 そのとき、僕の手の中でほんのりと温もりが生まれた。


 黒い六角柱の表面をさざ波のように光が走っているのを目撃した。アリルもダミーキーをまじまじと見つめた。


 「これ、どうしたの。さっきからぼんやりひかってたけど」


 「え、そうなの」


 さっきから? ぜんぜん気づかなかった。


 「あっ」


 だしぬけにアリルが叫んだ。驚愕の表情で僕の背後を指差すものだから、僕もそちらに首を巡らせた。そこには、若い男がいた。壁を背中につけて、両手を広げた男が。だが、彼にはどこか妙なところがあった。前かがみに腰を曲げ、顔を突き出しているのだ。こめかみから上がポコリと太い頭に対し、顎は小さく、乱杭歯が唇を割って外に飛び出している。男の口は小さく動くものの、声はない。


 「これは、映像か!?」


 ドアの脇には、これまた奇妙な服装をした女の、リアルな映像が映し出されていた。女は悲しそうに表情を歪めて、小さな筒を男に向ける。静寂の中で、男は叫び、女は首を振って反論していた。やがて。


 女の向けた武器が光を放ち、個室は白い輝きに満たされた。

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