5話
“マイダス”のような交易船は、星Aから星Bへ、そしてまた星Bから星Aへ、せっせと荷物を運んでいる。
その貨物は主に、デジタル化できない他星系の産物だ。一般人は、恒星船の積荷をなんだと想像しているのだろう。医薬品や特殊な工作機械? そんなもんじゃない。山海の珍味、奇怪な動植物、貴金属や宝石、精緻な陶磁器、絵画など骨董品がメインなのだ。時には政府高官や旅行者、それに人口過剰の世界から新天地に向かう移民が同伴することもある。
誰もが思う。とんでもない距離を越えて、そんなものを運ぶ価値があるのか?
あるのだ。
我々が運ぶのは、“希少価値”と言う名の、時空を食って肥え太る怪物だ。
考えても見て欲しい。お金があるとして、金持ちは何を買うだろう。不動産、債権などは再投資先としては定番だ。金持ちは、それらに対して確かに価値を認めている。
また、貴金属や宝石、珍妙な動植物にも価値を認める。愛人を侍らせたいなら、絶世の美女にも価値を見出す。それらの共通点は“希少価値”だ。金持ちが希少価値という価値を見出しているから、価値は存在する。距離と時間、それはすなわち時空だ。時空に遠く阻まれれば阻まれるほど、希少価値が生まれ、ますます金持ちをひきつけるのだ。つまり、富には希少価値以外の価値はない。
星々に散らばった人類が発見した真実は、宇宙のどこにいてもモノやサービスの交換にまつわる原始的な経済のルールが健在だということだった。往々にして、星を越えるExs船が積載する積荷は、紀元前の地中海交易船と同じ、ブドウからつくったワインなのだ。
……まあ、エクストラ・システム船は第1文明時代の遺物だから取得原価がタダだし、現代科学では製法を解明できない真空エネルギードライブ、VEDのおかげで燃料代もタダでなければ、恒星間交易自体が不可能ではあったのだが。
◆
殺風景な個室は、数千年前に建造された当初から使われている素材――船殻と同じ第1文明時代の金属で四方を覆われている。温かい空気に触れると汗をかく、ひんやりとした金属の表面は、これだけの年月を経てもつやつやと新品同様の輝きを放っている。
僕が使っているベッドも、グッドホープ開拓時代から使われている古いものだが、この船が積み重ねた歳月の厚みに比べれば、ごく新しいといえる。
寝転がったまま、左手で冷たい壁に指をはわせた。そして、滑らかな壁にできた、ほんのわずかな傷で指の腹を止める。そこには、この個室に入居当初から備わっていた傷があった。
ちなみに、同じような傷ならば、別の場所でも見たことがある。
――マイダスの船首部でひと際目立つ、ぶ厚いシールド部で。
光速にわずかに及ばない速度では、宇宙空間にただよう希薄な水素原子でも危険だ。ごくまれに原子より大きな物体がぶつかると、鉄がティッシュペーパーの同類に思えるほど強靭な船殻にも、傷がつく。個室の壁についているのと同じような傷が。仮に目に見えるほど大きな宇宙塵がマイダスにぶつかれば――どっかーん! おしまいだ。
この小さな個室の中で、強靭無比な壁に傷をつけるような、どのようなドラマがかつてあったのだろうか。暇なとき、何度となく考えたものだ。何があったのかは想像もできないが、どれが馬鹿げたことであれば、それだけで十分に思えた。地球標準時間で1世紀もの時間をかけて、僕はどこに行くというのだろう。どんな意味があるのか。
目をつぶると、彼女の顔がフラッシュした。無邪気な、享楽的な、明るい、信頼の柔らかい光をたたえた瞳が、重なり合って脳裏に蘇る。自分を罰したい。罰せずにはいられなかった。
そういえば、船長がこう言っていた。
「地球産の高級ワインが傷物になっちまった。誰かアウトレット価格で買わないか。うん? お前なら1000ディンで分けてやろう」
傷物になったとしても、オークションで転売すれば高く売れるだろう。とはいえ、系外輸入品を正規ルート以外で売却するとなると、グッドホープの幾つかの法を犯すことになるから、ほとぼりが冷めるまで待ってからのことだが。もしグッドホープに家族がいるなら、何往復か仕事をこなす間も大事に保管しておいてもらえば、将来プレミアがついたときにでも高く売れるだろう。
1000ディンも酒に浪費する。ステキじゃないか。
人気が乏しい船内のこと、誰にも出会うことなく船長室の前までやってきた。馬鹿げたこと、それだけが心を潤してくれる気がしていた。あのワインはまだ船長のところにあるだろうか。
遅まきながらインターフェースを使って船長の在室を確認しようとして、視野に透過率高めで表示されたエラー表示に気づいた。
「そうだ、今日は船内ネットの法定点検だった」
確か、グッドホープ時間で58時から60時までだったか。ということは、船長はGH1の港湾事務所に行っているはずだから、留守だ。立ち去ろうとしたそのとき、船長室のドアのパワーランプが消えているのに目が止まった。
「え――?」
ランプが点いていないという状況にはじめてでくわした。きちんとロックしてなかったのか? いや、エアー制御は別回路だから、情報ネットワークがメンテナンス中でも独立して動くんじゃなかったか? こんな欠陥を放置したら、万が一気密事故が起きたときには船長だけが失われる事態になりかねない。まあ、今まで一度として気密事故など起きたことはないが。
手をかけて押すと、船長室のドアは僅かな抵抗を示して開いた。
「開いた……」
船長室は、一言で表現すると――ゴミ屋敷だった。掃除業者を入れていないのか? 無重力のせいで、ドアが開いただけで静電気の束縛を抜けた埃が舞い上がり、何の書類か、紙片がゆらゆらと換気口に吸い寄せられてゆく。
「酷いな」
鼻がむずむずするような部屋だ。まあ、あの船長らしいといえばらしいのか。確か船長は地球のアジア地区出身のはずだ。彼が生まれた500年前の地球も人口過密に変わりはなかったのだろうし、雑然とした部屋に埋もれるようにして寛いでいる船長の姿は容易に想像できた。
背後でドアが閉まろうとして、戸惑ったように震えて止まった。
不審に思って床を確認すると、ドアと壁の隙間に黒い棒が挟まっていた。六角形の、ぺンを太くしたようなもの。
「ダミーキーだ……」
つまり、マイダスのエンジンキー。正確には、まだ謎の多い第1文明テクノロジーで作られたマイダスの航法系を、我々の制御システムで動かすのに必要な装置のキーだ。本来ならば、マイダスのようなVED搭載のExs船舶は、設定された人間の生体キーが必要なのだが、それを回避するための生体ダミーキーなのだ。
超大事なダミーキーがこんなところに無造作に……。銀行から下ろしてきた現金の束を、自転車のカゴに放り込むくらい無用心だ。
ぽーん。
インターナル・インターフェースが軽く注意を引いた。船内ネットが復帰したのだ。船長室のドアの作動ランプが点灯した。僕はとっさにドアをくぐると、その直後、背後で扉が閉まった。
「あ……」
僕の手の中には、マイダスのダミーキーが残っていた。
どうしよう。黒い棒を呆然と見下ろした。船長室にしかないはずのものを僕が持っていたら、どうなるのか。マズイ。
ダミーキーを船長室の前に放置して逃げようとして、遠くに女の声を聞いたように思った。心がざわついて、背筋が凍った。
「あの声は、まさか」
停泊モードにある船内は、隔壁もほとんど開いたままだ。遠くの声も反響して、船内を伝わる。
GH1係留港と接続しているエアロックに向かって走った。角を曲って、遠くに人影が動くのが見えた。
「すいませんー、だれかいますか」
心細さがにじんだ、確信を欠いた声の主は、アリルだった。
「アリル!」
彼女は勢いよく振り返った。ゼロG靴を履いていない彼女は、反動で浮き上がって壁にすがりついた。
「ハポナぁ……あああああ! あだじのアイズがぁぁぁ!!」
壁にできた2つの染みを目撃して、アリルは絶叫した。
残念なことに、アリルが両手に持っていたアイスクリームの片方は、彼女の胸と壁の間で潰れていた。