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恋人の星  作者: 逍蕾花実
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4話

 「ねえ、1ディンちょうだい。いいものかってくるから」


 アリルは気後れを全く感じさせずにサラリと言った。僕は何の疑問を挟むこともなく彼女にお金を渡した。何度も星々の間を往復するうちに、いかにコールドスリープ期間が不労所得扱いされて税率が高かろうが、相当額の給与が僕の銀行口座には蓄えられていた。上陸休暇のたびに何十ディン使おうが、大した問題ではなかった。


 「ここでまっててね」


 振り向きざまに叫んだアリルに、僕はあいまいにうなずいた。


 金を握り締めたアリルは、背中をみせて走り去る。第1層の低重力のせいで彼女の髪は空気を孕んでやけに膨らみ、走る後姿は膨張収縮するクラゲに似ているな、と思った。


 アリルに手を引かれて駆け込んだ街路は、既に劣後人の街区に接していた。地面から天井まで建物が伸びている建築様式は、もっと高重力の階層と同じ構造だが、一層あたりの高さはやけに寸詰まりで余裕なく見えた。


 きっとこういう建物の部屋は、天井が低く圧迫感たっぷりに違いない。建物と建物の間には縦横に紐が張られて、ラカーユの赤みがかった赤外線の多い光に洗濯物が照らされている。


 路上には、この低重力でなければベッドから出ることもできなそうな太った劣後人の男が営む露店、その周りには走り回る子供たち、少し大きな子供たちは手に小さな花や古本、果物や食べ物を売り歩いたりしている。


 しかし彼らは僕の周りだけは避けて通り、まるで害獣駆除用の忌避フィールドの中心に立っているかのような気分を味わった。どうやら、この界隈ではメザニンが歓待を受けることはないようだった。それどころか、劣後人の屈強な若者の投げかけてくる一瞥や、主婦たちが交わす視線からするに、僕はあからさまに警戒されていた。


 正直、農場や建設現場で働く劣後人の男性労働者に体力で勝つ自信はない。栄養状態が良い者は筋骨逞しく、考えなしに暴力をふるう野蛮な者も多い。まさかメザニンに無礼を働くような自殺行為に走るやつはいないとは思うが、居心地悪く建物の壁にもたれて、アリルの帰りを待った。


 そしてその間、不気味な一つの考えが、感情の暗い奥底からゴポリとあわ立ち、その緑の半球はなかなか割れずにやたらと存在感を放ち、僕の吟味を待っていた。


 そんなものについて考えたくはなかった。だが、交通事故の現場に残されたねじくれ歪んだ車や、布をかけられた負傷者を見逃したくない気持ちに似て、生と死の錯綜のごとくに強く惹きつけるものがなかったと言えば嘘になる。


 僕はあの娘の、アリルの無力につけこもうとしているのだろうか。おそらくは劣後人女性の結婚適齢期か、それをいくらか過ぎているだろう女性の弱みにつけこんで、巣穴にもぐりこもうとしているオオカミなのだろうか。そんな卑劣な。


 確かに劣後人は常に虐げられ、豊かさとテクノロジーの恩恵から排除され、教育もなく、知的に劣っているがゆえに御し易い。食料が十分手に入るならばせっせと子供をつくり、疑問を抱くこともなく退屈な子守を何時間でも続ける。専門職のメザニンという地位をひけらかし、圧倒的に弱い立場の女性を自分の生活水準に引き上げ、その恩義に生涯にわたってひれ伏すことを要求し、搾取したいのか。いや、馬鹿な。そんなことより、僕は航海士だぞ! 8光年先のロス780まで行って帰って来ただけで、グッドホープ時間で20年が経過しているだろう。仮に今のアリルの年齢が16歳だとしたら、そのころ彼女は死の間際だ。この僕が、標準座標系に住む誰かと結婚するなど論外だ。


 メザニンだった僕の父は、もう70年余り昔にこの世を去っていた。以来、この世に僕の親類と呼べる者は誰もいない。“ミナミ”というひどく珍しい名字を持つ人間も、おそらく僕が最後の一人だろう。航海士は親の死に目にも会えず、家族との縁は切れ、それところか慣れ親しんだ時代からも浮き上がって、永遠の根無し草になってしまう。


 第1文明末期の恒星間探検にまつわる、自律と孤独の果てしない日々を描いた書物なら、僕も選抜生時代に何冊となく読んだ。それでも、承知の上でこの厳しい職業についたのだ。


 ある者は高給のためにこの職を選ぶ。とはいえ、真空の広漠とした宇宙に引き寄せられた理由は、僕の場合は高給のためではなかった。もちろん航海士であることによる社会的に高い評価、優れてプロフェッショナルな業務、それらに魅力はあった。だが、深宇宙の闇とコールドスリープの死に近い眠りは、別の願いを暴かずにはおかない。


 僕は――欲したのだ。単に生殖と拡大だけが主目的の社会に背を背けて、一種の自殺者としての孤立した境遇が欲しかった。どうしていまさら、アリル、あの女の子の尻を追いかけ回すような真似をしたのだろう。不幸を撒き散らすだけだというのに。


 はっとしてアリルが走っていった方に視線を向けると、ちょうど彼女が両手に何かを持って、バランスを保ちながら建物の角を曲ったところだった。僕は弾かれたように立ち上がり、通行人にぶつかってよろめきつつ、素早く彼女から隠れた。


 建物の裏通りを抜け、インターナル・インターフェースのナビ機能が示してくれた手近なエスカレーターを駆け上り、20分後には慣れ親しんだ“マイダス”の個室に逃げ帰っていた。そして、数時間前にこの部屋をフラフラと彷徨い出たときには想像もできなかったみじめな気持ちで、ベッドに身を投げ出した。


 「ちくしょう、なんてことだ」


 彼女を置いてきてしまった。飲み物かアイスクリームかわからないが、二人分の注文品を空しく持たせたまま。こんな恥をかかせてしまうなんて……。


 「最低だ」


 うなだれて、空腹を抱えたまま、僕は頭を抱えてベッドに横たわっていた。



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