2話
黄色いドアを開くと、酔客のざわめきがボリュームを急に上げて耳をくすぐった。食器の触れる音、ぼそぼそと生活の苦悩か将来の夢かを語る声がごっちゃになって、結局は周波数がずれたラジオのように、意味のわからない雑音でしかない。
何か苦いものでも口に含んでいるかのような表情のバーテンダーの前を通り過ぎ、周囲を確認しながらラウンジの空きテーブルに腰をかけた。バーテンは、わざわざ酒から離れた席に座り、ウェイトレスの手を煩わせる男を見飽きているのか、新来の客に興味を示すこともなく、細い目でグラナイトのカウンターを見詰めている。
アリルは今日も出勤だろうか。昨日は夜にこの店を訪れたけど、彼女は昼から働いているのか。もしまだ出勤していないのならば、それまで待つまでさ、と覚悟を固めて店内を見渡した。
近くのテーブルには、ご同業らしき制服の男。その奥では旧式の外装データパッドを操る、ビジネススーツの男が落ちつかない様子で足を組み替えていた。いまトイレから出てきた女は、Iアミン誘導体ガムでも噛んでいるのか、顎を動かし、虚ろな目つきで股をぼりぼり掻いている。そして隣の席には2、3人の若者がだらしなく座っている。こうした雑多な客の全員がメザニンだった。もちろんそうだ。いくら劣後人とはいえ、メザニンの店に飲みに来るほど愚かな者はいないだろう。
果たしてウェイトレスはスロットマシンの影を回って、だしぬけにぼくの前にやってきた。「ありる」と書かれたネームプレートが、ハートのあしらわれたピン留めで、上着に固定されている。
アリルは舌足らずな喋り口でたずねた。
「だんなさん、スピリッツにする? それともビール?」
あの目だった。まっすぐな視線は、人を哀れむことはあっても、恨むことや卑屈になることまでは知らぬ、と語っていた。そして今日は、彼女について昨日よりも詳しく幾つかの特徴も捉えた。
けばけばしさよりは背伸びした子供を連想させる、黒のアイラインとローズ系のリップグロス。赤い虹彩がひと際大きく目立っていた。髪はピンクのグラデ。髪の表面に経時浸潤する色素胞が、こうした魅力的な髪色を作り出す。
ぼくたちの社会の構成員は、どの一人をとってサンプル調査したとしても、誰もがとても美しい。この星系の入植当初、300年前の時点でそのように遺伝子操作されているのだ。
「スピリッツ? ビール?」
笑みを浮かべ、劣後人にしては驚異的に挑発的な態度で繰り返すアリルに、慌てて注文を出す。アリルはビール1杯の注文をわざわざ紙片に書き付けると、大股の若々しい足の運びでカウンターに向かって歩み去った。そして、片手にグラスとお盆を載せて、ぼくの席に帰ってくる。
しかし、あともう少しというところで、アリルは背筋を反らして横向きに倒れた。グラスが大きな音を立てて砕け散り、お盆は意思でも備えているかのように上手く転がって、驚くほど遠くまで去っていった。
やった、というひそひそ声の方に視線を向けると、成人したばかりと思しき若者たちが目に留まった。彼らはニヤニヤと陰気なほくそ笑みを浮かべている。アリルの瞳に浮かんでいる澄んだ輝きとは対偶にある、駄犬の卑屈さとドブネズミの狡猾さを併せた眼つき。
その若者の一人が、さっとオモチャを隠すのを目撃した。ポケットに収まる小さなそれは、おそらく荷電レーザー。電荷を帯びた球鎖イオンを三つのガイドレーザーで固定し、光の動力で推進させ、離れた相手に音もなく電撃を食らわせるオモチャだ。
椅子を蹴ってアリルに駆け寄ると、彼女は電撃を食らった足をこむら返りでも起こしたかのように突っ張らせ、それでも起き上がろうともがいていた。
「大丈夫だ、すぐに動くようになる」
僕の落ち着いた声に、アリルは目を見開いて僕を見上げた。そして、安心したのか、フッともがくのを止めた。そして、童女のような歪みを知らぬ瞳で、僕の顔に点々と視線を走らせるのを感じた。
不思議なほどの勘の良さで、アリルは僕がひどいことをしたのではないと、知った様子だった。
僕はといえば、偽善を働いているという感じが強く襲ってきて、とても彼女の顔を直視などできなかった。
「何をしているんだ!」
支配人だとしか思えない男が大声で怒鳴り散らしながらこちらに近づいてくるのが見えた。
「何をしているを聞いてるんだ。お情けで置いてやってるのに、グラスを割るとはどういうつもりだ、ええ? この穀潰しが!! ほら、立たんかっ」
支配人は太い腕でアリルの襟首をつかもうとする。僕はそれをすんでのところで手で制した。
「ん、なんだあんたは。まさかあんた変なイタズラをしたんじゃないだろうな」
僕は静かに首を振った。そしてExs船舶1級航海士の徽章が見えやすいように体を向きを変えた。間違いなく、僕が知能垂直階級制社会の模範生であり、知的にも優れた成績をおさめた印として。
「ああ、航海士さんですかい。お手を汚さなくても結構ですよ、そいつは見てのとおり劣後人ですから。どこにでも湧いてくるケチな低脳ですからね。私らに任せてください」
僕はアリルのふわふわと豊かな髪が生えた頭に手を乗せたまま、支配人のおためごかしをきっぱりと断った。支配人は意外そうに眉を上げて僕の顔を見つめた。
「それより、この娘は荷電レーザーで撃たれたようだ。傷も残らない、卑劣な一撃を背中から浴びたんですよ。わかりますか」
ちらりと若者たちを見遣ると、彼らはきまり悪そうにみじろぎして次々とうつむいた。
「当たり所が悪ければ重大な結果になりかねない。救急車を呼びましょう」
僕が安心させるように頭を撫でると、アリルは子猫のように目を細めてじっとしていた。
「とんでもない。誰が救急車の支払いを持つんです?」と大げさに支配人が驚きをみせた。
声を張り気味にして、叱責の口調で僕は答えた。
「決まってるでしょう。このかわいそうなウェイトレスを撃った犯人ですよ。そこらへんは港湾警察が協力してくれますよ!」
この騒ぎに、店じゅうの視線が僕たちに集まっていた。アリルがぴくりとも動かないことに不安を抱いた誰かが、「あれ、死んでるんじゃねーか?」と疑問を呈した。アリルを撃った若者たちが、ほとんど同時に一斉に立ち上がり、こそこそと会計に向かう。
「警察ですか……」
支配人はあからさまに嫌そうな表情を浮かべる。
それを目にした僕は、誘い水を向けてみた。
「それとも、僕が病院に運んであげましょうか。救急車を呼んだりして、たかが劣後人の小娘のために警察の注意を引くこともないでしょうし」
「そ、そうですな。親切にもあなたがそうしてくれると仰るなら、私どもとしてはお止め立てする理由もありません」
それはごもっとも、と僕はうなづいた。
僕の腕の中で、アリルは自分の身に降りかかった事態には全く関心を示さずに、じっと僕の顔をみつめていた。