10話
僕の膝に頭をのせ、アリルは小さな寝息を立てていた。もう、日付が変わってグッドホープ時の3時過ぎだから無理もない。本来なら、もう寝ている時間だろう。
マイダスは、とうに低速用エンジンの加速を終え、主機関に推進を切り替えていた。
僕のインターフェースは、マイダスのVEDが問題なく高速の荷電粒子を噴射している事を示している。実際は、主星ラカーユから吹き寄せる恒星風の濃密な(とはいっても1立方メートルあたり数百万個の陽子や電子に過ぎないのだが)にぶちあたった荷電粒子が発する散乱光が見えているのであって、噴射された荷電粒子そのものは目には見えない。
華々しいVEDの噴射に目が奪われるが、実はExs船の心臓と呼びうるのはそれではない。ブリッジに設置された小箱――時空を満たす確率場を操作し、真空エネルギーのスカラー成分をベクトル化する確率エンジン。これこそが、真空からタダでエネルギーをくみ出すポンプである。
VED、つまり真空エネルギードライブとは、確率エンジンを中心とする主推進機関のことなのだ。大事なモノは目に見えないんだ、とは第1文明時代の格言だったか。まさにその通りだ。
グルームブリッジ1618は、グッドホープの黄道面から50度天頂方向に針路を取り、25光年ばかり行ったところにある星系だ。ストーカーは僕たちをそこに連れて行こうという。1Gの加速度ならば標準時間で28年、船内時間では6年半で到着する距離だ。
「くそ、どうすればいい」
僕は火照った額に手を当てて考えた。
ストーカーをなんとか説得したとして、アリルは無事で済むだろうか? 無理だ。いまさらグッドホープに引き返してマイダスを引き渡したところで、政府は僕たちを許しはしないだろう。超人間級AIと思考接触した者を野放しにするはずはない。超人間級AIは、知能垂直階級制社会最大のタブーなのだから。
かといって、ロスト・コロニーは僕たちを歓迎するか? アリルは珍獣扱いされて、空しく年老いることくらいは許されるかもしれない。しかし僕はメザニン、いちおうは知能カースト体制の“勝ち組”だ。知能カーストを厳しく非難するロスト・コロニーズが、僕たちのために歓迎パーティーの準備をしてくれるとは思えない。
「やだぁ、ハポナったらぁ……むにゃむにゃ……」
アリルはぷにぷにした頬を緩めて、幸せそうな寝言をもらした。
まったく、「ハネムーンだ!」とはしゃぐアリルがうらやましいくらいだ。これが禁断の果実の代償なんだ。常に“心配事”という宿業を背負った罪人、それがメザニンやプライアーだ。ああ、幸の源は、金でも知能でもないんだ。
ちょっとした好意に無邪気に舞い上がって、すっかり花嫁気分のアリル。この娘を不幸にしてはならない。僕は切ない気分を噛みしめ、無防備な寝顔にかかる髪をそっとよけた。
「僕が苦労と不幸を全て引き受けるよ」
そうつぶやいた直後、個室の壁に寄りかかるストーカーの姿を発見した。
「いきなり現われないでくれ」
このストーカーめ、という罵りだけは辛うじて心に秘めた。
「私は船内の全てをモニターしている。君たちは倉庫の乾燥食料や水タンクよりも格別に興味深い観察対象だから、片時も目を離すつもりはないよ」と堂々のストーカー宣言をするストーカー氏。
「いい加減にグッドホープのことは忘れなさい。本船の速度は、現在160km/s。1Gで加速している。航海士として何か忠告はないかね?」と彼は背中を丸めて僕に問いかけた。
「ないな。航路が黄道面とも大きくずれているし、ラカーユのダスト・ディスクとも干渉しない。ラッキーストライクの可能性は低いだろう」
「なるほど、私の航法システムと同じ見立てだな。ところで、船内環境を標準に戻しておいた。もうこの個室を出ても大丈夫だ」
それはありがたい。ふと、胸騒ぎのする予感を得て、ストーカーに確認した。
「ブリッジで運行状況を確認したいのだが」
ストーカーはかぶりを振った。
「好きにしてくれ。だが警告しておくぞ。操舵装置は手動には切り替えられない。妙な気は起こさないことだ」
ブリッジか、そうか。僕があいまいにうなづくと、ストーカーの映像は消えた。無論、まだモニターはしているのだろうが。
「ゆっくりお休み」
アリルをそっとベッドに横たえると、引き出しからトリプト-セレクト代謝剤を一掴みして口に放り込み、頭をはっきりさせた。選抜生時代にはよくお世話になったものだ。それに、マイダスの同僚たちと、負けられない賭けに手を出すときにも。
しかし――僕は究極の必勝法を一つ隠し持っていた。むかし、同僚の一人が教えてくれたやり方だ。
もちろん危険極まりない。Iアミンやトリプト-セレクトのような薬物がビタミン剤に思えるほどの、究極の裏技だ。だが、裏技ってものは大抵、危険を帯びているものじゃないか?
僕は大きく深呼吸してアリルと共有した空気を胸一杯に吸い込むと、冷たく真新しいエアーに満たされた通路に出て行った。