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恋人の星  作者: 逍蕾花実
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1話

 大気の中に含まれる塩素やネオンといった不活性ガスのせいで、惑星グッドホープはかすかに緑がかった灰色をしていた。地表は薄い塩酸に洗われ、流れ出した金属成分を反映して、海はひどく淀んだ病的な色を呈している。


 インターナル・インターフェースの視界投影機能を切り、ぼくはぎしぎしと鳴る籐製のチェア上で両腕を突っ張って伸びをした。そんな陰鬱な惑星など眺めていても、何の意味もなかった。ぼくたちの母星、偉大なる“政府”の支配力の根源。


 政府が讃える、「栄えある緑のゆりかご、ラカーユのエメラルド」。


 ばかばかしい、どこが宝石だ。ぼくは無重力のおかげで、すばらしく軽い体を起こした。こんなしょぼくれた星系の2級惑星がエメラルドなら、イプシロン・インディのアンドアは黄金の塊だ。何のサポートもなしで呼吸できる空気、安定した太陽、放射線レベルの低さ。グッドホープとは大違いだ。


 金属がむき出しの冷たい床に足を投げ出すと、足の裏がチリチリとこそばゆかった。無言で壁に後頭部を預け、船殻を通じて忍び寄る宇宙の冷気を取り込もうと試みた。


 ああ、だめだ、集中できない。額を叩いても、彼女の姿は朧になるどころか、はっきりと、細部までスーパーフォーカスされてゆくばかりだ。くそ、どうして忘れられないんだ。


 知らぬ間に、僕はのどぼとけの下の小さな膨らみをなでていた。何か心配事や不安があると、ついついこれを撫でてしまう。そうすることで、自分がエクストラ船も操れる1級航海士で、新進気鋭のメザニンであることを再認識して、強固な壁にもたれかかるような安心感を得ていた。


 この膨らみは、航海士の誰もが持っているデバイスなのだ。


 僕はほとんど意識することもなく個室を出て、ふらふらと自分が働くエクストラ・システム船“マイダス”の通路を渡っていった。途中、背中を丸めて床を掃除する女――もちろん劣後人――が通路を塞いでいるのに気づいた。一心に床をはいつくばる女の表情は、うつむいているために確認できない。


 でも、どんな表情が浮かんでいるかは大体予想できた。あの人たちは、プライアーやメザニンの監督者を神か悪魔のように怖れ敬っている。彼女もきっと、強張った必死な顔つきをしていることだろう。それは、劣後人が監督者に心服しているからではない。監督者の気分次第で下される厳しいペナルティはともかく、せめて自分のミスから生じるペナルティだけでも、自分から遠ざけようと懸命になっているのだ。


 僕はその通路を通るのをやめて、迂回路をたどることにした。掃除女が僕が通ろうとしているのに気づいて、卑屈に、小さくなって避けるのを見たくはないからだ。子供時代に誰もが経験する劣後人のごった煮、そこから這い上がったメザニンは、劣後人に対してプライアーがする以上に劣後人を馬鹿にするのが常だからだ。同僚の中にも、彼らに酷く辛く当たる者がいた。そして、劣後人に陰湿ないじめを働く者ほど、逆にプライアーに対しては徹底して低姿勢なのも、よくある事だった。


 ぼくははっとして歩みを止めた。無意識のうちに自分がエアロックに向かっていることに、今やっと気づいたからだ。マイダスが惑星グッドホープの静止軌道に置かれたGH1係留港に到着してからまだ10日余り。次の航海までは50日余りもあるだろう。それまでは航海士は貯まった有給休暇を消化するのに忙しい。ぼくがGH1に出入りしたところで、誰に咎め立てされることもない。しかし。


 ああ、やめだ。


 手のひらを上に向けて降参のポーズをとった。自分の心に嘘をつくのが厭わしくなったからだ。つまりぼくは行きたかった。昨日くぐったあの扉の中に。入口の上でまたたくネオン風ディスプレイには、何と書かれていたっけ?


 思い出した。“BAR セキショ”だ。奇妙なネーミングだが、ぼくに説明は不要だ。人類第1文明時代のある国――ぼくの名前“ハポン”の由来になった国の言葉で“通行税徴収施設”という意味だ。皮肉が利いたネーミングの勝利だな、とぼくは感心してそのネオンサインを見上げたものだ。


 ぼくの名前はハポンだ。ぼくの祖先には、第1文明と共に滅亡したハポンという国だか民族だかの血が流れているそうだ。眉唾ものの伝説だとは思うけど。子供の頃は、何千年も前に滅びたハポンの様子を想像したものだ。髪は何色だったのだろう、瞳の色はほとんどのグッドホープ人と同じように、赤だったのだろうか、と。


 もちろん、メザニンへの昇格に至る厳しい学習の過程で、ぼくらの視覚系がグッドホープに降り注ぐ恒星ラカーユの光を最大限利用できるように改造されたものだということは学んでいた。


 セキショはGH1のハブに近い第3層の商業区域でひっそりと営業していた。もともとゆるやかなグッドホープ標準重力の、さらに半分程度の人工重力しかない第3層は、言うまでもないことだが重力使用料や空間使用料が安い。そしてその界隈は、定額料金の空気までが、どういうわけか下の階層よりも味が悪かった。熱した金属のにおいが鼻につくのだ。


 ぼくはリムウェイを渡り、跳ねるような低重力歩きでセキショの前に立ち、黄色の扉をみつめた。ペンキが剥げかけた木製の扉は、下地が緑色に塗られていたことを示している。カクテルラウンジで隣のスツールに座った男が説明するには、以前は確かに緑色のドアだったらしい。


 男は言った。「緑色には吐き気がすらあ。そんな色は俺らがケツの下に敷いてるしみったれた惑星だけで十分だ。誰が緑色のドアの酒場になんか来るかよ」


 ごもっとも。


 その男に注文を取りに来たのが、アリルだった。まっすぐで澄んだ目をしたウェイトレス。ただ、口元だけがこの世の全てを馬鹿にしたように笑みを浮かべていた。


 男が彼女に気づいてないわけがなかった。それでも、彼女のことを無視していた。このとき、僕は男の優越的な態度に奇妙なほどの怒りを覚えた。すぐに理性が怒りを押し留めたが、一瞬の怒りはきっと僕の顔にも現われていたのだろう。男は怪訝そうに僕のことを見詰めていた。


 無論、この男の方が正しいのだ。忘れっぽい彼らに、上位階級の者がたびたび立場をわきまえさせることは、社会的な美徳とさえ人々は考えていたからだ。いまウェイトレスに気づいたと言わんばかりに、男はウェイトレスの方に視線を向けもせずに注文を出した。その傲岸な態度は、彼女が路傍の石か、それ以下の価値しかないと悟らせるためなのか。彼女のような劣後人の単純労働者に敗北感を与え、萎縮させることが、今や正義なのだ。


 何年もかかる定期航宙から帰還する度に、グッドホープ社会の変質が目につくようになっていた。男は変り者には見えなかった。ならば、変わったのは社会の常識の方なのだろう。星の間を往復するうちに、自分の国にいながらにして異邦人になりつつあるのだ。


 僕は思わず息をひそめ、ウェイトレスの様子をうかがった。彼女の様子に、どこかひっかかるものを感じたからだ。他の劣後人とは異なる、何かそこはかとない特徴があった。


 わかった。それは、人の善意を信じ切ったような目のキラキラした輝きと、口元のギャップだった。男に無視され、踏みにじられるほどに、彼女の歪んだ笑みは大きくなっていた。劣後人を無視して目を合わせようともしないメザニンたちに、そのギャップが発見できるはずもなかった。仮に笑みを目にしたとしても、上位階級はそれを低脳の薄ら笑いとしかとらないに違いない。


 彼女は去り際に僕を一瞥すると、無駄のない動作で離れていった。その一瞬の接触で、僕は悟った。ひと目見ただけで、早くも抜き差しならぬほどに、彼女に魅入られてしまったことを。

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