第四話 空を裂く牙
船旅は、思っていたよりも静かなものだった。
甲板に出れば、どこまでも広がる青い空と、緩やかに流れる雲。時折、遠くに小さな影のような星が見えることもあったが、それだけだった。
朔は、手すりに肘をつき、ぼんやりとその景色を眺めていた。
隣には、クリスティーナ。
特に会話があるわけでもない。それでも、隣に誰かがいるという事実だけが、なぜか妙に落ち着いた。
――そのときだった。
「敵性反応! 右舷、上空!」
見張り台から、鋭い声が響いた。
甲板の空気が、一瞬で張り詰める。
乗客たちが、悲鳴とともに船室へと駆け込んでいく。クリスティーナが、朔の腕を引いて手すりから離れさせた。
「離れてて。あんたは、戦力にならない」
素っ気ない一言。それでも、その手は、朔を庇うように動いていた。
空を見上げる。
雲を割るようにして、いくつもの影が近づいてきていた。
狼のような輪郭。だが、その背には、コウモリを思わせる大きな翼が生えている。
――颶狼。
誰かが、そう叫ぶ声が聞こえた。
群れをなして空を駆ける、獰猛な魔獣の名だった。
甲板の各所に、屈強な男女が展開していく。
この船に雇われた、護衛の冒険者たちだった。
先頭に立つ大柄な男が、両手を甲板の床に突き立てる。
「――大地の神よ、その身を鎧に」
低い詠唱に続け、男は短く技名を叫んだ。
「――『アースアーマー』!」
声と同時に、男の周囲の甲板が盛り上がり、岩の鎧が全身を覆っていく。
「来るぞ!」
その声を合図に、颶狼の群れが急降下した。
鋭い爪と牙が、甲板めがけて振り下ろされる。
だが、岩の鎧を纏った男は、それを正面から受け止めた。
「――軽いな」
不敵に笑い、大槌を振るう。一撃で、颶狼の一体が甲板に叩き落とされた。
もう一人、細身の女が、手にした短剣を構える。
「疾風の女神よ、この刃に速さを――『ゲイルラップ』」
声とともに、彼女の全身を、淡い風の粒子が包み込んだ。
次の瞬間、女の姿が掻き消える。
――否、消えたわけではない。ただ、目で追えないほどの速さで、颶狼の群れの間を駆け抜けていた。
風を纏った短剣が、翼を、喉を、次々と斬り裂いていく。
悲鳴じみた咆哮とともに、颶狼が一体、また一体と、空から墜ちていった。
だが、颶狼の群れは、まだ半数以上残っていた。
しかも、その群れの奥から、一際大きな個体が姿を現す。
他の颶狼よりも一回り大きく、赤い瞳を爛々と輝かせていた。
群れの、頭目格らしい。
大槌の男が舌打ちする。
「あれは、俺たちの手に余るぞ……!」
悲鳴が上がる。頭目格の颶狼が、船首に向かって直進していた。
その進路の先には――逃げ遅れた、一人の子供の姿があった。
誰もが、間に合わないと悟った、その瞬間。
「――雷の神よ、その怒りを、我が矛先に」
新たな声が響く。
船の後方から、一人の青年が駆けてきていた。
その手には、青白い雷を纏った槍。
青年は、颶狼の頭目格へと、迷いなく槍を投じた。
「――『サンダースピア』!」
雷を纏った穂先が、空気を切り裂きながら一直線に飛ぶ。
直撃。
閃光とともに、頭目格の颶狼が、大きく体を仰け反らせた。
悲鳴のような咆哮。
それを合図にしたように、残りの颶狼たちが、一斉に反転し、雲の彼方へと逃げ去っていった。
甲板に、静寂が戻る。
「――終わったか」
誰かが、そう呟いた。
乗客たちの間から、安堵のどよめきが広がっていく。
朔は、その一部始終を、ただ黙って見ていた。
言葉には、まだできない。
それでも、目の前で繰り広げられた光景は、何かを――強く、朔の中に焼きつけていた。
力とは、こういうものなのか。
自分には、何もない。
その事実が、初めて、はっきりとした輪郭を持って、朔の中に浮かび上がった。
「――どうだった?」
クリスティーナが、隣でそう尋ねる。
朔は、しばらく答えられなかった。
やがて、ぽつりと、こぼすように呟く。
「……すごい」
初めて口にした、感想らしい感想だった。
クリスティーナは、その言葉に、一瞬だけ目を見開いた。
それから、どこか嬉しそうに、目を細めた。
「――そう」
短い返事。
だが、その声には、隠しきれない何かが滲んでいた。
朔は、それに気づかないまま、遠ざかっていく颶狼の群れを、いつまでも見つめていた。




