第二話 最初の夜
港街は、朔が思っていた以上に賑やかだった。
石畳の広場には露店が並び、聞き慣れない言葉で商人たちが声を張り上げている。
行き交う人々の視線が、時折こちらへ向く。
朔の格好のせいだろう。継ぎ接ぎだらけの粗末な布。手首にはまだ、枷の痕が残っていた。
誰の目にも、事情は明らかだった。
クリスティーナは、そんな視線を気にする様子もなく、迷いのない足取りで通りを進んでいく。
やがて、一軒の店の前で足を止めた。
衣類を扱う店らしい。棚には、旅人向けの丈夫な服がいくつも並んでいる。
クリスティーナは店主に何かを告げると、朔の腕を引いて奥へと促した。
言葉はわからない。だが、着替えろということらしい、というのは、身振りだけで十分に伝わってきた。
差し出された服に、袖を通す。
サイズは、悪くなかった。
鏡に映る自分の姿を、朔はぼんやりと眺めた。
誰なのか、わからない顔。
それでも、さっきまでの襤褸よりは、いくらかマシに見えた。
店を出ると、日はすでに傾き始めていた。
海沿いの通りを進み、クリスティーナは一軒の宿の前で立ち止まる。
カウンターの向こうの主人と、短いやり取り。硬貨を数枚渡すと、鍵をひとつ受け取った。
案内された部屋は、狭いが清潔だった。窓の外には、夕焼けに染まる港が見える。
クリスティーナは、朔を椅子に座らせると、自分は寝台の端に腰を下ろした。
「――さて」
独り言のように、そう呟く。
朔の顔を、じっと見つめた。
「言葉、教えてあげる」
意味はわからない。だが、彼女が何かを始めようとしていることだけは、伝わってきた。
クリスティーナは、机の上のコップを指差す。
「――水」
ゆっくりと、繰り返す。
「水」
朔は、しばらくその音を聞いていた。
繰り返す意味も、目的もわからない。
それでも、なぜか、その音を真似てみようという気になった。
「……みず」
たどたどしい発音。
クリスティーナの目が、わずかに見開かれた。
それから、ゆっくりと、口の端が上がっていく。
「――上手」
褒められている、というのは、声の調子でなんとなくわかった。
それの何が嬉しいのか、朔にはわからない。
わからないはずなのに。
胸の奥で、何かが、ほんの少しだけ、揺れた気がした。
その夜も、レッスンは続いた。
コップ。窓。寝台。灯り。
一つ一つ、クリスティーナが指差し、朔がたどたどしく繰り返す。
繰り返すうちに、朔の瞼は、次第に重くなっていった。
気づけば、椅子に座ったまま、浅い眠りに落ちていた。
「……ふふ」
小さな笑い声。
クリスティーナは、眠る朔の顔を、しばらくの間、黙って見つめていた。
その視線は、昼間の素っ気なさとは、まるで違う色をしていた。
――もう、離さない。
誰に聞かせるでもない言葉が、静かな部屋に溶けていく。
窓の外では、見知らぬ星の夜が、静かに更けていった。




