その王子様が乗る馬は
安アパートのチャイムが鳴って、俺はアルミでできた薄い玄関のドアを開けた。
六畳一間のワンルームでは、部屋から玄関までの道程は約二歩。
だから、鳴って、開けたの表現は正しい。
このところうまく寝られていなかった俺は、よく考えもせずに開けてしまったことを後悔した。
「おいおい、トーゴ。不用心だなァ、確認もせず開けんなよ」
なぜなら、玄関の枠からはみ出すほどのウサギの着ぐるみが、くぐもった声で俺の名を呼んだから。
トーゴ。
藤吾の名前をそんな風に延ばして呼ぶやつは一人しかいない。
「隆史なのか? なんだ、その格好」
ウサギは返事もせずにひょいと玄関をくぐると、ドカドカと土足……ウサギ足のままで部屋に上がり込んだ。
「暑っっつ。なんだよここ。エアコンつけろよ。死ぬわァ」
ウサギが壁に据え付けられたスタンドからひったくるようにリモコンを毟り取る。雑な造りの肉球がガチャガチャやっても、風はそよりとも動かない。
「エアコン壊れてんだよ。金ねえし」
ちりりん。
ひとつしか無い窓を全開にすると、八月の生温い夜風が六畳間を抜けて、以前隆史に土産でもらった風鈴が揺れた。
風にあおられ、胡瓜で作った馬が倒れる。
「カネ無くても直せよ。暑っつ。死ぬわァ」
「死ぬったってさあ、隆史」
──おまえはもう、死んだじゃないか。
風に倒れて寝転んだ精霊馬の前で、写真の隆史がとぼけたように笑った。
「何しに来たの、隆史」
「そりゃまァ、盆だからな」
ベランダもない窓のサッシから、涼を求めるようにウサギは身を乗り出した。
「霊って、そんなに早く帰ってくるもんなの。まだ四十九日も済んでないのに」
「いいだろ、別に」
ぢりりっ。
振り向いたウサギの耳が風鈴を引っ掛けて、夜闇にギザギザした音が響いた。
「あ、わり」
軽い調子で謝りながら、ウサギは勝手知ったる冷蔵庫を開けてピンクのマズルを突っ込んだ。
「隆史、あの風鈴……」
「ひゃー涼しっ。あ、なんだって?」
「……いや」
「つーか、酒しかないじゃん。ちゃんと飯食ってんのかよ。食いもん買えよ。そんで俺にもお供えしろ」
言いたいだけ言って、隆史はぐっと腰を伸ばすと玄関に向かう。
「え、なに。もう帰んの」
思わず縋るような声が出た。
「んー。親父のとこにも行ってくっから」
ウサギはウレタンの詰まった手で、俺の汗じみた髪をぐしゃぐしゃにすると、さっと玄関をくぐってしまった。
「また来っから、エアコン直しとけ。お供えも忘れんなよ」
軽薄に手を振りながら去っていくウサギを見送りながら、俺はにやける口元を抑えることができなかった。
「お。藤吾じゃん。久しぶり」
長らく休んでいたバイトに顔を出すと、友人の長田が眉を上げた。
「ん。エアコン壊れちまってさあ。金が要るんだよ」
言うと、長田はかぶっていたキャップを親指で上げて目を剥いた。
「マジかよ、この猛暑に。かわいそ」
「まあな。でもさあ、いうてもここのバイトよりはマシじゃね?」
噂をすれば、薄汚れたミニバンが左折してくるのが見える。
長田が空調の効いた事務室を飛び出して、オーライとひょろ長い手を振る。
あの汚れっぷりなら、給油に加えて洗車コースだろう。
ガソスタのバイトは八割が屋外だ。
俺も次の車が来るまで、束の間の冷気を楽しんだ。
「しゃーしたー!」
長田と口を揃えて声を張り上げると、今日の仕事は終わった。
デカい声を出すのも陽気な笑顔を作るのも、えらく久しぶりの気がする。あらぬ所の筋肉がこわばっているようで、ぐにぐにと口角を揉みほぐす。
と、ぐううと高らかに腹が鳴った。
「飯、寄ってく?」
長田がかがむようにして俺の顔を覗いたが、俺は断った。
「や、いいや。金ねえし」
隆史も帰ってくるかもしれないし。
「ふうん」
そんな俺をちろりと見てから、長田はピカピカのニンジャ400に跨った。
長田は機械好きが高じてガソスタでバイトしている変態で、バイク好きの隆史とも馬が合った。俺と同じ大学で工学部に通っている。
「じゃ、またな」
あっさり去っていくテールランプを見送って、俺は駅前のスーパーへ向かった。
「お供えって何買えばいいんかな。干菓子?」
花のかたちの和三盆と、あとは隆史の好きなスナック類などを適当に籠に放り込む。
千円札を三枚ほど使って、大きくなった袋を抱えて家路を走った。
スチールの外階段をガンガン鳴らして駆け上がったが、築四十六年のワンルームは闇に閉ざされていた。
隆史が来る前に少しでも風を入れよう、と建付けの悪い窓を勢いよく開けると、風鈴が鳴って精霊馬が倒れる。
──ピンポーン。
タイミングよく鳴ったチャイムに一瞬、びくりと肩を震わせると、俺はまたすぐにドアを開けた。
「隆史!」
見上げるようなピンクのウサギにおかえり、と笑いかけると、顔も見えないのに閉口した様子で「ちゃんと確認しろって言っただろ」とくぐもった声で叱られた。
くぐるように玄関を越えて、ウサギはお供えの袋に目を付けた。
「なんだこりゃ。菓子ばっかじゃねえか。肉よこせ。肉」
文句を垂れながら袋の中身を並べていく。
「仏さんって肉ダメなんじゃねえの?」
「さあ。関係ねーし」
写真の周りにお供え物を並べ終わると、ウサギはごろりと寝転がった。
「あれ、食べるんじゃないの」
ポテトチップスの袋を差し出すと、ウサギは手を振って退けた。
「ウサギの姿じゃ食えねえからな。供え終わったら、お前が食え」
ちりりり、りり。
「──隆史。あの、風鈴さあ」
「ん? ああ、いい音だな」
「────うん」
遺影とウサギと俺とを包む沈黙を、風鈴の音が優しく揺らした。
「いやマジ、暑っついわァ。風鈴で涼しくなるなんて嘘じゃんな」
寝転がっていたウサギが起き上がりしなにそうボヤいた。
「着ぐるみなんか着てるからだよ。脱げばいいのに」
ピンクの被り物に手を伸ばすと、ウサギはさっと身を逸らした。
「え、隆史?」
二の句が継げずに戸惑っていると、ため息とともにウサギが吐き出した。
「……オルペウスとエウリュディケーの話。知ってっか、文学部?」
ギリシア神話の恋物語だ。愛する妻を亡くしたオルフェウスは、死んだ妻を取り戻すために冥界に乗り込んでいくが。
「……死んだ奥さんの姿を見たら……。現世には連れて、かえれない」
「よくできました」
肉球がぽんと俺の頭を叩いて、ウサギは立ち上がった。
「また来るわ。エアコン、直しとけよ」
玄関をくぐったエウリュディケーの背中が見えなくなっても、俺はひとりで風鈴の音を聴いていた。
「あ、藤吾。ちょうどよかった」
バイト先の控室でお供え下がりのおにぎりをかじっていると、出勤してきた長田が言った。
「江藤教授が連絡取りたがってたぞ。夏休み中にレポート出せたら単位やるからって」
同居していた隆史が事故に遭ってから、大学には行けないまま夏休みに入ってしまっている。
「マジで。でも、試験いっこも受けてないから、どうせ留年だろ」
「ほかの先生も、頼めば配慮してくれそうだったぞ。おまえら夫婦みたいなもんだったしな」
「違えし」
面と向かって隆史の不在に触れられたのは、これがはじめてだ。吐き捨てた言葉の裏で身体がぎゅっと強張った。
「……ま、顔だけでも出してみたら」
置き配みたいにそう言ってから、長田はさっと話題を変えた。
「そういや、エアコン直ったのかよ」
「や、修理はもう無理だって。新しいの買いに行ったらさ、工事代が別にかかるって言うから」
財布にはギリギリの予算しかなかったので、一時撤退を余儀なくされたのだ。
「付けてやろうか。俺、電工二種取ったぜ」
変態の申し出に一瞬迷ったが、暑い暑いとさえずるウサギが脳裏に浮かんで、早いほうがいいと思い直した。
「頼めるか。……なるべく、明るいうちがいいんだけど」
「だな。室外機と配管、見えなくなるしな」
長田もそう言って頷いた。
本体が届いたら連絡する、と約束したあと、俺たちは接客用の笑顔を張り付けて炎天下の中に踏み出した。
「おじゃましまーす。あ、これ、土産」
400ccの排気音。錆びた階段を上る足音。それからやっとチャイムが鳴って、間延びした声と長田が現れた。
背の高い長田はくぐるように玄関をまたぐと、靴を脱ぎながらコンビニ袋に入ったアイスを掲げる。
袋の中には棒に刺さった氷菓がふたつと、カップに入ったアイスがひとつ。
俺たちは早速袋を破って口に咥えると、胡瓜の横にカップを置いた。
持参したデカい工具箱を開けながら垂れ流す長田の蘊蓄を聞き流して、俺はサッシ窓の縁に腰かけた。
風鈴は優しくちりんと鳴って、喉を通る氷菓は冷たい。
相変わらずむせ返るような熱気だが、階下から立ちのぼる湿った土の匂いは夏の終わりを予感させる。
「あ、配管、そこから?」
長い手が俺の頭上でカーテンレールを掴むと、身を乗り出して壁から生えたホースを検分しだした。
窓の桟に尻を乗せた俺の視界には、長田の腹しか入らない。止まらない蘊蓄を聞くともなしに受け流しながら、俺はぼんやり水色の氷をしゃぶっていた。
「あっ」
カチンという小さな音と、長田の慌てた声がして、俺は夢うつつになっていたことに気づいた。
「悪ぃ。窓ガラスにぶつかった」
長田が風鈴の紐を外してそっと確かめると、薄紫のすずらんの花弁に、薄っすらひびが入っている。
「危ないから、外しておいてくれ」
広げた俺の両手のうえに風鈴を乗せると、長田はおもねるように俺の目を覗き込んだ。
「……大事なものだったか?」
「──いや」
それだけ言うと、俺はカップアイスの蓋に鈴蘭を置いた。
長田の腕は確かなもので、六畳間はほどなくひんやりとした冷気で満ちた。
お礼に飯でもと声をかけたが、家庭教師のバイトがあるとか言って西日が朱に染まる前に帰っていった。
そのままいつのまにか、涼しくなった室内でうとうとしていたらしい。気づけば外は真っ暗で、玄関のチャイムが鳴っていた。
眠い目を擦り玄関を開けると、ウサギが静かに立っている。
「お、やっとエアコン買ったのかよ。御苦労御苦労」
横柄に茶化しながら上がり込んだウサギは、写真の横に目を留めた。
「馬っ鹿、おまえアイスなんか供えてんの。俺が来る前に溶けてんじゃん」
くぐもった声で長田の土産にケチをつけながら、ウサギはどかりと座り込んだ。
「なあ。──おまえ、なんなの」
「トーゴ。どしたァ、急に」
建付けの悪いウサギの耳が、とぼけるようにゆらりと揺れる。
「隆史だったら、あれ見て何も言わないわけないだろ。最後の土産だったのに」
丸い蓋の上の鈴蘭を無視して、ウサギはアイスの話をした。夏の入り口で隆史は俺の手を離れ、瑞々しかった胡瓜は萎れた。送り盆会ももう過ぎた。
気付かされたくなかったのに、夏の夢から醒めてしまった。
「行くのも帰りも一緒なら、土産はもう要らないなって、ここに住むとき隆史が言ったんじゃん。なあ。おまえ——。誰なの」
俺はピンクの耳を掴んで、道化けた仮面を剥ぎ取った。
「────長田」
ウサギの下には、ひょろ長い男の強張った貌があった。
長田は一度目を逸らしたが、また真っすぐに俺を見返してきた。
「悪かった」
「──なんで、こんなことしたんだよ」
「こうでもしなきゃ、おまえ、干からびて死んでただろ」
「大きなお世話だよ。俺はそれでもよかったのに」
最初にウサギが訪ねてきた時、胡瓜の馬が風で倒れた。それで、隆史が迎えに来てくれたのかと、一瞬思ってしまったのだ。
なのにウサギの着ぐるみにハメられて、飯を食って、働いて、エアコンまで買った。
そうこうするうちに胡瓜は萎れ、茄子の牛車も帰ってしまった。
錆び付いていた俺の身体はもう、ゆっくりと動き始めてしまっていて、今さら嘘だとわかったところで回りだした車輪を止めるのはもう難しい。
「馬鹿野郎、長田。余計なことしやがって」
「うん」
「隆史だったら良かった」
「うん」
「風鈴、大事にしてたのに」
「ごめん」
耳を掴んでウサギの頭をぶら下げたまま長田を罵っていると、喉の奥から黒い塊がせり上がってきた。
涙も鼻水も涎も嗚咽も、全部垂れ流して駄々っ子みたいに泣く俺を、長田は枯れるまで黙って見上げていた。
「俺、胡瓜の馬には乗れないけど、バイクの後ろなら乗せてやれっからさ」
泣きつかれて丸く転がった俺の上から、長田はそっと、置き配みたいな言葉を落とした。
「墓参り、行こうぜ。そんで帰りに土産を買って、旨いもん食おう」
首から下はウサギのままで、汗みずくのオルフェウスは力まかせに俺を現世に引き戻す。
真新しいエアコンが、ため息のように長田の少し長い髪を揺らす。
人工的な秋の風が六畳一間を通り抜けて、俺はもう、夏が終わるのだと知った。
お読みいただきありがとうございました。
本作はなろう公式企画【夏ホラー2026】参加作品です。
ホラー?
全然怖くないじゃないか! って思った方はごめんなさい。
活動報告に挿絵など置いてありますので、よろしければお立ち寄りください。




