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黄色い付箋の向こう側

作者: あきらっぱ
掲載日:2026/02/11

顔も名前も知らないのに、彼が今日、右手の指先を少し傷つけたことだけは知っている。


その事実だけで、胸の奥がかすかにざわめく。

大学図書館の地下書庫。古い紙の匂いが静けさと一緒に沈殿しているこの場所で、私は蔵書の保存状態を記録するアルバイトをしている。

昔から「人の字に性格が出る」と思っているせいか、点検作業の中でも、前任者の書いたチェックマークを見るのが密かな楽しみだった。

その字が、最近は特に気になる。

私の担当は、前日に「一次点検」を終えた本のダブルチェックだ。


「……あ、やっぱり」

『比較文化論・第4巻』の背表紙を手に取った瞬間、指先にわずかなざらつきを感じた。表紙の角に、赤黒い点のような汚れ。そして点検用付箋のチェックマークが、いつもより明らかに震えている。

私は付箋の裏に、小さく書き込んだ。

「今日の字、少しガタガタしていますね。右手、怪我でもしましたか?」

書き終えてから、隣の棚に並ぶ、彼がさっきまで触れていたはずの本たちを眺める。

私たちは決して顔を合わせない。彼は午前、私は午後。同じ作業台を使い、同じ鉛筆を握り、同じ本のページをめくる。

けれどその“すれ違い”が、なぜか最近は少しだけ切なく感じる。

私は自分の指先を、彼が残した小さな血の跡にそっと重ねた。直接触れたわけではないのに、冷たい表紙越しに、見知らぬ彼の痛みが伝わってくる気がした。

その感覚が、思った以上に胸を締めつける。

点検セットのポーチから予備の絆創膏を一枚取り出し、「二次点検済み」の付箋と一緒に、次に彼が必ず開く『第5巻』の最初のページへ忍ばせる。

明日の朝、彼がこの本を開いたとき。まだ少し痛む指先が、私の小さな「手当て」に触れる。

その瞬間を想像するだけで、頬がほんのり熱くなった。


翌日。

地下書庫に入ると、『第5巻』はすでに棚に戻っていた。胸が少しだけ高鳴る。

ページをめくると、絆創膏は消えていて、代わりに点検済み付箋の備考欄に、驚くほど小さな文字があった。

「おかげで、痛くなくなりました。お礼に、この本の82ページを見てください」

指定されたページを開くと、乾燥したミモザの押し花が一輪だけ挟まっていた。

きっと、古い本の間から見つけたものを、そっとしおり代わりにしてくれたのだろう。

そのページの一節には、薄く鉛筆で線が引かれている。

『——黄色は、遠くからでも見つけやすい色だ。』

暗い書庫の中で、点検用の黄色い付箋を頼りに私を探している——そんな彼からの返事のように思えた。

胸の奥が、静かに、でも確かに温かくなる。


その日から、二人の「点検」は少しずつ脱線し始める。

実際にはシミなんてないのに、

「112ページに星型のシミ(に見える汚れ)あり。可愛いです」

と書き残したり。

乱丁の報告の代わりに、

「私の心の1ページが、あなたのせいで見当たりません」

なんて、少し気取ったジョークを付箋の隅に忍ばせたり。

気づけば私は、彼の付箋を探すためにページをめくっていた。

点検作業よりも、彼の文字の方が気になってしまう。

その事実に気づいた瞬間、胸がふわりと熱を帯びた。


ある日、書庫の電灯がチカチカと寿命を迎え、今にも消えそうになった。

薄暗さが急に怖くなり、私は点検途中の本を棚に戻して、早足で書庫を出た。

翌日。

昨日の本が、彼の点検を終えて作業台に置かれていた。

付箋にはこう書かれている。

「昨日は怖かったですね。電球、さっき職員さんに言って替えてもらいました。もう大丈夫です。——左手、出してください」

指示通りに本を開き、そこに手を置く。

すると、ページには「彼の手の形」が鉛筆で薄く縁取られていた。

私は自分の左手を、その跡に重ねる。

紙の冷たさの向こうに、昨日そこにいた彼の体温を想像する。

その想像だけで、胸がじんわりと温かくなった。

言葉よりも深く、静かに触れ合った気がした。


そして、蔵書点検の最終日。

最後の一冊『第100巻』の付箋には、一言だけ。

「外は、いい天気ですよ。24番デスクで待っています」

その文字を見た瞬間、胸の奥がふわりと跳ねた。

ああ、私はずっと——彼に会いたかったのだ。

地下の暗闇から、光の差し込む図書室へ。

私は初めて点検用の青いエプロンを脱ぎ、階段を駆け上がる。

24番デスクで、右手の人差し指に、まだ少しだけ新しい皮膚の跡を残した彼が、振り向くのを信じて。

この物語は、直接触れ合うことのない二人が、紙と鉛筆と付箋というささやかな媒介を通して、少しずつ心を寄せていく過程を描きたいと思って書きました。

顔も知らない相手の気配に惹かれてしまう瞬間や、ほんの小さな痕跡に胸が動く感覚は、誰にでも一度は訪れるものかもしれません。

地下書庫という閉ざされた空間は、静けさの中にだけ存在する“微細な変化”を際立たせてくれます。

ページをめくる音、鉛筆のかすかな跡、付箋の色。

そのどれもが、二人の距離をほんの少しずつ縮めていくための、大切な手がかりになりました。

触れないまま育つ想いは、ときに触れ合うよりも強く、深く、静かに心に残ります。

この短編が、あなたの中にもそんな“静かな温度”をひとつ灯せていたら、とても嬉しく思います。

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