第一話:孵化(ふか)の夢魔(むま)
…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。
胎動。
否、蠕動か。
混沌とした闇の奥底で、何かが蠢いている。
それは、古よりこの地の魂魄に巣食う、根源的な恐怖の残響であった。
粘つく闇は、甘美な蜜の匂いを纏い、誘う。
誘惑は、そのまま虚無へと繋がる奈落の淵を想起させる。
意識は、まるで糸の切れた操り人形のように、ゆらゆらと揺蕩う。
私は誰なのか。
そして、この空間はどこなのか。
微かな振動が、脳髄の奥深くを掻き乱す。
それは、羽ばたく音か、脈打つ音か。
あるいは、生命が孵化する瞬間の、悍ましい産声か。
視界は、まだ濁っている。
しかし、嗅覚だけは異常なまでに研ぎ澄まされていた。
濃厚な、いやらしいほどに甘い花の蜜の香り。
そして、もう一つ、冷たく、滑らかな、どこか血肉を連想させる磯の香りが混じり合う。
不協和音。
しかし、その不協和音こそが、この狂気の調律を成しているかのようであった。
意識の深淵から、一つの像が浮かび上がる。
それは、巨大な蜜蜂の巣。
黄金色に輝く、おぞましいほどに完璧な幾何学模様。
その中心には、まどろむように横たわる、巨大な存在。
女王。
彼女の周りには、無数の羽虫たちが蠢き、卑しくもその身を捧げている。
彼らの羽音は、まるで狂ったオルガンのように、私の精神を蹂躙する。
「女王様……女王様……」
囁きが聞こえる。
それは、羽虫たちの合唱なのか、それとも私自身の内なる声なのか。
定かではない。
ただ、その声は、私をある一点へと誘う。
この混沌とした世界の中心、聖なる蜜の滴る場所。そこには、ただ甘美なだけの蜜ではない、この地の根源的な力を宿す「聖蜜」があるという。
だが、聖蜜を求めるのは、女王だけではなかった。
闇の奥から、別の感覚が這い寄る。
それは、ねっとりと湿った、しかしどこか魅惑的な粘液の感触。
触手。
無数の触手が、うごめきながら、蜜蜂の巣へと忍び寄る。
その先端には、獲物を貪り喰らうための、おぞましい口が隠されている。
触手植物。
大地に深く根を張り、生命を吸い尽くす、緑色の悪魔。
彼女たちは、その根を伝い、聖蜜の源流を探っているのだ。
そして、もう一つ。
冷たい水の気配。
ざわめく水面の下から、鈍い銀色の光が瞬く。
それは、この地の魂を抱く、水の精霊の化身か。
いや、違う。
それは、生殖と繁栄の象徴。
卵を孕み、命を繋ぐ者。
イクラ持ち鮭。
彼らは、清冽な水の流れに乗って、聖蜜の満ちる泉へと遡上しようとしている。
その身に宿す膨大な数の卵は、この地の未来を象徴する、生きた宝玉であった。
彼らの目的もまた、聖蜜。
その力を得て、己の血脈を永劫に繋ぐこと。
三つ巴の戦いが、今、まさに始まろうとしている。聖地を巡る、おぞましくも崇高な争い。
私の意識は、この狂気の螺旋に巻き込まれていく。私は、この物語の傍観者なのか、それとも、この混沌の只中にいる、ある種の被験者なのか。
混乱は増すばかりだ。
しかし、この混乱こそが、真実の扉を開く鍵となるのかもしれない。
闇は深まり、羽音はより一層、耳朶を打つ。