第9話 祈りの果てに
封印の井戸が静まり返った夜、耳納の山は久しぶりに風を取り戻していた。
ざわり、と木々が揺れ、虫の音が戻ってくる。
ユウカとリョウは、井戸の前に立ち尽くしていた。
それは安堵と、まだ信じられないという混乱の狭間にいたからだ。
「……マジで、生きとるんやな、俺ら」
リョウがぽつりと言った。
ユウカはうなずいた。その瞳には、泣き疲れたような優しい光があった。
「水の中で……声がした。
“お前の祈りは確かに届いた”って。
なんかね、お母さんの声にも、聞こえたと」
リョウはユウカの手をそっと握った。
「祈りって、届くんやな。バカにできんやん、神様も」
井上がその隣に歩み寄ってきた。
「……見事だった、ユウカ。君は“水の巫女”として、十分すぎるほど役目を果たした」
ユウカは小さく笑った。
「もう二度と、巫女はやりたくなか」
リョウと井上が笑う。
その笑いは、ようやく訪れた朝の空気のように、穏やかだった。
◆
町に戻ると、封鎖されていた道路がひとつ、またひとつと解放されていた。
自衛隊のヘリが飛び、テレビ局のレポーターがざわつくなか、久留米市は“原因不明の集団パニック”という報道でまとめられつつあった。
それでも町の人々は知っていた。
あの耳納山の奥で、“何か”が鎮まったことを。
人々の視線が変わる。
ユウカを見れば、誰もが静かに頭を下げた。
それは、言葉を超えた敬意だった。
「すごいな、ユウカ。英雄やん、お前」
「やめてよ。目立ちたくないとに……」
それでも彼女は、どこか誇らしげだった。
◆
数日後――
一通の封筒がユウカに届く。
差出人の名前を見て、息を呑む。
『井上真理子』
「……お母さんやん」
震える手で封を開けると、そこには手書きの手紙が一枚、入っていた。
「ユウカ。あの封印が解けたと聞いて、私は自分の逃げた過去と、ようやく向き合うことにした。
本当は、ずっと会いたかった。けど、私はもう、娘に会う資格なんてないって思ってた。
でも、あなたが祈ってくれたから、私はもう一度“母”として生きたいと思った。
もし許してくれるなら、会いに行ってもいいですか?」
ユウカは、じっとその手紙を見つめたまま、しばらく動けなかった。
そして、静かに立ち上がった。
「リョウ。……私、お母さんに会いに行く」
「うん。行ってこいよ。俺、ちゃんと待っとうけん」
その背を押してくれる人がいることが、ユウカの胸を温かく満たしていた。
◆
その日の夕暮れ。
久留米の空には、やわらかな光が差していた。
川沿いの土手には、もうカッパの影はなく、子どもたちの笑い声が戻っていた。
耳納の山も、ただの山に戻ったかのように、静かにたたずんでいた。
だが、ユウカは知っている。
――本当の恐ろしさも、
――本当の優しさも、
あの山の奥には、ずっと眠っているのだと。
彼女はそっと胸に手を当てる。
「……ありがとう、ミミノウ様」
そう呟いた声は、夕陽に溶けて、風に流れていった。