第7話 沈黙の底から
封印が戻ったその翌日、田主丸町には久々に朝の陽光が差した。
「……ほんとに、夢やったみたいやな」
リョウは体育館の入口で朝日を見ながらぼそりと呟いた。
校庭には、避難していた生徒たちが安堵の表情で横たわり、真琴先生が一人ひとりの体温を測っていた。
「リョウ、ユウカ! カズキの熱、下がったよ!」
翔太が駆け寄ってきた。涙で赤く腫れた目で、それでも満面の笑みを浮かべている。
「ほんとに……みんな、助かったんやね」
ユウカは、ポケットにしまっていた井上の古びた地図を見つめたまま、小さく頷いた。
「でも……」
「ん?」
「リョウ、昨日あのとき……
カッパたち、まるで“逃げる”みたいやった。
あれって、水神様が怒ったんじゃない?」
リョウは腕を組み、空を見上げた。
そのときだった。
――グォォォォ……ン……
重く、地の底から響くような音が、耳納の方角から微かに聞こえた。
「……なんの音?」
翔太が立ち止まり、首をかしげた。
真琴先生が顔を青ざめさせる。
「いや、まさか……これ、地鳴り……?」
再び校舎が微かに揺れた。その揺れは次第に大きくなり、棚の本が崩れ落ちる。
「みんな伏せて!」
教員たちの叫びが響くなか、リョウはユウカの手を取り、体育館の柱の陰に飛び込んだ。
――その時、誰かが叫んだ。
「山の……山の方! なにか、出てきよる!!」
全員が耳納山系の方向を見る。
木々が揺れ、空が暗くなったかと思うと、山の尾根に、巨大な“目”が浮かび上がった。
「……っ、なんやあれ……」
それは、まるで山全体が一つの“獣”であるかのような気配だった。
井戸の封印は戻った。
だが、それによって眠っていた「本物」が目覚めた――。
◆
その日の夜、町の公民館に設けられた臨時指令本部では、町長、消防、警察、自衛隊が集められていた。
「何者かによるガス噴出……いや、これは自然災害では説明できない」
町長の声に、誰もが沈黙する。
そこへ、一人の男が入ってきた。
井上聡――昨日、封印の水を託したユウカの叔父であり、かつて鏡谷神社の巫女家系に連なる者。
「皆さん、耳納の“水神”が、今、目を覚ましかけています。
昨夜の封印で、封じられたのは“眷属”にすぎません。
本体は……まだ、地下に潜んでいる」
「まさか、それが……」
「ええ、“ミミノウ様”です」
場が静まり返った。
「田主丸では昔、“ミミノウ様”に水を祈った風習があった。
でも、ある年、飢饉と疫病が重なり、“捧げ物”を拒否した者がいた。
それ以来、“ミミノウ様”は人を呪い、山に喰わせる存在となった。
私たちが封印していたのは、怒りの記憶そのものだったんです」
「じゃあ、どうすれば……!」
井上は黙って、懐から古い巻物を取り出した。
「もう一つ、“最後の供え物”が残っている。
……でも、それには、“人柱”が必要だ」
誰かがごくりと唾を飲む音がした。
「それは……誰に?」
その瞬間、扉の外に立っていたユウカが、はっきりと口を開いた。
「私が行きます。ミミノウ様のところに」
体育館の一角では、リョウがその言葉を聞き、唇を噛んだ。
「ふざけんなよ、ユウカ……!」
彼の声は、まだ届かなかった。