第5話 封印の山道
夜の田主丸は、音がない。
まるで山も川も、すべてが息を潜め、誰かの命を見張っているかのようだった。
「こっちや。旧登山道の方から行ったら、迂回できる」
リョウが懐中電灯で足元を照らしながら言った。
ユウカは息を切らしつつ、懐から古地図のコピーを取り出す。
「耳納連山の東側、“鏡谷”って場所。封印の井戸はそこにあるらしい」
「そげなとこ、昔のガキが肝試しで行きよった場所やんか……」
「でも、記録が全部一致する。封印も、供え水も、全部そこ」
二人は互いに言葉少なだった。
体育館でのやりとりの余韻が、まだ胸を熱くしていた。
「……なあ、さっきの話」
ふいにリョウが口を開いた。
「人間に戻れるって、マジなんか?」
「……分からない。でも、あの時の翔太の声は、カズキに届いてた。
人間のまま、いられる何かがあるって、信じたい」
「信じるとか今までは無理やった」
リョウは肩をすくめた。
「でも、ユウカが言うなら――ちょっとは信じてみようかなって思った」
ユウカが一瞬驚いた顔をしたが、すぐに小さく笑った。
そのとき――
ザッ、ザザッ……
笹の葉を擦る音が、山道の右手から聞こえた。
リョウが竹刀を構え、ユウカが懐中電灯を向ける。
木々の影が揺れる――と、そこに浮かび上がったのは、
一人の男だった。
「動くな!!」
リョウが叫ぶが、男は両手を上げて、ゆっくりと近づいてきた。
「安心しろ。俺は“まだ”人間だ」
低く、だがどこか懐かしさを感じさせる声だった。
髭を生やした中年の男。肩からは破れたレインコートをかけ、腰には木の棒を下げている。
「……あんた、誰?」
「昔、この町に住んでた者だ。十年前に出てった。
だが、封印が“切れる音”を聞いて、戻ってきた。……あんたたちは?」
ユウカが答える。
「田主丸中の生徒。封印の井戸を探してる」
「なるほどな……」
男は手にしていた布包みを開き、中から黒ずんだ瓶を取り出した。
「これが、俺が守りきれんかった供え水の最後の一滴だ。
井戸にたどり着いたら、これを使え。水神の“目”を閉じる鍵になる」
「ほんとに……?」
「信じるかは任せる。だが急げ。あいつらはもう“夜の森”に出てる。
今のカッパは昔と違う。あれは“穢れ”に飲まれた獣だ。
本来の水神の眷属じゃない。まるで……なにか別の“何か”に操られとる」
リョウとユウカは顔を見合わせた。
「あなた、名前は?」
「俺か……」
男は笑った。
その目元に、どこかユウカと似た雰囲気があった。
「井上 聡。
――お前の、叔父だよ。ユウカ」
ユウカの目が大きく見開かれた。
「……っ、うそ……!?」
「お前の母さんは、俺を“死んだ”と言ってるだろうな。
でも、俺はずっとこの町を見てきた。
今、お前たちがやろうとしていることは――絶対に、間違っちゃいない」
言葉の重みが、夜の空気に染み込んでいく。
リョウが静かに竹刀を下ろす。
「じゃあ、あんたは……?」
「俺はここで時間を稼ぐ。お前たちは行け。井戸を探せ。
封印を戻せなきゃ、田主丸だけじゃなく――久留米全体が、呑まれるぞ」
ユウカは震える手で瓶を受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとう、おじさん……」
「生きろ。必ず、生きて帰れ」
男はそう言って、山の闇の中へ戻っていった。
リョウとユウカは、再び歩き出す。
夜の風が、ふたりの背を押していた。