第3話 感染
「今の、拓斗くんじゃなかった……」
少女――陽菜のその呟きが、場の空気を凍りつかせた。
体育館の中央で膝を抱えて座り込む彼女を、誰も責められなかった。
あの瞬間、あの目。ガラス越しに見た兄の顔は、もう“人間じゃなかった”。
「もう、帰れる場所はないと考えて」
教師・城戸真琴が口を開いた。
彼女の声には、怒りも悲しみもない。ただ冷静だった。
「ここが最後の砦だ。水も食料も、あと二日が限界。それまでに外に出る手段を見つける」
「外に出る?自衛隊でもムリやったのにか?」
そう呟いたのは、2年の柴崎リョウ。
強気で知られる彼の顔にも、焦りがにじんでいた。
「山に何かあるんじゃろ」
生徒会長・井上ユウカが言った。
「昔の文献に、“封印”って言葉があった。先生、あれ読んでたやろ?」
真琴は頷く。
「耳納の水神――人々の穢れを食って眠る神獣。それが、封印を破って動き出したという説がある」
「カッパはその“眷属”ってことか……?」
「分からない。ただ、昔この町でも、似たような事が起きた記録がある。生贄が……必要だった」
生徒たちは黙り込んだ。
沈黙の中、体育館の隅で小さな呻き声がした。
「う……ぅ……」
その場にいた全員が振り向いた。
そこには、1年の男子――三谷カズキがいた。
体育の授業で軽い怪我をしていたはずの彼が、顔色を変えて体を震わせていた。
「カズキ?大丈夫……?」
友人の翔太が近づこうとした瞬間――
カズキの体がビクンと跳ねた。
「水……クレ、水……飲みたい……」
その声は、まるで水に溺れた者の呻きのようだった。
「やめとけ!!近づくな!!」
リョウが翔太を突き飛ばす。
その瞬間、カズキの腕が異様に伸びたように見えた。
「ガァ……」
舌を突き出し、頭を振る。額の中央が、濡れて光っていた。
「おい、まさか……感染ってる……!?」
真琴は叫ぶ。
「この子、昨日の朝、裏の川で転けたって言ってた……!」
女子生徒の声に、ざわつきが起きた。
リョウが竹刀を構える。
部活でいつも振っていたそれが、いまは命を守る唯一の武器だった。
「待て、殺すな! まだ意識が残っとる!」
翔太が叫んだ。
「離れろ!来るぞ!!」
リョウが竹刀を振りかざす。
「……っ!」
だが、その瞬間――
「カズキ!」
翔太が前に出た。
「お前、バカやろ!!」
誰かが叫んだ。
だが翔太は、泣きながら叫んでいた。
「カズキ!またサッカーやろうって言ったやんか!
文化祭で一緒に“変な寸劇”やるって約束したやろ!?
こんなんで終わってええわけないやろが!!」
カズキの体が、止まった。
頭を左右にぶんぶん振りながら、必死に何かを抑えていた。
「翔……太……」
嗚咽のような声が漏れた。
翔太が、そっとカズキの肩に触れた。
「もうええ。泣いてええぞ」
次の瞬間、カズキはがくんと膝をつき、倒れ込んだ。
意識を失ったようだった。
「……助かった?」
誰かがつぶやいた。
「いや……これは一時的や。まだ何かが、体の中で生きとる」
真琴が静かに言った。
だが、翔太はそれでも言い切った。
「カズキはまだ人間や。
人間に戻れるんや。俺は信じる」
体育館の中に、ぽつぽつと拍手が起きた。
絶望の中に、確かに希望が残っていた。