第1話 耳納より来たるもの
田主丸町――福岡の山あいにある静かな中学校。
川のせせらぎ、畑の匂い、耳納連山から吹く涼しい風。
それが、突然に“異様”へと変わる瞬間を、誰も予想していなかった。
「この川……、なんか、濁ってない?」
中学1年の川辺拓斗が眉をしかめた。理科の授業の一環で訪れた校舎裏の小川。だが、今年は水が濁り、底に沈んだ泥の匂いが鼻を突いた。
「梅雨のせいで泥が流れ込んだんやろ。気にすんなって」
2年の不良・柴崎リョウが面倒くさそうに返す。
だが、理科教師の城戸真琴は違和感を覚えていた。
魚が一匹もいない。水面の虫も消えている。
耳納山の山肌に、黒い筋のような“ひび”が走って見えたのも気にかかる。
──その夜。
校内に残っていた真琴は、職員室で祖父の遺品を読み返していた。
古びた巻物。筆文字でこう書かれていた。
《水神、耳納より目覚めし時、皿持つ者、里に溢れん。尻子玉、穢れを祓う印なり》
「水神……カッパ……?」
真琴は首をかしげ、軽く笑った。子どものころに聞かされた田主丸の民話。カッパが尻子玉を抜くとか、水の神を怒らせるなとか――
笑い声が止まったのは、窓の外で「ズズ……ズリッ……」という這いずる音を聞いた時だった。
その翌朝、学校に異変が起きた。
登校していた2年生の生徒が、校舎裏で倒れていた。
瞳孔は開き、全身に引っかき傷。特に下腹部――
「……尻子玉を抜かれたように見える」と呟いた教師がいたが、誰も笑えなかった。
「田主丸で……またや」
校長が蒼白な顔で何かをつぶやいた。
その日の午後。警察が学校を封鎖。
生徒たちは体育館に集められ、待機を命じられる。だが――
夜になっても、誰も迎えに来なかった。
「……おかしくない?もう9時過ぎてるよ?」
3年の生徒会長・井上ユウカが不安げに声を漏らす。
そのとき、ガシャン!
窓が割れた。
「誰かいるのか!?」
叫んだ真琴が体育館の出入口を見た瞬間――
ぬるり、と何かが滑り込んできた。
それは人間のようで、だが人間ではなかった。
緑色の皮膚、甲羅、異様に長い腕、頭の上に水の張った皿。
口からは、糸を引く黒い液体が垂れていた。
「……カッパ……?」
誰かが呟いたその瞬間、カッパの群れが体育館に押し寄せた。
「走れ!逃げろ!!」
悲鳴。ぶつかる音。転倒。
誰かが泣いている。誰かが助けを呼んでいる。
真琴は必死に生徒を集め、舞台裏の器具室に誘導する。
「急げ!あそこに入って鍵をかけるんだ!」
全員が駆け込んだ直後、扉がガンッと外から叩かれた。
「くそっ、ここまで来たか……!」
息を呑む静寂の中、真琴の耳に、遠く耳納山の方角から――
低く、響くような“呻き声”が届いた。
それは、山がうねるような声だった。
「これは……災いの始まりや」
真琴のつぶやきが、冷たい空気に溶けて消えた。