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海神

 カルト・ハダシュトに到着した翌日の午後、スキピオは予めタラゴナで選抜しておいた精鋭二千を率いて密かに北側に向かった。東側ではローマ軍の激しい攻撃が始まっており、カルト・ハダシュトの守備兵の注意は完全にそちらに向いていた。

 敵に気づかれずに潟に着いたスキピオは、そこで初めて兵士らに作戦の全容を告げた。表面上では兵士らに動揺は見られなかったが、内心では不可能だと嘆いていたかもしれない。前面に広がる潟はどう見ても徒歩で渡れる深さとは思えなかったからだ。泳いで渡るにしても、甲冑をつけたままでは速度がでない。敵に見つかれば格好の的になるのは目に見えていた。潟を渡っているときに矢を射られれば、まず全滅だろう。いくら救国者スキピオの命令でも、二つ返事とはとても無理だった。だが、誰かがそういった事情を訴える前に、スキピオの言葉は続いた。

「私は今朝、夢を見た。とても不思議な夢だった。夢の中で私はこの潟を前にして立っていた。そして、私の横には海神ポセイドンがいたのだ。ポセイドンは私に語りかけてきた。私が味方しようと。この潟を安全に渡れるようにしてやろうと。

 これは神の啓示である。長らく戦争に苦しむ私たちに、神が手を差し伸べてくれると言う。私はここで待つ。海水が引き、歩いて渡れるぐらいになるまで。それまでに多くの時間はかからないだろう。私たちには海神ポセイドンがついているのだから」

 兵士らは自分たちが救国者と信じるこの若者の言葉を信じたかった。待ってみよう。待っても水深が下がらなければやめればよい。いや、スキピオが言ったのなら現実になるかもしれないと。

 そして、ニーケーが地元住民と情報員を使って綿密に調査して計算した通り、しばらくすると潟の水が引いていった。固唾を飲んで待っていた兵士らが、驚愕したのは言うまでもないだろう。彼らは黙ったままで目を丸くした。

 スキピオは二千の兵士らと共に膝下まで水位が下がった潟を渡った。敵の守備兵がこれに気づくことはなかった。兵士らは既に勝ったつもりになっていた。何と言っても神様が味方しているのである。負けることなど微塵にも考えられなかったに違いない。

 北の城壁は東のそれと比べて低い。潟のある北側から敵が攻めてくることなど想定していないので当然である。難なく城壁を超えたスキピオら二千の精鋭部隊は、無防備な敵の背後に向かって突進した。

 スキピオも自ら剣を振るって戦った。しかし、それは戦いというほどの戦闘ではなかった。彼が経験したティキヌス川での戦闘と比べれば、まるで子供の遊びだった。不意を突かれたカルト・ハダシュトの守備兵はほとんど抵抗することなく降伏した。また、スキピオはそれを受け入れたため、激しい抵抗にあわずに済んだとも言えた。精鋭二千の奇襲部隊は、自分たちの勝利を全く疑わなかった。そんな彼らの勢いを見て、敵の戦意が挫かれたのも仕方がないことだ。

 戦いの後、ラエリウスはスキピオの無事を見て泣いた。いつも冷静な彼が大声を出して泣きじゃくるのをスキピオは初めて見た。一向に止まらない彼の涙を目の当たりにして、スキピオは笑うことができず、この友の気持ちに準じた。

 この友は、これほどまで自分を心配していたのか。涙こそ流さなかったが、スキピオの胸は熱くなった。戦争にはいつも死がつきまとう。死ねば終わり。死んだ人間には二度と会えない。スキピオは戦争を一刻も早く終わらせたいと強く思った。

 涙を拭い、多少落ち着いてきたラエリウスに、

「秘策が成功したよ。でも、今日から私は自分が嘘つきだと思って生きていかなくてはいけなくなった」

 と、明るい調子で語りかけた。

「どういうことでしょうか。本当に秘策というものがあったのでしょうか」

「もちろんだよ。これは口外禁止だがね……」

 スキピオは海神ポセイドンからお告げがあったと嘘をつき、兵士らを鼓舞したことを打ち明けた。

「嘘だと打ち明けなければ、それは真実となりましょう。むしろ私には魔術のように思えます。魔術によって兵士らの士気を上げる。まるでプブリウス様は魔術師のようですね」

 二人は見つめあい、そして噴出した。戦争による緊張状態から久々に解放された瞬間だった。二人は腹を抱えて笑いあった。冗談を言い合ういつもの二人がそこにはいた。

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