アルキメデス
紀元前二一一年春、シュラクサイの攻略を担っていたマルケルスが、その任を成し遂げてローマに凱旋した。シュラクサイはこれまで、兵力の不利を軍事兵器によって補ってきた。学問で有名なこの都市には多くの学者が滞在していたが、中でも天才数学者のアルキメデスは別格と言ってよい。
彼はシュラクサイ政府からの協力要請を承諾し、数々の軍事兵器を考案した。特に都市防衛に絶大な威力を発揮したのが、「アルキメデスの鉤爪」と「アルキメデスの熱光線」に他ならない。ローマ人が見たこともないこれらの装置は、ローマ軍を大いに苦しめた。
正攻法ではシュラクサイの陥落は叶わないと悟ったマルケルスが妙案を探していたところに、ある情報がもたらされた。それは数日後にアルテミスの祭日があるということで、その日はグラエキア人にとって特別な日であり、盛大に祝うのが習わしであると言う。戦時中でも酒を浴びるように飲み者が多いということで、マルケルスはその日に大規模な夜襲を仕掛ける準備に入った。
マルケルスは千人の決死隊を編成し、夜間に城壁を登らせた。シュラクサイの守備兵は案の定、酒に酔いつぶれている者が多く、決死隊は城門を内側から開くことに成功する。一万のローマ兵が開けられた城門から突入して、あっという間にシキリア島最大の都市を占領したのである。
シュラクサイの陥落の日、市内に押し寄せてきたローマ兵を尻目に、アルキメデスが自宅で数学の問題を夢中で解いていた話は有名である。陥落の混乱の中、彼の顔を知らないローマ兵によってアルキメデスは殺されてしまうが、シュラクサイ市民だけでなく、その死をマルケルスが痛く惜しんだと言う。
アルキメデスの名声は既にローマ側にも伝わっており、この天才を味方に引き入れることができれば、その後の戦い方が大きく変わったかもしれないからだ。それほど、彼は類まれな数学者だったということである。
マルケルスの凱旋式で久々に勝利の美酒に酔ったローマ市民だったが、そんな浮かれ気分も数か月と続かなかった。ローマの最大最強の敵であるカルタゴの将軍ハンニバルが、なんとローマの城壁までやってきたからだ。
カルタゴ側に寝返ったカンパニア地方最大都市のカプアに対し、ローマは昨年から六個軍団を派遣している。ローマは大軍をもってこの都市を完全包囲して、厳しく攻め立てた。
カプアの重要性を理解しているのはハンニバルも同じである。ハンニバルが急いでカプアの救援に駆けつけるも、ローマの包囲網に隙は見当たらない。会戦にも応じないローマ軍に対して、カルタゴの名将はカプアを諦めざるを得なかった。
しかし、これで終わらないのがハンニバルである。この稀代の名将はローマ軍が会戦に応じてこないことを逆手に取り、兵の一部を率いてラティーナ街道を通って北に向かった。その先にあるのはローマであり、障害となるものは何もなかった。
プブリウスは部屋で読書をしていた。彼は最近では書物をむさぼるように読んでいた。特にアレクサンドロス大王の遠征について書かれた書物を手に入れられるだけかき集めた。また、ローマの政治についても、これまでの政争や貴族対平民の権力争いなど、多くの知識を吸収していた。そして、それらの書物がスピキオ家には数多く貯蔵されていた。
部屋にニーケーが入ってきた。いつも冷静な彼女には珍しく慌てた様子で、プブリウスは何事かと訝しがった。
「ハンニバルがローマに来ます」
ニーケーは独自の情報網を持っており、元老院に伝わるよりも早くこの事実を掴んだようだ。
「間もなくこのことがローマ市内に伝わります。ハンニバルはカプアを包囲するローマ軍と対峙しているはずですが、どうもそのあたりの事情がよくわかりません。でも、ハンニバルに率いられたカルタゴ軍がローマの目前まで迫っていることは確かなようです」
プブリウスは絶句した。信じられない。いかにハンニバルでも、ローマにたどり着くことなどできようはずがない。
しかし、ニーケーの言ったことが、時を置かずに現実のものとなる。




