ハミルカル・バルカ
紀元前二六四年から二十三年間もの長きに渡って繰り広げられたローマとカルタゴとの戦争で、カルタゴの将軍ハミルカル・バルカは躍動した。
シキリア島での勢力争いで、カルタゴはローマの攻勢に島の大半を失い、ついには島の最西部にある二つの海港都市リリバエウムとドレパヌムに追い込まれてしまう。この二都市を落とされれば、シキリア島ばかりか中海の覇権も完全にローマの手に落ちることになるこの状況に、カルタゴ政府がシキリア島に派遣したのがハミルカルだった。ハミルカルがシキリア島戦線を担当することになる紀元前二四七年は、奇しくもハンニバルが生まれた年でもあった。
シキリア島に上陸したハミルカルだったが、国内の意見がまとまらず、彼に与えられた兵は僅かだった。そんな寡兵で何倍もの兵力を擁するローマ軍を相手にすることになったハミルカルは、兵力がものをいう会戦を避けて遊撃戦で応戦する。ローマ軍の弱いところを見つけてはその部分だけを効率的に噛みつくような戦術を駆使するハミルカルは、小規模だが確実にローマ軍との戦いに勝利していった。ローマとカルタゴとの講和が成立して終戦するまでの間、彼は無敗を続け、ハミルカルの名はカルタゴの名将としてローマ人に知れ渡ることになったのだ。
そんなハミルカルの名を将官らが知らないはずはなかった。カルタゴの名将ハミルカルにローマが苦戦した時代にまだ生まれていなかったプブリウスでさえも、ローマの歴史や戦術論を学ぶ中でその名を耳にした。その後、ハミルカルがカルタゴ傭兵の反乱を鎮圧し、ヒスパニアに出征して勢力を拡大したことは余りにも有名な話である。
その息子がローマとの協定を破り、勢力をさらに広げようとしている。どのような勝算を立てているのか、プブリウスには無気味だった。
将官らがハンニバル率いるカルタゴ軍を侮ったのは、近隣諸国との戦争に勝ち続けて国力を飛躍させた盟主ローマとしての驕りだけではないだろう。同盟諸国と合わせると総兵力が七十五万にもなるローマに対して、先の戦争に敗れて多額の賠償金をローマに支払ったカルタゴの戦力はたかが知れている。しかも、カルタゴ軍はお金で雇った傭兵で組織されている。誰がどう見てもカルタゴがローマに戦争を始める道理はなかったのだ。
なぜ、カルタゴはローマとの戦争を始めようとしているのか。プブリウスの頭には常にその疑問がつきまとっている。
戦争には必ず意味がある。意味のない戦争などない。プブリウスはそう考える。そして、その戦争の意味を理解することで、その戦争を回避することができるとも。