策略
次に元老院から公表されたのは、カルタゴ軍がローマ軍から得た捕虜をローマ兵と同盟都市兵とに分け、ローマ兵を全員惨殺し、同盟都市兵を無条件で解放したというものであった。この悲報で、捕虜となった者の帰還を祈っていたローマ市民が一斉に肩を落として泣き崩れた。
「ハンニバルは捕虜の同盟都市兵には食事も与え、身代金もなしに解放したそうです。一方、捕虜のローマ兵には食事も衣類も与えず、厳しい労働を与えた挙句に惨殺したというのですから、許せません」
ラエリウスは目を閉じて身体を振わせ、悲しみと怒りの感情をなんとか抑え込んでいる面持ちでそう告げ、ハンニバルが、
「我々の敵はローマだけだ。お前たちの国がローマから離反して我々の味方になるなら、私はそれらの国の安全と完全な自治を約束しよう。逆にお前たちの国が今後もローマに味方するなら、このハンニバルの標的となろう。今度は容赦しない。我々の後には骨も残さぬ。だからお前たちはそれぞれの国へ帰り、今わたしが伝えたことを皆に伝えよ。ローマから離反すれば、ハンニバルが安全と完全な自治を約束すると。ローマに味方するなら、今度はお前たちの番だと」
と、捕虜を解放する際にこのように約束したとプブリウスに教えた。
「ラエリウス、そのことで君は同盟都市が離反すると思うか」
「私にはわかりません。ただ、同じように戦ったのに、一方は殺され、一方は解放された。それが理不尽でなりません。ハンニバルは何でそこまでローマを憎んでいるのでしょうか」
「憎んでいる……。そうかもしれないが、そうでないかもしれない。ハンニバルは戦略上の都合でそのような非行に走ったのではないか。私にはそう思えて仕方がない。ローマ連合の解体。それを実現するための策略だとすると、私は余計にハンニバルの冷徹さに怒りを覚える」
ガリアでの非道な行軍に覚えた怒りが沸騰した水とするならば、今の怒りは氷水であった。屍の山を築いてでも成し遂げなければならないことなどない。プブリウスはそう断言できる。そのことをハンニバルに伝えたくて仕方がなかった。憎しみや怒りなどの感情ではなく、ハンニバルの残虐行為が理知によるものだとすれば、無性に腹立たしかった。
その年の秋になっても、ローマ軍の戦略は変わらなかった。アプリア地方からカンパニア地方に入っても略奪の限りを尽くすカルタゴ軍の後ろで、相変わらずローマ軍は戦わずに一定距離を保った。
「田畑を焼き、カルタゴ軍の攻撃にも耐えうる大きな都市に避難せよ。従わぬ者をローマ軍は守ってやれぬ。そう言っておろうに」
と、独裁官ファビウスは苛立ちを隠さなかった。彼の避難命令を同盟都市全てが遵守すれば、カルタゴ軍は今頃飢えて困窮していたことだろう。
命令に従わなかった同盟都市の領地がどれだけ荒らされようと、ファビウスは決して助けようとはしなかった。ローマ軍の中には自分の故郷が略奪されているのを目の当たりにした兵士もおり、彼らの、
「お願いします。あの村は私の村です。私の土地や家族が……。今行けばまだ助けられます。お願いします。どうかお助け下さい」
という涙の懇願にも、
「あの村は私の避難要請に従わなかった。残念だが助けることはできん」
と、ファビウスは毅然とした態度を貫いた。
カルタゴ軍の蛮行を許せば許すほどにローマ軍の中には不満と憤りが沸き上がっていき、騎兵部隊の最高責任者である騎兵長官マルクス・ミヌキウス・ルフスがファビウスに面と向かって非難するまでになった。
都市ローマでもファビウスの戦略を非難する声が徐々に高まり、彼を「ぐず男」「のろま」などと罵る声が広がり、もはや民衆はファビウスの独裁官解任を元老院に訴えるまでにもなった。
晩秋、非難の的となっているファビウスがようやく動いた。彼はカンパニア地方から冬越しのために温暖なアプリア地方へと向かうカルタゴ軍を、アゲル・ファレルヌスと呼ばれる平原に閉じ込めた。この平原を抜けるには騎兵に不利な谷間の道を通らなくてはならないが、そこをローマ軍が抑えることに成功したのだ。敵軍に不利な地形を最大限に利用したファビウスの老獪な戦術であった。好き好んで敵の略奪を許していたわけではない。ファビウスはずっと機を見ていたのだ。
カルタゴ軍はローマ軍を平原に誘い込もうと執拗な挑発行為を繰り返すが、むしろファビウスはそうした敵の行為でより自信を深めたと言えるだろう。戦闘も小規模なものはあるものの、ローマ軍は持久戦の構えを崩さない。ファビウスは自軍な有利な場合にしか、兵らに戦闘を許さなかった。
ファビウスがとったこの徹底した持久戦を貫く戦略は、確実にハンニバルを追い詰めていた。
この作戦がローマに伝わると、
「今度こそ」
という思いで市民らは戦況を見守った。プブリウスも、
「ファビウス殿の作戦には無理なところがない。きっとカルタゴ軍を討てるだろう」
と、ローマ軍勝利を予感した。
ところが、次にローマにもたらされたのは、
「カルタゴ軍がローマ軍の眼前を通過。またしてもローマ軍は戦わず」
という一報だった。
鬱積したものを今度こそ解消できると考えていた市民は、その報に大いに落胆した。何がどうなればそうなるのかと、次の発表を急かすべく元老院の門に詰め寄った。期待が大きければそれだけ裏切られたときの反動は大きい。市民の一部が暴徒と化して一時騒然とする事態にまでなった。
続報が発表され、市民は一瞬声を失った。
夜間、カルタゴ軍は略奪によって得た二千頭の牛の角に松明をくくりつけ追いたてたと言う。向かう先はローマ軍が待ち伏せしている場所とは反対にある丘の上であった。ローマ陣営から見た光景は、まさにカルタゴ軍が丘を占領する様であった。
ファビウスはハンニバルの意図がわからず、夜間ということもあって全軍に待機を命じた。だが、二千もの明りが丘を駆け上がるのにローマ軍が気を取られている間に、カルタゴ軍は迅速にそして静かに谷間の道を抜けたのである。
この失態によって元老院はファビウスを召還し、会戦積極派で騎兵長官のミヌキウスがその間、ローマ軍の指揮を執ることになった。
ローマに帰還したファビウスは、その消極的な戦法で多くの市民から反感を買ったが、アエミリウスを始め他の有力な元老院議員などがまだ支持していたために、即失脚とまではならなかった。
ファビウスの下で反抗的な態度を見せていたミヌキウスは、早速方針を無視してカルタゴ軍に攻撃を開始する。迅速に退却したカルタゴ軍に大きな被害がでなかったとは言え、ミヌキウスはカルタゴ軍を退却させる勝利をすぐにもたらした。久々の勝利にローマ軍とローマ市民が歓声をあげないはずがなかった。称賛の的になったミヌキウスが胸を張る姿は、容易に想像ができるだろう。
ハンニバルの策略ではないだろうか。プブリウスの脳裏にトレビア川の戦いの光景が浮かび上がる。トレビア川でカルタゴ軍騎兵が退却し、それに誘き出されたローマ軍は大敗している。あのときと同じことが起きなければよいが……。
プブリウスの不安は間もなく現実のものとなった。
勢いにのったローマ軍はゲロニウムにいるカルタゴ軍を攻撃するが、前回の戦いの結果が嘘であったようにローマ軍は散々に打ちのめされてしまうのだ。ファビウスが別働隊を率いて救援に駆け付けたことで全滅を免れたが、ローマ軍はまたしても大きな被害を出してしまう。
ファビウスのおかげで辛うじて命を拾ったミヌキウスは涙を流し、
「あなたは私の第二の父である」
と膝を折り、その後はファビウスの絶対的な支持者になった。




