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出征

挿絵(By みてみん)

 初夏の柔らかい海風が心地よかった。地平線にうっすらと朝の陽光が漏れ、辺りが暗闇から薄闇に変わりつつある。海上からの日の出に目元を緩めた青年は、ゆっくりと流れるこのひと時もまた、今の自分を成長させてくれる貴重な一片なのだという思いに浸っていた。

 航海はこれが初めてではない。だが、これほど長い時間を海の上で過ごしたことはなかった。青年は今、未知なる領域に踏み込んでいく自分に浸っていた。今までに経験したことのない出来事が、これから目まぐるしく過ぎ去っていくのだろうと。

 青年は自分の世界が広がりつつあることに感動を覚え、両拳を強く握りしめた。船上からの眺めは、青年の心に訴えかける。冒険は人を成長させると。航海の目的は青年にとって決して喜ばしいものではなかった。それでも、船上からの景色は青年の心を躍らせるのに十分だった。

 ポエニ人が築いたカルタゴとの中海での覇権争いに勝利したローマは、紀元前二四一年にシキリア島を支配下に置いた。シキリア島の南東部に位置するシュラクサイは優れた文化で知られるグラエキア人の大都市で、ローマの有力貴族は争うように子弟をシュラクサイに留学させた。名門コルネリウス氏族の中でも執政官を輩出して存在感を増しつつあるスキピオ家に生まれたこの青年も、当然のように十二歳から十四歳までの間をシュラクサイで過ごした。

 留学中に何度かシュラクサイとローマを行き来したが、ローマ本土から眺めることのできる距離にあるシキリア島への航海には半日も要さず、まだ少年の香りが抜けなかった青年にとっての海はその程度しかなかったということだ。

 母や兄は今頃どうしているだろうか。青年はふと思ったが、すぐに白い歯がこぼれた。まだ寝静まっている船内。ローマもそれは同じなのだから、自宅の家族がどうしているかは考えるまでもなかったからだ。

 見送りに来た家族の心配そうな顔を思い出した青年は、つい先ほどまでの浮かれ気分から冷め、生きてローマに帰還することを心の底から願った。

 戦争とは、多くの犠牲を払う。

 青年は戦争に対して否定的な考え方を持っている。だが、これはローマ人としては異質である。ローマ市民には直接税として軍役が課せられているが、この血の税こそがローマ市民にとって最も名誉だと考えられていたからだ。戦争は自分や家族、ローマ市民の生命や財産、権利を守ることであり、同時にローマ周辺諸国との平和を享受するための正当な行為と考えられていた。戦争にはいつも大きな犠牲を払うが、それよりもはるかに大きな大義が戦争にはあるというのだ。

「早起きしてこんなところにいたんですね」

 青年は後ろを振り向かずとも、声の主が誰なのかわかった。

「何をしているんですか、こんなところで」

「ラエリウス、早起きはよいことばかりだよ。ほら」

 青年は話しかけてきた同い年の青年に一度視線を向けて、促すようにその視線の先を地平線に向けた。ラエリウスと呼ばれた青年は目を細めて、眠そうに一度大きな欠伸をした。青年は人懐っこい笑顔で、

「ここからの眺めは最高だよ。それに磯の香りをたっぷりと含んだ風に当たるのもとても気持ちがよい。君もどうだろうか。皆が起き出すまではまだ時間があるだろう。一緒にこの景色を堪能しよう」

 と、両手を広げて大きく深呼吸して見せた。青年の肺を新鮮な空気が満たす。

 ラエリウスは肩をすくめて見せたが、まんざらでもない表情で青年のすぐ横に腰を下ろした。

 青年は同じ月日に同じ場所で生まれたこの友人との交流にいつも心地よさを感じていた。青年にとっての親友とは、まさにラエリウスのことであった。

「こうしていると、急に時間が止まったように感じますね。成人した途端に軍隊に編入され、あっという間にローマを離れて軍船の上にいるんですから。旦那様が執政官への立候補を宣言してからというもの、思えばこうして二人でゆっくりすることもなかったですね」

 ラエリウスの言うように、昨年夏に青年の父が執政官への立候補の意思を固めると、二人は選挙の下準備に東奔西走の毎日を過ごした。昨年冬に父が当選すると今度は戦争の準備に追われ、出征先が急に変更されたのも大きな誤算になり、二人は猫の手も借りたいほどの忙しさに見舞われたのだ。

 地平線を光で染める太陽がゆっくりと顔を覗かせる。二つの精悍な顔に明かりが射した。

 夜明けだ。今日という一日を迎えられたことを神に感謝しよう。青年は静かに目を閉じ、心の中で神々に祈りを捧げていった。

 紀元前二一八年五月、後にローマの救国者となるプブリウス・コルネリウス・スキピオは十七歳。ローマを発ち、ピサエから軍船でマッシリアに向かう途中の航海であった。ローマでは十七歳から成人とされ、軍役に就くのもこの年齢からである。プブリウスにとって、これが初めての出征だった。

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