婚約破棄され、廃城へ(1/3)
ガタガタと強く揺れていた馬車が止まる。御者がドアを開けると、暴風と共に激しい雨が車内に降り注いだ。
風の音に負けないように、御者が大声で叫ぶ。
「コンスタンツェ様、目的地に到着いたしました」
私は重たい動作で外に出る。目の前には巨大な円塔を持つ、異様な雰囲気の城が建っていた。
所々ガラスが割れた窓と、ツタが這う壁。正面玄関まで伸びる階段は一部が欠けたり、ヒビが入ったりしている。長年にわたり誰も手入れをしてこなかったのは、火を見るより明らかだ。
「では、私はこれにて」
御者はそそくさと去っていく。まるで、こんなところには一秒たりとも居たくないとでも言いたげに。
いや、事実そう思っていたんだろう。なにせこの城は、悪霊が住み着いているのだから。
取り残された私は、小さくなっていく馬車を未練がましく見つめていた。戻ってきて欲しいと切実に願わずにはいられない。
けれど、そんな事態が起こるわけもない。叩きつけるように降る雨に追い立てられるように階段を登り、正面玄関の扉を開けた。
ギィィ……。
暴風雨の中でもはっきりと聞こえる耳障りな音。中は真っ暗で人の気配はない。
「失礼……します……」
小声で挨拶をして、震えながらそろそろと足を踏み出す。途端にドアが大きな音を立てて閉まり、思わず飛び上がった。
まだ日が落ちる時間ではないのが幸いだ。あいにくの空模様だったから外は暗いけど、それでもかすかに窓から光が差し込んでくる。真っ暗だったら、怖がりの私なんて玄関から一歩も動けなくなっていたに違いない。
ガラクタやホコリだらけの床にポタポタと水滴を垂らしながら、正面にある大階段を登る。水を吸ったドレスがやけに重たく感じられた。
「誰か……いませんか……」
恐々呼びかけてみたけど、返事などない。聞こえてくるのは外からの風と雨の音だけだ。
それもそのはず。ここは無人の城なのだから。住民といえば悪霊だけだろう。
この城にまつわる噂を思い出した私は身震いした。
「こんな仕打ち、あんまりだよ……」
思わず涙が出そうになる。
誰もいない城館。呪われた離宮。
こんなところが今日から私の家になるだなんて。
****
――コンスタンツェ、お前との婚約は解消だ。
王城の大広間。華やかな舞踏会の席で、私は唐突に婚約者の王太子にそう告げられた。
――……モーリス殿下? 今、何とおっしゃいました……?
――おいおい、コンスタンツェ。耳が遠くなったのか? 本当に困った女だな。
モーリス殿下は意地の悪い笑い声を上げる。彼が周りを見渡すと、それまで呆気にとられていた周囲の人たちも、慌てて愛想笑いを浮かべた。
――今日は俺の生まれた日だ、コンスタンツェ。だから俺はこの誕生日会の出席者からプレゼントをもらう権利がある。そうだよな?
モーリス殿下はひどく頭の悪い相手に常識を教えるような、ゆっくりとした話し方をしていた。
――だから俺はお前からも贈り物をもらうことができるわけだ。
――は、はい。こちらをどうぞ。
誕生日プレゼントが入った箱を渡した。けれど殿下はそれを受け取るなり床に捨て、足で踏みつけてしまう。
あまりの蛮行に、私は「ひゃっ」と掠れた声を出した。
――こんなものはいらん。俺が欲しいのは自由だ。お前のような婚約者から自由になる権利なんだよ。
モーリス殿下は鼻を鳴らす。
――お前はどうしようもない女だ。根暗でブサイク。ウジウジしていて、見ていて不愉快になる。お前のような欠点だらけの女が俺の未来の妻? ひいてはこの国の未来の王妃? 冗談じゃない。
モーリス殿下が私に向けて人差し指を突き付ける。派手好みの彼が愛好している豪奢な指輪が、シャンデリアの明かりでキラリと赤紫の光を放った。
――もう一度言う。お前との婚約は解消だ。……皆も異存はないだろう?
モーリス殿下が舞踏会の参加者に尋ねた。皆は判で押したようにこくんと頷く。私はドレスの胸元をぎゅっと握りしめた。
何か反論しなければ。こんなのはどう考えたって不当だ。
頭ではそう分かっているのに、声が出ない。モーリス殿下がニヤリと笑った。
――コンスタンツェ、そんな顔をするな。俺は慈悲深いんだ。婚約解消の見返りに、お前に粗品をくれてやろう。
――粗品……?
――メアリアナ城だ。
私は息を呑む。周りの人たちも、愕然とした顔になっていた。
――あの城をお前にやる。今日からあそこに住め。
――そ、そんな……!
血の気が引いた。
メアリアナ城は王都の郊外に建つ離宮だ。けれど、現在は廃城になっている。
城の持ち主だった王女の亡霊が出現し、近づく者は呪われるとまことしやかに噂されているためだ。
モーリス殿下の提案は慈悲などではなかった。この人は私なんて死ねばいいと思っているんだ。悪霊に呪い殺されてしまえばいいのだ、と。
――殿下! どうかお願いですから、そんなことをおっしゃらないで……!
――コンスタンツェ、王女によろしくな。
モーリス殿下が手で合図を送ると、衛兵が飛んでくる。私はそのまま舞踏会の会場から引きずり出され、馬車に乗せられてしまった。
そうして向かった先はもちろんメアリアナ城。私にとっての処刑台だ。
「きゃっ……!」
どこからか視線を感じた私は、物思いから覚めて悲鳴を上げた。もしかして亡霊!?
「……あっ。鏡か……」
階段の突き当たりに大きな姿見が設置されていた。どうやら私はそこに映る自分の姿に怯えていただけだったらしい。映し出された亜麻色の髪と緑の目をしたずぶ濡れの十六才の少女を見つめながら、ほっと胸をなで下ろす。
――根暗でブサイク。ウジウジしていて、見ていて不愉快になる。
モーリス殿下は私をけなすためにわざわざあんな言い方をしたんだろう。でも、彼の言葉がそこまで見当外れだとは思えなかった。
顔の左側を覆っている濡れた前髪をそっと横に退ける。
現われたのは、こめかみからまなじりの辺りまで伸びるアザ。まるで葉脈のような形をしている。
長い前髪はそれを隠すためのものだった。このアザは、物心ついた時から私のコンプレックスなのだ。
――コンスタンツェ、これはお前が特別だという証なんだよ。だから、恥じることなんか何もないんだ。
お父様はいつもそう言うけど、私はどうしてもそんな風に前向きにはなれない。こんなアザなんかなければ良かったのに、といつも思ってしまう。
でも、モーリス殿下が私との婚約を解消した本当の理由は、このアザのせいじゃないだろう。それに、私が根暗だからでも、ウジウジしているからでもない。
彼が私を嫌う真の理由は、私がモーリス殿下の言うことを聞かないからだ。
モーリス殿下の命令は、たとえどんなに無茶なことでも皆が聞く。嫌な顔一つせず、あっさりと。彼が王太子だからというわけではないはずだ。影では皆、モーリス殿下のワガママぶりに呆れ返っているから。
でも、本人を前にすると不満なんか消し飛んでしまうのだ。きっと、殿下には人を思い通りにできるようなカリスマ性が備わっているんだろう。
だけど、私は違う。彼が無体を働く度、いつも不快な思いをしていた。といっても、意気地なしの私じゃ、正面切って反抗することなんかできないのだけれど。
でも、たとえ反発しなくても、顔には気持ちが出てしまっているようだった。「お前を見ていると不愉快になる」がモーリス殿下の口癖だから。
皆に言うことを聞いてもらえるのが当たり前。笑顔でかしずかれて当然。そんなモーリス殿下にしてみれば、私はイレギュラーな存在なんだ。
だから、こうして目の届かないところへ追放した。今頃彼は、さぞかしすっきりとした気分になっているだろう。長年の目の上のこぶがやっと消えてくれたんだから。
その時、大きな落雷の音がして室内が一瞬白く染まる。私は「きゃあ!」と声を上げてうずくまった。
頭を手で覆うようにして、ガタガタと震える。雷は昔から大の苦手だった。
「もう嫌……。お父様、お母様、ベラ、ばあや……。誰か助けて……!」
知っている人たちの名前を片っ端から呼びながら、ドレスの胸元からお守り代わりのペンダントを出した。
チャームになっているのは水晶の小瓶。中には透明な液体が入っている。私はその瓶を強く握りしめた。
「お母様……。私を守って……」
不意に、近くから物音がした。
ヒタ、ヒタ……。
雷の音でも、雨の音でもない。
人の足音だ。
風も吹いていないのに天井のシャンデリアが大きく揺れる。
私の心臓はあっという間に凍り付いた。
「い、嫌……」
亡霊だ。王女の亡霊が近くにいるんだ。それで、私を憑り殺そうとしているんだ……!
「お願い、やめて! 何でもするから呪わないで!」
「何でも? じゃあ、この城の在りし日の姿をもう一度取り戻してくれるか?」
「……え?」
とても悪霊とは思えないような澄んだ声が聞こえてきて、思わず顔を上げる。その瞬間、廊下の向こうの部屋からドンドンドン! とノックの音がした。
そのあまりに乱暴な叩き方に、束の間忘れていた恐怖が再び頭をもたげてくる。弾かれたように立ち上がり、私は来た道を全力疾走で戻った。
もうこんなところにはいられない。城から逃げればモーリス殿下の罰が下るかもしれないけれど、亡霊に呪い殺されるよりはそっちの方がよっぽどマシだ。
あちこちに散らばるガラクタに何度も足を取られつつも、正面玄関の扉を大きく開け放つ。そして、ためらわずに嵐の野外に飛び出した。