55 魔法青年は情報を得る
よろしくお願いいたします。
自分で動かなければ備品が手に入らなくなったが、備品室に行けばそれは問題なかった。受け取りも問題はなかったので、手を回せたのは配達の部分だけらしい。
そして、村の店でのやり取りも若干怪しくなってきたころ、ディケンズの研究室に訪問者がやってきた。
「私はブレーズ・アルシェだ。ディケンズ先生はご存じだろうが、研究室は38階にある」
ちょうどディケンズが研究に集中していてこちらの話を聞かないので、とりあえずコーディがノックに応対して帰ってもらおうとしたところ、遠慮も何もなく部屋に入り込んできた。
50代くらいの男性で、ギユメットと同じく上質な布で作られたローブを羽織っていた。
「今日来たのはほかでもない、どうもコーエン派の動きでディケンズ先生のところが被害を受けていると聞いてね。安心してほしい、私はレルカン先生の従兄弟の息子だし、君たちの味方だ」
「はぁ」
仕方なく淹れたお茶にお礼を言うでもなく当然のように受け取り、ゆったりと一口喉を潤してからアルシェは話しだした。レルカンの親戚で、帝国の貴族らしい。
コーディは集中力も切れてしまったし、休憩のつもりで耳を貸すことにした。
「いやしかし、噂は傑作だな。タルコットというのは君だろう?コーエン先生のところでくすぶっているホートリーが、成人して魔塔に来たばかりのディケンズ先生の弟子に絡んで返り討ちにされ、あまつさえ失禁したとか。大の大人がまさか失禁するほど君のような少年に脅かされるとは思えないが、まぁどうせ樹海にも出ないひょろいやつのことだ、少しばかり君の魔法を見せられて驚いて尻もちでもついたんだろう。いや笑わせてもらった」
セリフだけ聞けば楽しそうだが、アルシェの目は一切笑っていなかった。
ディケンズにその声は一切届いておらず、相変わらず独り言をつぶやきながらメモを取っている。自分もそうしておけばよかった。
「前回ディケンズ先生がコーエン派とやり合ったときは、それはそれで秀逸だったらしい。私はまだ魔塔に来ていなかったから伝聞だがね。なんでも、コーエン派のやつらが研究室にまで押しかけてごちゃごちゃ言ったものの、ディケンズ先生は研究に集中して完全に無視していたとか。まぁ、今と似たような状況だったんだろうな。それを見たレルカン派の研究者に面白おかしく噂されて、とんだ赤っ恥をかかされたと激怒したんだとさ。そして当のディケンズ先生はどこ吹く風。そりゃあ見ている方は面白かっただろう」
口元だけでニコニコしてみせるアルシェは、そこで声を潜めた。
「しかし気をつけた方がいい。これはこぼれ聞いた話だが、向こうさんはディケンズ先生と奥様の家になにかしようと計画しているらしい。留守中なら被害は物品だけだが、もしも奥様がいらっしゃる時間にかち合ってしまうと非常に危険だ」
コーディは眉をひそめた。
「どこで、そのような話を?」
「まぁ、こちらもそうだが向こうも一枚岩ではないのでね。そういうつてがあるのだよ。コーエン派の中でも過激な手を使う派閥が動いているようだから、ディケンズ先生にも伝えてほしい」
腹に一物抱えているのだろうが、ともかくきな臭い情報を得て忠告に来てくれたようだ。
「……わかりました、アルシェ先生」
「あぁ、礼はいい。もし助けが必要であれば、いつでも私の研究室を訪ねたまえ」
コーディに笑っていない笑顔を向け、アルシェは研究室を後にした。
「なるほど、レルカンの親戚のやつが。まぁ奴らは、コーエン派とワシが争ってくれればその間に魔塔での勢力を伸ばせるとでも考えているんだろう。かろうじて親切の皮は被っておるが、後から色々と要求されそうじゃし、できるなら手は借りたくないのぅ」
研究に一区切り着いたところでアルシェの話をすると、ディケンズは困ったようにそう言った。奥方のためには手を借りてでも守備を固めたいはずだ。コーディとしても、早めに手を打つ法がいいと思う。しかし、アルシェに助けを求めればきっと面倒なことになるだろう。
「あの、それで先生に提案があるのですが」
「なんじゃな?」
◇◆◇◆◇◆
「戻ったぞ」
「あら、おかえりなさい。今日は随分早かったですね」
ディケンズが家に帰ると、妻のセルマは夕食の調理中だったようで、キッチンから出てきて出迎えてくれた。この一戸建ては村の住居区画に建っていて、近所にはセルマの兄家族が住んでいる。ディケンズ夫妻には子どもはおらず、気ままな二人暮らしだ。セルマ自身は、昼間に縫製の仕事をしている。
食後、ディケンズは一枚の紙を妻に渡した。
「これを刺繍したハンカチを作ってくれんか?こういった図案程度なら刺繍できるじゃろ」
「綺麗な模様ね。あなたが考えたの?」
「いや、これは弟子が作った魔法陣じゃよ。ちょっと思いついてな、刺繍で陣を作ったら紙に描くよりも丈夫で持ち歩きやすいんじゃないかと」
「まぁ珍しい。私も実験をお手伝いできるのね」
ディケンズは、研究にのめり込みはするが、妻を巻き込むことはない。公私をきっちり分けるタイプである。
「ワシも弟子も、刺繍はさっぱりでな。手をかけさせてすまんが、ついでにその刺繍したハンカチを毎日持ち歩いてほしいんじゃ」
「あら、持ち歩くところまでが実験なの?これはどんな魔法陣なのかしら」
ディケンズは、快く引き受けてくれた妻に優しく微笑んだ。
「まだ発表していないから内密にな。これは、もう一方の魔法陣と対になっていて、相手がどこにいるかわかるものなんじゃよ」
「そうなのね。そろそろ兄さんのところの孫も一人であちこち遊びに行ってるみたいだから、それがあればきっと安心でしょうね」
「村の中だけならそうそう迷子にもならんし、そこまで需要もないだろうがな。あんまり遠くまで離れると使えそうにないから、そのあたりは研究中じゃ」
「本当に実験の途中なのね。食器を運び終わったら、早速刺繍してもいいかしら」
「あぁ、頼むよ。実験の部分もあるから、布と糸は同じ色にしてみてくれるか?」
「わかったわ。なんだかちょっとワクワクするわね」
食器も服も、汚れを落とす魔法陣を刻んだ箱に入れればすぐに綺麗になる。室内には、魔塔と同じような魔法陣を刻んでいるので埃が積もることもない。片付けだけは自分でしなければいけないが、一時期ディケンズが面白がって色々な魔法陣を家に刻んだので、セルマ曰く他の家よりもずっと便利らしい。
通常、魔法陣を刻んだ魔道具はきちんと道具屋で買うものだし、家に魔法陣を刻むのも魔法使いに依頼するものだ。
ディケンズ家は、彼が自ら刻んだ。魔塔の研究員の家は、どこも似たようなものらしい。
セルマが自分の仕事用に使っている部屋へ行ったのを確認してから、ディケンズは小さく息をついた。
嘘は苦手である。特に、妻に対しては記念日のサプライズすらも隠し通すのは難しい。
しかし今回は、そうしたディケンズ個人の事情も鑑みてコーディが魔法陣を作って説明を考えた。セルマに伝えた機能もあるから嘘ではない。ただ、言わなかったもう一つの機能がメインというだけだ。
その機能が無駄足になればいい、とディケンズは遠い目をしながら弟子のことを思い出していた。
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続きます。