198 魔法青年は引っ越す
よろしくお願いいたします。
コーディが買うと決めた家の三軒隣には、ディケンズの家がある。
だから、このあたりに見覚えがあったのだ。
カーヤも、まったく知らない人ばかりの所よりは、少しでも知った人がいる場所の方がいいだろうと判断しての選択だ。
次の日には即金で支払い、契約書を交わした。
書類には契約の魔法陣が描かれており、カーヤはそれをまじまじと眺めていた。
魔法陣に関しては、まずは一般的な魔法陣の文字を学んでもらっている。
最終的にはどの文字を使っても同じ効果のものを作れるが、既存の魔法陣を読むには文字を知る必要がある。
そのほかに、カーヤには自然科学を色々と教えている。
魔塔にある自然科学に関する書籍は、コーディにとって満足のいくものではなかった。
そこで、魔法に関連するところから簡単な実験を交えつつ教えることにした。
「風って何だと思いますか?」
「風ですか?えっと……吹きつけてくるもの?」
首をかしげたカーヤに、コーディはうなずいた。
「そうです。動いてくるものです。では、その「もの」が何か、わかりますか?」
「わたくしたちが、呼吸で取り込んでいる空気ですね」
「その通りです。つまり、空気の動きが風です。風魔法は、空気を動かしているということになります」
「そうですね」
納得がいったらしく、カーヤは何度もうなずいた。
「では、空気とは何でしょうか」
「空気とは……?」
この世界でも、空気は認識されている。
呼吸ができなければ死んでしまうし、火を熾すときには空気を入れる必要があるのも常識だ。
しかしそれ以上の分析はされていないのが実情なので、カーヤが知らないのも当然だ。
「動くということは、物です。魔力のように、触れないものではありません。こうして手を振ると、空気が動くのがわかりますよね」
コーディは、手で扇ぐようにして見せた。
それを見たカーヤも同じように手を振り、うなずいた。
「そうですね。扇でも風が起こりますし」
「でも目には見えません。見える大きさではないからです。それに、ぎゅうぎゅうに詰まってもいない。ぎゅうぎゅうなら、土の中のように身動きが取れなくなるでしょう」
「とても小さな粒か何かが、何もないところにバラバラに浮かんでいて、それが空気ということですか?」
理解が早い。
細かいことを言えば補足したいことは色々あるが、当面はそれでいい。
コーディは笑顔でうなずいた。
「そういうことです。では次に、空気にも種類があることを学びましょう」
「はい」
小さな蝋燭とガラスのコップを取り出したコーディは、テーブルで実験を始めた。
カーヤも知らないことだらけらしく、とても興味深く眺めていた。
「まさか、燃えるときに使う特別な空気があるとは、知りませんでした。しかも、それがわたくしたちの呼吸で取り込んでいるものだなんて」
燃える蝋燭にガラスのコップをかぶせるだけのシンプルな実験だ。
ごく簡単な実験だが、目で見てわかる。
「そうなんです。まずは、種類があるとわかることが重要です。この、燃えるときに必要な空気……酸素があると認識することで、風魔法と火魔法の扱いが変わります」
「さんそ、というのですね。もしかして、風魔法で酸素をたくさん集めれば、火魔法がより強力になるということですか?」
考えながら言うカーヤに、コーディはうなずいた。
「その通りです。逆に、酸素を取り除いてしまえば?」
「……先ほどのように、火が消えますね。ということは、火魔法に、水魔法以外でも対抗できる……?」
「そうなんです。だから、魔法の相関関係だけではなく、自然の仕組みも学ぶことで、より魔法を活用できますよ」
カーヤは、しっかりと理解したようだった。
火や水、土の性質などを学ぶことに少し疑問を持っていたようだったので、納得してくれてよかった。
そうしてカーヤの学習とコーディの論文を進めながら、少しずつ新居の準備を整えた。
ベッドを選んだり、食器を揃えたりといった買い物を一通り終えたときに、カーヤが思いつめたように言った。
「コーディ様。こんなに色々と与えていただいて、わたくしはどうお礼を言えばいいのかわかりません。家だって、金貨がこんなに高額だとは知りませんでした」
先日、一緒に買い物をしたときに貨幣のやり取りに加えてその価値を説明したのだ。
貨幣価値を正確に知ったカーヤは、金貨の価値を改めて実感したようだ。
その感覚は、社会生活において重要である。
「気にしないでください、と言ってもカーヤは気にするんでしょうね。でしたらどうか、カーヤが思うように過ごしてください」
「ですが……」
カーヤは表情を曇らせた。
「間違いなく大金ではあります。けれど、僕にとってはただただ貯まっていたものです。それに、一般的な形とは違うかもしれませんが、僕たちは家族になる。家族は、助け合うものですよ」
「助け合う……」
「はい。だから、もし僕が困っていたらカーヤが助けてください。とりあえず、部屋の片づけはお願いしたいです。僕はどうしても片づけられなくて」
コーディが苦笑すると、カーヤはうなずいた。
「もちろんです!ですが、コーディ様のお部屋はそんなに散らかっていなかったと思います」
コーディは、頬を指でかいた。
「えっと、アパートはほとんど寝るためにしか帰らなかったから物も少なくて、散らかりようがなかったんです。今後は家に本や資料を持って帰ってくることもあるので、多分研究室と同じ感じに……」
「まあ。そういうことでしたら、お任せください」
カーヤは力強くうなずいた。
引っ越してすぐに、近所への挨拶まわりをした。
ディケンズのことを知っているので、住民たちは比較的好意的だった。
「お久しぶりね」
「はい、お久しぶりです、セルマ夫人」
笑顔で迎えてくれたセルマは、ディケンズの妻だ。
引っ越しの挨拶だけで立ち去るつもりだったが、家に入るよう言われてしまった。
「少しなら時間もあるでしょう?ほら遠慮しないで」
「はい、失礼します」
「お邪魔いたします」
案内された応接室は、前に来たときと変わらず、温かな雰囲気だ。
「一応、エムさんも呼んでみるわ。聞こえるかわからないけれど」
「いえいえ、お気になさらず」
エムさんとは、ディケンズの名前、エマニュエルの愛称だ。
セルマは、お茶を用意するついでに、といって一度部屋を出た。
「優しそうなご夫人ですね」
「ええ。あのディケンズ先生の奥方ですから」
「ふふふ」
ディケンズも、研究に没頭しているときでなければ、カーヤにあれこれと教えてくれる。
きちんと理解度を見たうえで教えてくれるので、とても分かりやすいようだ。
「やっぱりだめね。集中しちゃって動きもしないわ。仕方ないから、三人でお茶にしましょう」
セルマは、お茶を載せたお盆を持って来た。
カーヤがさっと立ち、そのお盆を自然に引き受けた。
コーディにはできない流れるような動きだった。
「あらあら、ありがとうね」
「いえ、これくらいはお任せください」
そうして、お互いを紹介しながら、ゆっくりとお茶を堪能させてもらった。
セルマとカーヤも、お互いに好印象だったようだ。
ディケンズは、二人が帰るまでに一度も姿を見せなかった。
魔塔での研究とは違うことをしているらしいので、きっとより夢中になっているのだろう。
うなずいたコーディは、同じ穴の狢という言葉を自分で思い浮かべてスルーした。
読了ありがとうございました。
続きます。




