薄氷
片思いを止めようかと思いながら、通学路を歩いていた。
鉛色の空模様から差し込む僅かな光が幾筋も見える日は神聖な感じがする。鼻から吸う空気はしんと冷たく、まるで脳まで震えるかのよう。冬の匂いを胸いっぱい吸い込んでから、ゆっくりと口から吐き出す。白い息が視界に入ると、ようやく今朝の寒さを実感できた。
秋が過ぎれば冬が来るのは当然の事で、カレンダーはもう十二月。おまけに今朝は特に冷えると昨日の天気予報で知っていた通り、いやそれ以上に寒い。昨日降った雨のせいか街路樹の傍には霜柱があり、水たまりにはうっすらと氷が張っていた。
私の恋も、きっとこれと一緒。
そよ風が通り抜ければ、マフラーを巻いた首をすくめ小さくなる。道行く人も格好は人それぞれだけれども、皆一様に背を丸め歩いていた。これから更に冬は厳しくなる。うんざりとしながら次の季節を待ち遠しく思い、それでもたくましく乗り越えていく。強く耐え、暖かな春へとゆっくりと歩くこの季節。
そんな冬が私は大好きだ。
だけどこの最寄りのバス停からスクールバスに乗り、学校まで揺られる間は一年の中で一番嫌いかもしれない。ただでさえ密集して暑いのに、暖房までつけているものだからなおさらだ。最初は良いのだが、学校に着く頃には頭がクラクラしてくる。そうして汗をかきそうなほど限界まで熱せられた体はいつもそこ走り出して逃げたくなる欲求を抑え、バスを降りる。そうすると冬の寒さがなお際立つ。
「おはよう」
誰に向けるともなく挨拶をし、教室に入る。特に返って来る返事は無いのだが、別に気にならない。私は真ん中よりやや右後ろの自分の席にカバンを置くと、所定の場所にコートとマフラーをかける。そうして何気なく、天気でも見るかのように窓際の雑談しているグループに目を向けた。
男子二人と女子三人のその中に、一際目立つ綺麗な黒髪を後ろで一つ縛りにした一見おっとりした風の女の子が町谷永遠。私が三年間片思いをし続けている相手だ。
物心ついた時から、男の子は乱暴で苦手だった。もちろんそうでないのもいるけれども、全体的に汚くて、暴力的で、おバカな感じが性に合わなかった。私はどちらかと言えばおままごとをしたり、絵を描いたり、本を読んだりするのが好きだった。だからえり好みするまでもなく、男の子と進んで遊んだりはしなかった。
中学生になれば体の成長も相まって、更にそれが顕著になっていった。背が大きく声も低くなり、まるでちょっと大人な感じも見せているのに中身はまるで小学生のまま。そのギャップがすごく嫌で、なるべく関わらないようにしていた。そしてそれと相対して、女の子がより美しく見えていた。表情が引き締まり、体のラインも凹凸や曲線ができて、身だしなみにもより気を付けるようになっていた。私は化粧品なんて持っていなかったが、さすがに落ちている枝を振り回す男の子よりかはリップの一つでも持ち歩いている私の方が上だと思っていた。
ただ、恋と呼べるものは無かったと思う。
好きとか嫌いとかはもちろんあった。心が揺れるくらいの好きだって、何度も何人ともあった。けれどそれは友情の延長線上の好きだったり、一時の憧れだったり、明確に恋と呼んでいいものなのかどうかわからなかった。友達と一緒にいれば楽しく、心安らぎ、笑ったり泣いたり感情を共有した先に心が震えるような嬉しさだってある。けれどそれを恋と呼ぶには納得できなかった。答えなんて知らないくせに。
ただそれも、永遠に会って全て吹き飛んだ。
高校に入学し、みんな緊張の面持ちで自己紹介が進められていく中、永遠を見て今までとは違った感情を抱いたのを強く覚えている。今にして思えば幼さ残るその顔立ちも他の子とは一線を画したものがあった。何だろうか、おっとりとした顔立ちなのだが、眼の色が他の子と違っていたのかもしれない。
ただ、そんな勘みたいなもので今まで信じたり認めたりしてこなかったものを受け入れるわけにはいかなかった。だから私は最初彼女の事を単に可愛いから気になる子とだけ分類していたのだが、それは大きな間違いだったと気付かされるのにそう時間はかからなかった。
それは確か一年生の一学期も半分を過ぎた頃だったろうか、何のきっかけかは忘れたけれども永遠が二年生のちょっと悪そうな女子三人組に絡まれているのを見た。助けに行く勇気なんか無かったし、かと言ってすぐに先生のところへ走る勇気も無かった。たまたま見てしまっただけの、単なる傍観者とばかりに私は物陰から事の顛末を傍耳立てていた。
「だからさぁー、舐めてんの私達を」
「そんな事は無いですよ」
「そんな事は無いですよ、ってその態度がムカつくんだよ」
「無いものをそう捉えられても、困るんですけど」
「てゆーか、うちらはお前のその態度にムカついてるの。シメるか、あぁ?」
「……んー、恐喝ですか? まぁそうでないにしろ、証拠は撮らせてもらいましたから。あぁ、先生になんて言いませんよ。ちょっとSNSにアップするだけです。今の気合入ったとこなんて、すぐ燃えるでしょうね。住所も何もかもすぐに特定され、見知らぬ人達から何もかもバラされ、一方的に人生を終えるんでしょうね」
「だったらそうなる前にできないようにしてやるよ」
「ライブチャットですよ。今、配信中です。ほら。フォロワーは三千人とそんなに多くないかもしれませんけど、もうずっと残っちゃいますよ」
「え、いや、待てよ……」
「だったらもう私に関わらないで去ってもらっていいですか、先輩」
声のトーンも表情も変えずにいた永遠に私はすごく心を引っ張られた。もしその場に立っていたのが私だったなら、間違いなくうつむき謝り、やられるがままだったろう。けれど永遠は一歩も引かないどころか、退けた。
憧れが僅かな痛みを伴い、やがてそれが恋心なのかもしれないと気付いた時には二年生になっていた。いつの間にか永遠がいてもいなくても彼女の事を考えるようになり、気付けば眼で追い、見つかれば安堵し見つからなければ不安になった。彼女が私の話で笑えば一日幸せでいられたし、話せない日は寝るまで悲しくなった。それが日常になった時、恋というものの答えを知ったような気がした。
けれどその頃にはもう、彼女と気軽に接する事が出来なくなっていた。
一年から二年へ移行するにあたり、うちの学校は選択制だった。普通科、特進科、看護科、そして理工科。彼女は成績優秀だったため迷わず特進科を選択したので、平均レベルしかない私も永遠を追いかけるようにしてそこを選択した。けれどやはり勉強は難しく、ついて行けずじまいの日々。クラスでもワーストを争うような感じで次第に悔しがる気力すら無くなってきている中、永遠はクラスでもトップ、学年でももちろん上位三名の常連だった。おまけに生徒会副会長に任命され、人望も厚い。
彼女の内面は何一つ変わっていない。けれど彼女が高みに登るほどに私の中で劣等感ばかりが膨らみ、永遠に対して勝手に壁を感じていた。それが分厚く高いものならば諦めも生まれただろう。けれど永遠は変わらないから、こんな私にも未だに気さくに話しかけてくれるし、友達としていてくれてもいる。
あぁ、あれだ。今朝の通学路で踏んだ、薄氷。あれと似ているかもしれない。
踏めばぱきりと音を立てて割れる、もろい氷。薄く、透明なようで白く濁っているあの氷こそ永遠との間にできている壁の感覚に近い。見えそうで見えない、触れられそうで触れられない。強引に行けば割れて壊れてしまいそう。そうなった時、きっとその冷たさを味わうのと同時に強く鋭い痛みを覚えるのだろう。
その壁に立ち向かわなくても、振り返れば美しい思い出がある。一緒に学祭の準備をしながらお喋りした事も、下校途中で強引気味に話題のお店に連れて行かれた事も、放課後に勉強を教えてもらった事も、何もかもみんな美しい。そう、この想いはきっとこちらから触れてはいけない神聖不可侵のもの。そっと見守る花があってもいいじゃない。
だけど、本当はわかっている。幾ら美辞麗句を並べたところで自己陶酔するだけで、何もならないと。思い出はいつも美しいけれども、振り返ってばかりだと増えない事も知っている。現状維持は私達の年齢では後退と同義とも、全部全部わかっている。
でも、下手に手を出して終わるのが怖い。友達もあまりいなくて、冴えない眼鏡をかけて重苦しい髪質で地味な私が、永遠と細い糸でも繋がっているというのが奇跡なのだ。それを忘れて傷付けば、醜い私の血で思い出が汚れる。そんなのは嫌だ。
そんな不安定な天秤を定められないまま、二年生は過ぎて行った。永遠は相変わらず男女問わず人望を集め、私はクラスでもほとんど空気のような存在。そんな永遠も最近は忙しいのか、それともやはりこんな私に愛想を尽かしたのか話す機会もめっきり減った。だから思い出に寄り添う機会も私の中で増えていくのは当然だった。
見る度に、聞く度に、その匂いを感じる度に私の心は苦しくなる。しかしそれをほんの少しでも表に出してしまうわけにはいかなかったので、必死に抑え込む。氷の中に封印し、誰の眼にも届かないように。永遠にさえも。
しかしもう時間がない。春になれば否が応でも別れてしまう。何もしないままだと春になれば溶けてしまうこの氷はきっと、私をからっぽにさせるだろう。芽吹くものが無い私はせめて氷漬けの恋心でさえ大事にしたいけれど、時間が許さない。
生きるべきか死すべきか、なんてのはシェイクスピアの言葉だったかな。私のような意気地のない恋だって、失敗すれば死を考えるし、万が一成功したらきっとこれ以上ないくらい生きているって実感があるかもしれない。そのくらいもう、私の心は彼女で埋まっている。
ただ、今更ながらに思う。これはやっぱり本当に恋なのだろうか、と。単なる強い憧れじゃないのかと。アイドルやスーパースターを見るように、永遠を見ているんじゃないだろうか。だってそりゃあ男の子が苦手だけれども、恋愛なんて異性でやるべきものだろう。いつかきっと、こんな私だって無理せずに付き合う男の子ができるかもしれない。
それに永遠に恋していると言っても、じゃあ私はそれが成就したとして何がしたいんだろうか。ただ傍にいればいいのだろうか。キスやその先をも求めているのだろうか。いやむしろ、私と付き合うメリットが永遠にはあるのだろうか。私は永遠にそもそも、何をしてあげられるのだろうか。
容姿端麗、学年トップクラスの頭脳で人望厚い永遠に何か一つでも勝る部分なんか私にはない。私服のセンスだって悪くないし、一緒にカラオケに行ったこともあったけど私の方が下手だった。特に料理をしているなんて話は聞かないけれど、私がそもそも料理できないし、掃除も駄目だ。読書は好きだから洋の東西や新旧かまわず気に入ったのは読んでいるけれど、だからどうしたって話だ。
そう考えればそもそも無理な話なんだ。ちょっと客観的に見れば、無謀にも程がある。
考えれば考えるほど絶望的で、掴まり処も無く、果て無き天上を見上げながら落ちていくだけの無力感すらある。現実を見れば見るほど、絶望的なまでの差がある。
でも、それでも何もせずにハイサヨナラなんてできない。絶望的なほどに差がある私と永遠だけれども、万に一つの可能性すらない二人だけれども、それでもその夢を諦めてはいない。捨てきれるもんじゃない。
真っ暗闇の中に落ちそうな私は必死でもがいてあがいて、希望の光を求めようとする。何をしたい何をしてあげたい叶えたいではなく、ただずっと、傍にいたい。私の頷き一つで彼女の心がほんの少しでも軽くなるのならば、この身が裂かれる苦痛をも受け止めたい。好きと一回思って針を刺されるとしたら、私は血だらけになっても言うだろう。
そうだ、単に強い憧れだけでそんな事を思えるわけがない。また私は逃げるとこだった。ずっとずっと好きなはずなのに、違うかもしれないって自分の気持ちを誤魔化そうとしていた。その方が楽だから。悲劇なんて起こらないだろうから。
行動を起こした先の失敗よりも、やらなかった事での失敗の方が深くいつまでも傷つくというのを以前本で見た。まぁ、理屈ではわかる。そうした方が何事においても成長するに決まっているだろうから。
だけど……あぁ、この恐怖はどうすれば克服できるのだろうか。
朝のホームルーム、一時間目、二時間目、三時間目と時間が過ぎていく。授業中は非常に模範的な生徒、休み時間は軽やかに友達と談笑する永遠を見ていても、まだ答えを決めきれない。誘うなら放課後か、下校時間だろうか。考える時間はまだある、幸か不幸かこういう時に無駄話をしてくる友達はここにはいないのだから。いつも通り、静かに本を読んでさえいれば空気になれる。
六時間目が始まった時に私は混乱の極みにいた。もうあと一時間もない中で、永遠を呼び出すか何もしないかの選択に迫られている。いや、選択ではない。決心がつかないでいるだけだ。出さないとならない勇気が出てこない。永遠に私の気持ちを知って欲しいのに、出来ないかもしれない焦りばかりが膨らむ。
どうしよう。いや、どうするかはわかっているし決まっている。決まっているのだけど……あと五分で終了のチャイムが鳴る。十八年生きてきて、多分これが人生最大の決断。本当にみんな、こんな決断をして告白をしたり付き合ったり失恋を笑い話にできるものなのだろうか。もし私がもう少しだけ可愛くて、美人で、髪もサラサラで、こんな三白眼じゃなく黒目も大きくて、ほんの少しだけ陽気でそれを苦痛とも思わない性格だったなら、もっと楽に生きられただろう。
あぁ、求めるな、悲観するな、私は私。今のありのままの私でしか勝負できない。この私を積み重ねてきたのも、また私なのだから。
六時間目が終わるとみな思い思いの行動へと移る。いそいそと下校する者、居残り勉強をする者、部活の後輩を激励しに行く者、友達と雑談する者。私はいつもより少しだけゆっくりと帰り支度を整えると、人知れず大きく深呼吸を一つした。
帰り支度をしていた永遠はもう既に何人もの男女問わない友達に囲まれて、談笑していた。あの輪の中に入るのは無理だし、あの雰囲気を破って私が行くのは無理だ。やはり今日はやめようかと弱気になるが、そう今までの私ならば既に踵を返しただろうけど、踏みとどまった。
世の中を見てみろ。最後まで成功を願い続けた人だけが、成功しているではないか。全ては人の心が決めるのだ。
そう言ったのは名前も忘れた哲学者だったはずだ。そうだ、私がこの結末の成功を願い続けなくて、誰がやるというのだろう。私の心は決まっている。ただ、錆びついて動かないだけだ。理由をつけて動かないまま諦めようとしている。動かないのならば、自分で押すしかないじゃないか。
「ごめん、いいかな」
ゆっくりと輪の中に近付いた私に一番先に気付いたのは永遠だった。話を止め、私へと視線を送る永遠にならい、周りの友人達もそうする。活気あった場が一気に静まり、居心地の悪さを一身に背負う。悪意はないのだろうが、一体何だろうかという視線が痛い。それでも私は下を向かず、もう泣きそうな心を氷で覆って永遠だけを見詰める。
「あのさ、永遠。ちょっと今日一緒に付き合って欲しいんだけど」
「いいよ」
間髪入れず、永遠は即答した。
「え、ちょっと永遠。今日はこれからカラオケ行くって約束」
「ごめん、また今度にしようよ。私抜きで行ってきてよ」
「えー……もう、しょうがないなぁ」
「今度はきっと行くから。いいでしょ」
「わかった。でも、約束だからね」
約束の入っていただろう永遠を残念がる声が聞こえてくると、罪悪感で死にたくなってくる。けれどそれを払拭するかのような永遠の明るい声と様子に周囲も納得し、笑って許す。ただそれでも私にとっては優越感や安堵なんてものはなく、決して許されない悪事のような刃で刺された痛みを味わっていた。
「じゃあね。それじゃ行こうか、詩春」
永遠は変な空気となったその場から私を連れ出すよう、半ば強引気味に腕を引いて歩き出す。私は驚きと喜びと、なおも残る罪悪感に頭が混乱しながらも振り返る事無くコートとマフラーを手に取ると教室を出て行った。そうして足早に離れ、階段まで来て初めて永遠が腕を放して振り返る。
「ごめんね、詩春。それでどんな用?」
申し訳なさそうに手を合わせる永遠だけだ、私を下の名前で呼ぶ友達は。一年生の時に少し仲良くなった頃、初めは私も町屋さん彼女も私の事を平川さんと呼んでいたのだが、永遠の方から下の名前で呼ばれたいからお互いそうしようと言い出してきた。下の名前で呼び合うなんて誰にしても小学校低学年以来だったため、しかも憧れの人からの申し出だったため、かなり驚いたけど嬉しかった。
ただ彼女との差が激しくなるにつれ、どちらかと言えば一人ぼっちな私に人気者の永遠が詩春と呼ぶのは自他共に違和感があった。永遠は誰に対しても明るく接しているし、私もその中の一人ってだけだというのはわかっている。けれども格差と言うのものを否が応でもその度に苦々しいまでに実感するのだ。
でも、彼女は誰かれも下の名前で呼ぶわけではない。そうした特別感が苦しいながらも、詩春と呼ばれている事にどこか優越感を感じている自分も確かにいた。だからこそ、万に一つの可能性も無いと思っていても、どこかにあるかもしれない希望にすがってしまっているのだ。
「あ、その、ちょっと話したいことがあるから、よかったら一緒に帰ろうかなって」
「いいよ。あ、でも話したい事って何だろう? ここじゃ話しにくい事?」
周囲にはまだ様々な人達がいて、混雑していた。同級生もちらほら見えるし、何より私は彼らを知らないけれど、彼らからすれば永遠はよく知られている。それに、こんなにも人が多いところで告白できるほど、私は肝が据わっていない。
「ごめん、ここじゃ人が多いから」
「あ、いいのいいの。そうだよね、折角誘ってくれたのに、こんなとこで話すようなものじゃないだろうし。ただ、詩春が深刻そうだったから気になって」
「うん、ごめん、付き合わせて」
「気にしないで、本当に。私も最近あれこれ誘われていたけど、詩春とゆっくり話したかったんだ。落ち着いていて、あまりクラスの人がいないような場所がいいよね。だったらどこで話そうか」
屈託のない笑顔で笑いかけてくる永遠につられ、私も思わず微笑んだ。
「そこまで考えていなかったけど……とりあえずゆっくり歩こうか」
「そうだね。寒くなったらどっかで休憩しよう」
「賛成」
二人笑い合いながら、靴を履き外へと出る。風も穏やかで僅かな日差しがさしているけれども、寒い。苦笑いしながら私達は本来乗るべきスクールバスを素通りし、歩き出す。幸いなことに途中までは帰る方向が一緒のため、歩けば三十分くらいは一緒にいられる。ただ、私はこれから言うべき事を考え、校舎から出て以来声をかけられずにいた。永遠もそんな私を察してか、微笑みを崩さずに前だけを見詰めて歩いてくれていた。
このまま歩いていても、何もならない。あんなに勇気を振り絞って誘い出したのに、永遠も他の友達の誘いを断ってまで一緒にいてくれるのに、ただ寒い思いをして歩いて帰るだけでいいわけがない。いいわけがないけれど……どこで告白をすればいいんだろう。
通学路のため、まだ周囲には同じ学校の生徒がちらほらといる。もちろん私達に興味なんて示していないのだが、やはり気になる。このままだとすぐに分かれ道に差し掛かり、さよならを言って別れるだけになる。今日のさよならはずっとのさよならになる。それは嫌だ。嫌だけど、どうすればいいんだろうか。
「ねぇ、違ってたら悪いんだけど」
歩きながらすっと永遠が私の顔を覗き込んだ。つられてその前髪がさらりと流れる。
「あまり人に聞かれたくない事なのかな?」
「えっ、いや……う、うん。そうだね」
恥ずかしさによる否定をぐいっと抑え込み、素直にうなずくことが出来た。
「じゃあさ、良い場所知ってるんだ。そこに行こうよ」
にこりと永遠が笑い、こっちだよと案内してくれた先には通学路からほんの少し外れた小道にある、多分私の親も行かないような古びた喫茶店だった。木製の看板は少し朽ちており、ほったらかしにされているだろう蔦が伸び放題で外から見れば店内も薄暗い。そこには今風のオシャレなんてものはなく、昭和の遺物のように思えた。
「ビックリしたでしょ。でもさ、ここってこんな感じだからうちの学校の人はもちろん、同世代の人もこないんだよね。だからたまに一人で落ち着きたい時はここに来るんだ。秘密だよ」
そう言った彼女はいたずらっぽく笑い、その笑顔と二人だけの秘密と言う事実に私の胸は張り裂けそうなくらい嬉しくて、叫びだしたかった。懸命にその衝動を抑えぎこちなく笑いながら、私達は店内へと入る。
「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ。ご注文が決まりましたらお声をかけて下さい」
八十も過ぎたような白髪のおばあちゃんがカウンター越しに一人で立っていた。私達はそれぞれホットコーヒーを注文する。そうして注文されたものが来る間、緊張を紛らわせようと店内を見回す。ひび割れて所々破れたレザーのソファに年季の入った木目のテーブル、染みついて日焼けした黄土色のメニュー表は文字もそれなりにかすれている。壁に貼ってあるポスターも印刷がかすれ、何十年前からあるのかわからない。ただ、小綺麗な感じはした。年季をこれでもかと感じさせるが、不潔な感じはしない。
「いいとこでしょ、ここ」
「すごいね、どうして見つけられたのこんなとこ」
にまりと笑う永遠に対し、素直に尊敬せざるを得なかった。
「んー、二年の時かな。ちょっと家で嫌な事があったのも詩春には話したでしょ」
私は確かに聞いていた。去年の春先に永遠の両親が離婚をしたのだ。原因は父親の借金のためで、円満とは言い難い別れの中で彼女の母親も心の病になってしまったらしい。今は落ち着いたというが、本当の所は知らない。
「その時ね、実はあまり家に帰りたくなかったし、でも学校で笑うのも疲れていて、とにかく一人になりたかったんだよね。その時、ふとこの店を見つけたの。あぁ、こういうお店なら誰も来ないだろうなって、まぁ失礼な考えで入ったら妙に居心地良くて。だから」
「おまたせしました、ホット二つです」
永遠の会話の途中でおばあちゃんがホットコーヒーを二つ置くと、深々と頭を下げた。気まずそうに苦笑いを永遠は浮かべ、頭を下げるのを私もならう。そうしておばあちゃんがカウンターの向こうに戻るのを確認してから、永遠はにまっと笑った。
「私が好きなのは正にこれ。この淡々とした感じがすごいプロって感じがするの。私が泣いていても、沈んでいても、どうあっても一切介入してこないの。だから好き。だからこそ、秘密を話すにはもってこいだと思わない?」
「うん、そうだね」
今、全てのピースは揃った。話の流れも、雰囲気も、場所も、何から何までケチをつけて逃げられないくらいの状況となった。一切の逃げ場が無くなると、誤魔化そうとか逃げようなんて思わず、傷ついてもやるしかないという落ち着いた覚悟が芽生えるのを知った。永遠との間にある薄氷すら、傷ついてもかまわないと素手で触れて抱き締められる。
「永遠ごめんね、こんな私に付き合ってくれて。それで、何か言いたい事があるのは本当だから、気を使って素敵な場所を教えてくれてありがとう」
「謝らないでいいよ」
「うん、ありがと」
私は一瞬だけ目を伏せ、そして真っ直ぐに永遠を見詰めた。
「私ね、永遠が好き。友達としてじゃなく、それ以上の意味で」
一言一句、胸が潰れそうなくらいの苦しさと解放感があった。そうして言葉を紡ぐほどに意識が遠のいていきそうになる。世界が永遠を残して白く消えていく。
「一年生の時からずっと憧れていた。二年生の時から恋だって思って、もうそれを我慢し続けるのは無理なの。ずっと目で追いかけていた。意識すればするほど話せなくなって、でもたまに話す機会があると幸せで。だから、その」
何を言っているのかわからなくなってきた。あんなにも頭の中で練習してきたのに、寝る前にこの瞬間を想定して台本を何本も書いてきたはずなのに、自分の言葉が頭に落ち着かない。だけど必死に、私はこの想いを言葉に換える。
「付き合って欲しい」
半ば朦朧とした意識の中で懸命に目の前の景色を繫ぎ止める。永遠からは笑顔が消え、僅かに顔を前に突き出して困っていた。嫌がっているのか、話が呑み込めないのか、受け入れようとしてくれているのか、表情からはわからない。
私が言い終わってからきっと十秒も経っていないのだろう。けれど私はもう何時間も答えを待っているような気分だった。どんな顔をして、どんな態度で待っていればいいのかわからない。きっと幸せそうな顔をしていた方がいい。だけどできない。どんどんと不安ばかりが募り、まるで頭にすごい重りをつけられているように下を向いてしまう。
「詩春、その」
口を開いた永遠に反応し、私は顔を上げる。けれど永遠はその次の言葉を探せないでいるのか、口ごもる。何かを言いたそうにまたゆっくりと唇を動かすが、視線を落として真一文字に結ぶ。おっとりとした見た目と裏腹に聡明で即断即決の彼女らしからぬその姿を私は申し訳なく思いながら、ただ見守るしかない。
「嬉しいよ、そんな風にまで好きでいてくれていたなんて。すごく嬉しい。ただ」
ぎこちなく笑う永遠を見て、そしてそのトーンで私は結末をいち早く知ってしまった。
「その、付き合うとかそういうのは考えた事も無かったから、すぐに答えは出せないかな」
優しい永遠の事だ、それは明確なノーなのだろう。悲しいとかそうじゃないとか思うより早く、私は自分の頬を濡らしていた。
「いや、あの、だから詩春が嫌いってわけじゃないからね。それは信じて。だけど」
「ごめん」
私は震える手で財布から千円をテーブルに出すと、鞄など一式をかかえて外へ飛び出した。滲む視界は手の甲で拭うけど変わらず、おぼつかない足取りで一刻も早くその場から離れようと走る。けれど元々足も速くなく体力もない私は少し走っただけで息切れし、逃げる事さえもできないのかと惨めになり、ついには道端でうずくまり泣き出した。
明日からどんな顔をすればいいんだろう、どんな顔をして生きていけばいいんだろうか。やっぱりこんな不細工で、地味で暗くて、頭も悪い私が告白なんかすること自体が間違っていたんだ。釣り合うはずがないなんてわかっていたのに、苦しい自意識から逃れたくてあるわけのない希望を夢見てしまった。
きっと通り過ぎる人はみんな私を笑っている。こんな惨めな私を不審そうに見ながら心では嘲笑って通り過ぎていく。怖い。立ち上がって前を向いて帰れるのだろうか。泣いて変になった顔をさらして私は歩けるのだろうか。
ただこうしてうずくまっていても、何もならない。雪は降っていないが、風が少し強くなってきたため寒い。指先や足先から痺れるような痛みをもった冷たさが体の中心へと迫る。このまま凍死するほど自分を棄てられる事なんかできない、でもどうすればいいのかもわからない。何もかもが恥ずかしい、何もかもがもう嫌だ。
「詩春」
不意にぐいっと肩を掴まれ、名前を呼ばれた。驚いて顔を上げれば、そこにいたのはやはり永遠だった。永遠もまた走って探したのか、白い息が辺りに乱れている。私はこんな姿を見られた恥ずかしさと同時に、また泣きたくなるような嬉しさも感じていた。
「待って、詩春」
でも、無理だ。私は涙で濡れた顔を隠すよう、慌てて走り出した。しかし幾らも走り出さないうちに永遠に腕を掴まれてしまい、もう振り切ろうなんて思えなくなってしまった。脱力した私は肩を落とし、その場に立ち尽くす。
なんて残酷な事をするのだろう。
私はそう毒づかずにはいられなかった。告白した相手を受け入れず、恥ずかしさに耐えかねて逃げ出したのをまた捕まえるなんて。一体私をどこまで惨めにさせるのだろうか。あんなにも好きでたまらなかった永遠を酷い人間だって思いたくないけど、あんまりだ。
もうどうなってもかまわない。面と向かって嘲笑おうが、誰かを呼んだりしてみんなでそうしようが、もっと大勢にこの姿を晒そうが、もうどうでもいい。もう、いい。
やけくそで、投げやりで、自殺でもしてしまおうかと思うその原因はお前だとばかりに非難の眼を向けながら気怠く振り返れば、永遠が必死に頭を下げていた。思いもしなかったその光景に恨むことも忘れ、私は唖然としてしまう。少し強い風が吹いたけど、その冷たさも理解できなかった。
「返事は待って欲しい。待って欲しいの。お願いだから、待って」
そうしてすがるように私の腕を掴み、声がかすれていく。気付けば私よりもうなだれた永遠を見て、憎しみや恥ずかしさや悲しみはどこかへ消え、代わりに戸惑いばかりが生まれていた。
「詩春……いや、詩春ちゃん。今は昔みたいにそう呼ばせて」
昔? 覚えている限り、どんなに仲が良くても一度も詩春ちゃんなんて呼ばれた事なんて無いはずだ。何を言っているのだろう。
「覚えていないよね、きっと。しょうがないよ。だって幼稚園に一緒にいたの、半年くらいだったから」
幼稚園? 半年? 私は確か三歳の頃に入園したし、記憶力は良い方だけど永遠なんて子は覚えていない……。
「私ね、詩春ちゃんが通っていた明星幼稚園に三歳の秋まで半年だけいたの。その頃の私は他の人とどう接すればいいのかわからなくて、毎日嫌だったのを覚えている。誰とも話せなくて、給食も食べられなくて、集団行動もできなくて、はっきりとは覚えていないけど絵本ばっかり読んでいた記憶だけがあるの」
永遠の言うように明星幼稚園には通っていた。けれど、永遠に通っていた幼稚園の名前を言った覚えはない。
「いじめられていたなんて事は無かったような気がする。でも、みんな怖かった。先生も優しかったけど、怖かった。そんな私だったから、幼い集団でも私と距離を置くようになっていった。まぁ、当然だよね。何となく一人だったのを覚えている」
うつむいていた永遠が急に顔を上げた。その眼はうっすらと涙で滲んでいるように見えたが、しっかりと私の眼を見詰めていた。私はその美しさに思わずどきりとし、半日前の恋だけをしている感覚に引き戻される。
「そんな私に毎日遊ぼうって声をかけてくれたのが詩春ちゃんだったんだよ。いつもいつも手を差し伸べてくれて、遊んでくれた。誰もいない一人ぼっちの私を救ってくれた、かけがえのない恩人なんだ。だからあの頃の他の子の名前はほとんど覚えていないけど、詩春ちゃんだけははっきりと覚えていたの」
私の眼を見ながら、私の先を見詰めるような眼差しの永遠の表情はとても柔らかく、どこかうっとりとしているようだった。けれど私はその事を全然覚えていないため、どういう顔をすればいいのかわからない。
「高校に入って、名前を見かけた時は嬉しくて飛び跳ねそうだった。あの頃の面影が残っている詩春ちゃんに覚えてますかって抱き締めたかったけど、詩春ちゃん覚えて無さそうだったから……」
「ごめん、なさい。その、今それを聞いても全然思い出せない」
告白をして想い叶わず落ち込んでいるはずなのに、頭を下げるしかなかった。一体何だろうこの状況はと気持ちの整理がつかないけれど、好きな人が私との過去を大事な宝物にしている事実だけは理解できた。そしてそれがとても嬉しく思えてきた。
「ううん、いいの。それはそれ、これはこれ。私も高校生の詩春ちゃんに接して、覚えていない事にはまぁ、その、正直落ち込んだけど……でももう一度友達になろうって思ったの。過去は過去としてしまって、新しく友達として歩きたいなって」
「永遠……」
「でもね、やっぱりあの頃と違うよね。詩春ちゃんとの距離の取り方がわからなくて、結構これでも悩んでいたんだ。三歳と今じゃ考え方も何もかも変わるだろうから当たり前なんだけど、その当たり前が上手く馴染めなくて、詩春ちゃんとはあまり上手に付き合いきれていなかったかもしれない」
悔しそうに唇を真一文字に結ぶ永遠に私は大きく首を横に振る。
「違う、永遠。永遠は悪くないの。私が勝手に壁を作っていただけ。何でもできる永遠に劣等感を抱いていただけなの」
「劣等感? 私に?」
永遠はあまりに意外そうに一瞬ぽかんとした表情を見せる。
「だって成績は良いし、運動も出来るし、顔も可愛いしスタイルも良いじゃない。生徒会副会長をしてみんなの人望もある。みんなが羨ましいと思える存在だよ」
本心から思っていた事を吐き出したのだが、永遠は意外そうに目を丸くし、笑った。
「それは全部、詩春ちゃんのおかげだよ」
「私のおかげ? 一体何の事を」
そこまで言って、はたと言葉が止まった。彼女は覚えているんだ、私が忘れてしまった事を全部。
「ちゃんと言ってくれたんだよ、幼稚園にいた時に。たくさんお勉強して、いーっぱい走って元気になって、友達もいっぱい作ったら絶対に楽しいんだからって」
それはきっと先生や親などに言われた事を多分自分よりも下だと思った永遠に言ったのだろう。私には下の姉妹がいないけれど、妹のように思ってそう教えていたのかもしれない。まぁ、全ては憶測でしかないのだが。
「だから今の私を作ったのは詩春ちゃん。私にとって憧れで、恩人。今でもひそかに、でもずっとそう思っていた。だから、さっきの事が信じられなくて。尊敬していた人が私を好きだと言っても、どうしたらいいのかわからなくなっちゃった」
「その、ごめん」
「謝らないでよ。告白はその、びっくりしたけど嬉しかった。でも、何を言えばいいのか今もまだはっきりわからない。だって女の子同士じゃない。そんなの同性からなんて考えてもいなかったし、ましてや詩春ちゃんからだったから」
ゆっくりとうつむいた顔を、同じ速度で永遠は上げる。
「でも、そんなに泣くほど真剣に想ってくれていたんだって知ったら、私も」
目が合い、そして初めて心までもが真正面に向かい合ったような感覚が生まれる。
「私も、その……真剣に受け止めるから」
「永遠……」
「待って。その、詩春ちゃんが思うような最高の答えは出せないかもしれないよ。ただ、その、他の人よりかは有利だとは思うけど」
最後の方は声も小さくなっていたけど、はっきりと聞き取れた。その様子に張り詰められた緊張感が緩み、安堵と共にようやく笑えた。永遠もそれにつられて笑う。また涙は流れたけれど、今までとは違う涙の温度だった。
あぁ、何だ。結局永遠との間にあるのは氷の壁だとか薄氷のような恋だとか勝手に思っていたけれども、彼女の笑顔で全て吹き飛んだ。私の前に薄氷があったんじゃない、私を包んでいたのがそれだったんだ。けれどそれも今、感じない。
信じよう、永遠を。彼女の出した答えが何であれ、きっと雑なものではないのだから。何もかもを忘れてしまった私を信じ、それを支えにこうまでなった永遠が考え抜いた答えならば私はもう受け入れるしかない。良いも悪いも、全部。そうすれば勝手に生まれる罪悪感、羞恥心、不安や引け目なんかはぎゅっと押し潰して見えないところへ捨ててしまえるだろう。
自分で自分を閉じ込める必要なんかない。怖くても辛くても、行かなきゃ勝負にならないんだから。
「答えはその、まだいいから。でも、せめてこうさせて」
私はおずおずと手を伸ばし、永遠の掌に触れる。すると永遠はためらいがちに、でもしっかりと手を繋いでくれた。私が力を入れれば、永遠もそれを返す。そこはもう、氷なんか出来る余地がないほど、熱い脈動があった。