課長の願いと私に決められた道
開発を出ると、私は走って総務に戻ろうとして……すぐに腹黒課長こと、総務課長の姿を見かけた。
私は一直線に課長に向かって歩いて、その腕を掴んで一番近い廊下に連れ込んだ。
「なになに?どうしたの?」
課長を壁際に追い詰めた私に驚いた顔をする。
「ちょっとまってよ。僕は結婚しているって言ったよね」
笑顔の総務課長を、私は腕を組んできっと睨みつけた。
ふざけている。
きっと私が怒っているのも、何に怒っているのかもわかっていて、わざとやっている。
「どういうつもりですか?」
「なんのこと?」
「井上さんのことです!」
私は怒鳴るように言い返した。
開発に私を出せというあの人の申し出に、OKを出すなんて!
私の秘密を知っているのにそんなことをするなんて!
私を守ると言ったのに、どういうことだ。
ちゃんと全力で守ってよ!
だけど課長はふっと息を吐いて、急に目を伏せた。
長いまつげが影を落として、急に顔が愁いを帯びる。その横顔はなんだかさみしそうにも、苦しそうにも見えて、
その姿に、ハッと息を飲んだ。
なんだか自分がこの人を責めているような気がする。
課長は視線を下げると、そのまま大きく息を吐いた。
「あいつは君ができるって思っているんだよ」
「できるって……」
「仕事がきちんとできるってこと」
まさか。
さっきだってあんなにダメ出ししたのに?
そんなの信じられない。
私は首を振った。
「井上さんはそんなこと思っていませんよ」
だけど課長はさっきまでとは全く違う真剣な目を私に向ける。
「君はできるって思うから、ちゃんと頑張って欲しいんだよ」
即座に私は首を振る。
「私には無理です」
大きくため息をついたら、課長はクスッと笑った。
「僕も君はできる気がする」
「無理だってわかっていますよね」
「いろんな事情があるからね。……でも、それって本当の君かな?」
課長が探るような目で見るから、とっさに顔を逸らす。
どうしてか、見られてはいけない気がした。
「やる気のないふりをしたり、興味がない様に振る舞ったり……僕には君が本当は頑張りたいのに、無理して諦めようとしているように見える」
「そんな……」
そんなことない。
言いたいのに、私は言えなかった。
口の中がカラカラで、言葉がうまく出せない。
「あいつもそれが嫌なのかもしれない。君はやればできるって言いたいんじゃないかな」
「どうしてそんなことを」
「理由は僕にもわからないよ。直接聞けば?」
あっさりと出来るはずもないことを言ってくる。
「どんな事情があっても……実力があるのに、それを伸ばせない僕は上司失格だ」
課長はそうしてまた目を伏せる。
「だから、君に雑用しかやらせない僕より、頑張らせようとする井上君の方がずっといい上司なんだろうな」
その顔からはこの人が悩んでいるのがわかって……まるで自分がこの人を苦しめている気がしてしまう。
だって、いつもに比べてずっと本気で、悔いるような顔だったから。
「そんなことないです。課長だって私のために色々考えてくれているじゃないですか」
あの業務提携案だって、そうだ。
だけど課長は寂しそうに笑う。
「そんなことない。あいつの方が君のことを考えている」
それに胸がドキッとした。
もし……私が大倉の人間ではなかったら?
考えても意味がないのに、前の会社の時からいつも、そのことが頭から離れない。
私が大倉の娘でなかったら、やりたい仕事もできて、忙しくても、もっと楽しくなるのだろうか。
そうしたら、いつも感じている、この胸の中がつかえるようなもどかしさも、なくなるのだろうか。
もし、私が頑張りたいと言ったら……この人はなんて言うのだろう。
まだ少ししか働いていないけれど、青柳はとてもいい会社だとわかる。社内にパワーがみなぎっていて、みんなにやる気があって、これから伸びていく勢いみたいなものを感じる。
みんないい人で、課長みたいないい上司もいて
そして、いろんなフィルターを取っ払ってみたら
私は井上颯斗に対して、どんな感情を抱くのだろう。
その答えはすぐ目の前にあるのに、私はそれを見るのが怖かった。
自覚したら、今までの自分がどこかに行ってしまう気がして……
私はその考えを振り払うように頭を振った。
考えても仕方がない。
機密には触れない。
ただひたすら静かに、真面目に働く。
そして……1年後、静かにここを去っていく。
それが、私に決められた道なのだ。
開発で働くことは、その中には入っていない。
課長は小さく笑った。
「優秀な人は正当に評価されるべきだよ。だから……本当は石田君にも青柳でいい仕事をしてもらいたい。どこの家の人間とか、そんなこと関係ないよ」
黙ったままの私を諭すように、静かに語りかけてくる。
「ちゃんと実力があって、一緒に頑張ろうと思える人と働く。いつかそんな会社にできたらいいと思っているよ」
それに胸がつきりと痛んだ。
いつか、の話はキツイ。
だって、私にはあと1年しかなくて…
その課長の願いが叶うころ、私はもうここにはいない。
わかっているのに、それを実感したら、猛烈な寂しさが襲ってきた。