なぜこうなった?
ひとまず、私は井上颯斗の何かのスイッチを押してしまったようだ。
あれ以来、あの人はとても簡単に私を呼ぶようになった。
何がどうして?
戻れるものなら、あの日に帰って私が踏んでしまった地雷を避けて歩き直したい。
電話で私を名指しして呼びつける井上颯斗に、周りは呆然としている。
自分ではないことに安心しながらも、どうして石田さんが?とその顔には書いてある。
私だって、聞きたいです!
どうして私なんだって!
一度勇気を出して、井上颯斗に意見してみた。
私はまだ社内の物の場所も連絡先もわからないから、何をするにも時間がかかる。
だから私以外の人に頼んだほうがいい。
もちろん、それは表向きの理由。
本当の理由は違う。
本当の理由は……開発部の、それも機械制作にどっぷり浸かっている人の仕事を手伝おうものなら、いつ機密に触れてしまうかわからないし、万が一秘密がバレたらと思うと怖い。
それをこの人には言えないけど。
そんなわけで表向きの理由をこれ以上なく理論的に、かつわかりやすく説明した。
言い返す隙もないくらいのいいプレゼンだったと思う。
だけどそれを椅子に座って聞いていた井上颯斗は、私をいつもと同じ冷静な顔で見つめた。
「言いたいことはそれで全部か?」
「言いたいことって……、まあ、そうですけど」
必死の私が息を切らせながら頷くと、井上颯斗は静かに背中を起こした。そのまま両手を組んで机について、そこに顎を乗せた。
顎から首にかけてのラインが綺麗で、ちょっと見惚れるくらい格好いい。
ただし、
しゃべらなければ。
「石田に頼んでる仕事は新人でもできる簡単なもので、誰に頼んでもいいのなら、石田に頼んでいけないということではない」
「はあ」
「それから、物の場所や連絡先はいつか覚えるのだから、この機会に覚えてしまえばいい。それが仕事をしない言い訳になるのなら、石田は総務でも働けないということになる。違うか?」
これ以上ない、ど正論だ。
黙ったままの私を、ものすごく残念そうな目で見た。
「それとも……石田は何回も同じことを教えないと忘れるのか?」
その視線が地味に胸にチクチク刺さる。
そんな目で私を見ないで!
そして私は敗北を受け入れた。
この人を説得するの、無理。
「わかりました」
そう静かに返事して、総務に戻ろうとする。
「あ、石田。待て」
振り返れば井上颯斗が私に書類を差し出した。
それは昨日この人から頼まれて作った書類だ。
以前に出したとある医療機器のシステムのバージョンアップ記録をまとめたものだ。嫌だと思ったのに断れなかったやつ。もうみんなが知っているデータならいいかと自分の中で妥協をしたのだ。
だって、断れなかったのには理由がある。
昨日、この仕事を頼まれて躊躇う私に、それならこっちにするか、と言ってこの人は別の書類を差し出した。
「新商品関連の資料作成にするか」
反射的に受け取ろうとした指がピクリと反応してしまった。
多分、私のそんな反応もこの人は見ていた、と思う。
心の中で焦りながらも、私はいつも通りに笑った。
「あ、じゃあ。最初の方で」
井上颯斗はじっと私を見ながら、最初の書類を黙って渡した。
何か言われるかと思ったのに、何もない。それが逆に怖い。
察しの良い人だから、何か勘付いたかもしれない。
変に関わるとボロが出そうだから、全力で終わらせて、井上颯斗が会議でいない間に完成した書類を開発の人に渡して逃げたのだ。
で、その書類を持って、今、井上颯斗は私の前にいる。
いつものように椅子に座って足を組みながら書類を見ている。
その姿がサマになっている。
眉根が寄った不機嫌そうな顔でも、素敵に見えるから不思議だ。
ただし、
しゃべらなければ。
井上颯斗は背もたれから背を起こすと私に視線だけ向けた。
すでにその視線が冷たい。
あ、これ絶対怒られる。
思わず身構えた。
「石田が考えたのだと思うが、いいまとめ方をしている」
井上颯斗はペンを出して、書類に書き込みだした。
「確かに見やすいし、わかりやすい」
間違いのない褒め言葉に、驚いた。
怒られると思っていたのに、褒められてしまった。
しかも社内一厳しいと言われるこの人に。
ちょっと気持ちが上昇して……そしてそれはすぐに落とされる。
井上颯斗はすぐに目を細めると顔を歪めた。
「前から思っていたが」
「はい?」
「石田は小さなミスが多い。いくつか誤字がある。それから、このグラフは縦に置いた方が圧倒的に見やすい。全体のバランスを考えて配置しろ。あとはフォントが……」
言いながら書き込みがどんどん追加されていく。
結局ダメ出しの嵐だ。
焦って作ったのがよくなかった。
その後しばらくダメ出しが続いて、もうこれ以上は頭がパンクする!というところでようやく終わった。
だけど私をどっぷり落ち込ませた張本人は、顔色ひとつ変えずに私に書類を差し出した。
遠目に見ても、真っ赤だよ。
ゲンナリする。
強い疲労を感じながら私は息を吐く。
「悪くないがツメが甘い。あと、全体に少し雑だ。気をつけろ」
「…はい」
的確過ぎるダメ出しが、辛い。
ため息を吐いて書類を受け取ろうと手を伸ばした。
「え?」
書類を掴んで自分に引き寄せようとしたけれど、……その書類は井上颯斗が掴んだまま。強く引いても、離してくれない。
同じ書類を挟んで、私と井上颯斗が目を合わせることになって、その行動に戸惑う。
「あの……離してもらっていいですか」
井上颯斗はそれを軽く無視すると、私を見たまま口を開いた。
「俺が石田の異動を願い出たのを知っているか?」
「え?異動?どこに?」
「開発に決まっているだろう」
「………え?」
威圧感たっぷりに恐ろしいことを言われて、今度こそ顔が引き攣った。
私が開発に……?
そんなの絶対にない。あり得ない。
目を丸くする私から、井上颯斗は目を離さない。
そして本当に忌々しそうな顔をした。
「なのに、あの人は全く違う人間を派遣しようとした。ふざけるにもほどがある」
「それ、どうしたんですか」
あの人って課長だなと思いながら聞き返すと、冷たい視線で息を吐いた。
「却下した。当たり前だろう」
きっと課長はとぼけて別人を出したんだな。しかも笑顔で。
その光景が簡単に想像できた。
だけど、腹黒のおかげで助かった。
何かの拍子に私の秘密がバレて、その時に私が開発部なんて会社の中枢に入り込んでいたら……絶対に揉める。
心の中で腹黒課長を応援する。
あの時、私を守ってくれるって言ってたもんね。
社長の息子という権力を使って私を守ってください。
だけど、突然井上颯斗はパッと書類から手を離した。
書類は勢いよく私の手元に戻ってくる。
「な……」
何をするんですか、と言う前に井上颯斗が立ち上がった。
背の高いこの人が目の前に立つと、私はどうしても見下ろされてしまう。
静かな顔をしたこの人が見下ろすと、ものすごい威圧感だ。
「だから、ちゃんと交渉した」
「交渉?」
「あの人……総務課長と話し合いをして、石田が開発に手伝いに来ることを許可させた」
え?
恐ろしいことに気がついて青ざめる私に向かって、井上颯斗は満足そうに笑った。
「これから総務に手伝いを頼む時は石田に来てもらうことにした。しかもちゃんと上司の許可も得てある。安心しろ」
まさか課長が許可したの?
何をしている、腹黒課長。
思わず怒りが込み上げて、手のひらをぎゅっと握りしめた。
「と言うわけで、これからもよろしく」
そう言って井上颯斗は私に笑いかけた。
悔しいけれどその笑顔は、
思わず怒っているのを忘れてしまうくらい……
素敵だった。