会ってはいけない人に会ってしまったのですが
開発部の中は総務に比べると、ずっとピリピリした空気が漂っていた。
全員がパソコンに一心不乱に向き合っている。
恐る恐る中を見渡して、井上颯斗を探して……
目当ての人はすぐに見つかった。
一番奥の机に、誰が見ても美形だというに違いない男の人がいたのだ。
通った鼻に、形のいい唇。長めの前髪の下は切長の瞳が覗いている。
座ってパソコンを眺めているだけで、絵になる。
だけどその全身からは張り詰めるような緊張感が漂っていて、声をかけるなという無言の圧を感じた。
噂通りだ。
私は勇気を出して話しかける。
「総務の石田です」
私の声にその人が顔を上げた。
正面から顔を見ると、改めて本当に整った顔だなと思った。
だけどその目つきが鋭くて、ただ顔を向けられただけで、思わず背筋が伸びた。
なんだこの異常な威圧感は。
じっと待っているとその形のいい唇が開かれて、さっき聞いた低めの声が聞こえた。
「手伝いを頼みたい」
そう言って井上颯斗は私に書類を渡した。
当たり前のように受け取って何気なく目を通して、固まった。
それは現行商品のアップデートの説明書だった。説明書のような図表付きの書類の隙間に、赤い字でコメントがびっしり書き込まれている。
どう考えても、まだ世に出る前の商品の書類だ。
まずい。
焦った私は、咄嗟にそれを裏返して見ないようにした。
こんなの私が見たら、まずいことになる。
自分としては防御のためにとった行動だけど、それに井上颯斗が眉を顰めた。
「おい、なんだ」
鋭い目がお前ふざけるな、というように見るから、その視線の強さに私は肩をすくめた。
「いえ。私、まだ来たばかりで、機密書類はちょっと見るのが怖くて……」
「機密?」
もらった書類を裏返すとかふざけているにも程があるが、仕方ない。
だけど意外にもそこはあっさり素通りされた。
井上颯斗は手にしているボールペンで私の持っている書類を指差した。
「その書類はまだ完成してない。書き込みしてある分を追加して完成版を作ってくれ」
「………は?」
「その書類の清書を君に頼みたいって言っているんだ」
横目に私を見るその顔が、こんなこともわからないのかって顔をする。
頭では理解できても、受け止められない。
つまり、私に、開発の書類を修正しろってこと?
あまりのことに固まる私を、井上颯斗は鬱陶しそうに見た。
「そこのデスクが空いてる。置いてあるパソコンを使ってくれ。パスワードは……」
「あ、あの!」
ちょっと待って!
私は急いで手を上げた。
先生に質問する小学生のような私を、井上颯斗はさっきよりもさらに深い皺を眉間に作って見つめる。
「なんだ?」
「課長に許可を取らないと」
「手が足りない時は総務から人を借りていいと言われている。いちいち声をかける必要はない」
「でも私は異動して来たばかりで、まだ」
「どの会社でも使うソフトだ。新人とかベテランとか関係ない。関係あるのは本人の能力だけだ」
吐き捨てるように言って目の前のパソコンに視線を戻す。
この人がこの会話を終わりにしたいのがわかる。
だけど、そうはいかない。
これは課長とも約束した、私が関われない案件だ。
「本当に申し訳ないのですが、私はここで働いてまだ1週間で、知らないことが多くて、この仕事は荷が重いというか」
当たり障りのない言葉を選んで、だけどはっきりと伝える。
「他の仕事なら、雑用でもいいのでそれをやるので、これは他の方に……」
だけどそこで、
私の言葉を遮るように、ばしんと物と物がぶつかる音がした。
驚いてそっちへ視線を向けて
井上颯斗が握りしめたボールペンを机に叩きつけた音だとわかった。
その決して大きくないけれど、空気を切り裂くような鋭い音は部屋中に響いて
どう見ても、穏やかではない空気が、私たちの間に広がる。
室内にいる全員がその音で私たちに注目して、これからどうなるのか、困惑と恐れを抱いて見つめているのがわかる。
何よりも私を見上げたその視線が、今までなんて比べ物にならないくらい
とても冷たいもので……
背筋が凍る気がした。
「君にやる気がないことは、よくわかった」
元々鋭い目が、今はもっと鋭い。
私はなんとか震える声を出す。
「他のことなら」
「やる気がない人間に仕事はさせられない」
もう帰れと言われるかと思ったのに、井上颯斗は胸ポケットからスマホを出して、私の目の前に突き出した。
そこには古い機械のパンフレットが写っていた。
これはビデオカメラ?のパンフレットだろうか。
私は眉を寄せてそれを見つめる。
これは一体なんなのだろう?
恐る恐る顔を向ける。
「これ……」
冷たい声で返事がきた。
「青柳の昔の機械のパンフレットだ」
「これが、何か?」
いまだに意味がわかっていない私に向かって、ため息まじりの返事がくる。
「見たい人がいる。探してもってこい」
「………は?」
この、古いパンフレットを探してこい……ってこと?
井上颯斗はスマホをしまうと、私を見た。
「君に頼もうと思った仕事は俺がやる。やりたくないというやつにやらせる仕事はない」
井上颯斗は腕を組むと私を見下ろした。
とりつくしまもないくらい、冷たい声だった。
「このデータは機械に取り込んでない。書類庫に行って探せ。どこにあるかわからないから、あの倉庫の中を探すのは大変だぞ」
そのまま私から視線を逸らせて息を吐く。
「頼んだ仕事を君がやってくれないなら、それは俺がやる。代わりに、今すぐこれを倉庫で探してこい」
そこでまた、大きなため息をついた。
「雑用ならやるんだろ」
「え?」
ものすごく冷たい視線だった。
「ないかもしれないものを探すなんて、人に頼める仕事じゃない。だから、本当は俺が自分でやろうと思ってた。だけど君が……」
「やります!」
食い気味に私は手を上げた。
「私がやります!井上さんには大変な仕事があると思うので、それに集中してください」
その勢いに、今度は井上颯斗が眉を寄せた。
人が嫌がるような仕事を喜んでやるなんて、おかしな人だと思ったのかもしれない。
だけど私には願ってもない話だ。
あるかわからない書類?
書類庫で捜索?
望むところでしょう。
しかもこれは昔の書類だから、私が見ても問題にならない。
それが一番ありがたい。
さっきの書類作成の方が、私には何倍も罪深い。
私は井上颯斗に顔を向けた。
「じゃあ、急いで探してきます。いつまでですか?」
「……5時」
「わかりました!」
私は井上颯斗に向かって大きく頷いた。
絶対に時間前に見つけてみせます。
なぜか笑顔でやる気を出した私を、井上颯斗はその綺麗な眉を歪めて、面倒そうに見つめる。
反対に私は笑顔で身を翻すと開発の部屋を出た。
そうして私は走って書類庫に向かった。