一番会ってはいけない人
課長との話し合いから1週間後の午後、調子良く仕事をこなす私のデスクの電話が鳴った。
1コールで受話器を取る。
「総務です」
受話器の向こうから低めの声がした。
「今すぐ開発に来てくれ」
「は?」
聞き返そうとしたときにはもう、電話は切れていた。
私は呆然と受話器を見つめる。
ナニ、これ?
っていうか、誰?
困っていると、隣の先輩から声がかかった。
「どこから?」
「あ、いや…開発から」
「開発?!」
先輩はあからさまに動揺した。引き攣った顔で私を見る。
「え、開発の誰?何を言ってた?」
私は首を傾げる。
言っていたってほどの会話はなかった。
「今すぐ開発に来いって言って切れました。しかも相手が名乗ってくれなくて、誰かわからなくて。そんなことありますかね?」
電話に出たら自分の部署と名前を言えと、社会人なら最初に習うものだ。
ここの社員教育はどうなっているのかと思っていると、隣の先輩がヒッと悲鳴みたいな声を出した。
「それ、井上さんだよ!」
「え?」
「井上さんだって!」
口元に手を当てて顔を真っ青にして慄く先輩を見て、私は眉を寄せた。
「井上さん?」
「それ、井上颯斗。開発の、課長…あ、まだ課長じゃないか。えっとでも、それは井上さんで間違いない!」
「井上さん……?」
そこで私はようやく思い出した。
その『井上さん』と言う人が
ついこの間噂話で聞いた、この会社で一番の有名人の……
井上颯斗のことだと。
******
働き始めてから、私は青柳のことをたくさん知った。
総務課長は予想通りとても優秀で、社長の長男ということもあって次期社長がほぼ確定していることや
社長は本当に機械が好きで、今でも時々工場に入り浸って周りを困らせていること。
情報収集する気がなくても、同僚と話すだけで、いろんな事を知ってしまう。
それから
……青柳では、そろそろ新商品開発に向けての動きがある…と言うことも。
それを聞いて、思わず息を飲んだ。
「新商品」
つい口に出してしまって、それからドキドキする。
青柳が大倉を追い抜いた製品から既に5年。
確かに後継品を出してもいい頃だ。
まさか私がいる時に、その話が動き出すなんて……
自分のタイミングの悪さにため息が出る。
自分の思考に入り込む私を気にせず、同僚たちは話に花を咲かせる。
「そろそろ新しい機械をって社長が指示を出したらしいよ」
「え?私は既に開発チームができたって聞いたけど。井上さんがリーダーで」
「っていうか、リーダーは井上さん以外ないよ」
そこで気になって、つい私は聞いてしまった。
「井上さん……って?」
私が声をかけたことに驚きながら、その子は私を見て笑った。
「あ、そうか。石田さんはまだ知らないよね」
そう言って「井上さん」の話を聞かせてくれた。
井上颯斗という人は、青柳の中でも一番重要な商品開発部の課長補佐だ。
でも課長補佐というのは名ばかりで、実質の責任者は彼だという。まだ30歳前で会社のメイン部署を仕切るなんて、かなり優秀なんだろう。
ここ5年の青柳の商品には、特に人気のものには必ず彼が関わっていて……
井上颯斗は周りから『青柳の頭脳』と呼ばれている。
それを聞いて、その人に興味がわいた。
だって、大倉は青柳にずっと負けている。
その理由が5年前のあの機械だ。
大倉はどんなに頑張ってもあの機械を超えるものが作れなくて……
つまり大倉が青柳に勝てないのは、その人の作った機械のせいだ。
その人一人に、大倉グループはやられている。
会社全体が、たった一人に。
そんな『青柳の頭脳』って……
井上颯斗という人は、どんな人なんだろう。
黙る私に、同僚が声をかけた。
「でもね、井上さんには関わらない方がいいよ」
「え?」
「だってめちゃくちゃ、厳しいんだもん」
ねーっと同僚たちは顔を見合わせて笑った。
「厳しい?」
私の言葉に、最初に説明してくれた人が頷く。
「仕事厳しいの。書類作りとか頼まれると、もうめちゃくちゃにダメ出しされる」
「あと、夜遅くなるしね。困るって」
「だから開発から電話が来るとみんなビクビクするの」
同僚たちは顔を見合わせて頷き合う。
その話を総合すると、井上颯斗はかなり面倒な人のようだった。
完璧主義で、仕事に厳しくて、会議で容赦ない追及をして先輩後輩に関わらず、人を震え上がらせたことも数知れず。朝早くから夜遅くまで働いているし、開発部の中にはそんな彼のために設備のしっかりした仮眠室まで設けられたという。
完全な仕事人間だ。
だから尊敬されているけど、同じくらい怖がられている。
「だけど、見た目はものすごくいいんだよ」
「間違いなく、社内で一番格好いい」
それに驚いて聞き返す。
「うちの課長より?」
顔だけなら総務課長だってかなり良い。
私が今まで出会った中で、見た目が一番いいのはあの人だ。
それより良いってこと?
だけど私の質問に全員が首を縦に振ったから驚いた。
「でも怖いから、気軽に声はかけられないけどね」
「あのちょっと冷たい感じが私はいいけど」
一部では彼を熱心に追いかける人もいるとか、いないとか。彼の噂話も仕事の事より、誰が告白したとか食事に誘ったとか、そんな話の方が多いという。
前の会社でも、人気の男性社員はいたけど、どこにでもそういうのはあるのだな。
見た目は関係なく、私はその人のことが気になって仕方なかった。
どうやって、機械を作っているのか。どんなふうにアイデアを形にしていくのか。
話を聞いてみたい、どんな風に働くのか見てみたいと思う。
だけど……私にはそれはできない。
課長にも大倉のスパイとか、機械製作者の引き抜きを疑われて、
私は絶対にそんなことはしないと誓った。
と、なれば機械製作責任者である井上颯斗は、私が会ってはいけない人になる。
それに…言いたくはないが、私の理想は優しい人。
お父さんが頑固一徹の怖い人だったから、恋人はひたすら私を甘やかしてくれる人がいい。
噂で怖い、冷たい、辛口と言われている井上颯斗は……
私の理想のタイプの対極に生きている。
******
先輩の話している『井上さん』が誰かようやく理解できた。
「え?え?どういうこと?なんて言ってたの?」
狼狽える先輩の様子を見て、あの人が怖がられているのが本当だと実感する。
私は肩をすくめた。
「すぐ開発に来いって……」
「誰に?課長はいないんだけど」
明らかに様子のおかしい先輩は怯えたままだ。
私はもう一度首を傾げた。
「いや、誰を、とは言っていなかったので」
「え?」
途端に先輩の表情が緩んだ。
「誰でもいいの?」
「誰でもってわけではないと思います。私はまだ慣れてないので、先輩に行ってもらった方が」
まだ何もわからない私より先輩の方がずっといい。
それに、私は開発に立ち入りたくない。
危険でしょう。どう考えても。
だけど先輩は真っ青になった。
「え?だめ!絶対だめ」
食い気味に私の言葉を否定して、大袈裟に首を振る。
「今すぐ行って!すぐ!」
「え、でもわたし」
「電話取った人が責任取って!あの人待たせると怖いから、ダッシュ!」
「え?でも」
「良いって。急いで、走って、すぐ行って!」
怖いという噂だけど、あまりにも怯えすぎだろう。
結局、私は開発にいくことになってしまった。
ああ、まずい。
一番行ってはいけないところに行くなんて。
そして、間違いなく……
一番会ってはいけない人に、会ってしまう。
開発の部屋の前で立ち止まると、私は胸に手を当てて、深呼吸した。
そうして、勇気を出して、ドアを開けると、その中に足を踏み入れた。