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どこの誰でも

突然名前を呼ばれた時、頭の中が真っ白になった。

だって、名前だよ?


ちょっと頭の硬い、会社の上司の、しかもただの上司じゃなくて、ちょっと怖い冷たい上司から

いきなり、名前呼び。

驚かないはずがない。

だからつい、目の前のキレイな黒い瞳をただじっと見つめてしまった。



だけど私の顔がよっぽどおかしかったのか、井上颯斗はそんな私を目を丸くして見ていて……少しして堪えきれないようにぷっと吹き出した。

「なんだよ、その顔」

「なんだよって」

「間抜けな顔してる」

「間抜け?私のせいじゃないです!井上さんのせいですよ!」

「どうして俺のせいなんだよ」

「だって、突然……」

私は口ごもった。


うまく言えない。

だけど悪いのはこの人だ。

突然、名前を呼ぶから。


驚いた。

だけど、本当は少し……嬉しい。


少し、じゃない。

すごく、すごく、すっごく嬉しい。

だから胸の中がぐちゃぐちゃになってしまった。



この人はいつも私を「石田」と呼ぶ。

それは私の名前だけど、でも、本当の名前じゃない。本当の名前は「大倉実桜」だ。

私はこの人に、自分の名前を呼んでもらいたかった。

ずっとずっと、名前を呼んで欲しかった。


「石田」と呼ばれるたびにいつも、本当の自分を見てもらえていない気がして……

寂しかった。どこか満たされない気がしていた。


だから……名前を呼ばれただけなのに。

すごく、嬉しい。


なんだか鼻の奥がツンとして、急いで俯く。そんな私の頭の上から声がかかる。

「あんまり深刻になるな」

髪をかき上げて話す井上颯斗の軽さに拍子抜けする。

「深刻って」

だって、どう考えても私のことって、ものすごく深刻な話なのに。


私が青柳で働いているだけでなくて、まさか男性と同居しているなんて知られたら……本当にマズイ。

チラッと井上颯斗の顔をのぞく。

この人が私の本当のことを知ったら……どう思うだろう。

少しづつ積み重ねてきた信頼とか全部無くなってしまうんだろうか?

そう考えたら、胸がずんと沈んだ。


すると突然私の鼻がぎゅっと摘まれた。

「痛い!」

「一人でくだらないことを考えているからだ」

「いや、だから大変なことなんです。私……」

その時正面から口元に指が当てられた。

これ以上話さなくていいと目の前の黒い瞳が告げる。


「一人で抱え込むな」

「ひとりでって……」

井上颯斗はじっと私を見つめる。

「いつも何か悩んでただろ」

「……いつも?」

「そう、実桜はいつも何か悩んでる。一緒に暮らしていればそんなことは簡単にわかる」

「そんなこと言ったって……」

「話せばいいだろう」

「話せばって……」

「一緒に考えたら、解決できるだろ。俺は問題解決は得意なんだ」

そう言って笑顔を見せるけれど、私は笑えなかった。


だって…話せるわけない。

青柳の一番のエリート社員には、どうしたって言えないことがある。

この人にだから、好きな人にだから、言えないことだってあるんだ。



「実桜のことを誰よりも信用しているし、大切に思っている。だからちゃんと俺が守る。実桜がどこの誰でも、その気持ちは変わらない」

その言葉に胸がドキンとした。

「どこの誰でもって……」

深い意味はないかもしれない。だけど……

それが本当だとしたら?



戸惑いながらその目を見つめたら、真剣な光を帯びた目が見つめ返してきた。

「どこの誰でも、だ」

その目に見つめられて、心臓がドクンと鳴った。

「絶対に俺が守る」

あり得ないくらい早く打つ胸を抑えながら、私はやっとの思いで口を開く。

「な、何を言っているんですか……そんなのまるで……」

そこまで言って、思わず口を閉じた。



だって……

そんなの、まるで……

私が誰であっても、変わらずに好きでいるって言っているみたいに聞こえる。

私が、誰でも。


大倉実桜、でも。



そんなはずないってわかっているのに。

都合のいい考えだってわかっているのに。


つい顔を反らせたら、今度は顎を押さえられて顔を井上颯斗の方へ向けられた。見上げた先にある綺麗な顔はちょっと不機嫌そうに眉を寄せている。

「おい、目を逸らすな」

「だって井上さんが変なこと言うから」

「変なことって……」

「だって……そんな、誰であっても守る、なんて……」

恥ずかしくてその目を見られなくて視線を逸らそうとしたら、今度はぐいっと顔が近づいた。

目の前に顔がくる。強制的に合わせられた視線はじっと私を見ていた。


なんだか、その視線が熱い。

「守るよ。絶対に守る。実桜を守るのは、俺だ。他の奴にはやらせない」

「ちょっと、待ってください。それって……おかしい」

なんだかおかしい。


こんなの、まるで……

私が井上颯斗の恋人みたいだ。


「おかしくない。俺は本気だ」

「おかしくないって、だってそんなの」

この空気を変えたくて私は焦って口を開く。

「なんというか、ちょっと言い方がおかしい……そんなの、私が井上さんにものすごく大事にされているような言い方だから……つい……」

チラッと視線を上げたら目が合って、慌てて逸らせる。


だって恥ずかしすぎる。

告白されたと思ったなんて、言えない。

自意識過剰とか、絶対に……笑われる。


だけど井上颯斗はそんな私を見てあからさまに固まって、少しして大きく肩を落として息を吐いた。

「本当に………」

小さく聞こえた声のトーンが低い。

そうしてはっきりとため息を吐いた。


え、私、何かした?


明らかに落ち込んだ様子に、今度は私が慌てる。

「なんだか変なことしました?おかしかったですか?」

井上颯斗は視線だけを上げて私を見る。目があった瞬間、顎の手が離れて、おでこを思い切り弾かれた。


「いたっ」

両手でおでこに当てて非難するようにみると、井上颯斗は息を吐いて腕を組むと、私を見た。

「大事にしてるんだよ」


え?


少し顔を逸らせながら、視線だけはちゃんと私を見て、少し早口で一息に言い切った。



「誰よりも大事にしてる。何があっても、絶対に守る。誰に何を言われても、実桜がどこの誰でも、絶対にこの気持ちは変わらない」





「………ここまでいえば、わかるだろ?」





「俺は実桜が好きだ」







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