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熱い手

後で振り返ると、どうしてあの時こうしておかなかったのだろうと思うことってたくさんある。

試験勉強とか、ピアノの発表会の直前とか……今までにそうやって後悔した数を数えたら、キリがない。


でも、今までで一番の後悔。それは……

それは私が井上颯斗に実家のことを話さなかったこと。


どうして私は井上颯斗に本当のことを言わなかったのだろう。

その理由はちゃんとわかっているくせに、つい考えてしまう。



言うタイミングはたくさんあった。

例えば、同居を始める前。

それから、新商品の仕事に関わる前。


何回後悔しても足りないけど、これは本当に課長の言う通りだと思う。

最初に言っておけば、こんなことにはならなかった。



あの人のそばにいたいから、本当のことは言えないという自己中心的な理由のせいで

私は好きな人に大きな嘘をつき続けることになってしまった。



もしかしたら、そのせいでこんな思いをするのかもしれない。

この人と暮らす生活で、私はいつもどこか寂しかった。心に大きな穴が空いているような気がしていた。

その理由が今ならわかる。



だって……

あの人が見ているのは、本当の私ではない。

あの人がどんなに優しく私を呼んでも、それは私の本当の名前ではない。


私の本当の名前は、石田ではない。

あの人が見ているのは、私ではない。



あの人が私を『実桜』と呼ばない限りは、

私はあの人に自分の名前すら、呼んでもらえない。


自分の名前を呼んでほしいって

本当はずっと思っていた。



それが本当に……寂しかった。






******


井上颯斗は私の部屋の中へ視線を向けて、まとめられた荷物と開けられたキャリーケースを見て片方の眉を上げた。その顔は無表情だったけれど、思わず声をかけるのをためらうくらい、冷たい空気を発していた。

だけどそのことについては何も言わずに、

「ちょっと、いいか?」

硬い声でそう言って顎でリビングを指すから、私は黙って頷いた。


ソファに座ったこの人の目の前の床に正座していると、初めてこの人の家に来た時を思い出す。


あの時はまだ、この人があり得ないくらい怖かったし、何を言われるかわからなくてひたすら怯えていたけれど、それすら懐かしい気もする。

だけど、あの時よりも確実に今日の方が怖い。

ソファに座って両腕を組んで、じっと私を見るその視線が……凍るように冷たい。


でも仕方ないか。

だって昨日、私がいるはずもないあんなところにいて、しかもどう考えてもおかしなことを言ってその場から逃げたんだから。



私は膝の上で両手を握る。

この状況は私が何かしないと、変わらないだろう。

何か……それは、私が真実を話すこと。

昨日のことがあってもなくても、私は今日のうちにこの人に本当のことを話すつもりだったんだから、言うしかない。



私は顔を上げると、目の前の井上颯斗の顔を見つめた。

覚悟を決めて大きく息を吐いて口を開けた時、私より先にこの人が話した。


「ここを出ていくつもりなのか?」

「え?」

「なぜ荷物をまとめていた?つまり、ここを出ていくつもりなのか?」

思い切り不機嫌な顔で、吐き捨てるような言い方だった。

私はグッと両手を握りしめた。


もう全部話すしかない。

私の家のことも、昨日あそこにいた理由も、それからこれ以上ここにいられない理由も。

だけど……覚悟していても、勇気がいる。


「この間言ったように、井上さんにお話したいことがあって……」

そこまで言ったところで井上颯斗が体を起こして私の顔の前に手のひらを広げた。

まるでこれ以上話すのを遮るように。



私が眉を寄せると、私を見る井上颯斗と視線があった。

ものすごい圧で私を見るから、話しにくいと思っているとその圧を出したまま話し続けた。


「石田は俺に話したいことがある、そう言っていたな」

「……そうです」

「その話したいことが、石田がここから出て行こうとする理由で……、それから昨日あそこにいた理由とも、関連している。……俺はそう理解しているんだが、間違っていないか?」

切り込むような視線がひたと私を見つめる。


その目を見た時に、もしかしたらこの人はもう真実を知っているのではないかと思った。

もう全部わかっている気がする。そんな気持ちにさせる視線だった。



黙ったまま私が頷くと井上颯斗は息を吐いて私の目の前から手を下げて、私の前に片膝をついた。

「先に俺から、いいか?」

驚いて見つめ返すと、井上颯斗が私を見つめていた。


「前に石田が俺に言ったことがあったな……覚えているか?」

「え?」

「この先何があっても、絶対に俺を裏切らないと言ったこと、覚えているか?」

息を飲んだ。



絶対に忘れるわけない。

他ならぬ自分が言ったのだから。



理由なんてどうだっていい。

私はこの人を裏切らない。


あの時の私は…どうしてもそれを伝えたかった。




「はい」

「その気持ちは本当か?」

「本当です」

「今でも変わらないか?」

じっと見つめる井上颯斗に、私ははっきりと頷いた。

「その時も、今も、これからも……絶対に変わりません」


挫けそうになる気持ちを堪えて、この人の目を見つめる。

絶対に逸らせたらいけない気がした。


数秒間……もしかしたら、とても長い時間だったのかもしれない。

少なくても、私にはとても長く感じた。

その間ずっと私たちは見つめあっていて……そして井上颯斗はふっと息を吐いた。



「わかった」



そうして私の目の前に腰を下ろすと、肩の力を抜いて髪をかき上げた。

「じゃあ、俺の話は終わりだ」

そして思い出したように私へ顔を向けた。

「で、石田の話はなんだ?」

そのあまりにも軽い言い方に、私は驚いた。


なんだこの態度。

まるで夕飯のメニューを聞くみたいな気軽さじゃないか。

これからする話はとても大事な話なのに……

少なくても私にはとても大事な話なのに、この人にもそれが伝わっているはずなのに

どうしてこんな態度でいられるのだろう。



思わず少しムッとしながら口を開く。

「あの、私のはすごく大事な話で……」

「わかった」

「……あの、本当に大事なことなんです」

「そうか」

わかっていると言う割には、とてもあっさりとしている。

「井上さん!聞いてください」

その言い方にムッとして私は思わず井上颯斗の腕を掴んだ。

責める私を、井上颯斗はとても冷静に見返した。

そして手を上げると、私の手のひらに自分の手を重ねた。



その手が驚くほど熱かった。

「俺は石田を信用している」

「信用って……」

あまりにも簡単な答えに力が抜ける。

だけど井上颯斗は私を見て、そして視線を逸らせた。呆れたように肩をすくめる。

「おかしいか」

「いや……なんというか。随分簡単に言うんだなって」

今度は井上颯斗が苦笑いした。

そうしておもむろに手を伸ばすと、私のおでこを音を立てて弾いた。


「いたっ!」

「人の言うことをバカにするからだ」

バカになんてしていないです。そう言おうとしたら、その前に井上颯斗がまた私の前に顔を寄せた。

どう見ても笑顔なのに、同時に見たことないくらい真剣だった。


だからその視線の強さにドキッとして、何も言えなくなった。



「俺は石田を信用している」

「だからそれは、聞きました」

「今までだったら絶対に一人でやる仕事を一緒にやるくらい信用している。これは今までの俺にはあり得ないことだ」

「でもそれは……」

私は言葉を濁した。

だって、それは私の秘密を知ったら……信用なんてされるはずない。

悩む私と反対にこの人は私から目を逸らさなかった。



「それだけじゃない。会社の後輩と同居するなんてあり得ないことまでするくらいだからな」

「あり得ないって……」

心臓が全速力で走ったみたいに打っている。

この人が何を言おうとしているのか、怖くて聞けないような、だけど気になってたまらないような、変な気分だ。


「俺は石田を信用している。………何があっても、それは変わらない」

胸がドキンと一際強く打った。

「石田は俺を裏切らないと言ったし、俺はそんな石田を信用している。それ以上でもそれ以下でもない」


井上颯斗の顔が目の前だった。

長いまつ毛もその下の黒い真剣な光を宿す瞳も、全部がすぐ近くだった。


「それから、ここを勝手に出ていくのは許さない。ちゃんと理由を話して俺を納得させてからにしろ」

「そんな……」

「でも、そうだろう?俺には聞く権利がある」

かなり横暴なことをさらっと言って、私の目を覗き込んだ。

「でも……この先の話を聞いたら、井上さんは私のことを信用できなくなるかもしれません」

「そうか?」

「そうです。絶対に嫌な気持ちになります」

だけど、井上颯斗は顔色ひとつ変えなかった。


「石田が誰であっても、変わらない。俺は石田を信用している」


そこで言葉を止める。

私を見る目に強い光がこもった。


井上颯斗はそっと手を伸ばす。

私の頬に熱い手のひらが重なった。


とても熱い手だった。


「石田が誰だなんて関係ない。俺は目の前にいる石田を信じる。誰が何を言っても、それは変わらないし、変えるつもりはない」

「誰でもって……」

「そうだ。誰でも、だ」

当たり前のように頷いて、また私を見つめる。


まるでその目が逃さないと言っているような気がした。


「俺は実桜を信用する」





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