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遠くの存在

その人はスタイルのいい細身の体を仕立ての良い光沢のある青いスーツに包んでいた。今日は前髪をきれいに後ろに上げて形のいい額が見えている。着ているスーツのせいか、それともいつもと違う髪型のせいか……それとも、いつもはあまり見ない感情の見えない静かな顔のせいか……、年齢よりも大人びた印象になっていた。

だけど切長の涼やかな目元はいつもと同じ。




その瞳の持ち主が誰か、距離の離れた場所にいても、私にはわかった。


そう、井上颯斗だ。



特殊な事情があるとはいえ、私にとっては一緒に暮らすほどの身近な人間なのに、今は近寄ることも声をかけることもとてもできないくらい遠い存在に感じた。


違う。

とてもではないけれど声をかけられる状態ではないからだ。

私がここにいる理由もこんな格好をしている理由も言えない。

でも声をかけられない一番の理由はそうじゃない。



私が声をかけられなかった理由。

それは、井上颯斗の隣に、とてもきれいな女性がいたから。




その女性は私と同じ青いドレスを着ていた。だけど私よりも少し落ち着いた色合いの青い色は、彼女を一人の立派な大人の女性に見せていた。

実際の年齢も井上颯斗と同じくらいに見えたし、誰が見ても美人だと思うような華やかな美人で人目を引いた。実際、その人には歩き方にも身のこなし方にも、自分に自信のある人特有のものがあった。


彼女はちょっときつめのはっきりした瞳を井上颯斗にしっかりとむけて、その両腕を井上颯斗の腕に絡めていた。

お互いの息遣いがはっきりとわかるくらい顔を寄せて話す彼女に、それを避けることなく、静かに頷いている井上颯斗の姿に、二人の間の親密さが伺えた。

きっと、こうして何度も過ごしてきたのだろうなと、素直に思ってしまうし、そう思わせるような距離感だった。


あの二人……、恋人なの?


そう思って、知らず足が一歩後ろに下がろうとしたけれど、できない。

気がついたら体がこわばっていた。

ここからいなくなりたいのに、足に根が生えたみたいに動けない。


彼女の輝くような笑顔と反対に井上颯斗の顔はいたって冷静だ。

喜んでいるかも、嫌がっているかもわからない、感情が読めない。

それをじっと見ていたら、彼女へ顔を向けていた井上颯斗が顔を上げて、何気なく私の方へと顔を向けて……



そしてばっちり、あってしまった。

私と井上颯斗の視線が。



私の姿を見て、どんな時でも冷静な井上颯斗の顔が、遠目からでもわかるくらい、固く強張った。

切長の目がこれ以上ないくらい見開かれて、信じられないというように首を左右に振る。

そして一呼吸した後に、その形のいい唇が動く。



その時、この人が何と言ったか、私にはわかった。



井上颯斗は私の名前を呟いた。

『石田……?』と。


その揺れた瞳を見たら、戸惑っているのがわかる。

明らかに、混乱している。

あの、井上颯斗が。




私から視線を逸らさずに、井上颯斗が彼女の手を払って前へ歩き出す。その井上颯斗の様子に異変を感じた彼女が、井上颯斗の視線を追って私へと顔を向けて……今度は私と彼女と視線があった。


その時の彼女の目は、さっきまで井上颯斗に向けていた甘いものと同じとは思えないほど冷たいもので……思い切り睨まれて、思わず背中が寒くなる。

こんな風に人から悪意を向けられたことなんて、ない。


まずい。もしかして、敵認定?

話したこともない人に、いきなり敵意を向けられて戸惑う。



でも、一番困るのはそんなことじゃない。

彼女に敵だと思われたことなんてどうでもいい。

一番は、そんなことじゃない。



だって、私、井上颯斗にここにいることが見つかってしまった。

しかも、向こうは私だと気がついている。

これ以上ここにいて、この場で捕まったら、どうしてここにいるのか、とか、その格好はなんだ、とか大変なことになる。



咄嗟に逃げようと体の向きを変えようとしたところで、今度は背後から声をかかった。



「実桜さん、こんなところにいたんですね」



振り返れば、板倉さんが私をめがけて歩いてきていた。

それを見て、私は息を飲む。


確かにトイレに行くと言ってから、課長に会ってしばらく話し込んだから、長い時間会場から離れていた。

だから探しにきたのだろう。



だけど、まさかのこんな最悪のタイミングで。



板倉さんを課長が知っていたってことは、井上颯斗も板倉さんを知っている可能性がある。

私が板倉さんと話したら…大倉の関係者と一緒にいるところを見られたら、どう思うだろう。




もしかしたら…もしかしなくても、完全に私の秘密がバレてしまう。

背中がぞくっとして、冷や汗が浮かんだ。

明日には自分からそれを説明しようと思っていたけれど……、その前にこんな形でバレるのは勘弁してほしい。



大体どうしてこんなところに井上颯斗がいるの?

訳もなく腹が立ったところで、以前家族に頼まれてどこかの令嬢とっていたことを思い出す。

どこかの令嬢に気に入られて、仕方なく会っていた、と。

じゃあ、今回もそれ?

もうあんなことはしないって言っていたのに。


……なんだって、今日に限って。


身バレする焦りがあるのに、そんなどうでもいいことまで気になってしまう。


「実桜さん?」

板倉さんは長い足で早足で私に近づいてくる。そして私の顔を見て、急に眉を寄せた。

「どうされました?……顔色が随分悪いですね?」

「え、あ、いやこれは……」

私は慌てて距離を取ったけれど、板倉さんが近づく方が早かった。


さっと私の隣にくると、私の額に手を当てる。体温の高い手にドキッとした。

「熱はないですね。人混みで気分が悪くなりましたかね?」

そう言って顔を覗き込むから、直近で視線があって、その目に本当に少しだけど苛立ちと、そして心配が混ざっているのがわかってドキッとする。

「とりあえずどこかで休みますか?それとも……帰りますか?」

「え、あ。。いや」

とりあえずこの場から逃げようとする私の手首を板倉さんがガシッと掴んだ。反射的に顔を向けると、思いのほか近い距離で板倉さんの目が光った。

「家まで送りましょう。車をとってきます」

「あ、いや。板倉さんはまだ仕事があるので……」

板倉さんの手を引き離そうとしながら、もう一つ気になる、井上颯斗の方へ顔を向けて……そして見てしまった。

確実に私に向かって歩いている井上颯斗と、その目がしっかりと私の手……正確には私の手を掴んでいる板倉さんの手を見ていることに。


その顔が見たことないくらい、強張っていた。

多分、かなり、怒っている。

こっちへ向かってくる姿に、とんでもない圧を感じる。

あったら絶対に怒られる……というかとんでもないことになりそうな予感がする。



もう本当に、まずい!


このままだと井上颯斗にも、板倉さんにも知られたくないことがバレてしまう。



焦った私は急いで板倉さんの手を振り払った。

急いだせいで思っていたよりも力が強くなってしまって、板倉さんが驚いた顔をした。


「……実桜さん?」

私は急いで口を開いた。思ったよりも早口になってしまった。

「あ、あの……!」

その時には井上颯斗はもう私たちのところまであと数歩、というところまで来ていた。

それを横目で見ながら私は首を振った。


そして息を吐くと、板倉さんの手を自分の腕から引き剥がして少し大きめの声を出した。

「ご迷惑をおかけしてすみません。通りすがりの方に助けてもらうなんて…ありがとうございます」

私の言葉に、板倉さんははっきりと顔を歪めた。

「は?実桜さん、何を?」

だけど私は丁寧に頭を下げる。

「ご迷惑をおかけしてすみません」


急に具合の悪くなった私を通りすがりの板倉さんが助けてくれた、ということにして誤魔化そう。

思いついたのは、そんな厳しい言い訳だった。


でも、その時の私にはそれが精一杯で。

とりあえず、この場を誤魔化すことに必死だった。


「何を言っているのですか?」

困惑しながらもイライラしている板倉さんは私に向かって近づいて、だけど両手を胸の前に当ててそれを誤魔化す。

「でも、大丈夫です。もう気分は良くなりましたので、お陰様で助かりました」

「実桜さん、何を?」

「わ、私、もう帰りますので、でも一人で帰れますので失礼します」

井上颯斗相手にこんな小芝居が通じるとは思えないけれど、これ以上のやり方が見つからない。

顔を向ければ本当にすぐ近くまで井上颯斗が近づいていて、

焦った私は勢いよく板倉さんに向かって頭を下げた。


「失礼します!」


そうして頭を上げる前に、井上颯斗と反対の方向に向かって走り出した。



とりあえずここから逃げないと。

頭の中はそれでいっぱいだった。



「石田?」



背中に井上颯斗の声が聞こえた気がする。


だけど、振り返ることなんてできなかった。





翌日の昼、私は約束通り、井上颯斗の家に帰った。

昨日の夜は散々で、突然家に帰った私に意外にも両親は怒ることはなくて、どちらかというと心配そうに見つめるだけだった。それが居心地悪い。

腫れ物に扱うような態度は、逆に何かあったと勘付かれているようで、やりにくい。


私が帰った時、井上颯斗はまだ戻っていなくて、私は自分の部屋に入ると持ってきたキャリーケースに荷物を詰め始めた。入り切らなかったものは宅急便にしようと思いながら荷造りをしていたら、玄関のドアが開く音がした。


それに心臓がばくんと大きく鳴って、途端に全身に緊張が走る。

そっとドアの向こうを伺っていると、静かに足音がドアの前を通り過ぎて行って

そして戻ってきた。



少ししてドアをノックする音がした。



立ち上がってドアを開けると、目の前には井上颯斗がいた。



その真剣な顔に、これから起こることを考えて

私は静かに息を吐いた。




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